古代ローマの当時の正式な国号は「元老院ならびにローマ市民」であり、 共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。 伝統的には西暦476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、 ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される西暦554年までを古代ローマに含める場合もある。 ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し続け、 世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、 今日まで影響を与えている。
No. | 王名 | 在位(自) | 在位(至) | 備 考 |
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ロムルス | 紀元前753年 | 紀元前717年 | ティトゥス・タティウスと共同統治 | |
ヌマ・ポンピリウス | 紀元前715年 | 紀元前673年 | ||
トゥッルス・ホスティリウス | 紀元前673年 | 紀元前641年 | ||
アンクス・マルキウス | 紀元前641年 | 紀元前616年 | ||
タルクィニウス・プリスクス | 紀元前615年 | 紀元前579年 | ||
セルウィウス・トゥッリウス | 紀元前579年 | 紀元前534年 | ||
タルクィニウス・スペルブス | 紀元前534年 | 紀元前509年 |
タルクィニウス・スペルブスの追放によって王政ローマは終わった。 王政への反省からこの年、紀元前509年からは共和政がとられ、 2名の執政官がローマの政治を司ることになった。 最初の執政官には、演説を行ったルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、 自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出された。 この後は共和政ローマの歴史となる。
これ以降ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれており、 特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになった。
初代ロムルス以来、 多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、 王の助言機関とした。
ローマに見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、 戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、 代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤としたことが挙げられる。 これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな寒村ほどの規模から出発した新生ローマでは、 最大・喫緊の課題は人口増加であり、人口が増えないことには、自衛のための兵力すら維持できないからであった。 実際、このローマの性格こそ、後にローマを強大にする原動力であったと認められている。
さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は、 ローマ市民として王の選出を含む国家の最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。 ローマ建国の王であったロムルスも、治世の途中でこの民会の選挙で選出(この場合信任)され、 改めて選挙で選ばれて王となった。王の任期は終身であるが、原則として世襲制はとらない。 もっとも、この市民による王の選出は、共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。
王の最大の責務はローマの防衛であり、 そのため自由市民が輪番で兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)。
共和政下のローマの政治体制は元老院・政務官・民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的である。 市民全体によって構成される民会は政務官 (magistratus) を選出し、 その政務官たちが実際の政務を行う。 この政務官経験者たちによって構成された元老院は巨大な権威を持ち、 その決議や助言に逆らうことは難しかった。 政務官の選挙にも元老院の意向が一定反映され、 そうして選ばれた政務官たちによって元老院が構成されたことから両者は強く結びついた。
最も重要な政務官は執政官で、 その命令権(インペリウム)は王の権力から受け継がれたものともいわれる。 任期は1年で2名が選ばれた。 執政官に欠員ができたときには補充選挙が行われるが、 新たな執政官の任期は前任者のものを引き継いだ。
元老院は王政期から存在したとされ、 その構成員は当初は貴族(パトリキ)のみであった。 のちに元老院議員の資格は政務官経験者となり、 平民(プレブス)にも開かれ、 後世になってそうした平民は平民貴族と呼ばれた。 ノビレスは、そうした平民貴族とパトリキの総称である。
民会にはいくつかの形式があった。 当初は「クリア」と呼ばれる単位によって行われるクリア民会が行われていた。 やがて兵制に基づく「ケントゥリア」を単位とするケントゥリア民会が中心となり、 以後最も権威ある民会として機能しつづけた。 この他、居住地である「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行われるようになり、 ケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。
当初のパトリキの支配からノビレスの支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブスの「身分闘争」が行われたといわれている。 戦術の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間では、 パトリキに対する反発が蓄積していた。 こうした下層プレブスの不満を背景に、 上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取り、 パトリキと一体化してノビレスを構成するようになった。 この過程で紀元前494年にプレブスの権利保護を目的に護民官が作られ、 ローマの政務官の一つとなった。 護民官はプレブスのみが参加する平民会で選出され、 他の政務官の決定や決議を取り消す権利(拒否権)を持った。 また、護民官の身体は不可侵とされた。
この他特徴的な政務官としては、 非常時のみに選出される独裁官が挙げられる。 執政官2名の合議によって選出され、 他の政務官と異なり同僚制を取らず1人のみが任命される。 他の政務官の任期が1年であるのに対し、 独裁官の任期は6か月と短く非常事態を収拾したのち任期途中で辞任することもあった。 独裁官は他の政務官全てに優越し、 護民官の拒否権の対象ともならなかった。 副官としてマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)が任命された。
「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。 インペリウム (imperium) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、 転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった。 Imperium Romanum の語は共和政時代から用いられており、 その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。 日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、 しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、 西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり、 「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。 ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持したインペラトルが皇帝と訳されているが、 インペリウムは共和政ローマにおいてもコンスルとプロコンスル、 およびプラエトルとプロプラエトルに与えられていた。 また、ローマが帝政に移行した後も、 元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は帝国は共和制であった。
中世における「ローマ帝国」である、 東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、 西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。
ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、 一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。 紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、 紀元前44年に暗殺された。 その後も内戦やプロスクリプティオは続き、 紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。 翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、 紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った。 その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、 紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、 事実上彼を最初のローマ皇帝とした。
帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、 「パクス・ロマーナ」として知られている。 ローマはトラヤヌスの治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。 また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、 ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。 その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、 アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。 トラブルの増加と衰退の期間は、 アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177-192)の治世で始まった。 コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。 3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、 短命の皇帝が続出し、 多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、 帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。 帝国はアウレリアヌス(R.270-275)のもとで再統一された。 その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、 ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、 ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。 ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、 最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。 大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。 313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、 皇帝の多くもキリスト教を信仰した。 コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。 テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、 彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。 その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。 ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、 最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、 西ローマ帝国は一旦崩壊した。
東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。 しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、 ローマ皇帝の最高権力を継承しており、 800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、 その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。 東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、 コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、 別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、 古代ローマ帝国の命脈を保った。
ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、 ローマの制度と文化は、 ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、 永続的な影響を与えた。 ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、 中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。 帝国がキリスト教を採用したことで、 中世のキリスト教が形成された。 ギリシャとローマの芸術は、 イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。 ローマの建築の伝統は、 ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、 また、イスラーム建築に強い影響を与えた。 ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、 ローマの共和制制度は、 中世のイタリアの都市国家の共和国、 初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、 永続的な遺産を残している。
古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、 イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、 帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。 ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。 この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。 ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
330年にコンスタンティヌス1世が、 後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。 テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、 392年にキリスト教を国教とした。 395年、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。 以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、 現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。
西ローマ帝国の皇帝政権は、 経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、 ゲルマン人の侵入に抗せず、 476年以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。 6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、 7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、 国家体制の変化が進行した。 東ローマ帝国は、 8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、 オスマン帝国により、 1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、 完全に滅亡した。
ローマ帝国の起源は、 紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。 当初はエトルリア人などの王を擁していたローマは、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放して、 貴族(パトリキ)による共和政を布いた。 共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、 クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、 国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。 やがて平民(プレブス)の力が増大し、 紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて身分闘争が起きたが、 十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、 紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれた。
都市国家ローマは次第に力をつけ、 中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、 さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。 紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、 イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、 狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。
しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、 イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、 反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、 貧富の格差は拡大し、 それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、 やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、 武力を用いて政争の解決を図るようになる。 こうした中で、 スッラ及びユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、 元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。 紀元前44年にカエサルが暗殺された後、 共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、 これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、 元老院に権限の返還を申し出た。 これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、 「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。 一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス=クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、
表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。
これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。
彼らが即位する際には、
まず軍隊が忠誠を宣言した後、
元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。
皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、 ティベリウスの死後あたりから、 政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。 軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、 徴兵制が破綻し、 代わって傭兵制が取られたが、 それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、 それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。
やがて、世襲の弊害により、カリグラやネロなど無軌道な皇帝が登場すると、 彼らは対立候補を挙げて決起し、 また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、 結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、 3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、 不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。
ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、 こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。 むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、 43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしている。
また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、 後期にはイタリア人の惰弱化により、 兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。 それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。 ローマの領域内は安定を見せたものの、 賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、 周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。
時系列的には、 初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、 通貨制度の整備、 ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州と皇帝属州の創設)などを行い、 帝国の基盤が整えられた。 さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、 帝国の領域は拡大し、 安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、 パクス・ロマーナと呼ばれる平和が長く続くこととなった。 14年にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだティベリウスも内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、 3代カリグラは暴政を行って暗殺された。 次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、 再び安定した国家を築きあげた。 続くネロの統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、 ネロは68年に反乱を受け自害した。 ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。 4人の皇帝が次々と擁立されたことから、 この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。 これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、 これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、 やがてウェスパシアヌスが勝利し70年にフラウィウス朝を開始すると、 ローマは小康状態を取り戻した。
フラウィウス朝はウェスパシアヌス、ティトゥスと名君が続いたが、 次のドミティアヌスが暗殺され、 後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。
ドミティアヌスが暗殺されたのち、 紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。 この5人の皇帝を五賢帝という。
のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、 彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、 安定した帝位の継承を実現した。 ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、 この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。 しかしながら五賢帝は、 やや遠いながらも血縁関係があり、 またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、 この時代の理想化を避けた観点からは、 ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、 ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。
