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古代ローマ

作成日:2023/8/22

古代ローマは王政ローマが建国された紀元前753年から西暦476年までの国家の総称である。

ローマは「ローマの建国神話」を経た後、 紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国したと伝承されている王政ローマから、 共和政ローマ、帝政ローマ、東西に分割したローマを経て、 西ローマ帝国のロムルス・アウグストゥルスが退位した西暦476年までをいう。 その他に、 ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される西暦554年までを古代ローマに含める場合もある。

古代ローマの当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senātus Populusque Rōmānus)であり、 共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。 ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し続け、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。

年表 122

紀元前753年
  • 4月21日 - ロムルスが王になりティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。 このローマは「王政ローマ」と呼ばれ、 紀元前509年に第7代王タルクィニウス・スペルブスが市民に追放されるまで続いた。
    また、 王政ローマから西暦476年まで続いた西ローマ帝国までを 古代ローマと呼ぶ。 なお、古代ローマの終焉は西暦554年までとの説もある。
紀元前745年
紀元前641年
  • 王政ローマ第3代王トゥッルス・ホスティリウス死去。(紀元前710年 -)
紀元前510年
  • 王政ローマの第7代、最後の王タルクィニウス・スペルブスの統治が終わる。王政は倒れ、共和政へと移行する。(紀元前509年とも)
紀元前509年
  • 第7代王タルクィニウス・スペルブスが市民に追放されたことにより、 王政ローマは終わった。
  • 王を追放したローマは、 この年から共和制を敷いた。 共和政ローマ紀元前27年の帝政の開始まで続いた。
  • 執政官の最初のふたりが選出される。
  • 王位を追われたタルクィニウスの復位を画策した陰謀が発覚し、加担した者が処刑される。
  • タルクィニウスが率いたウェイイやタルクイニイの軍勢は、シルウァ・アルシアの戦い (Battle of Silva Arsia) でローマ軍に敗れた。執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラは、共和政最初の大勝利を3月1日に祝った。
  • 9月13日 - ローマのカンピドリオの丘の上に建設されたユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿の奉献式が、満月の日に行なわれた。
  • カルタゴがローマとの相互不可侵条約に調印した。
  • 《死去》共和政ローマ執政官、共和政ローマの創設者・ルキウス・ユニウス・ブルトゥス。
  • 《死去》ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス、ティベリウス・ユニウス・ブルトゥス - ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの息子たちであったが、彼らのおじにあたるウィテッリ家 (Vitellii) のふたりや、アクィリ家 (Aquillii) の3兄弟らとともにタルクィニウスの陰謀に加担したとして処刑された。
  • 《死去》王政ローマ最後の王タルクィニウスの次男・アルンス・タルクィニウス。
  • 《死去》スプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス (Spurius Lucretius Tricipitinus) - 共和政ローマの予備執政官 (Consul suffectus)
紀元前508年
  • 共和政ローマは、追放された王タルクィニウス・スペルブスの亡命先クルシウム (Clusium) にローマを攻囲される。
  • クルシウムは、ラティウム同盟のアリキア(アリッチャ)にも攻め込むが撃退される。
  • 共和政ローマに最高神祇官の役職が創設される。
紀元前507年
  • 共和政ローマがクルシウムと和平を結んだ。
  • 王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスが、クルシウムからトゥスクルムに亡命した。
紀元前505年
  • (共和政ローマ)ローマとサビニ族との戦争が始まる。(紀元前504年に終結。)
紀元前503年
  • (共和政ローマ)ラティウムの町ポメティア (Pometia) とコラ (Cora) が、共和政ローマに対して反乱を起こす。
  • 《死去》共和政ローマ初期の半伝説的な政治家であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラ - 「人民の友」を意味する「ポプリコラ (Poplicola)」を通称(agnomen)とした、王政ローマ打倒の中心となった4人の貴族のひとり。(生年不明)
紀元前502年
  • 共和政ローマが、ポメティア (Pometia) の反乱を鎮圧する。
紀元前501年
  • サビニ族からの脅威に対し、共和政ローマが独裁官を新設する。
紀元前500年
  • 現在はローマのカピトリーノ美術館に所蔵されている「雌狼の像」が制作された。後に15世紀末ないし16世紀始めに双子像が加えられた。(おおよその年代)
紀元前496年
  • 紀元前508年に追放された王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスは、 レギッルス湖畔の戦いで新しい共和政ローマの軍に敗れた。 この戦いの結果は、 ラテン世界に対するローマの優位性を確立した。
  • カルタゴとローマは条約を結び、ローマの船はカルタゴの西部と貿易を行わず、カルタゴはラテンの政治を邪魔しないことが合意された。
紀元前495年
  • 共和政ローマ.メルクリウスを称えた神殿がチルコ・マッシモに建設された
紀元前494年
  • 軍事遠征の終わりに当たり、ローマ軍を構成するプレブスは、 ローマ外側の聖山に撤退した。 いわゆる「平民分離派」と呼ばれる兵士は、新しい街を築く恐れがあった この分離を終わらせるため、プレブスはパトリキから、 2人の護民官を選ぶことを認められた
  • 元老院とローマ市民は、マニウス・ウァレリウス・マキシムスを独裁官に指名した
  • アエディリスが初めて設置された
紀元前493年
  • ガイウス・マルキウス・コリオラヌスは、ウォルスキ族の町コリオリをローマ側に奪還した
  • 2度目の執政官となったスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスは、周囲の部族との間に相互防衛条約を結んだ。ローマは、ラティウム同盟における覇権を主張しない代わりに、同盟における支配的な街と見なされるようになった
紀元前491年
  • ローマの飢饉の間、ガイウス・マルキウス・コリオラヌスは人々に、護民官の廃止に同意できないなら穀物を受け取るべきではないと助言した。そのため、護民官は彼を非難し、追放した。コリオラヌスはウォルスキ族の王のもとに隠れた。コリオラヌスは、ウォルスキ族の軍を率いてローマに反抗したが、母と妻の懇願を聞き入れて引き返した。
紀元前486年
  • 3度目の執政官となったスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスは、貧しいプレブスを助けるための農地改革法を提案したが、パトリキや豊かなプレブスからの強い反発を受け、処刑された
紀元前450年頃
  • ローマ最古の成文法である十二表法が成立
紀元前367年
  • ローマでリキニウス・セクスティウス法が制定される
紀元前327年
  • 共和政ローマ) サムニウムの軍勢が、ネアポリス(現在のナポリ)を占領した。しかし、ローマ軍は、サムニウム勢がタレントゥム(現在のターラント)に手こずっている間に南進し、ネアポリスを奪還し、長い攻城戦の末にサムニウムの守備隊を排除してネアポリスをローマの同盟者とした。
紀元前326年
  • 共和政ローマ)ネアポリスでローマ軍に敗北したあと、サムニウム人がローマに宣戦し、第二次サムニウム戦争が始まる。サムニウムを撃破するため、サムニウムの北に位置する中央イタリアの人々や南東に位置するアプリアと、ローマは同盟を結んだ。
  • 共和政ローマ共和政ローマが債務奴隷制を廃止する。
紀元前325年
  • (シチリア) シュラクサイの富裕で野心的な市民であるシュラクサイのアガトクレスは、都市の寡頭政党の転覆を謀ったことで追放される。
紀元前287年
  • ローマでホルテンシウス法が制定される
紀元前272年
  • ローマがタレントゥムを占領し、北イタリア以外のイタリア半島を統一する
紀元前264年
紀元前209年
  • 共和政ローマの将軍クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、カルタゴの将軍ハンニバルが3年間に渡って占領していたタレントゥムを再占領した
  • ハンニバルの率いるカルタゴ軍とマルクス・クラウディウス・マルケッルスの率いるローマ軍の間でカヌシウムの戦いが起こった。この戦いは痛み分けに終わった
  • 大スキピオは拠点を置くタラゴナからカルタゴの拠点カルタヘナを攻撃した。攻撃は成功し、カルタヘナは占領された。これにより多くの人質、銀鉱山、さらに南方を侵略する拠点などを手に入れることができた
紀元前208年
  • 大スキピオに率いられたローマ軍はヒスパニア・バエティカのハエンで、ハスドルバル・バルカ率いるカルタゴ軍を破った。この結果、ハスドルバル・バルカは残った軍勢を連れてピレネー山脈を越え、ガリア・ナルボネンシスに向かってイタリアにいる弟のハンニバルの軍と合流せざるを得なかった
  • ローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスはプッリャ州ヴェヌシアの近くで、ハンニバル軍との戦闘中に殺害された
  • ハンニバルはロクリを包囲するローマ軍を壊滅させた
紀元前206年
  • イリッパの戦いで、カルタゴの将軍マゴ・バルカとハスドルバル・ギスコがローマ帝国の将軍大スキピオに敗れた。マゴはカディスまで敗走し、船でバレアレス諸島に向かった
  • 大スキピオはカディスを防衛し、ローマ帝国によるスペイン全土の支配が確立した。カルタゴ人はスペインから撤退し、ヒスパニアはローマ帝国の属州となった
  • イリパの戦いで負傷したローマ兵の居留地として、大スキピオによりイタリカの町が建設された
  • カルタゴ人の駆逐に成功すると、大スキピオはローマに凱旋し、執政官に選出された。彼はさらに北アフリカに残るカルタゴ人の領土を攻める準備をした
紀元前205年
  • プブリウス・コルネリウス・スキピオは大胆にもイタリアにいるハンニバルと、ローマ元老院の政治的反対を無視することを決定し、それよりもカルタゴの北アフリカの拠点を打撃することを決定する。スキピオは部分的には志願者からなる軍を連れてシチリアに渡る。ローマ元老院が軍を与えようとしなかったからである
  • ローマの政務代行官en:propraetorであるキントゥス・プレミニウス(英語版)はカルタゴ人からロクリ(en:Locri Epizephyrii)の町を獲得する。ハンニバルの町を奪い返そうという試みはスキピオの軍の出現によって挫折した
  • スキピオは北アフリカにローマ人将軍ガイウス・ラエリウスを派遣し、 後の進攻の道筋の準備をさせる
  • マゴ・バルカ率いるカルタゴ軍はリグリアに上陸し、ジェノヴァとサヴォーナを獲得する
  • ハンニバルはクロトナに近くのユーノー・ラキニア(Juno Lacinia)寺院に自らの業績をポエニ語・ギリシア語の二ヶ国語で示した石碑を立てる
紀元前204年
  • ハンニバル率いるカルタゴ軍とプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌス率いるローマ軍の間でクロトンの戦いが起こったが、決着は着かなかった
紀元前168年
  • ローマ軍がピドナの戦いでマケドニア軍を破り、マケドニア王国滅亡
紀元前133年
  • ティベリウス=グラックスが護民官となり、改革を行う
    その後、弟のガイウス=グラックスが改革を引き継ぐ
紀元前27年
西暦395年
  • テオドシウス1世は死に際して、 長男アルカディウスに東を、 次男ホノリウスに西を与えて分治させた。 あくまでも分割統治のつもりであったが、 実態は東ローマ帝国西ローマ帝国に分裂してしまい、 ローマ帝国は終わりを迎えた。
西暦476年
  • ロムルス・アウグストゥルスが退位をした西暦476年をもって西ローマ帝国が終わり、 それとともに古代ローマの終焉とするのが一般的である。
    しかし、 西ローマ帝国の終わりは、 西暦480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。
    また、 ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される西暦554年までを古代ローマに含める場合もある。
西暦554年
  • ロムルス・アウグストゥルスが退位をした西暦476年をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、
    しかし、 ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される西暦554年までを古代ローマに含める場合もある。
西暦1453年
  • 5月29日。オスマン軍の総攻撃により東ローマ帝国は完全に滅亡する。
          この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。

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紀元前784年
  • あああ

概要 467

古代ローマの当時の正式な国号は「元老院ならびにローマ市民」であり、 共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。 伝統的には西暦476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、 ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される西暦554年までを古代ローマに含める場合もある。 ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し続け、 世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、 今日まで影響を与えている。

王政期
紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、 トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、 トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアスの子孫であるロムルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間(伝承による)。 古代ローマではアイネイアスがトロイア滅亡後、 詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って、 イタリア半島に逃れて、 古代ローマを建国したという物語は、 古代ローマが古代ギリシャの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、 非常に重要と考えられていた。

