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イスラーム

作成日:2024/9/6

年表 98

西暦570年
西暦595年(「ムハンマドが25歳の頃」の記述から、西暦595年と推測した)
  •  この年  : 25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、 15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。
西暦610年
  •  この年  :いつものようにメッカ郊外のヒラー山の洞窟の中で瞑想していたムハンマドは、天使ガブリエルから神の啓示を受けた。
西暦613年
西暦619年
  • この頃、ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけた伯父アブー・ターリブが亡くなった。
  • この頃、妻ハディージャが亡くなった。
西暦622年
西暦624年
西暦625年
西暦627年
西暦629年
  • 12月   :ムハンマドは10,000人のイスラーム教徒の改宗者からなる軍隊を集め、 メッカの街へ進撃し占領した。
西暦630年
  • ムハンマドらは、アラビアを統一した。
西暦632年
西暦661年
  • ウマイヤ朝成立。
西暦747年
西暦749年
  • 8月。 ムハンマドのあとを継いでアッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドはウマイヤ朝に捕えられ、 ハッラーンで処刑された。
    アッバース一族が、 密かにウマイヤ朝への反乱運動を指導しつつ、 フマイマ村に潜んでいることは、 ウマイヤ朝側の察知するところとなり、
    アッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドはウマイヤ朝に処刑された。

    イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバースら14人は脱出に成功し、クーファに潜入した。
  • 9月。 ホラーサーン軍(反ウマイヤ朝軍)は、 イラク中部都市クーファ降した。
  • 西暦749年10月30日/西暦749年11月28日。 ホラーサーン軍によってアブー・アル=アッバース(サッファーフ)がカリフとして推戴された。 アブー=アル=アッバース(サッファーフ)は初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
西暦750年
  • 1月。 ウマイヤ朝のマルワーン2世はイラク北部の大ザーブ河畔でホラーサーン軍に抵抗するが(ザーブ河畔の戦い)、 西暦750年1月に大敗し、エジプトで殺害され、 アッバース朝が建国された。
    ウマイヤ朝の都ダマスカス西暦750年4月に陥落し、 ウマイヤ朝の王族のほとんどが殺害された。
    このとき辛うじて逃亡に成功したアブド・アッラフマーンはイベリア半島に奔り、 この地に後ウマイヤ朝を建てることになる。
  • アッバース革命
西暦751年
西暦756年
  • 後ウマイヤ朝が建国。
8世紀 - 10世紀
  • 分裂
西暦945年
  • ブワイフ朝がバグダード入城したことで実質的な権力を失った。
    西暦946年説もある。
    その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。

西暦1055年
  • セルジューク朝は、ブワイフ朝を滅ぼしバグダード入城。
    アッバース朝はセルジューク朝の庇護下に入る。

西暦1258年
  • モンゴル帝国により滅亡。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護される。
西暦1261年
  • マムルーク朝の保護
西暦1517年
  • オスマン帝国により断絶
西暦570年
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

イスラーム教 314

イスラーム教は、 7世紀の初め中東メッカで、 ムハンマドが創始した宗教(一神教)である。 強大な宗教国家を建設し、 世界宗教に発展した。 「神(アッラー)は唯一にして、 ムハンマドはその使徒である」ということを信じ、 ムハンマドのことばである『クルアーン』を神の言葉と認める。 漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。

以前は「イスラム」と表記されたが、 最近はなるべく原発音に近い表記にしようというので「イスラーム」と表記されることが多くなった。 「イスラーム」とは、 その言葉だけで神への絶対的な帰依、 服従を意味するので、 「教」をつける必要はないが、 一般にその宗教体系を「イスラーム教(イスラム教)」と言っている。

ユダヤ教やキリスト教と同じセム語系一神教で、 ムスリムと呼ばれるイスラーム教を進行する人たちは、 偶像崇拝を徹底的に排除し、 神への奉仕を重んじるとともに、 全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、 信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。

一般には法律と見做される領域まで教義で定義している。 信者の内心が問われない、正しい行いをしているか、 天国に行けるかは神が決めることで、 死ぬまでは(国家がイスラム教について規定する場合はともかくとして、少なくとも本質的には)人間の間で問題にされないなどの点で、 仏教やキリスト教とは大きく異なる。

イスラーム教の歴史 353

イスラーム教の成立 359

西暦610年頃に、 ムハンマドはメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、 アラビア半島でイスラーム教を始めた。 当時、メッカは人口一万人ほどの街で、 そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、 他の人々は彼の宗教を冷笑したが、 妻のハディージャや親友のアブー・バクル、 甥のアリー、 遠縁のウスマーン達は彼を支えた。