またこの時代には、 法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、 領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、 地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。 また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、 自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、 自給自足的な共同体が増加した時期でもある。
マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、 実子であるコンモドゥス帝の悪政により社会は混乱し、 彼が192年に暗殺されると内乱が勃発した。 193年には5人の皇帝が乱立し、 五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。 この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。 セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、 当初から軍事色の強い政権であった。
五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、 その後各地で反乱が頻発するようになり、 また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。 これに対処すべく、 212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、 ローマの支配下にあるすべての地域に、 同等の市民権が与えられた。 これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、 非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、 これによってローマ市民権の価値が崩壊し、 政治バランスが激変して、 以後長く続く混乱の一因となった。 また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、 市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、 さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、 軍事力の衰退を招いた。
235年、アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、 以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。
詳細は「3世紀の危機」を参照
いわゆる「元首政」の欠点は、 元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。 そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、 反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。 約50年間に26人[注釈 1]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、 戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、 代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。 この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、 人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。
284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、 帝権を強化した。 元首政と呼ばれる、 言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、 オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。 これ以降の帝政を、 それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。 またテトラルキア(四分割統治)を導入した。 四分割統治は、 二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、 ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。 強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、 軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。 テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、 帝国は一時安定を取り戻した。
ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、 大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、 彼の下でローマは古代から中世に向けて、 外面でも内面でも大きな変化を開始する。
ディオクレティアヌスが305年に引退した後、 テトラルキアは急速に崩壊していった。 混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、 324年には唯一の皇帝となった。 コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、 東のサーサーン朝ペルシャの攻撃に備えるため、 330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。 この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。 コンスタンティヌスの死後、 北方のゲルマン人の侵入は激化、 特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。 378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。
帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、 徐々に信徒数を増やしてゆき、 2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。 ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、 当時の東帝リキニウスと共同で、 313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。 その後もキリスト教の影響力は増大を続け、 ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、 後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、 異教は禁止されることになった(392年)。 394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、 フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。
コンスタンティヌス1世の没後、 帝国では再び分担統治が行われるようになった。 テオドシウス1世も、 395年の死に際して長男アルカディウスに東を、 次男ホノリウスに西を与えて分治させた。 当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、 何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、 これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。 もっとも3世紀後半以降、 東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、 経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、 また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、 東西の分裂は早い段階から進行していた。 今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。 ただし、 史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、 あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
共和政ローマが版図を拡大するにつれて、 ローマに置かれた中央政府は、 効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。 これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間がかかったためである。 当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、 船か公設の郵便制(クルスス・プブリクス)で行っており、 ローマまでかなりの時間がかかった。 返答と対応にもまた同じくらいの時間がかかった。 このため属州は、共和政ローマの名のもとに、 実質的には属州総督によって統治された。
帝政が始まる直前、共和政ローマの領土は、 オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、 マルクス・アントニウス、 レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。
アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、 ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。 こうした地域は、 紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、 ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。 また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、 王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。 これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。 すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、 ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、 ヒスパニア(イベリア半島)である。 こうした地域も、 多くのギリシャ人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、 ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように文化的にケルト人に支配されている地域もあった。
レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。 しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、 オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシャ人が植民していたシチリア島を獲得した。
アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、 ローマから帝国全土を支配した。 戦いの最中に、 盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは一時的に東方を代理として支配した。 同じことは、 ティベリウスが東方に行った際に甥に当たるゲルマニクスによって行われた。
西方において主な敵は、 ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。 アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、 最終的に失敗しており、 これらの蛮族は大きな不安の種となった。 一方で、東方にはパルティアがあった。
ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、 ローマの国境を侵犯する機会を捉えて襲撃と掠奪を行なった。 二方面の軍事的境界線は、 それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、 政治的にも重要な要素となった。 地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。 西方の国境をローマから統治することは、 比較的ローマに近いために容易だった。 しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。 皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、 どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。 この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。