初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれているが、 その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。 これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。
共和政期
紀元前509年から紀元前27年まで、 ローマがイタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間を指す。 政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、 民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら民主的に運営された。
共和政初期
  • ルキウス・ユニウス・ブルトゥスによる王政の打倒からイタリア半島の中部・南部を勢力に加えるまでの期間。
  • 政治的にはパトリキとプレブスの身分闘争とその決着が知られている。
共和政中期
  • 三次に及ぶカルタゴとのポエニ戦争の時期。
  • セレウコス朝やアンティゴノス朝といったヘレニズム諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。
共和政末期
  • グラックス兄弟の改革と死、その後の内乱の一世紀を経て、アウグストゥスによる帝政の樹立までの期間。
  • ローマで最も史料が豊富な期間の一つである。
帝政期
帝政期初期
いくつか分け方が存在する。
  1. アウグストゥスからはじまるユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝までとするもの。
  2. a.に五賢帝の時代を加えるもの。
  3. セウェルス朝なども加えディオクレティアヌスの即位までを帝政初期として帝政全体を二つに分けるもの。
b. の区分が比較的多い。
帝政期中期
セウェルス朝から始まり、軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。
帝政期後期
ディオクレティアヌスの即位を開始とする。 そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、 テオドシウス1世の死後に帝国が東西に分裂した後は、 通常は西ローマ帝国、東ローマ帝国としてわける。 後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、 専制君主制(ドミナートゥス)と呼ばれる。 コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、 徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。
東西分離後
西ローマ帝国
その滅亡をもって、ヨーロッパ史では古代と中世との境界とする場合がある。
東ローマ帝国
その滅亡を以って、ヨーロッパ史では中世と近世の境界とする場合がある。

王政ローマ 574

王政ローマの概要

伝承では、 トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、 トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアスの子孫であるロムルス紀元前753年4月21日に建国し、 伝説上の七人の王が治めて、 紀元前509年に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。 (建国年には異説がある
また、建国年である紀元前753年を「ローマ建国紀元」とした。

ただし、当時のローマは文字を持っていなかった可能性があり、 王の存在は主に口承で伝えられ、 確実な資料がないとされてきた。 ローマという都市名も初代王ロムルスにちなむとされるが、 この王については存在すら疑問視される向きもある。

ローマという言葉は、 エトルリア語またはサビニ語(サビニ人)で意味のある言葉だという見解がある。

伝統的に王のうち、 ロムルスを含め最初の4代はラテン系またはサビニ系で、 あとの3代はエトルリア系とされている。 しかし、これらの王には存在すら疑問視される者もいるし、 その人数も定かではない。

実際にいた初期の王の事績を何人かの王たちのものとして記録しているという研究者もいる。
また末期のエトルリア系の王は4人以上いたと考える研究者もいる一方、 かつてはタルクィニウスの名を持つ2人の王は実際は1人の王の事跡を分けたに過ぎないと主張されてもいた。

しかし考古学的な考証から、 最後の3人の王に関する伝承は、変形されているとしても、 何らかの歴史的事実を反映していると考えられている。

建国年の異説
王政ローマ建国年には異説がある。

王政ローマは紀元前753年4月21日に建国したとされるが、 紀元前745年6月25日にイタリア半島で日食が起こったが、 この年の記録から、 ロムルスの王政ローマの成立は紀元前753年ではなく、 この年、紀元前745年4月21日であった可能性が指摘されている。
ローマ建国紀元
ローマ建国紀元(Ab urbe condita) 略号:AVC/AUC、 a.v.c./a.u.c.

ローマ建国紀元は、 初代ローマ王ロムルスが古代ローマを建国したとされる年、 つまり、西暦換算で紀元前753年を元年(紀元)とする紀年法である。
古代ローマで使われていた暦法であるローマ暦(ロムルス暦)とは異なる。
1例として、西暦2000年はAUC 2753年となる。

元年は、紀元前1世紀のローマ人ウァッロによって推定された、 都市国家ローマの建国年である。 ローマ帝国で使われた幾つかの紀年法のうちの一つ。 後に西暦など他の紀年法にとって代わられ、 現代では使われていない。 伝説とウァッロの推定によれば、紀元前753年4月21日、 都市国家ローマの初代ロムルス王が即位した。 これを紀元とするものだが、 後の計算により実際のローマ建国の年は紀元前753年ではなかったとされる。 しかし、この紀年法を使う場合は紀元前753年を紀元とすることになっている。

実際のローマ建国年は、 ウェッレイウス・パテルクルス(『ローマ史』VIII, 5)によれば、 イーリオス陥落(紀元前1182年、推定)の437年後であり、 紀元前745年となる。 またローマ建国の年にローマで日食が観測されたとされており、 天文学的に逆算すると、 この日食は紀元前745年6月25日に起きたものであり、 16時38分に欠け始め、 17時28分に最大となり、 18時16分に終了し、 食の最大は50.3%であった。

王の治世

No.王名在位(自)在位(至)備  考
ロムルス 紀元前753年 紀元前717年 ティトゥス・タティウスと共同統治
ヌマ・ポンピリウス 紀元前715年 紀元前673年
トゥッルス・ホスティリウス 紀元前673年 紀元前641年
アンクス・マルキウス 紀元前641年 紀元前616年
タルクィニウス・プリスクス 紀元前615年 紀元前579年
セルウィウス・トゥッリウス 紀元前579年 紀元前534年
タルクィニウス・スペルブス 紀元前534年 紀元前509年
ロムルス
王政ローマ初代王 在位:紀元前753年4月21日 - 紀元前717年7月5日
ティトゥス・タティウスと共同統治

ローマ建国伝説によると、紀元前753年4月21日にロムルスが王になり、 ティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。 人口数千人。 当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村だった。 この最初のローマはラテン人の国だった。

やがて、近隣の部族と争いが起きた。 ローマが隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、 娘たちを急に抱きかかえて自宅まで逃げてそのまま帰さなかったためだ。当然、戦となった。 しかし娘たちは隣の丘の男たちに、 自分たちは妻としての扱いを受けており、 決して虐げられていなかった為、 争いをやめて欲しいと懇願した。 サビニ人のティトゥス・タティウス王は和平を承諾し、 さらにはロムルスのすすめで部族をあげてローマに移住する。 ローマがサビニ人を併合したわけではなく、 サビニ人の自由民にはローマ人同様の市民権が与えられ、 ティトゥス・タティウス王はロムルスと共同して統治にあたった。 (サビニの女たちの略奪

ティトゥス・タティウス王はこののちすぐに戦死し、 その後のローマの指揮はロムルスがとった。

紀元前715年のある日、ロムルス王が閲兵中、突然、 目の前も見えないほどの雷雨が襲ってきた。 雨と雷が去ったのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもなかった。 八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされた。
ヌマ・ポンピリウス
在位:紀元前715年 - 紀元前673年

次の王が選ばれることになったが、ロムルスを誰かが暗殺したという噂が飛び交い、 誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となった。 王には息子がいたが、彼を王にするという考えはローマ市民にはなかった。 そこで市民たちは、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことにした。 市民が選んだのは賢者として知られるサビニ人ヌマ・ポンピリウスだった。 ローマに住んでさえもいなかったヌマ・ポンピリウスは当然、固辞したが、 元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れなかった。

ヌマ・ポンピリウスは温和な人格者だったとされ、この王の時代にはローマに戦争は起こらなかった。 ヌマ・ポンピリウスは主に国内の改革を行った。 ロムルスが定めたとされるローマ暦を改めたのもヌマ・ポンピリウスである。 農業を推奨し、その他、職業別の組合を作った。宗教改革を行い、神官も決めた。 ローマ神話の骨格と、主な神の名が決まったのはヌマ・ポンピリウスの時代である。 これはヌマ・ポンピリウスの祖先サビニ人の信仰が基になったといわれる。 ヌマ・ポンピリウスの死も、その治世と同じようにおだやかなものだった。

また、ヌマ・ポンピリウスの治世に天から12枚のアンキーレー(聖盾)が降臨し、 ローマの守護の象徴にされたという伝説がある。 これは恐らく、 南下してくるエトルリア人の脅威にローマ人が軍備を備えたことを神話にしたものだといわれている。
トゥッルス・ホスティリウス
在位:紀元前673年 - 紀元前641年

第3代の王になったトゥッルス・ホスティリウスは、 ヌマ・ポンピリウスの治世で地力を蓄えたローマで拡大方針を採用した。

近隣では最大のラテン人都市アルバ・ロンガを征服し、王を殺して町を完全に破壊した。 しかし、アルバ市民はローマ市民として迎えられ、 アルバの貴族はローマの貴族として元老院の議席も与えられた(この時移住してきた貴族の中に、後にガイウス・ユリウス・カエサルなどを輩出したユリウス一門が含まれていたとされる)。

王の死は雷に打たれてのものだったと伝えられる。
アンクス・マルキウス
在位:紀元前641年 - 紀元前616年

第4代の王アンクス・マルキウスは2代の王ヌマ・ポンピリウスの孫であり、 平和な治世を期待されて選ばれたのだが、 祖父とは異なり多くの戦を行った。 しかし内政にも能力を発揮し、初めてローマに水道を引く。 また海辺のオスティアを征服して、ローマに塩をもたらした。
タルクィニウス・プリスクス
在位:紀元前615年 - 紀元前579年

第5代の王タルクィニウス・プリスクス(古風王)は、エトルリア人だった。 ローマでは異邦人でも市民権が与えられると聞き、移り住んだのだった。 そして市民権を得、先王の死後立候補して王になった。 市外の出であることは、ヌマ・ポンピリウス王の先例もあり、問題視されなかった。

この王は戦争に勝利しても、土地の住民をローマに移住させなかった。 代わりに戦利品をローマまで運んだ。 どうせ負けてもローマ市民になるだけだと思っていた近隣都市国家はしばらく静かになった。 平和なときは兵士を使って水道を建設した。 ローマにはその技術がなかったので、王の故郷エトルリアから技術導入した。 これにより産業が活性化した。ローマ人は技術もよく学び、市はさらに発展した。

しかし、王は、王位を狙う先王の息子によって暗殺された。
セルウィウス・トゥッリウス
在位:紀元前579年 - 紀元前534年

第6代の王には第4代の王の息子は選ばれず、 孤児であり先王の養子で婿でもあったエトルリア人のセルウィウス・トゥッリウスが選ばれた。

この王が行った大きな事業は、城壁の建設だった。 この城壁は「セルウィウスの城壁」と呼ばれ、現在もところどころ残っている。 これはローマ市の7つの丘を囲むという大規模なものだった。 また軍制の改革も行い、戦も行った。戦法も開発した。

セルウィウスは、第5代の王の孫タルクィニウスと、 その妻であり自分の娘でもあるトゥッリアによって暗殺された。
タルクィニウス・スペルブス
在位:紀元前534年 - 紀元前509年

第7代の、そして最後の王はタルクィニウス・スペルブスとなった。 のちに「傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの新王は前王の葬儀を禁じ、先王派の議員を全員殺した。 この王の即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなかった。 その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めた。 当然、市民の評判はよくなかった。

しかしこの王は策略と戦争は得意で、ローマはさらに領土を広げた。 やがて王は、ローマよりずっと強大だったエトルリアとの同盟を結んだ。 これでローマの近くには強国がなくなったわけだが、 結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩するようになり、 ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなった。 それもそのはずで、第5代からすべての王がエトルリア出身だったのである。

やがて市民の怒りが爆発する日が来る。 王の息子セクトゥスが、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、 寝室に忍び込んで彼女をわがものにしたのである。 ルクレーティアは親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白し、 男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶った。 夫の友人でこの現場を目撃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、 王一族は追放すべきだと演説を行い、市民はそれに従った。 戦の途中だった王は事態の急変を知り、急ぎローマに戻るが、門はすべて閉じられた後だった。 王は従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていった。 王の3人の息子のうち2人は王とともに去ったが、 事件の発端となったセクトゥスは別に逃げ、のちに違う事件がもとで殺害された。 王妃トゥーリアは別に逃げて無事だった。

王政の終焉

タルクィニウス・スペルブスの追放によって王政ローマは終わった。 王政への反省からこの年、紀元前509年からは共和政がとられ、 2名の執政官がローマの政治を司ることになった。 最初の執政官には、演説を行ったルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、 自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出された。 この後は共和政ローマの歴史となる。

これ以降ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれており、 特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになった。

制度

初代ロムルス以来、 多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、 王の助言機関とした。

ローマに見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、 戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、 代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤としたことが挙げられる。 これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな寒村ほどの規模から出発した新生ローマでは、 最大・喫緊の課題は人口増加であり、人口が増えないことには、自衛のための兵力すら維持できないからであった。 実際、このローマの性格こそ、後にローマを強大にする原動力であったと認められている。

さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は、 ローマ市民として王の選出を含む国家の最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。 ローマ建国の王であったロムルスも、治世の途中でこの民会の選挙で選出(この場合信任)され、 改めて選挙で選ばれて王となった。王の任期は終身であるが、原則として世襲制はとらない。 もっとも、この市民による王の選出は、共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。

王の最大の責務はローマの防衛であり、 そのため自由市民が輪番で兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)。

共和政ローマ 930

概要

共和政ローマは、 紀元前509年の王政打倒から紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。

この時期のローマは、 イタリア中部の都市国家から、 地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。 帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。 また、西暦1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、 西暦1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。

歴史

共和政の開始
紀元前509年、 第7代の王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和制を敷いたローマだが、 問題は山積していた。 まず、王に代わった執政官(コンスル)が元老院の意向で決められるようになったこと、 またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、 若い市民を中心としてタルクィニウス・スペルブスを王位に復する王政復古の企みが起こった。 これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、 彼自身の息子ティトゥスを含む陰謀への参加者を処刑した。 ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市との同盟は、 これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、 王の追放で当然に同盟は解消され、対立関係となった。