しかし、 メッカでの信者達は主にムハンマドの親族か下層民に限られており、 西暦619年に妻と、 イスラム教徒にはならなかったが強力な擁護者であった叔父が他界すると、 彼はメッカの中で後ろ盾を失い、批判は迫害へと変わった。 そのため彼は西暦622年、 成年男子七十名、 他に女子供数十名をヤスリブ(メディナ)に先に移住させ、 自身も夜陰に紛れメッカを脱出し、拠点を移した。 これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後、彼らはメッカと対立した。

ヤスリブ(メディナ)では、 ムハンマドはウンマと呼ばれる共同体を作った。 これは従来のアラビアの部族共同体とは性格を異にする宗教的繋がりであったが、 同時に政治・商業的性格をも持っていた。 しかし、全てが順調に進んだわけではなく、 やがて現地のユダヤ人と対立し、 それは後には戦闘を含む規模にまで激化し、 そのためムハンマドは教義を一部変更し、 当初はユダヤ教の習慣に倣って、 イスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、 対立たけなわの頃からメッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えたりした。 現在でも、世界中のイスラム教徒がメッカへの方角に拝礼するのは、 この時に始まる。 また、ハディージャの死後、やもめとなっていたムハンマドは、 マディーナでアーイシャという後妻を娶るが、 彼女はまだ9歳の少女であった。 以後、彼は8人の妻を娶る。 アイーシャ以外の妻はハディージャも含めて全て未亡人であった。

また、ある時、 ムハンマドはメッカの千頭ものラクダを連れた大規模な隊商を発見し、 上述の70人とメディナで得た200人ほどの支援者と共にこれを襲おうとしたが、 メッカ側も危機を察し、 950名を派遣して、 バドルで激突した(うちメッカ側300人は途中で引き返す)。 西暦624年9月のことであり、 ムハンマド側が勝利すると、これを記念して、 以後、イスラム教徒はこの月になると、毎年断食をするようになった。 (後にヒジュラ暦が制定されると、この月はラマダーン月となった。今ではこの断食のことを、よくラマダーンと呼ぶ。)

この後もメッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、 ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、 西暦630年ついにメッカを占領し、 カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。 なお、メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたが、 このムハンマドを巡る抗争で弱り切ったメッカを背後から襲おうと、 南ヒジャーズ地方の人々一万人が武装して、 メッカ近郊に待機していた。 ムハンマドはメッカを手に入れると、 直後にこれらを襲撃、大破したが、 アラビア半島で万単位の軍が激突することは、 数百年来なかった大事件であった。 このため、ムハンマドの声望は瞬く間にアラビア中に広まり、 以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった。 こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した。 (ちょうど、東ローマ軍の侵攻で、近隣のサーサーン朝ペルシアが衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた。)

正統カリフ時代 434

イスラーム教の創始者であるムハンマドは、 西暦632年6月8日にマディーナで死去(病死)するが、 そのあと西暦661年ウマイヤ朝成立までイスラム共同体(ウンマ)を4人のカリフが率いた。 スンナ派ではこの30年間を「正統カリフ時代」と呼ぶ。

この4人のカリフは、初代がアブー・バクル、第2代はウマル、第3代はウスマーン、そして第4代はアリーである。 この内アブー・バクルを除く3人の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている

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西暦632年にムハンマドはマディーナで死ぬが、 マディーナの民は紆余曲折の末、 イスラム教の後継者にアブー・バクルを選び、 その地位をカリフと定めて、従った。 しかし、アラビア中でそれを認めない指導者は続出し、 中には自ら預言者と主張する者も現れ、 まとまってマディーナを襲う準備を始めた。 アブー・バクルたちから見ればとんでもない動きであり、 以後征討戦が繰り広げられ、 アブー・バクル側が勝利すると、 カリフ制度はイスラム教の政治的中核として定まった。 こうしたムハンマド死後の一連の後継者紛争を、 イスラム側の史書では、 リッダの戦い、と呼ぶ。

イスラム教はこのようにして発足したが、 結集した軍隊を解散してしまえば、 軍隊を構成していた群衆は元の民に戻ってしまうため、 イスラム教を存続させられるかさえ分からない有様であった。 しかし、軍に給与を払うほどの財源はマディーナにはなく、 そのため、軍隊を維持するには、敵とそこからの略奪品を求めて、 常に戦い続けるしかなかったのである。 こうして、常に新たな敵を求めて、以降も、 イスラム教徒による征服戦争は続けられた。