西暦235年3月18日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、 その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。 今日、この時期は軍人皇帝時代として知られている。 西暦259年、 エデッサの戦いでサーサーン朝との戦いに敗れた皇帝ウァレリアヌスは捕虜となり、 ペルシャへ連行された。 ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあったガッリエヌスが単独皇帝となったが、 混乱に乗じて皇帝僭称者が相次いだ。 ガッリエヌスが東方遠征を行う間、 息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスに西方地区の統治を委任した。 サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:ケルン)に駐屯していたが、 ゲルマニア属州総督マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが反逆、 コローニア・アグリッピナを攻撃し、 サロニヌスを殺害した。 ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、 ローマ皇帝を僭称する。 このポストゥムの政権が、 後にガリア帝国と称されている。
首都をアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)に置いたこの政権は、 ゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復したと見られ、 ヒスパニアやブリタンニアの全域に支配が及んだ。 この政権は独自の元老院を有し、 その執政官たちのリストは部分的に現在まで残っている。 この政権はローマの言語、文化を維持したが、 より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。 国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。
西暦273年にパルミラ帝国を征服した皇帝アウレリアヌスは翌西暦274年、 軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。 これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝のテトリクス1世およびその息子のテトリクス2世との間に取引があって、 ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。 アウレリアヌスは彼らの命を助けて、 反乱した2人にイタリアでの重要な地位を与えた。
西暦284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは皇帝権を分割した。 自身を東方担当の正帝とする一方、 マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、 ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。 この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、 3世紀に指摘された内乱を防ぎ、 首都ローマから分離した前線拠点を作った。 西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現:ミラノ)とコンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)であった。
西暦305年5月1日、 2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。
西帝コンスタンティウス・クロルスが西暦306年に急逝し、 その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタンニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、 テトラルキア制度はたちまち頓挫した。 その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、 危機が訪れた。 西暦308年、 東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、 カルヌントゥムで会議を招聘し、 テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世とリキニウスという新参者とで権力を分けることにした。 だがコンスタンティヌス1世は、 帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。 東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、 リキニウスとコンスタンティヌスは西暦314年までに、 ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、 天下統一をめぐって争った。 コンスタンティヌスが西暦324年9月18日に、 クリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、 投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。
テトラルキアは終わったが、 ローマ帝国を2人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、 無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。 非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、 そのような皇帝が死去すると、 帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。
コンスタンティヌス1世の代にはローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、 同帝が西暦337年に死去すると、 3人の息子たち(コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世)が共同皇帝として即位し、 帝国には再び分担統治の時代が訪れた。 コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニアなど、 コンスタンティウス2世は東方領土、 コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、 まもなくその三者の間には内乱が勃発した。 まずコンスタンス1世がコンスタンティウス2世を西暦340年に打ち破って西方領土を統一したが、 そのコンスタンス1世も西暦350年に配下の将軍であったマグネンティウス(僭称皇帝)に殺害された。 西暦351年に、 コンスタンティウス2世がマグネンティウスを打ち破り、 西暦353年に、 マグネンティウスが自殺することによって、 コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。 唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は拠点をメディオラヌム(現:ミラノ)へと移した。 しかしコンスタンティウス2世がサーサーン朝との争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、 西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、 西暦360年には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された。 ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、 西暦361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、 ユリアヌスが唯一の正帝となった。 ユリアヌスは西暦363年にサーサーン朝との対戦中に戦死し、 ヨウィアヌスが皇帝に選ばれたが、 西暦364年1月17日にアンキラで死亡した。
皇帝ヨウィアヌスの死後、 帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。 西暦364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、 ただちに帝権を再び分割し、 東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。 東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、 なかなか安定した時期が実現しなかった。 西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、 古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。 ウァレンティニアヌス1世は古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、 その子グラティアヌスは西暦379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus) の称号を止めている。 ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し、 西暦382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、 アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇も元老院から撤去した。
西暦388年、 実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、 皇帝として宣言された。 グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、 東帝テオドシウス1世に援助を請い、 その力を得て間もなく皇帝に復位した。 テオドシウス1世は西暦391年まで西側に滞在し、 西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。 西暦392年5月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、 同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、 西暦394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。 テオドシウス1世はホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、 西暦395年に崩御するまでの4か月間、 東西の両地域を実質的に支配した。 一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、 これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。
ホノリウスがテオドシウス1世によって西方を任された当初から、 西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。 ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって西方で宣言された皇帝ではなかったので、 ホノリウスは西方の伝統的な勢力からは攻撃にさらされることになった。 さらにホノリウスはマケドニアとダキアの統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。 両管区はエウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたが、 東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、 以後そのまま東方が実効支配を続けていた。 西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、 この問題に東の宮廷は敏感に反応した。 ゴート人のアラリックが西方で略奪を働き東方へと逃亡すると、 西方の軍司令官スティリコはアラリックを追撃したが、 これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。 また西暦397年には東の宮廷の官僚エウトロピウスがアフリカ軍司令官のギルドーを唆し、 ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。 同時にホノリウスは蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入にも悩まされ、 西暦410年には西ゴート人によってローマ市が掠奪された(ローマ略奪)。 このとき西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。