追放されたタルクィニウス・スペルブス王と息子達は王政復古の計画が失敗したことを知ると、 同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。 市内に住んでいたエトルリア人はローマを去り、 国力は低下した。 一時期、先王タルクィニウス・スペルブスは市を包囲したが、 ローマが敗戦を認めないため、 攻め込んでも犠牲の多い割に得るものが少ないと考え去っていった。 その後、 ローマはエトルリアから学んだ技術を独自に発展させるようになり、 徐々にそれを吸収していった。

紀元前4世紀、アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。 ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、 鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、 倒した敵の首を斬るという習慣があった。 ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、 メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、 紀元前390年にローマを襲撃して略奪を働いた(アッリアの戦い)。 この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって打開された。
身分闘争とイタリア半島の統一
相次ぐ戦争の中で、 戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、 重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が、 当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、 自分たちの政治参加を要求するに至った。 いわゆる「身分闘争」の開始である。 貴族は徐々に平民に譲歩し、 平民の権利を擁護する護民官を設置し、 十二表法で慣習法を明文化した。 さらに、 紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法で執政官の1人をプレブス(平民)から選出することが定められ、 紀元前287年のホルテンシウス法によって、 トリブス民会の決定が、 元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。 これにより、身分闘争は収束に向かった。

一方で、ローマはイタリア半島各地の都市を制圧していった。 イタリア半島南部にはアッピア街道が建設され、 南部遠征の遂行を助けることになった。 この後も、ローマは各地に向かう交通網を整備し、 広域に亘る支配を可能にしていった。 紀元前272年、 南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシャの植民市タレントゥムを陥落させ、 イタリア半島の統一を成し遂げた。
ポエニ戦争
詳細は「ポエニ戦争」を参照

イタリア半島の統一を果たしたローマは、 西地中海の商業覇権をめぐって、 紀元前264年よりカルタゴとの百年以上の戦争へ突入した(ポエニ戦争)。 第一次ポエニ戦争でシチリアを獲得し、 この地を最初の属州とした。

紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、 カルタゴの将軍ハンニバルにカンナエの戦いで敗れるものの戦況を巻き返し、 スキピオ・アフリカヌスの指揮下で再びカルタゴに勝利する。 この際、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、 西地中海の征服を果たした。 また、カルタゴに味方したマケドニアにも遠征を行い、 イリュリアやアカエア(ギリシャ)を影響下に置いた。 この第二次ポエニ戦争でカルタゴは多大な打撃を被ったが、 ローマ内部では大カトを中心に対カルタゴ強硬派がカルタゴ殲滅を主張していた。 紀元前149年より第三次ポエニ戦争が行われ、 紀元前146年にカルタゴは破壊された。
東方への進出
第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。
  • 第一次マケドニア戦争(紀元前215年 - 紀元前205年):ピリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。
  • ローマ・シリア戦争(紀元前192年 - 紀元前188年):セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ(アパメイアの和約)。
  • 第二次マケドニア戦争(紀元前200年 - 紀元前196年):フラミニヌスによりローマ勝利。
  • 第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年):アンティゴノス朝が滅亡。
  • 第四次マケドニア戦争(紀元前150年 - 紀元前148年):マケドニア属州が成立。
属州と共和政の変質
イタリア半島の制圧までのローマは、 戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、 敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、 組織だった徴税制度は設けなかった。 しかし、 第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、 属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。 属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。

制度の上では、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。 しかし一方で、 派遣された総督はローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、 収奪のみを仕事とした。 形式的には被支配地域に対しては相当の自治を認め自由を重んじたが、 実際は属州に対してはすさまじい収奪を行っており、 属州になった地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こった。

搾取とは別に、 従属した諸国と都市の有力者は、 ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。 結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、 国家財政に勝る重要性を持ち、 ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。 ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、 共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、 有力者の庇護下に入った。 この庇護する者をパトロヌス(patronus)、 庇護される者をクリエンテス(clientes)という。 もっともこのパトロヌス・クリエンテスの関係は、 ローマの最初期からの伝統であり、帝政期まで長く続く。
内乱の一世紀
詳細は「内乱の一世紀」を参照

対極的に没落の運命をたどったのは、 ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。 連年の出征によって農地から引き離され、 また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。 この状況を打開するために、 グラックス兄弟が、 平民の支持を得て、 土地分与の改革を実施しようとした。 しかし紀元前133年に兄ティベリウス、 紀元前123年に弟ガイウスが反対派によって命を落とし、 改革は失敗に終わった。

第三次ポエニ戦争の後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなかった(ヌマンティア戦争、ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争、クィントゥス・セルトリウスの反乱(英語版)、3次の奴隷戦争など)。 また、初めてゲルマン人がローマ領内へ侵入したのもこの時期であり(キンブリ・テウトニ戦争)、帝政ローマ期を通じローマを悩ませることとなった。こうした軍事活動の一方で自由農民の没落で軍は弱体化の様相を見せ、早急なる改革の必要性が迫られていた。

こうした状況では、 優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があった。 その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。 彼は長期にわたる征服戦争への動員で没落した市民兵の代わりに、 志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施した。 この改革はローマの軍事的必要を満たし、 かつ貧民を軍隊に吸収することでその対策ともなったが、 同時に兵士が司令官の私兵となって、 軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。

はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのはマリウスとルキウス・コルネリウス・スッラであった。 彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、 やがて次の世代の軍閥が登場した。 ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人である。 3人は元老院への対抗から第一回三頭政治を結成したが、 クラッススの死後、 残る2人の間で内戦が起きた。 地中海世界を二分する大戦争は、 紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残した。

カエサルは紀元前45年に終身独裁官となったが、 王になる野心を疑われて、 紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺された。 この後、 カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスが第二回三頭政治を行った。 カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスは紀元前31年、 アクティウムの海戦でアントニウスに勝利し、 紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、 「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、 共和政の形式を残しながらプリンキパトゥス(事実上の帝政)が始まった。

政治体制

共和政下のローマの政治体制は元老院・政務官・民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的である。 市民全体によって構成される民会は政務官 (magistratus) を選出し、 その政務官たちが実際の政務を行う。 この政務官経験者たちによって構成された元老院は巨大な権威を持ち、 その決議や助言に逆らうことは難しかった。 政務官の選挙にも元老院の意向が一定反映され、 そうして選ばれた政務官たちによって元老院が構成されたことから両者は強く結びついた。

最も重要な政務官は執政官で、 その命令権(インペリウム)は王の権力から受け継がれたものともいわれる。 任期は1年で2名が選ばれた。 執政官に欠員ができたときには補充選挙が行われるが、 新たな執政官の任期は前任者のものを引き継いだ。

元老院は王政期から存在したとされ、 その構成員は当初は貴族(パトリキ)のみであった。 のちに元老院議員の資格は政務官経験者となり、 平民(プレブス)にも開かれ、 後世になってそうした平民は平民貴族と呼ばれた。 ノビレスは、そうした平民貴族とパトリキの総称である。

民会にはいくつかの形式があった。 当初は「クリア」と呼ばれる単位によって行われるクリア民会が行われていた。 やがて兵制に基づく「ケントゥリア」を単位とするケントゥリア民会が中心となり、 以後最も権威ある民会として機能しつづけた。 この他、居住地である「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行われるようになり、 ケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。

当初のパトリキの支配からノビレスの支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブスの「身分闘争」が行われたといわれている。 戦術の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間では、 パトリキに対する反発が蓄積していた。 こうした下層プレブスの不満を背景に、 上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取り、 パトリキと一体化してノビレスを構成するようになった。 この過程で紀元前494年にプレブスの権利保護を目的に護民官が作られ、 ローマの政務官の一つとなった。 護民官はプレブスのみが参加する平民会で選出され、 他の政務官の決定や決議を取り消す権利(拒否権)を持った。 また、護民官の身体は不可侵とされた。

この他特徴的な政務官としては、 非常時のみに選出される独裁官が挙げられる。 執政官2名の合議によって選出され、 他の政務官と異なり同僚制を取らず1人のみが任命される。 他の政務官の任期が1年であるのに対し、 独裁官の任期は6か月と短く非常事態を収拾したのち任期途中で辞任することもあった。 独裁官は他の政務官全てに優越し、 護民官の拒否権の対象ともならなかった。 副官としてマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)が任命された。

ローマ帝国 1221

ローマ帝国(ラテン語: Imperium Romanum)  紀元前27年 - 西暦395年
西暦395年に東西ローマに分裂した後、 西ローマは西暦486年、東ローマは西暦1453年に滅亡した。

1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、 ヨーロッパはヒスパニア、 ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、 西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシャ西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。 カエサル・アウグストゥスの即位から3世紀の軍事的無政府状態まで、 それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、 ローマ市を唯一の首都としたプリンキパトゥスだった(紀元前27年-紀元後286年)。

軍事危機の間に断片化されたが、 帝国は強制的に再編成され、 その後、西ローマ帝国(ミラノと後にラヴェンナに拠点を置く)と東ローマ帝国(ニコメディアとアンティオキアを中心に、後にコンスタンティノープルに拠点を置く)で支配を分ける複数の皇帝によって支配された。 ローマは、オドアケルの蛮族によるラヴェンナの奪取とロムルス・アウグストゥルスの退位に続いて、 コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。 西ローマ帝国がゲルマン人の王たちに支配され、 東ローマ帝国がビザンチン帝国へとヘレニズム化したことで、 古代ローマの終わりと中世の始まりを告げることになる。

名称

「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。 インペリウム (imperium) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、 転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった。 Imperium Romanum の語は共和政時代から用いられており、 その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。 日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、 しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、 西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり、 「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。 ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持したインペラトルが皇帝と訳されているが、 インペリウムは共和政ローマにおいてもコンスルとプロコンスル、 およびプラエトルとプロプラエトルに与えられていた。 また、ローマが帝政に移行した後も、 元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は帝国は共和制であった。

中世における「ローマ帝国」である、 東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、 西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。

概要

ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、 一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。 紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、 紀元前44年に暗殺された。 その後も内戦やプロスクリプティオは続き、 紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。 翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、 紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った。 その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、 紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、 事実上彼を最初のローマ皇帝とした。

帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、 「パクス・ロマーナ」として知られている。 ローマはトラヤヌスの治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。 また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、 ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。 その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、 アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。 トラブルの増加と衰退の期間は、 アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177-192)の治世で始まった。 コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。 3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、 短命の皇帝が続出し、 多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、 帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。 帝国はアウレリアヌス(R.270-275)のもとで再統一された。 その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、 ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、 ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。 ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、 最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。 大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。 313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、 皇帝の多くもキリスト教を信仰した。 コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。 テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、 彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。 その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。 ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、 最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、 西ローマ帝国は一旦崩壊した。

東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。 しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、 ローマ皇帝の最高権力を継承しており、 800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、 その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。 東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、 コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、 別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、 古代ローマ帝国の命脈を保った。

ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、 ローマの制度と文化は、 ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、 永続的な影響を与えた。 ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、 中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。 帝国がキリスト教を採用したことで、 中世のキリスト教が形成された。 ギリシャとローマの芸術は、 イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。 ローマの建築の伝統は、 ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、 また、イスラーム建築に強い影響を与えた。 ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、 ローマの共和制制度は、 中世のイタリアの都市国家の共和国、 初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、 永続的な遺産を残している。

歴史

古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、 イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、 帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。

紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。 ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。 この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。 ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。

330年にコンスタンティヌス1世が、 後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。 テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、 392年にキリスト教を国教とした。 395年、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。 以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、 現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。

西ローマ帝国の皇帝政権は、 経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、 ゲルマン人の侵入に抗せず、 476年以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。 6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、 7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、 国家体制の変化が進行した。 東ローマ帝国は、 8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、 オスマン帝国により、 1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、 完全に滅亡した。

帝政の開始

ローマ帝国の起源は、 紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。 当初はエトルリア人などの王を擁していたローマは、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放して、 貴族(パトリキ)による共和政を布いた。 共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、 クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、 国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。 やがて平民(プレブス)の力が増大し、 紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて身分闘争が起きたが、 十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、 紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれた。

都市国家ローマは次第に力をつけ、 中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、 さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。 紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、 イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、 狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。

しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、 イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、 反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、 貧富の格差は拡大し、 それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、 やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、 武力を用いて政争の解決を図るようになる。 こうした中で、 スッラ及びユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、 元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。 紀元前44年にカエサルが暗殺された後、 共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、 これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、 元老院に権限の返還を申し出た。 これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、 「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。 一般的にこのときから帝政が開始したとされている。

以降、帝政初期のユリウス=クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、 表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。 これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。 彼らが即位する際には、 まず軍隊が忠誠を宣言した後、 元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。
皇帝は代々次のような称号と権力を有した。