ウァレンティニアヌス3世の時代には状況はさらに複雑になった。 西暦438年に発布された「テオドシウス法典」は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、 理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、 テオドシオス法典の発布後、 実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた。 現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、 同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。 西暦450年にテオドシウス2世が没すると、 東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍アスパルがウァレンティニアヌス3世に無断でマルキアヌスを皇帝の座に据えたが、 ウァレンティニアヌス3世は、 西暦452年頃まで、 マルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。 こうした東西宮廷の分裂に加えて、 皇帝権そのものにもさらなる分割が加えられた。 西暦440年にレオ1世がローマ教皇となると、 グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていたポンティフェクス・マクシムスの称号を教皇が名乗るようになり、 皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として神法の遵守を監督するようになった。 さらに西暦445年には、 ウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた。 こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、 教皇は帝国の代表者として、 西暦452年にはフン族と、 西暦455年にはヴァンダル族と、 西暦591年および西暦593年にはランゴバルド族と、 それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった。 いずれにせよ、 教皇は5世紀末までには、 西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた。 軍事の面においても、 帝国で重要な役割を果たしていたのは皇帝ではなく、 アエティウスのような蛮族出身の将軍たちであった。 そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、 皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、 ブッケラリィと呼ばれる将軍の私兵たちであった。 西方において、 皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。
ゲルマン人の将軍リキメルが帝国の実権を握った時代になると、 皇帝が不在のまま放置されることすらあり、 もはや西方では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった。
西暦475年、 東方皇帝レオ1世によって送り込まれたユリウス・ネポスが軍司令官オレステスによってラヴェンナから追放され、 オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言された。 ネポスはダルマチアへと亡命し、 いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの、 ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、 西方全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。
西暦476年にオレステスが、 オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、 オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、 ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、 元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東方皇帝ゼノンへ送り、 西方皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。 ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、 オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた。 一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、 まだダルマチアの残存領土で引き続き西方の統治権の保持を宣言しており、 東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた。 そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた。 元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、 オドアケルは譲歩して、 ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。 だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。 オドアケルは主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。 ユリウス・ネポスが西暦480年に暗殺されると、 オドアケルはダルマチアに侵入して、 あっさりとこの地を平定してしまう。 東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、 このユリウス・ネポスの死後のことである。 とはいえ、 6世紀末から7世紀初頭にかけて皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、 東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものはただちに失われたわけではなかった。
西方正帝の廃止によって、 西ローマ帝国に何らかの変化がもたらされることはなかった。 ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、 西方の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された。 オドアケルの統治下で西方の内乱は終息し、 地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、 帝国は一時の復興を遂げることとなった。 ゼノンにとってオドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、 2人の関係は当初は非常に良好であった。 しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、 西暦488年にゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。
テオドリックはイタリアへ侵攻してたびたびオドアケルを打ち破り、 西暦493年にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。 ゼノンは既に西暦491年に死亡していたが、 テオドリックは東方皇帝アナスタシウス1世より副帝およびイタリア道の軍司令官に任ぜられた。 また、西暦497年にはイタリア王を称することが許され、 ここに東ゴート王国が創設された。 ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、 オドアケルの時代と同様に、 その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、 民政は引き続き西ローマ政府によって運営され、 立法権はローマ皇帝が保持していた。
オドアケルとテオドリックの統治下において、 シチリア島の一部がヴァンダル族から帝国へと返還され、 アフリカからの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、 ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。 オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、 西方帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた。
テオドリックが西暦526年に没したとき、 もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。 西方では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、 東方では大幅にギリシャ化が進んでいた。 また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難いことであった。 ローマ市は西方正帝が廃止された後も名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、 西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾たびかの遠征をおこなった。 最大の成功は、 2人の将軍ベリサリウスとナルセスが西暦535年から西暦545年に行なった一連の遠征である。 ヴァンダル族に占領された、 カルタゴを中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。 遠征は最後にイタリアへ移り、 ローマを含むイタリア全土と、 イベリア半島南岸までを征服するに至った。 ユスティニアヌス1世はテオドシウス1世から約150年ぶりに、 西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。
しかし皮肉にも、 ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した。 ユスティニアヌスによる長年にわたる征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、 「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである。 西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、 その多くが失われることとなった。 もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、 ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。 帝国の人口減衰率は約50%と推定され、 プロコピオスは「いたるところで住人がいなくなった」と記し、 ローマ教皇ペラギウス1世は「誰一人としてその復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した。 一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、 ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう。 この惨状について、 6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は、 「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。 しかしながら東ローマ皇帝にとっては、 一時でもローマを支配しえたことは、 東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的なよりどころの一つになった。
ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、 その死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった。 さらにギリシャ語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、 2つの区域は再び競争関係に入った。 マウリキウスは次男ティベリオスを西暦597年に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが、 そのマウリキウスも西暦602年にフォカスの反乱によって殺されてしまう。 この後、サーサーン朝やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、 混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、 古代ローマ的な要素は失われていくこととなる。
東方領土でラテン語が死語になった後も、 西ローマ帝国の大部分の地域ではラテン語が何世紀にもわたって維持された。 いわゆるゲルマン語などからの影響は軍事に関する数語の借用語に限られていた。 時代が下ると、 ラテン語は8世紀頃から12世紀頃にかけて緩やかに変化し、 地方ごとの分化が明らかになっていった。 こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代のロマンス諸語で、 それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった。
識字率は大幅に低下したが、 公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。 西方でギリシャ語の地位が失われたために、 リングワ・フランカとしてのラテン語の地位は向上した。 ラテン文字は、J、K、W、Zが付け足され、文字数が増えた。 10世紀になるとヨーロッパにアラビア数字が伝えられ、 ローマ数字は、 たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいては依然として使われ続けたものの、 16世紀頃にはほとんどがアラビア数字に取って代わられた。 ラテン語は今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されており、 学名のほとんどがラテン語である。 ミサの挙行では西暦1970年まで古典ラテン語が使われていた。 また、ラテン語は英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、 ある程度の影響を及ぼしている。