これらに加え、 皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。 さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。 また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、 神格化されることも少なくなかった。 例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、 2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。 一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、 ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、 ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、 コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど、 官僚制と多数の文武官による専制体制が確立したオリエント的君主とは違った存在であった。 また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位でさえも、 ローマに征服された地域や民族の者が就くことが可能であった。 例えば、セウェルス朝創始者のセプティミウス・セウェルス帝はアフリカ属州出身であったし、 五賢帝の一人であるトラヤヌス帝はヒスパニア属州出身であった。

ユリウス=クラウディウス朝と内乱期

このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、 ティベリウスの死後あたりから、 政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。 軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、 徴兵制が破綻し、 代わって傭兵制が取られたが、 それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、 それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。

やがて、世襲の弊害により、カリグラやネロなど無軌道な皇帝が登場すると、 彼らは対立候補を挙げて決起し、 また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、 結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、 3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、 不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。

ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、 こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。 むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、 43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしている。

また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、 後期にはイタリア人の惰弱化により、 兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。 それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。 ローマの領域内は安定を見せたものの、 賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、 周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。

時系列的には、 初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、 通貨制度の整備、 ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州と皇帝属州の創設)などを行い、 帝国の基盤が整えられた。 さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、 帝国の領域は拡大し、 安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、 パクス・ロマーナと呼ばれる平和が長く続くこととなった。 14年にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだティベリウスも内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、 3代カリグラは暴政を行って暗殺された。 次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、 再び安定した国家を築きあげた。 続くネロの統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、 ネロは68年に反乱を受け自害した。 ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。 4人の皇帝が次々と擁立されたことから、 この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。 これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、 これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、 やがてウェスパシアヌスが勝利し70年にフラウィウス朝を開始すると、 ローマは小康状態を取り戻した。

フラウィウス朝はウェスパシアヌス、ティトゥスと名君が続いたが、 次のドミティアヌスが暗殺され、 後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。

五賢帝の時代(ネルウァ=アントニヌス朝)

ドミティアヌスが暗殺されたのち、 紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。 この5人の皇帝を五賢帝という。

のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、 彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、 安定した帝位の継承を実現した。 ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、 この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。 しかしながら五賢帝は、 やや遠いながらも血縁関係があり、 またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、 この時代の理想化を避けた観点からは、 ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、 ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。

またこの時代には、 法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、 領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、 地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。 また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、 自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、 自給自足的な共同体が増加した時期でもある。

96年 - 98年 ネルウァ
元老院から選出される。後継者にトラヤヌスを指名した。
98年 - 117年 トラヤヌス
「至高の皇帝」。最大領土を現出。ダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを占領して属州を置き、帝国領土は東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。
117年 - 138年 ハドリアヌス
パルティアと和平してアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退し、東方国境を安定させる。全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。
138年 - 161年 アントニヌス・ピウス
内政の改革や財政の健全化に努めた。
161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
161年 - 169年 ルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウスと共同皇帝、パルティア戦争に従事。その後の蛮族の侵攻の最中に食中毒で病死。
180年 - 192年 コンモドゥス
マルクス・アウレリウスの嫡子、ローマ帝国で二例目の直系継承を果たしたが悪政の末に暗殺されネルウァ=アントニヌス朝は断絶した。

セウェルス朝

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、 実子であるコンモドゥス帝の悪政により社会は混乱し、 彼が192年に暗殺されると内乱が勃発した。 193年には5人の皇帝が乱立し、 五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。 この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。 セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、 当初から軍事色の強い政権であった。

五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、 その後各地で反乱が頻発するようになり、 また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。 これに対処すべく、 212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、 ローマの支配下にあるすべての地域に、 同等の市民権が与えられた。 これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、 非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、 これによってローマ市民権の価値が崩壊し、 政治バランスが激変して、 以後長く続く混乱の一因となった。 また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、 市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、 さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、 軍事力の衰退を招いた。

235年、アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、 以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。

混乱と分裂

詳細は「3世紀の危機」を参照

いわゆる「元首政」の欠点は、 元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。 そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、 反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。 約50年間に26人[注釈 1]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、 戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、 代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。 この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、 人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。

284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、 帝権を強化した。 元首政と呼ばれる、 言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、 オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。 これ以降の帝政を、 それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。 またテトラルキア(四分割統治)を導入した。 四分割統治は、 二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、 ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。 強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、 軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。 テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、 帝国は一時安定を取り戻した。

ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、 大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、 彼の下でローマは古代から中世に向けて、 外面でも内面でも大きな変化を開始する。

ディオクレティアヌスが305年に引退した後、 テトラルキアは急速に崩壊していった。 混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、 324年には唯一の皇帝となった。 コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、 東のサーサーン朝ペルシャの攻撃に備えるため、 330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。 この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。 コンスタンティヌスの死後、 北方のゲルマン人の侵入は激化、 特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。 378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。

キリスト教の浸透

帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、 徐々に信徒数を増やしてゆき、 2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。 ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、 当時の東帝リキニウスと共同で、 313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。 その後もキリスト教の影響力は増大を続け、 ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、 後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、 異教は禁止されることになった(392年)。 394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、 フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。

帝国の衰退

コンスタンティヌス1世の没後、 帝国では再び分担統治が行われるようになった。 テオドシウス1世も、 395年の死に際して長男アルカディウスに東を、 次男ホノリウスに西を与えて分治させた。 当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、 何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、 これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。 もっとも3世紀後半以降、 東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、 経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、 また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、 東西の分裂は早い段階から進行していた。 今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。 ただし、 史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、 あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。

西ローマ帝国 1726

概要

西ローマ帝国は、 ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である。

一般に、 テオドシウス1世死後の、 西方正帝が支配した領域および時代に限定して用いられるが、 西暦286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降のローマ帝国についても用いられることがある。

西暦395年にテオドシウス1世が死去すると、 その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、 一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。

西ローマ帝国時代の終わりとしては、 オドアケルによる西暦476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、 西暦480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。 通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ただし、それをもって西ローマ帝国の「滅亡」と見なすべきでない、 として学問分野より見直しが求められている。 西ローマ帝国の領域は、中世においてもギリシャ化を免れ、 古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。

西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも次第にカトリック教会に感化されてローマ化し、 カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用して、 自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた。

なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、 当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、 西ローマ帝国・東ローマ帝国という2つの国家も存在しなかった。

複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、 それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。 ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、 それらは一つのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。 両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、 こうした認識によるものである。

背景

共和政ローマが版図を拡大するにつれて、 ローマに置かれた中央政府は、 効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。 これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間がかかったためである。 当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、 船か公設の郵便制(クルスス・プブリクス)で行っており、 ローマまでかなりの時間がかかった。 返答と対応にもまた同じくらいの時間がかかった。 このため属州は、共和政ローマの名のもとに、 実質的には属州総督によって統治された。

帝政が始まる直前、共和政ローマの領土は、 オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、 マルクス・アントニウス、 レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。

アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、 ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。 こうした地域は、 紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、 ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。 また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、 王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。 これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。 すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、 ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、 ヒスパニア(イベリア半島)である。 こうした地域も、 多くのギリシャ人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、 ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように文化的にケルト人に支配されている地域もあった。

レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。 しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、 オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシャ人が植民していたシチリア島を獲得した。

アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、 ローマから帝国全土を支配した。 戦いの最中に、 盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは一時的に東方を代理として支配した。 同じことは、 ティベリウスが東方に行った際に甥に当たるゲルマニクスによって行われた。

反乱と暴動、政治への波及

西方において主な敵は、 ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。 アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、 最終的に失敗しており、 これらの蛮族は大きな不安の種となった。 一方で、東方にはパルティアがあった。

ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、 ローマの国境を侵犯する機会を捉えて襲撃と掠奪を行なった。 二方面の軍事的境界線は、 それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、 政治的にも重要な要素となった。 地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。 西方の国境をローマから統治することは、 比較的ローマに近いために容易だった。 しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。 皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、 どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。 この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。

ガリア帝国

西暦235年3月18日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、 その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。 今日、この時期は軍人皇帝時代として知られている。 西暦259年、 エデッサの戦いでサーサーン朝との戦いに敗れた皇帝ウァレリアヌスは捕虜となり、 ペルシャへ連行された。 ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあったガッリエヌスが単独皇帝となったが、 混乱に乗じて皇帝僭称者が相次いだ。 ガッリエヌスが東方遠征を行う間、 息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスに西方地区の統治を委任した。 サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:ケルン)に駐屯していたが、 ゲルマニア属州総督マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが反逆、 コローニア・アグリッピナを攻撃し、 サロニヌスを殺害した。 ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、 ローマ皇帝を僭称する。 このポストゥムの政権が、 後にガリア帝国と称されている。

首都をアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)に置いたこの政権は、 ゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復したと見られ、 ヒスパニアやブリタンニアの全域に支配が及んだ。 この政権は独自の元老院を有し、 その執政官たちのリストは部分的に現在まで残っている。 この政権はローマの言語、文化を維持したが、 より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。 国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。

西暦273年にパルミラ帝国を征服した皇帝アウレリアヌスは翌西暦274年、 軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。 これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝のテトリクス1世およびその息子のテトリクス2世との間に取引があって、 ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。 アウレリアヌスは彼らの命を助けて、 反乱した2人にイタリアでの重要な地位を与えた。

東西分担統治の開始

テトラルキア(四帝統治)

西暦284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは皇帝権を分割した。 自身を東方担当の正帝とする一方、 マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、 ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。 この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、 3世紀に指摘された内乱を防ぎ、 首都ローマから分離した前線拠点を作った。 西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現:ミラノ)とコンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)であった。

西暦305年5月1日、 2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。

コンスタンティヌス1世

西帝コンスタンティウス・クロルスが西暦306年に急逝し、 その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタンニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、 テトラルキア制度はたちまち頓挫した。 その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、 危機が訪れた。 西暦308年、 東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、 カルヌントゥムで会議を招聘し、 テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世とリキニウスという新参者とで権力を分けることにした。 だがコンスタンティヌス1世は、 帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。 東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、 リキニウスとコンスタンティヌスは西暦314年までに、 ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、 天下統一をめぐって争った。 コンスタンティヌスが西暦324年9月18日に、 クリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、 投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。

テトラルキアは終わったが、 ローマ帝国を2人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、 無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。 非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、 そのような皇帝が死去すると、 帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。

再分割

コンスタンティヌス朝

コンスタンティヌス1世の代にはローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、 同帝が西暦337年に死去すると、 3人の息子たち(コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世)が共同皇帝として即位し、 帝国には再び分担統治の時代が訪れた。 コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニアなど、 コンスタンティウス2世は東方領土、 コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、 まもなくその三者の間には内乱が勃発した。 まずコンスタンス1世がコンスタンティウス2世を西暦340年に打ち破って西方領土を統一したが、 そのコンスタンス1世も西暦350年に配下の将軍であったマグネンティウス(僭称皇帝)に殺害された。 西暦351年に、 コンスタンティウス2世がマグネンティウスを打ち破り、 西暦353年に、 マグネンティウスが自殺することによって、 コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。 唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は拠点をメディオラヌム(現:ミラノ)へと移した。 しかしコンスタンティウス2世がサーサーン朝との争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、 西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、 西暦360年には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された。 ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、 西暦361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、 ユリアヌスが唯一の正帝となった。 ユリアヌスは西暦363年にサーサーン朝との対戦中に戦死し、 ヨウィアヌスが皇帝に選ばれたが、 西暦364年1月17日にアンキラで死亡した。

ウァレンティニアヌス朝

皇帝ヨウィアヌスの死後、 帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。 西暦364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、 ただちに帝権を再び分割し、 東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。 東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、 なかなか安定した時期が実現しなかった。 西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、 古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。 ウァレンティニアヌス1世は古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、 その子グラティアヌスは西暦379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus) の称号を止めている。 ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し、 西暦382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、 アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇も元老院から撤去した。

テオドシウス朝

西暦388年、 実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、 皇帝として宣言された。 グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、 東帝テオドシウス1世に援助を請い、 その力を得て間もなく皇帝に復位した。 テオドシウス1世は西暦391年まで西側に滞在し、 西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。 西暦392年5月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、 同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、 西暦394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。 テオドシウス1世はホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、 西暦395年に崩御するまでの4か月間、 東西の両地域を実質的に支配した。 一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、 これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。

東西宮廷の対立と西ローマ皇帝の廃止

ホノリウスがテオドシウス1世によって西方を任された当初から、 西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。 ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって西方で宣言された皇帝ではなかったので、 ホノリウスは西方の伝統的な勢力からは攻撃にさらされることになった。 さらにホノリウスはマケドニアとダキアの統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。 両管区はエウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたが、 東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、 以後そのまま東方が実効支配を続けていた。 西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、 この問題に東の宮廷は敏感に反応した。 ゴート人のアラリックが西方で略奪を働き東方へと逃亡すると、 西方の軍司令官スティリコはアラリックを追撃したが、 これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。 また西暦397年には東の宮廷の官僚エウトロピウスがアフリカ軍司令官のギルドーを唆し、 ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。 同時にホノリウスは蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入にも悩まされ、 西暦410年には西ゴート人によってローマ市が掠奪された(ローマ略奪)。 このとき西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。

ウァレンティニアヌス3世の時代には状況はさらに複雑になった。 西暦438年に発布された「テオドシウス法典」は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、 理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、 テオドシオス法典の発布後、 実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた。 現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、 同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。 西暦450年にテオドシウス2世が没すると、 東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍アスパルがウァレンティニアヌス3世に無断でマルキアヌスを皇帝の座に据えたが、 ウァレンティニアヌス3世は、 西暦452年頃まで、 マルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。 こうした東西宮廷の分裂に加えて、 皇帝権そのものにもさらなる分割が加えられた。 西暦440年にレオ1世がローマ教皇となると、 グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていたポンティフェクス・マクシムスの称号を教皇が名乗るようになり、 皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として神法の遵守を監督するようになった。 さらに西暦445年には、 ウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた。 こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、 教皇は帝国の代表者として、 西暦452年にはフン族と、 西暦455年にはヴァンダル族と、 西暦591年および西暦593年にはランゴバルド族と、 それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった。 いずれにせよ、 教皇は5世紀末までには、 西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた。 軍事の面においても、 帝国で重要な役割を果たしていたのは皇帝ではなく、 アエティウスのような蛮族出身の将軍たちであった。 そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、 皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、 ブッケラリィと呼ばれる将軍の私兵たちであった。 西方において、 皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。

ゲルマン人の将軍リキメルが帝国の実権を握った時代になると、 皇帝が不在のまま放置されることすらあり、 もはや西方では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった。

西暦475年、 東方皇帝レオ1世によって送り込まれたユリウス・ネポスが軍司令官オレステスによってラヴェンナから追放され、 オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言された。 ネポスはダルマチアへと亡命し、 いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの、 ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、 西方全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。

最後の皇帝

西暦476年にオレステスが、 オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、 オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、 ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、 元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東方皇帝ゼノンへ送り、 西方皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。 ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、 オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた。 一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、 まだダルマチアの残存領土で引き続き西方の統治権の保持を宣言しており、 東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた。 そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた。 元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、 オドアケルは譲歩して、 ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。 だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。 オドアケルは主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。 ユリウス・ネポスが西暦480年に暗殺されると、 オドアケルはダルマチアに侵入して、 あっさりとこの地を平定してしまう。 東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、 このユリウス・ネポスの死後のことである。 とはいえ、 6世紀末から7世紀初頭にかけて皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、 東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものはただちに失われたわけではなかった。

オドアケルとテオドリック

西方正帝の廃止によって、 西ローマ帝国に何らかの変化がもたらされることはなかった。 ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、 西方の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された。 オドアケルの統治下で西方の内乱は終息し、 地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、 帝国は一時の復興を遂げることとなった。 ゼノンにとってオドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、 2人の関係は当初は非常に良好であった。 しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、 西暦488年にゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。

テオドリックはイタリアへ侵攻してたびたびオドアケルを打ち破り、 西暦493年にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。 ゼノンは既に西暦491年に死亡していたが、 テオドリックは東方皇帝アナスタシウス1世より副帝およびイタリア道の軍司令官に任ぜられた。 また、西暦497年にはイタリア王を称することが許され、 ここに東ゴート王国が創設された。 ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、 オドアケルの時代と同様に、 その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、 民政は引き続き西ローマ政府によって運営され、 立法権はローマ皇帝が保持していた。

オドアケルとテオドリックの統治下において、 シチリア島の一部がヴァンダル族から帝国へと返還され、 アフリカからの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、 ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。 オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、 西方帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた。

東ローマ帝国による征服事業

テオドリックが西暦526年に没したとき、 もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。 西方では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、 東方では大幅にギリシャ化が進んでいた。 また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難いことであった。 ローマ市は西方正帝が廃止された後も名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、 西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾たびかの遠征をおこなった。 最大の成功は、 2人の将軍ベリサリウスとナルセスが西暦535年から西暦545年に行なった一連の遠征である。 ヴァンダル族に占領された、 カルタゴを中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。 遠征は最後にイタリアへ移り、 ローマを含むイタリア全土と、 イベリア半島南岸までを征服するに至った。 ユスティニアヌス1世はテオドシウス1世から約150年ぶりに、 西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。

しかし皮肉にも、 ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した。 ユスティニアヌスによる長年にわたる征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、 「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである。 西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、 その多くが失われることとなった。 もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、 ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。 帝国の人口減衰率は約50%と推定され、 プロコピオスは「いたるところで住人がいなくなった」と記し、 ローマ教皇ペラギウス1世は「誰一人としてその復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した。 一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、 ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう。 この惨状について、 6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は、 「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。 しかしながら東ローマ皇帝にとっては、 一時でもローマを支配しえたことは、 東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的なよりどころの一つになった。

ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、 その死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった。 さらにギリシャ語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、 2つの区域は再び競争関係に入った。 マウリキウスは次男ティベリオスを西暦597年に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが、 そのマウリキウスも西暦602年にフォカスの反乱によって殺されてしまう。 この後、サーサーン朝やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、 混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、 古代ローマ的な要素は失われていくこととなる。

遺産

言語

東方領土でラテン語が死語になった後も、 西ローマ帝国の大部分の地域ではラテン語が何世紀にもわたって維持された。 いわゆるゲルマン語などからの影響は軍事に関する数語の借用語に限られていた。 時代が下ると、 ラテン語は8世紀頃から12世紀頃にかけて緩やかに変化し、 地方ごとの分化が明らかになっていった。 こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代のロマンス諸語で、 それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった。

識字率は大幅に低下したが、 公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。 西方でギリシャ語の地位が失われたために、 リングワ・フランカとしてのラテン語の地位は向上した。 ラテン文字は、J、K、W、Zが付け足され、文字数が増えた。 10世紀になるとヨーロッパにアラビア数字が伝えられ、 ローマ数字は、 たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいては依然として使われ続けたものの、 16世紀頃にはほとんどがアラビア数字に取って代わられた。 ラテン語は今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されており、 学名のほとんどがラテン語である。 ミサの挙行では西暦1970年まで古典ラテン語が使われていた。 また、ラテン語は英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、 ある程度の影響を及ぼしている。

宗教

西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。 カトリック教会は、 西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、 5世紀後半になると、 蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。 ゲルマン系の民族は、たいていアリウス派の信者だったが、 彼らも早晩カトリックに改宗し、 中世の中ごろ(9世紀 - 10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、 ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。 西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失って後も、 教会に援助された宣教師は北の最果てまで派遣され、 ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。

単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、 多くの権力者を魅了し続けた。 フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、 西暦800年にローマ皇帝として推戴されると、 教皇レオ3世によって戴冠された。 これが神聖ローマ帝国の由来であり、 それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった。 こうした理念から、 オットー3世は古代の皇帝たちに倣ってパラティーノの丘に造営した宮殿に住まい、 ローマ市を中心とした帝国を指向したし、 フリードリヒ1世やフリードリヒ2世も「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執した。

西ローマ帝国の「滅亡」

18世紀になると、 ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポスの廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、 この表現は現在でも慣用的に用いられている。 しかしながら、 西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、 学問分野より見直しが求められている。

西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない。 西方正帝の地位が廃止された後も、 正帝以外の各種公職や政府機関は健在であった。 少なくとも法律・制度・行政機構の面においては「西ローマ帝国の滅亡」といった断絶を見出すことはできない。 いわゆるゲルマン王国と呼ばれる領域においても、 実際に行政権を行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人の属州総督であったし、 住民もまた東西で共通のローマ市民権を所有しつづけていた。 彼らローマ人は西方正帝の廃止後も変わらずローマ法の適用を受け、 帝国の租税台帳によってローマ人の文官によって税が徴収されていた。

一方のゲルマン王らは名目上はローマ帝国によって雇用されている立場であり、 帝国から給金を受け取っていた。 オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、 ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである。 彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、 彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、 むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。 西欧において読み書きのできる人々は、 西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、 自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、 自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである。

20世紀以降の歴史学においては、 アンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット、 フランソワ・マサイ、 K.F.ヴェルナー、 ピーター・ブラウンといった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。 また、古代ローマにおける主権者が皇帝ではなくSPQR(元老院とローマ市民)であるとされていたことから、 SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。

西ローマ帝国の皇帝

テトラルキア(四帝統治)期(286年-313年)

まず正帝を記し、字下げして副帝および摂政を併記する。

マクシミアヌス: 286年-305年 コンスタンティウス・クロルス: 293年-305年 (副帝) カラウシウス: 286年-293年 (ブリタンニアの簒奪者) アレクトゥス(英語版): 293年-296年 (ブリタンニアの簒奪者) コンスタンティウス・クロルス: 305年-306年 フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス: 305年-306年 (副帝) フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス: 306年-307年 コンスタンティヌス1世: 306-313年 (副帝) マクセンティウス: 307年-312年 リキニウス: 308年-313年 ドミティウス・アレクサンデル: 308年-309年 (アフリカ人の簒奪者) コンスタンティヌス朝期(313年-363年) コンスタンティヌス1世: 313年-337年 (ローマ帝国全体の皇帝 324年-337年) クリスプス: 317年-326年 (副帝) コンスタンティヌス2世: 317年-337年 (副帝) コンスタンス1世: 333年-337年 (副帝) コンスタンティヌス2世: 337年-340年 (ガリア、ブリタニア、ヒスパニアの皇帝) コンスタンス1世: 337年-350年 (337年-340年はイタリア、パンノニア、北アフリカなどの皇帝。340年-350年はローマ帝国西方の皇帝 ) マグネンティウス: 350年-353年 (簒奪者) デケンティウス(英語版): 350年-353年 (副帝) コンスタンティウス2世: 353年-361年 (337年-353年はローマ帝国東方の皇帝。353年-361年はローマ帝国全体の皇帝) ユリアヌス: 355年-361年 (副帝) ユリアヌス: 361年-363年 クラウディウス・シルウァヌス: 355年 (フランク人の簒奪者) ヨウィアヌス: 363年-364年 ウァレンティニアヌス朝期(364年-392年) ウァレンティニアヌス1世: 364年-375年 グラティアヌス: 367年-383年 ウァレンティニアヌス2世: 375年-392年 マグヌス・マクシムス: 383年-388年 (383年は簒奪者、384年-388年はテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝) フラウィウス・ウィクトル(英語版): 384年-388年 (テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝) フィルムス: 372年-375年 (マウレタニア皇帝) エウゲニウス: 392年-394年 (東方帝は承認せず) テオドシウス朝期(393年-455年) ホノリウス: 393年-423年(409年-410年は元老院は否定) 実権は東帝である父テオドシウス1世と軍の実力者であったスティリコに握られていた(393年-408年) マルクス(英語版): 406年-407年(簒奪者) グラティアヌス(英語版): 407年(簒奪者) コンスタンティヌス3世: 407年-411年 (簒奪者、409年-411年はホノリウスの共同皇帝) コンスタンス2世: 407年-409年 (副帝) コンスタンス2世: 409年-411年 (簒奪者、コンスタンティヌス3世の共同皇帝) プリスクス・アッタルス: 409年-410年/414年-415年 (409年-410年は元老院の公認、ホノリウスは承認せず) マキシムス(英語版): 409年-411年/419年-421年 (簒奪者) ヨウィヌス(英語版): 411年-413年(簒奪者) セバスティアヌス(英語版): 412年-413年(簒奪者、ヨウィヌスの共同皇帝) ヘラクリアヌス(英語版): 412年-413年(簒奪者) コンスタンティウス3世: 421年 (ホノリウスの共同皇帝、東方帝は承認せず) ヨハンネス: 423年-425年 (西ローマ帝国による選出、東方帝は承認せず) ウァレンティニアヌス3世: 425年-455年 (東方帝が擁立) ガッラ・プラキディア: 423年-433年 (母后、摂政) フラウィウス・アエティウス: 433年-454年 (軍司令官) テオドシウス朝断絶後(455年-480年) ペトロニウス・マクシムス: 455年 (東方帝は承認せず) アウィトゥス: 455年-457年 (東方帝は承認せず) 西ゴート王であったテオドリック2世に擁立される。 マヨリアヌス: 457年-461年 (東方帝は承認せず)[56] リウィウス・セウェルス: 461年-465年 (東方帝は承認せず) アンティミウス: 465年-472年 オリブリオス: 472年 (東方帝は承認せず) グリケリウス: 473年-474年 (東方帝は承認せず) ユリウス・ネポス: 474年-480年 (亡命:475年-480年、制度上の最後の西ローマ帝国の皇帝) ロムルス・アウグストゥルス: 475年-476年(事実上の最後の西ローマ帝国の皇帝、東方帝は承認せず) 西方領土の実力者であったフラウィウス・オレステスの子で、彼によって擁立される。 476年、オレステスはオドアケル率いる蛮族の傭兵の叛乱軍によって殺害された。オドアケルはローマ西帝位を東帝ゼノンに返還、ゼノンの代理人という形式でイタリアの支配権を引き受けた。ただし、東帝ゼノンはあくまで正統な西帝はネポスであるとしていた。