西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。 カトリック教会は、 西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、 5世紀後半になると、 蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。 ゲルマン系の民族は、たいていアリウス派の信者だったが、 彼らも早晩カトリックに改宗し、 中世の中ごろ(9世紀 - 10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、 ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。 西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失って後も、 教会に援助された宣教師は北の最果てまで派遣され、 ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。
単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、 多くの権力者を魅了し続けた。 フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、 西暦800年にローマ皇帝として推戴されると、 教皇レオ3世によって戴冠された。 これが神聖ローマ帝国の由来であり、 それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった。 こうした理念から、 オットー3世は古代の皇帝たちに倣ってパラティーノの丘に造営した宮殿に住まい、 ローマ市を中心とした帝国を指向したし、 フリードリヒ1世やフリードリヒ2世も「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執した。
18世紀になると、 ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポスの廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、 この表現は現在でも慣用的に用いられている。 しかしながら、 西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、 学問分野より見直しが求められている。
西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない。 西方正帝の地位が廃止された後も、 正帝以外の各種公職や政府機関は健在であった。 少なくとも法律・制度・行政機構の面においては「西ローマ帝国の滅亡」といった断絶を見出すことはできない。 いわゆるゲルマン王国と呼ばれる領域においても、 実際に行政権を行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人の属州総督であったし、 住民もまた東西で共通のローマ市民権を所有しつづけていた。 彼らローマ人は西方正帝の廃止後も変わらずローマ法の適用を受け、 帝国の租税台帳によってローマ人の文官によって税が徴収されていた。
一方のゲルマン王らは名目上はローマ帝国によって雇用されている立場であり、 帝国から給金を受け取っていた。 オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、 ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである。 彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、 彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、 むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。 西欧において読み書きのできる人々は、 西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、 自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、 自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである。
20世紀以降の歴史学においては、 アンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット、 フランソワ・マサイ、 K.F.ヴェルナー、 ピーター・ブラウンといった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。 また、古代ローマにおける主権者が皇帝ではなくSPQR(元老院とローマ市民)であるとされていたことから、 SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。
テトラルキア(四帝統治)期(286年-313年)
まず正帝を記し、字下げして副帝および摂政を併記する。 マクシミアヌス: 286年-305年 コンスタンティウス・クロルス: 293年-305年 (副帝) カラウシウス: 286年-293年 (ブリタンニアの簒奪者) アレクトゥス(英語版): 293年-296年 (ブリタンニアの簒奪者) コンスタンティウス・クロルス: 305年-306年 フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス: 305年-306年 (副帝) フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス: 306年-307年 コンスタンティヌス1世: 306-313年 (副帝) マクセンティウス: 307年-312年 リキニウス: 308年-313年 ドミティウス・アレクサンデル: 308年-309年 (アフリカ人の簒奪者) コンスタンティヌス朝期(313年-363年) コンスタンティヌス1世: 313年-337年 (ローマ帝国全体の皇帝 324年-337年) クリスプス: 317年-326年 (副帝) コンスタンティヌス2世: 317年-337年 (副帝) コンスタンス1世: 333年-337年 (副帝) コンスタンティヌス2世: 337年-340年 (ガリア、ブリタニア、ヒスパニアの皇帝) コンスタンス1世: 337年-350年 (337年-340年はイタリア、パンノニア、北アフリカなどの皇帝。340年-350年はローマ帝国西方の皇帝 ) マグネンティウス: 350年-353年 (簒奪者) デケンティウス(英語版): 350年-353年 (副帝) コンスタンティウス2世: 353年-361年 (337年-353年はローマ帝国東方の皇帝。353年-361年はローマ帝国全体の皇帝) ユリアヌス: 355年-361年 (副帝) ユリアヌス: 361年-363年 クラウディウス・シルウァヌス: 355年 (フランク人の簒奪者) ヨウィアヌス: 363年-364年 ウァレンティニアヌス朝期(364年-392年) ウァレンティニアヌス1世: 364年-375年 グラティアヌス: 367年-383年 ウァレンティニアヌス2世: 375年-392年 マグヌス・マクシムス: 383年-388年 (383年は簒奪者、384年-388年はテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝) フラウィウス・ウィクトル(英語版): 384年-388年 (テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝) フィルムス: 372年-375年 (マウレタニア皇帝) エウゲニウス: 392年-394年 (東方帝は承認せず) テオドシウス朝期(393年-455年) ホノリウス: 393年-423年(409年-410年は元老院は否定) 実権は東帝である父テオドシウス1世と軍の実力者であったスティリコに握られていた(393年-408年) マルクス(英語版): 406年-407年(簒奪者) グラティアヌス(英語版): 407年(簒奪者) コンスタンティヌス3世: 407年-411年 (簒奪者、409年-411年はホノリウスの共同皇帝) コンスタンス2世: 407年-409年 (副帝) コンスタンス2世: 409年-411年 (簒奪者、コンスタンティヌス3世の共同皇帝) プリスクス・アッタルス: 409年-410年/414年-415年 (409年-410年は元老院の公認、ホノリウスは承認せず) マキシムス(英語版): 409年-411年/419年-421年 (簒奪者) ヨウィヌス(英語版): 411年-413年(簒奪者) セバスティアヌス(英語版): 412年-413年(簒奪者、ヨウィヌスの共同皇帝) ヘラクリアヌス(英語版): 412年-413年(簒奪者) コンスタンティウス3世: 421年 (ホノリウスの共同皇帝、東方帝は承認せず) ヨハンネス: 423年-425年 (西ローマ帝国による選出、東方帝は承認せず) ウァレンティニアヌス3世: 425年-455年 (東方帝が擁立) ガッラ・プラキディア: 423年-433年 (母后、摂政) フラウィウス・アエティウス: 433年-454年 (軍司令官) テオドシウス朝断絶後(455年-480年) ペトロニウス・マクシムス: 455年 (東方帝は承認せず) アウィトゥス: 455年-457年 (東方帝は承認せず) 西ゴート王であったテオドリック2世に擁立される。 マヨリアヌス: 457年-461年 (東方帝は承認せず)[56] リウィウス・セウェルス: 461年-465年 (東方帝は承認せず) アンティミウス: 465年-472年 オリブリオス: 472年 (東方帝は承認せず) グリケリウス: 473年-474年 (東方帝は承認せず) ユリウス・ネポス: 474年-480年 (亡命:475年-480年、制度上の最後の西ローマ帝国の皇帝) ロムルス・アウグストゥルス: 475年-476年(事実上の最後の西ローマ帝国の皇帝、東方帝は承認せず) 西方領土の実力者であったフラウィウス・オレステスの子で、彼によって擁立される。 476年、オレステスはオドアケル率いる蛮族の傭兵の叛乱軍によって殺害された。オドアケルはローマ西帝位を東帝ゼノンに返還、ゼノンの代理人という形式でイタリアの支配権を引き受けた。ただし、東帝ゼノンはあくまで正統な西帝はネポスであるとしていた。
初期の時代は、 内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、 キリスト教(正教会)を国教として定めていた。 また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、 ユスティニアヌス一世代には旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有し、 ローマ時代の「我らの海」こと地中海の再支配すら成し遂げている。 しかし、その没後には破綻した国家財政、征服と疫病で荒廃した国土だけが残され、 長大な国境線を維持できず、 ランゴバルド人、サーサーン朝ペルシャ、アヴァール人、スラヴ人、イスラム帝国により国土を侵食された。 これらの外圧に対抗するため軍事費、 特にテマへの俸給が国家支出の大部分を占め、 そのテマも費用削減のため農民兵士が主体であったため士気が高い代わりに自立化していき、 ビザンツはテマの連合国家と化した。
西欧に対する影響力は減衰の一途を辿った。 8世紀末には偶像崇拝に関する問題でローマ教皇と対立し、 800年のカールの戴冠で東ローマによる宗主権すらも否認された。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、 東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。 住民の多くがギリシャ系となり、 西暦620年には公用語もラテン語からギリシャ語に変わった。 これらの特徴から、 7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国」と評す者もいる。 「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、 この時代以降に対して用いられる場合が多い。
9世紀にはアッバース朝との戦争も落ち着いて、 ニケフォロス一世による徴税強化や商業活性化で回復させた財政を背景に、 テマ長官から皇帝に権力を取り返す試みが功を奏してくる。 高級官僚やテマの高官は貴族化していたが、 「皇帝の奴隷」と称されるように皇帝はそれを抑え込み、 バシレイオス2世に代表されるビザンツ専制君主となった。 11世紀前半にバシレイオス2世はブルガール人を打ち破り、 バルカン半島やアナトリア半島東部、 南イタリアを奪還し、 東地中海の大帝国として栄えた。
バシレイオス2世の死後、ビザンツ帝国は徐々に衰退していった。 バシレイオス2世の後継者問題に続く内乱期とそれにかこつけたプロノイアを保持する貴族の自立は、 国家財政を一気に破綻に追い込んだ。 ノルマン人によって南イタリアを、 セルジューク朝によって東部アナトリアを失った。
12世紀にはブルガリア、 セルビアなどバルカン半島のスラヴ人農民たちは、 プロノイアを保持していた貴族反乱らに迎合して独立していく。 さらに第4回十字軍がとどめを刺し、 東ローマ帝位はラテン帝国に奪われ、 ビザンツ帝国は一旦滅亡する。
第4回十字軍以後、 ラテン帝国も崩壊し、 ビザンツ亡命政権と十字軍国家とルーム・セルジューク朝で旧ビザンツ世界はバラバラとなった。 その後、モンゴル帝国の圧迫に乗じ、 亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し十字軍勢力を駆逐するが、 スラヴ国家の侵略と帝位請求の内乱に悩まされ続けた。 パライオロゴス朝ルネサンスなど文化的な興隆を見ながら、 領土は次々と縮小し、 隣国のオスマン帝国の保護下に落ちていった。 この頃のビザンツ帝国の自称はローマ人から移り変わり、 古代ギリシャ人の末裔としてヘレネスを名乗り出している。 そして西暦1453年、 西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、 オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、 東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシャ文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、 正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、 「ビザンティン文化」として高く評価されている。 また、近年はギリシャだけでなく、 イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、 建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、
4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。
(日本史では古墳時代から室町時代に相当する)
その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。 なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(西暦1057年)後を後期とする説がある。 ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。 本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、 単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史の合成であるのかについては、 連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている。
6世紀になると西暦330年5月11日が特別な記念日とされ、 「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。 9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった[注 30]。 自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、 例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出され[注 31]、 「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった[注 32]。 10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、 ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された。 他にも帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、 「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、 古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。 ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシャに求めるようになり、 住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシャ人)」へと変化していった。 このように、この帝国では全てが流動的であった。 こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、 帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる[誰?]。
西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。 政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた。 法的にはローマ法を受け継ぎ、 「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」、 「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシャ語版『バシリカ法典』として再編されて、 ずっと国家の基本法であり続け」、 「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」、 「自分たちはギリシャ古典、 ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」。 一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。 西ヨーロッパではローマ帝国はロームルスのローマ建設神話から王政・共和政と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、 一方の東ローマ帝国においてはカエサル以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった[注 33]。 東ローマ帝国におけるローマ帝国とは旧約聖書の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので、 それはバビロニア帝国・ペルシャ帝国・アレクサンドロス帝国から受け継いだ「文明世界を支配する帝国」「キリストによる最後の審判まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。 ビザンツ人にとってみれば、 カエサル以前のローマ帝国よりはペルシャ帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである。 自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、 世界創造紀元の使用にも現れている。
ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である。 「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、 ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった。 ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、 皇帝に奉仕するものとなった。 古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、 今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。 それは古代ローマとは反対の制度だった。
ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。 「「軍人皇帝時代」もちろん、 西暦330年のコンスタンティノープル遷都以降も、 皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、 「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」。 一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、 「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、 中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」。 就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている[注 34]。 そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、 その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、 総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった[注 35]。 7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、 並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。[注 36] 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。 ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、 「自らの地位を諸法に超越するものとし」[注 37]、 「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、 自発的に諸法に従うことになった」。 ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、 元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス(英語版))を要求した[注 38]。 かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している。 ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、 ビザンティン専制国家への道が開かれた。 古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、 その母斑をついに消し去ったのである。 血塗られた彼の帝衣は、 まさに古代ローマ皇帝の死装束であった。
7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。 「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。 古代ローマや中世西欧では、 ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、 軍司令官としての性質が強調された。 一方の東ローマ帝国では、 7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった。 ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、 このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、 皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる。
東ローマ帝国は、 古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ[注 39] 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ、 政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、 完成された官僚制度によって統治が行われていた。 課税のための台帳が作られるなど、 首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
しかし、皇帝の地位自体は不安定[注 40]で、 たびたびクーデターが起きた。 それは時として国政の混乱を招いたが、 一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような[注 41]、 活力ある社会を産むことになった。 このような社会の流動性は、 11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、 アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、 皇帝の権限も相対的に低下していった。
このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、 宦官の役割が非常に大きく、 コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。 また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、 知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
東ローマ帝国の住民の中心はギリシャ人であり、 7世紀以降はギリシャ語が公用語であった。 しかし東ローマ帝国の住民をギリシャ人によって代表することは一面的な物の見方に過ぎない。 東ローマ帝国は初めにはアルメニア人・シリア人・コプト人・ユダヤ人のような多数の非ギリシャ人を内包する多民族国家だった。 公用語はギリシャ語だったが日常会話にはスキタイ語・ペルシャ語・ラテン語・アラン語(ロシア語版)・アラビア語・ロシア語・ヘブライ語なども存在した。 それが12世紀までに領土が限定されるにつれてギリシャ語を話す人々が数的に優勢になっていったにすぎないのである。 7世紀のバルカン半島においては、その割合は不明だが、 ギリシャ人は国民全体の一部に過ぎずマイノリティであったとする研究者もいる[注 42]。む しろ東ローマ帝国の軍事・行政・教会機構の中で特に大きな役割を演じていたのは6世紀以前にはゴート人であり、 7世紀から11世紀にかけてはアルメニア人であり、 12世紀以降においてはフランク人だった。 帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人らもいた。 中でもアルメニア人とのハーフ、 もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、 さらには皇帝になった者までいる[注 43]。 7世紀のヘラクレイオス王朝や、 9世紀~11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である[注 44]。
帝国内の自由民は、 カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、 言語・血統にかかわらず、 自らを「ローマ人」と称していた。 東方正教を信仰し、 コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。 とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、 市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた[注 45]。