東ローマ帝国 2429

東ローマ帝国またはビザンツ帝国、 ビザンティン帝国、 ギリシャ帝国、 ギリシャ帝国は、 東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。 ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、 一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。 皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。

5世紀中頃の史家ソクラテスは、 コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、 井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、 コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、 西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、 皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。

同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。 9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。

ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、 正式な国名および国家の自己了解は「ローマ帝国(ポリティア・トン・ロメオン)」であった。 中世になると帝国の一般民衆はギリシャ語話者が多数派となるが、 彼らは自国をギリシャ語で「ローマ人の土地(ロマニア)」と呼んでおり、 また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシャ人(エリネス)」ではなく「ローマ人(ロメイ)」を称していた。

西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、 形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。 帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、 8世紀以降はバルカン半島、 アナトリア半島を中心とした国家となった。 また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、 同時代の西欧やルーシからは「ギリシャ帝国」と呼ばれ、 13世紀以降には住民の自称も「ギリシャ人」へと変化していった。

概要

初期の時代は、 内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、 キリスト教(正教会)を国教として定めていた。 また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、 ユスティニアヌス一世代には旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有し、 ローマ時代の「我らの海」こと地中海の再支配すら成し遂げている。 しかし、その没後には破綻した国家財政、征服と疫病で荒廃した国土だけが残され、 長大な国境線を維持できず、 ランゴバルド人、サーサーン朝ペルシャ、アヴァール人、スラヴ人、イスラム帝国により国土を侵食された。 これらの外圧に対抗するため軍事費、 特にテマへの俸給が国家支出の大部分を占め、 そのテマも費用削減のため農民兵士が主体であったため士気が高い代わりに自立化していき、 ビザンツはテマの連合国家と化した。

西欧に対する影響力は減衰の一途を辿った。 8世紀末には偶像崇拝に関する問題でローマ教皇と対立し、 800年のカールの戴冠で東ローマによる宗主権すらも否認された。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、 東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。 住民の多くがギリシャ系となり、 西暦620年には公用語もラテン語からギリシャ語に変わった。 これらの特徴から、 7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国」と評す者もいる。 「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、 この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀にはアッバース朝との戦争も落ち着いて、 ニケフォロス一世による徴税強化や商業活性化で回復させた財政を背景に、 テマ長官から皇帝に権力を取り返す試みが功を奏してくる。 高級官僚やテマの高官は貴族化していたが、 「皇帝の奴隷」と称されるように皇帝はそれを抑え込み、 バシレイオス2世に代表されるビザンツ専制君主となった。 11世紀前半にバシレイオス2世はブルガール人を打ち破り、 バルカン半島やアナトリア半島東部、 南イタリアを奪還し、 東地中海の大帝国として栄えた。

バシレイオス2世の死後、ビザンツ帝国は徐々に衰退していった。 バシレイオス2世の後継者問題に続く内乱期とそれにかこつけたプロノイアを保持する貴族の自立は、 国家財政を一気に破綻に追い込んだ。 ノルマン人によって南イタリアを、 セルジューク朝によって東部アナトリアを失った。

12世紀にはブルガリア、 セルビアなどバルカン半島のスラヴ人農民たちは、 プロノイアを保持していた貴族反乱らに迎合して独立していく。 さらに第4回十字軍がとどめを刺し、 東ローマ帝位はラテン帝国に奪われ、 ビザンツ帝国は一旦滅亡する。

第4回十字軍以後、 ラテン帝国も崩壊し、 ビザンツ亡命政権と十字軍国家とルーム・セルジューク朝で旧ビザンツ世界はバラバラとなった。 その後、モンゴル帝国の圧迫に乗じ、 亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し十字軍勢力を駆逐するが、 スラヴ国家の侵略と帝位請求の内乱に悩まされ続けた。 パライオロゴス朝ルネサンスなど文化的な興隆を見ながら、 領土は次々と縮小し、 隣国のオスマン帝国の保護下に落ちていった。 この頃のビザンツ帝国の自称はローマ人から移り変わり、 古代ギリシャ人の末裔としてヘレネスを名乗り出している。 そして西暦1453年、 西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、 オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、 東ローマ帝国は滅亡した。

古代ギリシャ文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、 正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、 「ビザンティン文化」として高く評価されている。 また、近年はギリシャだけでなく、 イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、 建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

名称

この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている

東ローマ帝国
古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、 3世紀のテトラルキア以降には、 帝国をいくつかの領域に分けて複数の皇帝によって分担統治するという体制がとられることとなった。 西暦395年のテオドシウス1世の死後に、 長男アルカディウスが東方領土を、 次男ホノリウスが西方領土を担当するようになって以降、 帝国の「西の部分」と「東の部分」とはそれぞれ別個の途を歩むこととなった。 帝国の東西分担統治が常態化して以降の帝国の「東の部分」を指して「東ローマ帝国」という通称が使われている。
ローマ帝国
3世紀末から4世紀前半にかけてローマ帝国の中心は東方世界へと移行した。 当時「皇帝」は世界に一人しかおらず、 「皇帝」とは「ローマ皇帝」であることが自明であったため、 わざわざ「ローマ皇帝」と名乗る必要もなかった。 また、「ローマ人」の概念も、 都市ローマとの結びつきが薄れ、 ローマ帝国全土の住民の意味に変貌していた。 更に、コンスタンティノープルが建設されたからといって直ちにコンスタンティノープルの権威が都市ローマを上回ったわけではないため、 「コンスタンティノープル帝国」などという用語は発生しなかった。 しかし西暦410年にローマが陥落すると、 次第にコンスタンティノープルでは「新しいローマ」という自意識が育ち始めた。
ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、 16世紀になると、 便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。 16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、 神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(西暦1516年 - 西暦1580年)の功績とされる。 ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシャ史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、 ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル、 ヨハネス・レウンクラヴィウス、 ドゥニー・プトー、 ヴルカニウス、 メウルシウス、 レオ・アラティウスら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。 これ以降、 学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。 これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、 「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、 「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、 「ビザンティオン」はギリシャ語の名詞をもとにした表記である。 日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、 美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、 「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシャ語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。 ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシャ・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、 7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。 例えばオックスフォード・ビザンツ事典や、 人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。
ギリシャ帝国、コンスタンティノープルの帝国
古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシャ人」と呼んでおり、 それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはない。 カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、 中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシャ」と呼んだが、 そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。 東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、 カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。 13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、 東ローマ帝国の人々も自らを指して「ヘレーネス, イリネス(ギリシャ人)」と呼ぶようになっていった。 また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシャ)」と呼ばれており、 東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシャ人の帝国だと認識されていた。 例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、 蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、 「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシャの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

歴史

東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、 4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。 (日本史では古墳時代から室町時代に相当する)

その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。 なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(西暦1057年)後を後期とする説がある。 ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。 本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、 単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史の合成であるのかについては、 連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている。

前史

いつからを東ローマ帝国の歴史とするかについては、 たとえば主なものとして下記に挙げる考え方がある。
第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、 東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。
例えば歴史家の尚樹啓太郎は、 著書『ビザンツ帝国史』の序説をディオクレティアヌス期の解説にあて、 『ビザンツ帝国史年表』をディオクレティアヌスが即位した西暦284年より始めている。 ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、 首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて4か所の前線に留まるという職務の分担体制であり、 地理的な分割は想定されていなかった。
次に、 コンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを建設した西暦330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。
コンスタンティヌス1世は、 古代ローマの元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、 東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、 6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、 この西暦330年を自分たちの国の建国年と考えていた。 著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーは、 ビザンツ帝国とは7世紀に誕生した新興帝国であって、 7世紀初頭に滅亡した東ローマ帝国とは異なる帝国であるとする断絶説を唱えているが、 その著書『ビザンツ帝国史』はテトラルキアの内戦(英語版)が終結した西暦324年から書き始めている。
ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには執政官、 法務官、護民官、財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、 帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、 コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。
西暦330年の時点では、 コンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、 コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである。
今日の歴史学では、 コンスタンティヌス1世が西暦330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、 後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。
次に、 ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った西暦364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。
唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、 西暦364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、 帝国の東西分担統治を開始した。 東方正帝とされたウァレンスの即位10周年式典は、 首都ローマではなくウァレンスが拠点としていたアンティオキア市で開催された。
後述するテオドシウス朝の分担統治も、 制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、 帝権分割の視点から言えば、 西暦364年こそが、 帝国にとって重要な転換点であったとされる。 フランスの古代史家アンドレ・ピガニオル(フランス語版)は、 この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、 帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。
しかしウァレンティニアヌス朝の時代には、 テトラルキアやコンスタンティヌス朝の時代、 あるいは後のテオドシウス朝の時代と比べると、 東西宮廷の関係は極めて良好であり、 全帝国に跨がるような軍事行動も活発だった。 例えば西暦378年に、 ハドリアノポリスの戦いで東帝ウァレンスが戦死した後に東方領土を再興したのも、 西帝グラティアヌスによって派遣されたテオドシウス、 リコメル、バウト、アルボガストといった西側の将軍たちだった。
次に、 テオドシウス1世が自身の死に際して、 彼の二人の息子達(アルカディウスとホノリウス)に帝国の半分ずつを分担統治させた、 西暦395年をもって、 東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、 本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。
ただしテオドシウスは、 前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、 制度上はテオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。 テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、 法律は東西皇帝の連名で発布された。 また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位も、 ウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、 東西いずれかの皇帝が没した際には、 その後継者が指名されるまでは残り、 一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。 これらの理由から20世紀以降の歴史学では、 アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく、 それは過去に幾度となく行われてきた、 単なる分治の一つにすぎないとの評価をされることが多い。 一方で、結果としてみるならば、 テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、 東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになったのだとする評価もある。
古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待ってテオドシウス2世に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された
特に、テオドシウス1世が東方領土を次男ホノリウスにではなく、 長男アルカディウスに担当させたことは幾分かは帝国の未来を象徴する出来事でもあった。 なぜならそれまでは、 たとえ法的には東西両帝が同格とされていたにしても、 意識の上では西方の皇帝が東方の皇帝よりも格上である、 という認識が依然として強かったからである。 コンスタンティヌス1世は二人の妻の長男をともに西方の副帝として指名していたし、 東方担当とされたコンスタンティウス2世も唯一の正帝となった後には西方のメディオラヌムを拠点とした。 ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟でも西方を確保したのは兄のウァレンティニアヌスであったし、 テオドシウスに仕えた将軍アルボガストもテオドシウス1世の二人の息子のうち、 西方の皇帝になるのは長男のアルカディウスであろうと考えていた。 そのような時代にあって西方領土の最も辺境の地から登場してきたテオドシウス1世は、 長男アルカディウスを東方担当の皇帝とすることによって疑うべくもなく東方領土に優位を与えているのである。
より遅い年代としては西暦602年から 西暦610年にかけての、 ローマ帝国による東方支配の終焉や、 西暦800年のカール大帝の戴冠による帝国の「分裂」を始点とする説もある。
特に前者の年代は古代末期論との親和性が高く、 古代末期を扱う多くの書籍で採用されている。 少なくとも当時の人々にとって、 帝国が東西に分裂しているという認識は西暦800年のカール戴冠以前には存在しなかったようである。
上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、 またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている。
年表
  • 西暦378年、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。
  • 西暦390年、 ゴート族Buthericusの逮捕のために、 テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。 (ギリシャの歴史に残る最初の虐殺である)

前期(395年 - 610年頃)

本項では、 ローマ帝国の東西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、 西暦395年の死に際し、 長男アルカディウスに帝国の東半分を、 次男ホノリウスに西半分を分担させた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとする。

皇帝テオドシウス2世(西暦401年 - 西暦450年)は、 パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび貢納を強いられた。 それに対抗する手段の一つとして、 首都コンスタンティノポリスを囲うコンスタンティヌスの城壁を拡張し(テオドシウスの城壁)て堅固な防備を敷いた。 また西暦431年にはエフェソス公会議を開き、 コンスタンティノポリス総主教であったネストリウスを筆頭に主張するネストリウス派を異端としてキリスト教解釈の論争の解決を試みた。 政治面では、 西暦312年以降のローマ皇帝の発した勅法集であるテオドシウス法典を編纂し帝国全土(西ローマ帝国内含む)に発布した。

皇帝マルキアヌス(西暦450年 - 西暦457年)は、 西暦451年にカルケドン公会議を開催し、 西暦449年のエフェソス強盗会議以来問題となっていたエウテュケス(英語版)の唱えるエウテュケス主義を、 当時教皇であったレオ1世の意見を考慮して異端とするとともに、 単性説やネストリウス派を改めて異端としてニカイア信条を強調し、 ローマ教会との対立を避けた。 西暦453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、 フン族への献金を打ち切った。

マルキアヌスが急死すると、 皇帝にはトラキア人のレオ1世(西暦457年 - 西暦474年)が据えられたが、 アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。 しかし、 西暦471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。

西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入で急速に弱体化していく。 西暦476年に、 東ゲルマン族のスキリア族のオドアケルは、 西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、 自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(西暦474年 - 西暦491年)に帝位を返上した。 東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、 コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。 オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国内のイタリ領主として任命され、 皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。

西ローマと違って、 東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は ことなどが挙げられる。

しかし 西暦488年にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、 東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。
西暦489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。
西暦491年、 皇帝ゼノンが急死し、 皇后アリアドネはアナスタシウス1世(西暦491年 - 西暦518年)と結婚して皇帝に据え、 混乱を防いだ。
西暦493年にオドアケルは暗殺され、 テオドリックがイタリアの総督および道長官に任命された。 テオドリックは西暦497年に、 アナスタシウス1世よりイタリア王を名乗ることが許され、 ここに東ゴート王国(西暦497年-西暦553年)が成立した。 ただし東ゴート王国の宗主権はものとされ、 民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、 立法権は東ローマ皇帝が行使した。

アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、 その一方で、 単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。
西暦502年のアナスタシア戦争が長きに渡るサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争の発端となった。 アナスタシウス1世が急死すると、 次のユスティヌス1世(西暦518年 - 西暦527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。

6世紀のユスティニアヌス1世(西暦527年 - 西暦565年)の時代には、 相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、 それを補うための増税で経済も疲弊した。 一方、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、 西暦533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、 ヴァンダル戦争(西暦533年 - 西暦534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。 特にこの時期、旧都・ローマを東ゴート王国から奪還した事は、 東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。
西暦528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、 後世に残る文化事業も成したが、 西暦529年にはギリシャの多神教を弾圧し、 プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、 数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。

西暦535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で、 西暦535年から西暦536年の異常気象現象に見舞われた。 イタリア半島においてはゴート戦争(西暦535年 - 西暦554年)が始まる。 西暦543年、 黒死病(ユスティニアヌスのペスト)。 ラジカ王国をめぐるサーサーン朝ペルシャとの抗争(ラジカ戦争)で手がまわらなくなると、 スラヴ人(西暦542年)・アヴァール(西暦557年)などの侵入に悩まされた。
西暦546年に東ゴート軍は、 イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、 この時のローマ略奪と重税によって、 いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が崩壊し、 古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる[誰?]。 西暦552年にナルセス将軍が派遣され、 ブスタ・ガロールムの戦いでトーティラを敗死させ、 東ゴートは滅亡した。 翌年、イタリア半島は平定された。

西暦565年にユスティニアヌス1世が没すると、 西暦568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。 西暦558年、 突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、 西暦567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。
その後、 室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、 西暦568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。 西暦572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (西暦572年-西暦591年)で、 東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、 西暦576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。 西暦588年、 第一次ペルソ・テュルク戦争でサーサーン朝を挟撃した。
西暦598年、 達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。 西暦602年に軍閥フォカスが政変が引き起こし、 首都に入城して皇帝マウリキウスとその一族を皆殺しにした上で帝位についた。

東ローマ帝国の内乱に際して、 サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服)。 フォカスは、 簒奪の汚名を打ち消す目的も兼ねてサーサーン朝ペルシャへ侵攻した(東ローマ・サーサーン戦争 (西暦602年-西暦628年))。

中期(610年頃 - 1204年)

危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
西暦608年にカルタゴのアフリカ総督大ヘラクレイオスが反乱を起こし、 西暦610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(イラクリオス/在位:西暦610年 - 西暦641年)が皇帝に即位した。 ヘラクレイオスは、 西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争、 第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、 シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシャをニネヴェの戦い (西暦627年)で破るなどして、 東ローマ・サーサーン戦争 (西暦602年 - 西暦628年)に勝利し、 領土を奪回することに成功した。
西暦627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、 西暦628年に統葉護可汗が殺され、 後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。

東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、 ギリシャ語が徐々に事実上の公用語へと変わっていた。 それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、 5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた。 軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、 6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、 全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷する潮流は変わらなかった。
ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、 西暦620年にはギリシャ語が公用語であることを承認した。 また、ヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、 古くから蛮族の王を指す通用的な用語であった「バシレウス」を公式儀礼用語として使用するようになった。 この言葉はラテン語の"rex"に対応し、 以降帝国の滅亡まで用いられた。 古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、 その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された。
アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)

サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、 カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、 東ローマ領のシリア地方へも侵攻した。 西暦636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、 シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失った。
西暦641年、 ヘラクレイオスが死亡すると、 コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、 コンスタンス2世が即位して落ち着いた。 東ローマ軍は、 西暦655年に、 アナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い(英語版))で、 イスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。

西暦656年、 イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、 第一次内乱(英語版)(西暦656年 - 西暦661年)が始まる。 西暦661年、 ウマイヤ朝が成立。

西暦674年から西暦678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、 連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、 東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、 難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシャの火」を用いて撃退することに成功した。 西暦680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、 西暦681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、西暦680年 - 西暦1355年)。
西暦698年、 カルタゴの戦い(英語版)ではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、 カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された。 その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、 領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、 南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。

西暦717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、 西暦718年に、 イスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、 帝国の滅亡は回避された。 しかし、 宗教的には西暦726年に、 レオーン3世が始めた聖像破壊運動などで、 東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、 カトリック教会との乖離を深めた。
聖像破壊運動は東西教会ともに西暦787年、 第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、 両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。

女帝エイレーネー(イリニ)治下の西暦800年、 ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、 西暦802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、 西暦803年にパクス・ニケフォリ(英語版)を締結したが、 政治的にも東西ヨーロッパは対立。 古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、 地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。

イスラム軍(アッバース朝)とは、 西暦804年のクラソスの戦い、 西暦806年のアッバース朝軍の小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、 貢納金を支払う条件で和約を結んだ。 西暦811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、 撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が戦死し、 後継者問題が起こった。
ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、 対立していたフランク王国と妥協し、 カール大帝の皇帝就任を承認。
西暦813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、 レオーン5世への譲位を余儀なくされた。 西暦814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、 オムルタグと30年不戦条約を結んだ。
西暦827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服(イタリア語版、英語版)、西暦827年-西暦902年)、 シチリア首長国(西暦831年 - 西暦1072年)が成立。 西暦902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した。

こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、 バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、 ギリシャ人・正教会・ギリシャ文化を中心とする国家となった。 このことから、 これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
最盛期(9世紀 - 11世紀前半)

9世紀になると国力を回復させ、 バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(西暦867年 - 西暦1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。 一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化した。 西暦867年、 アモリア王朝最後の皇帝となるミカエル3世(在位:西暦838年-西暦867年)主宰の教会会議がローマ教皇ニコラウス1世を破門するに至った「フォティオスの分離(英語版)」などによって、 東西両教会の亀裂が深まり、 事実上分裂する事となった。[注 25]。

政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、 それによって安定した帝国は、 かつて帝国領であった地域の回復を進め、 東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。 また文化の面でも、 文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシャ文化の復興が進められた。 これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。

10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、 ヨハネス1世ツィミスケス、 バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、 北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、 東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。 東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)

「コムネノス王朝」も参照

西暦1011年、 西からノルマン人の攻撃を受けた(ノルマン・東ローマ戦争、西暦1011年 - 西暦1185年)。 しかし、 西暦1025年にバシレイオス2世が没すると、 その後は政治的混乱が続き、 大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発した。 西暦1040年にはブルガリア (テマ制)(英語版)でen:Peter Delyanの反乱が起こり、 ピレウスも呼応して蜂起した。
セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)

西暦1055年、 セルジューク・東ローマ戦争が始まり、 西暦1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、 東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。 小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、 ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。

西暦1081年に即位した、 大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:西暦1081年 - 西暦1118年)は、 婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、 帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。 また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、 ローマ教皇へ援軍を要請し[注 26]、 トルコ人からの領土奪回を図った。

アレクシオス1世と、 その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:西暦1118年 - 西暦1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、 小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。 東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。

ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:西暦1143年 - 西暦1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、 ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、 イタリア遠征やシリア遠征、 建築事業などに明け暮れた。 しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。 特にイタリア遠征、 エジプト遠征は完全な失敗に終わり、 ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。
西暦1176年には、 アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。 犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、 実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、 この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
「アンゲロス王朝」および「フランコクラティア」も参照

西暦1180年にマヌエル1世が没すると、 地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。 アンドロニコス1世コムネノス(在位:西暦1183年 - 西暦1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、 アンドロニコス1世を廃して帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:西暦1185年 - 西暦1195年)も、 セルビア王国(西暦1171年)・第二次ブルガリア帝国(西暦1185年)といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、 また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、 有効な対策は打てずにいた。
第4回十字軍

十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、 西暦1204年4月13日、 第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。 東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権[注 27]を建てて抵抗することとなった。

後期(1204年 - 1453年)

帝国の再興(1204年 - 1261年)
「ニカイア帝国」および「パレオロゴス王朝」も参照

第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、 小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。 ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:西暦1205年 - 西暦1222年)、 2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:西暦1222年 - 西暦1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、 ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
モンゴル襲来(西暦1223年 - 西暦1299年)

周辺国では、 西暦1223年のカルカ河畔の戦い以来、 モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))が始まり、 西暦1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、 西暦1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(西暦1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、 西暦1245年のヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版)ではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化した。

3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:西暦1254年 - 西暦1258年)の死後、 摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:西暦1261年 - 西暦1282年)が実権を握った。 西暦1259年9月、 ペラゴニアの戦いで、 アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、 西暦1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。 東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、 最後にして最長の王朝パレオロゴス王朝(西暦1261年 - 西暦1453年)を開いた。

フレグの西征で西暦1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していた。 さらに西暦1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、 西暦1262年11月にはベルケ・フレグ戦争(英語版)でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、 東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。

西暦1265年に、 ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、 ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、 ジョチ・ウルスと同盟することになった[注 28]。 その後も西暦1271年、西暦1274年、西暦1282年、西暦1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していた。

西暦1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、 ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、 西暦1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属した。 この間の西暦1282年に、 テッサリアで反乱が起こり、 ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送ったが、 ミカエル8世は病気になり急死した。 ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、 援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いた。 西暦1286年に、 セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れた。

アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:西暦1282年 - 西暦1328年)の時代以降、 軍事的な圧力が強まる中で西暦1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、 かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、 祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、 経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、 まったく振るわなくなった。 そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃された。
オスマン・東ローマ戦争(西暦1326年 - 西暦1453年)

詳細は「オスマン・東ローマ戦争」を参照

西暦1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、 西暦1352年には領土は首都近郊とギリシャのごく一部のみに縮小。 14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:西暦1341年 - 西暦1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:西暦1347年 - 西暦1354年)は、 西暦1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、 帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。

西暦1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、 周辺国でも激動の時代であった。 東ローマ帝国滅亡後に、 モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。

14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:西暦1391年 - 西暦1425年)は、 窮状を打開しようとフランスイングランドまで救援を要請に出向き、 マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:西暦1425年 - 西暦1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:西暦1449年 - 西暦1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、 いずれも失敗に終わった。

この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。 古代ギリシャ文化の研究がさらに推し進められ、 後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。 このパレオロゴス朝ルネサンスは、 帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、 ルネサンスに多大な影響を与えた。
滅亡(西暦1453年)
「コンスタンティノープルの陥落」および「トルコクラティア」も参照

西暦1453年4月、 オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。 ハンガリー人のウルバン (Orban) が開発したオスマン帝国の新兵器「ウルバン砲」による砲撃に曝され、 絶対的に不利な状況下、 東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。 5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、 皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、 東ローマ帝国は完全に滅亡する。 これによって、 古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。 通常、 この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。 同年には百年戦争が終結し、 この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランスフランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、 西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。

西暦1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、 西暦1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、 地方政権からの再興という道も断たれることとなった。

なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、 メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。 また、西暦1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、 ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、 モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している[注 29]。

政治

イデオロギー

6世紀になると西暦330年5月11日が特別な記念日とされ、 「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。 9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった[注 30]。 自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、 例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出され[注 31]、 「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった[注 32]。 10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、 ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された。 他にも帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、 「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、 古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。 ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシャに求めるようになり、 住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシャ人)」へと変化していった。 このように、この帝国では全てが流動的であった。 こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、 帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる[誰?]。

ローマ帝国の継承者として

西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。 政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた。 法的にはローマ法を受け継ぎ、 「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」、 「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシャ語版『バシリカ法典』として再編されて、 ずっと国家の基本法であり続け」、 「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」、 「自分たちはギリシャ古典、 ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」。 一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。 西ヨーロッパではローマ帝国はロームルスのローマ建設神話から王政・共和政と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、 一方の東ローマ帝国においてはカエサル以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった[注 33]。 東ローマ帝国におけるローマ帝国とは旧約聖書の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので、 それはバビロニア帝国・ペルシャ帝国・アレクサンドロス帝国から受け継いだ「文明世界を支配する帝国」「キリストによる最後の審判まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。 ビザンツ人にとってみれば、 カエサル以前のローマ帝国よりはペルシャ帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである。 自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、 世界創造紀元の使用にも現れている。