一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、 10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、 帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。
詳細は「ビザンティン文化」を参照
「ビザンティン美術」、「ビザンティン建築」、 および「ビザンティン聖歌」も参照
東ローマ帝国は、 古代ギリシャ・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。
国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、 後世にも影響を与えている。 また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラス(英語版)によると、 伝統的なギリシャ神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており、 15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。
詳細は「正教会」を参照
帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、 今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
「テオドシウス法典」および「ローマ法大全」も参照
帝国の法制度の多くは古代ローマ帝国より引き継いだものだったが、 古代ローマの法律は極めて複雑なものであり全く整理されていなかった。 5世紀の皇帝テオドシウス2世は、 西暦438年にローマ法史上では初となる官撰勅法集『テオドシウス法典』を発布し、 この問題を解決しようとした。 この法典は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、 理念上はローマ帝国が東西一体であることを強調するものであったが、 結果としてローマ法は『テオドシウス法典』を最後にして帝国の東と西とで異なる発展を遂げることになった。
6世紀半ばにはユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)』、 『学説彙纂』、『法学提要』が編纂された。 これら法典は後に西欧へも伝わり『ローマ法大全』と名付けられることになる[注 46]。 ユスティニアヌス1世が編纂させた法典は、 その後も幾多の改訂を経ながらも帝国の基本法典として用いられた。 特に重要な改訂は、 8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、 9世紀後半のバシレイオス1世による『法学提要』のギリシャ語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、 『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、 そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『勅法彙纂』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典(英語版)』(帝国法)編纂である[105]。
またユスティニアヌス1世の時代は、 法と皇帝との関係が専制的なものへと大きく変化した時期でもあった。 例えばユスティニアヌス1世の以前には、 皇帝アルカディウスによって、 皇帝へ問い合わせた際の皇帝の回答は「判例」としては利用できないと宣言されていた。 これは権力者が自らの裁判に都合が良いように法を変えてしまうことを防ぐ目的であったのだが、 ユスティニアヌス1世の時代には「皇帝が好むところが法である」とされ、 皇帝の回答は「判例」となった。 ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し、 自らの地位を「諸法に超越するもの」であると宣言した。 これによって皇帝は、ヘレニズム的な「生ける法」となったのである。
東ローマでは、 西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。 帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、 後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した[注 47]。 特に首都コンスタンティノポリスでは、 国内の産業は一部を除き、 業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、 国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、 貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、 コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。
だが12世紀以降、 北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、 海軍力提供への見返りとして行ったヴェネツィア共和国などの北イタリア諸都市国家への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、 衰退の一途をたどった。
主要産業の農業は古代ギリシャ・ローマ以来の地中海農法が行われ、 あまり技術の進歩がなかった。 それでも、 古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、 12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、 東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった。 しかしながら、 ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
初期の東ローマ帝国は、 2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国の軍事制度を継承した。 軍隊は、 リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。 リミタネイは辺境属州を担任するドゥクス(軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。 コミタテンセスははるかに広い地域を担当するマギステル・ミリトゥム(方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、 帝国軍の主力として戦地に出撃した。 野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、 給与等は優先されていた。
歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、 騎兵の重要性が拡大していた。 例えば西暦478年には、 東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、 西暦357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦において10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。
騎兵部隊は細分化され、 ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。 騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。 弓を装備していた者もいたが、 散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。
野戦部隊には「カタフラクタリイ」や「クリバナリイ」等の重装騎兵も編成されていた。 弓騎兵(エクイテス・サジタリイ)も含む軽騎兵(スクタリイ、プロモティ)は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。 「コミタテンセス」の歩兵はレギオン、 アウクシリア、 ヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。 これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、 軽歩兵隊の援護を受けていた。
ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシャ帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。 レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、 代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。 タグマは300から400人で編成され、 2つ以上のタグマでモイラ、 2つ以上のモイラでメロスが編成された。
ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、 帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。 小アジアに退却した野戦部隊は、 残存領土に分かれて駐屯し、 テマ(軍団)となった。 テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、 拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。 かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、 この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、 中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。 敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった。 テマの兵士は平時は農民で、 諸税を免除される代わりに武器を自弁した。
8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、 テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、 地方制度としてのテマ制が作られた。 テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、 軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。
また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、 地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。 外国人傭兵を部隊に編成したタグマ、 地方国境に駐屯したタグマも作られた。
10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。 その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、 有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた。 有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、 貴族化して帝国の軍隊を私物化し、 反乱を頻発させた。
西暦1081年に有力貴族から出て即位したアレクシオス1世は、 有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。 貴族の私兵だけでなく、 皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、 外国人傭兵も依然として大きな比重を保った。
年 | 773 | 809 | 840 | 899 |
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テマ軍合計 | 62,000 | 68,000 | 96,000 | 96,000 |
タグマ合計 | 18,000 | 22,000 | 24,000 | 28,000 |
合計 | 80,000 | 91,000 | 120,000 | 124,000 |
ウィキペディア内での表記については「プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記」を参照
日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、 同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。 主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、 実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、 中世ギリシャ語形を用いている例も見られる。 もっとも中世ギリシャ語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、 一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、 論争中である。
このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。 現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、 個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、 注意が必要である。