ビザンツ皇帝理念

ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である。 「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、 ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった。 ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、 皇帝に奉仕するものとなった。 古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、 今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。 それは古代ローマとは反対の制度だった。

ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。 「「軍人皇帝時代」もちろん、 西暦330年のコンスタンティノープル遷都以降も、 皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、 「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」。 一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、 「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、 中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」。 就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている[注 34]。 そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、 その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、 総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった[注 35]。 7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、 並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。[注 36] 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。 ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、 「自らの地位を諸法に超越するものとし」[注 37]、 「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、 自発的に諸法に従うことになった」。 ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、 元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス(英語版))を要求した[注 38]。 かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している。 ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、 ビザンティン専制国家への道が開かれた。 古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、 その母斑をついに消し去ったのである。 血塗られた彼の帝衣は、 まさに古代ローマ皇帝の死装束であった。

7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。 「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。 古代ローマや中世西欧では、 ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、 軍司令官としての性質が強調された。 一方の東ローマ帝国では、 7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった。 ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、 このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、 皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる。

政治体制

東ローマ帝国は、 古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ[注 39] 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ、 政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、 完成された官僚制度によって統治が行われていた。 課税のための台帳が作られるなど、 首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。

しかし、皇帝の地位自体は不安定[注 40]で、 たびたびクーデターが起きた。 それは時として国政の混乱を招いたが、 一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような[注 41]、 活力ある社会を産むことになった。 このような社会の流動性は、 11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、 アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、 皇帝の権限も相対的に低下していった。

このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、 宦官の役割が非常に大きく、 コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。 また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、 知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。

行政制度

属州制からテマ制へ
詳細は「テマ制」を参照

地方では、 初期は古代ローマ後期の属州制のもと、 行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、 中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。

テマ制は、 自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、 国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、 国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。 ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、 定着したスラヴ人なども積極的に編成された。 ストラティオティスは屯田兵でもあり、 バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。 彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、 テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、 初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。

テマ制度を可能ならしめた要因として、 6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。 この時代は帝国の混乱期で、 スラヴ人やペルシャ人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、 帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。 このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、 現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
テマ制の崩壊

8世紀後半以降、 外敵の大規模な侵入が減り、 次第に商業が活性化していくと、 それにつれてテマ農民兵士の貧富の格差が増大し、 中小自由農民層の没落・貧困化が進行した。 安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、 10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できる。

ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、 まだ影響は少なかったが、 レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。 晩年の「新勅法」によって、 それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。 ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、 彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、 さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。 また、不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、 正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。 しかしこれらの法律は守られなかった。 なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、 その親族たちであったからだ。 彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。

同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。 マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、 教会財産の制限をおこなった。 これはかなりの効果を上げ、 彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。

この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。 帝国は計画的に軍事力を削減し、 ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。 これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。 以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。 テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。
プロノイア制

詳細は「プロノイア」を参照

コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。 かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、 これが西欧のレーエン制に擬され、 ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、 今日ではこの説は基本的に否定されている。 プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、 またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。 したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。

ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、 ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、 売買を固く禁じている。 ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、 これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。 とはいえ、 これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されたりすることがあったという証明であるともいえる。

軍制との関連性も明確でない。 軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。 プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、 漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、 パリコスは法的には完全な自由民であった。

プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。 そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。 また、コムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。 そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。

自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、 帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、 プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。 むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、 旧ラテン帝国の封建諸侯である。 彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、 それは西欧封建制に影響を受けたものであった。 末期に顕著となる皇族への領土分配はデスポテースという地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。

住民

東ローマ帝国の住民の中心はギリシャ人であり、 7世紀以降はギリシャ語が公用語であった。 しかし東ローマ帝国の住民をギリシャ人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎない。 東ローマ帝国は初めにはアルメニア人・シリア人・コプト人・ユダヤ人のような多数の非ギリシャ人を内包する多民族国家だった。 公用語はギリシャ語だったが日常会話にはスキタイ語・ペルシャ語・ラテン語・アラン語(ロシア語版)・アラビア語・ロシア語・ヘブライ語なども存在した。 それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシャ語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのである。 7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明だが、 ギリシャ人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいる[注 42]。む しろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前にはゴート人であり、 7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり、 12世紀以降においてはフランク人だった。 帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人らもいた。 中でもアルメニア人とのハーフ、 もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、 さらには皇帝になった者までいる[注 43]。 7世紀のヘラクレイオス王朝や、 9世紀~11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である[注 44]。

帝国内の自由民は、 カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、 言語・血統にかかわらず、 自らを「ローマ人」と称していた。 東方正教を信仰し、 コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。 とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、 市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた[注 45]。

一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、 10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、 帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。

文化

詳細は「ビザンティン文化」を参照

「ビザンティン美術」、「ビザンティン建築」、 および「ビザンティン聖歌」も参照

東ローマ帝国は、 古代ギリシャ・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。

宗教

国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、 後世にも影響を与えている。 また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラス(英語版)によると、 伝統的なギリシャ神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており、 15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。

正教会

詳細は「正教会」を参照

帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、 今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。

皇帝教皇主義
詳細は「皇帝教皇主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照

カノッサの屈辱に象徴される中世西欧の強力な教皇権力に比して、 東ローマ帝国のキリスト教会いわゆるビザンティン教会はいわば皇帝権力の内あるいは下の位置に甘んじていた。 正教会のトップである総主教の交代さえ皇帝の意のままだった。 このような関係を歴史学の用語で皇帝教皇主義と言い、 東ローマ帝国はその典型である。

しかしこの通説には大きな語弊がある。 確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、 皇帝が「地上における神の代理人」であり、 コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。 しかし、 正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。 聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、 主催はエイレーネーによるものの、 決定したのはあくまで公会議である。 ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、 皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。 実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、 皇帝と総主教の権力は並立し、 皇帝は臣下の物質的幸福を、 総主教は精神の安寧を司り、 両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。 また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。[要出典]
宗教論争
東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、 たびたび宗教論争が起き、 聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。 これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、 都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシャ人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。 『新約聖書』は原典がギリシャ語(コイネー/キニ)であり、 『旧約聖書』もギリシャ語訳のものが流布していた。 また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、 活発な議論が展開される結果となったのである。 この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、 また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。

法律

「テオドシウス法典」および「ローマ法大全」も参照

帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものだったが、 古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていなかった。 5世紀の皇帝テオドシウス2世は、 西暦438年にローマ法史上では初となる官撰勅法集『テオドシウス法典』を発布し、 この問題を解決しようとした。 この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、 理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、 結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった。

6世紀半ばにはユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、 『学説彙纂』、『法学提要』が編纂された。 これら法典は後に西欧へも伝わり『ローマ法大全』と名付けられることになる[注 46]。 ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、 その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられた。 特に重要な改訂は、 8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、 9世紀後半のバシレイオス1世による『法学提要』のギリシャ語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、 『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、 そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『勅法彙纂』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典(英語版)』(帝国法)編纂である[105]。

またユスティニアヌス1世の時代は、 法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもあった。 例えばユスティニアヌス1世の以前には、 皇帝アルカディウスによって、 皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていた。 これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのだが、 ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ、 皇帝の回答は「判例」となった。 ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、 自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言した。 これによって皇帝は、ヘレニズム的な「生ける法」となったのである。

経済

東ローマでは、 西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。 帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、 後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した[注 47]。 特に首都コンスタンティノポリスでは、 国内の産業は一部を除き、 業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、 国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、 貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、 コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。

だが12世紀以降、 北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、 海軍力提供への見返りとして行ったヴェネツィア共和国などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、 衰退の一途をたどった。

主要産業の農業は古代ギリシャ・ローマ以来の地中海農法が行われ、 あまり技術の進歩がなかった。 それでも、 古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、 12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、 東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった。 しかしながら、 ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。

軍事

初期の軍制

初期の東ローマ帝国は、 2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国の軍事制度を継承した。 軍隊は、 リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。 リミタネイは辺境属州を担任するドゥクス(軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。 コミタテンセスははるかに広い地域を担当するマギステル・ミリトゥム(方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、 帝国軍の主力として戦地に出撃した。 野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、 給与等は優先されていた。

歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、 騎兵の重要性が拡大していた。 例えば西暦478年には、 東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、 西暦357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦において10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。

騎兵部隊は細分化され、 ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。 騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。 弓を装備していた者もいたが、 散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。

野戦部隊には「カタフラクタリイ」や「クリバナリイ」等の重装騎兵も編成されていた。 弓騎兵(エクイテス・サジタリイ)も含む軽騎兵(スクタリイ、プロモティ)は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。 「コミタテンセス」の歩兵はレギオン、 アウクシリア、 ヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。 これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、 軽歩兵隊の援護を受けていた。

ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシャ帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。 レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、 代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。 タグマは300から400人で編成され、 2つ以上のタグマでモイラ、 2つ以上のモイラでメロスが編成された。

ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
  1. 帝都の護衛隊
  2. コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍の野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキア、イリュリクムとイサウリアから兵は集められた。
  3. リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境の要塞に駐留し、守備を担っていた。
  4. フォエデラティ。蛮族の志願兵から構成され、ローマ人士官の元で騎兵として編成された。
  5. 同盟軍。フン族・ヘルリ族・ゴート族やその他の蛮族から供給され、彼ら自身の族長が指揮していた。土地や報償金を見返りとして戦った。
  6. ブケラリィ。将軍や貴族など高位の人間の私兵であり、野戦軍の騎兵戦力として重要な地位を占めていた。その規模は雇い主の裕福さに左右されていた。兵士はヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主と皇帝に厳粛な忠誠を誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。

テマとタグマ

7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、 帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。 小アジアに退却した野戦部隊は、 残存領土に分かれて駐屯し、 テマ(軍団)となった。 テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、 拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。 かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、 この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、 中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。 敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった。 テマの兵士は平時は農民で、 諸税を免除される代わりに武器を自弁した。

8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、 テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、 地方制度としてのテマ制が作られた。 テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、 軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。

また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、 地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。 外国人傭兵を部隊に編成したタグマ、 地方国境に駐屯したタグマも作られた。

10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。 その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、 有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた。 有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、 貴族化して帝国の軍隊を私物化し、 反乱を頻発させた。

プロノイア制の時代

西暦1081年に有力貴族から出て即位したアレクシオス1世は、 有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。 貴族の私兵だけでなく、 皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、 外国人傭兵も依然として大きな比重を保った。

軍隊の規模
軍隊の規模は論争となっている。 (Treadgold(1997), p. 67)による算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は東ローマ帝国の軍隊(英語版を参照)。
773809840899
テマ軍合計62,00068,00096,00096,000
タグマ合計18,00022,00024,00028,000
合計80,00091,000120,000124,000
軍隊の種類
  • カタフラクト
  • 騎馬隊
  • 歩兵

用語の表記方法について

ウィキペディア内での表記については「プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記」を参照

日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、 同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。 主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、 実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、 中世ギリシャ語形を用いている例も見られる。 もっとも中世ギリシャ語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、 一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、 論争中である。

このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。 現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、 個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、 注意が必要である。




エトルリア語(en:Etruscan civilization)

エトルリア語はイタリア半島の先住民族、エトルリア人が使用していた言語。
先印欧語の一つ。現在は死語となっている。

エトルリア語のアルファベット(エトルリア文字)は西方ギリシャ文字から派生した表音文字で読み方は分かっている。 ラテン語のラテン文字を派生した。

エトルリア語は、ほとんどの考古学資料が碑文のため、 言語の詳細について研究が進んでいない。 一部の学者たちは、 ラエティア語(アルプス地方で話されていた)やレムニア語(エーゲ海のレムノス島で話されていた)など、 ヨーロッパにおける死語となった孤立言語との共通点を指摘し、 ティレニア語族(ティルセニア語族、Tyrrhenian/Tyrsenian)を形成するとしている。

日本で使われているエトルリア語由来の単語
アリーナ、アンテナ、ベルト、カップ、マーケット、スタイル

サビニ人(ラテン語: Sabini) サビーニー人とも

サビニ人は、イタリア半島に位置するローマの北東ティベリス川一帯に住んでいた古代の部族である。
好戦的で城壁を持たない町に住んでおり、 サビニ人は自らの起源をスパルタからの移民であると言っている、 と言われている。

ローマ人によって女が強奪されたいわゆる「サビニの女たちの略奪」の後、 ローマと4度の戦争を起こすが、 結果的にローマに併合された。 サビニ族出身のクラウディウス氏族はローマ最高の名門に登り詰めている。

サビニ語を話していた。 サビニ語に関する記録はほとんど残っていないが、 イタリック語派ウンブリア語の一種とされている。

ローマ帝国五代皇帝「ネロ」とは、 サビニ人の言葉では「勇敢な男」を意味するという。