まずは、 近隣の東ローマ領となっていたシリアに侵攻したが(西暦633年)、 当時東ローマとサーサーン朝ペルシアは上述の大戦争のため、 共に疲弊しており、さらには、 シリア住民は単性論者が多く、 これはキリスト教では異端であり、迫害の対象であった。 一方、やってきたイスラム教徒は住民に歓迎され、 東ローマ軍は多少の抵抗をしたものの、 十年もしないうちに降伏し、 こうしてイスラム教徒はシリアとエジプトの肥沃な領土を手に入れた。

ほぼ同時期に、 サーサン朝に対しても事を起こす。 この帝国は当時、戦争による疲弊に加えて、 皇帝不在がその直前まで続いており、 極度の混乱状態にあった。 そのため、 イスラム教のアラビア人による略奪と征服は、 自然発生的に行われていたが、 その略奪隊を組織するため、 ハリードがイラクに派遣された。 彼は複数の街を征服した後、 シリア戦線に去ってしまい、 残されたイスラム軍は統制を欠き、進軍は停滞し、 各所で敗戦を重ね、サーサン朝が勝利するかに見えた。

しかし、 アブー・バクルの後で2代目カリフとなったウマルは、 新たに将軍を任命し、態勢を立て直し、 西暦636年、 カーディシーヤで重装の騎兵や象兵を含むペルシア軍を撃破し、 西暦642年にはニハーヴァンドでペルシア皇帝自らが率いる親征軍を大破して、 皇帝は数年後に部下に殺されて、 こうしてペルシア地域も、 イスラム教徒に下ったのであった。 一方、こうした遠征と同時並行的に、 イスラム軍は、海からも遠征を開始した。 西暦637年、 小艦隊ではあったが、 イスラム軍はアラビア半島東部のオマーンを出港して、 インドのボンベイ付近を略奪し、 その後も、インド洋方面への攻撃を繰り返した。

こうして、イスラム教はその軍事活動をもって教勢を中東中に広げ、 周辺地域への遠征活動はその後も続き、 短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。

スンナ派とシーア派の分離 527

しかし、拡大とともに内紛も生じ、 2代カリフ・ウマルの暗殺後、ウスマーンが後を継ぐが、 イスラム教徒内でわだかまっていたウマイヤ家(クライシュ族の中の有力部族)への反発から、 やがて彼も殺され、ムハンマドの従弟のアリーが4代目カリフとなる。 が、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィアは反発し、 両者の間で戦闘を交えた対立が起きてしまう。 結果的に、 アリー(西暦661年)とその息子フセインは殺害され(西暦680年)、 ムアーウィアがカリフとなり、以後は選挙によらず、 ウマイヤ家の家長がカリフ位を世襲するようになった。 イスラーム勢力はこれを機に、 ウマイヤ朝という明白な世襲制王朝へと変貌することになり、 その体制の違いから、 アリーまでの四代を正統カリフとして、 以後のカリフと区別する見方が一般的である。

また、こうした四人の正統カリフのうち、 三人までもが暗殺で亡くなっているのも特徴的である。 こうして脱落したアリーの支持勢力を中心に、 4代以降の座を巡って、 ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張する急進派のシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、 それ以外の体制派のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、 イスラーム共同体は大きく分裂した。 また、ウマイヤ朝下では、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、 勢力を狭めた。

ウマイヤ朝の成立 560

ムアーウィアは、現実感覚に富み、 柔軟な手練手管でイスラム帝国を統治した。 彼の体制が大きく変わるまでの約100年弱の期間を称して、 一般にウマイヤ朝と呼ぶ。 彼はウマイヤ家の封土であったシリア優先政策を採り、 首都もダマスカスに移したが、 他方では、懐柔政策で地方の反乱を未然に防ぎ、 息子ヤジードのカリフ位世襲に腐心した。 当時の史料には、 メッカ・マディーナの有力者に賄賂を与え、 反対者を孤立させたうえで、 自ら千騎を率いて、 マディーナに乗り込み、 残った者達を黙らせる様子が描写される。

西暦680年に彼が死ぬと、 息子のヤジードが即位するが、 前例のないカリフ位世襲に反対し、 前々代カリフ、 アリーの子、 フセインが朋輩達に唆されて、 反乱を企図する。 彼らの反乱は、順次、ウマイヤ朝軍に撃破されるが、 その過程で、 メッカのカーバ神殿は焼かれ(西暦681年)、 マディーナは大規模に略奪され(西暦683年)、 翌年には、千人の父なし子が生まれた。 イスラム史家は、 これを直前のハルラの戦いからとってハルラの子と呼ぶ。 シーア派は、 フセインの死を悼み、毎年、10月(ムハルラム)の最初の10日間には祭典を行い、 彼の一行の殺された地、 カルバラはマシュハド・フセインとして聖地のひとつとする。

一方のウマイヤ朝も、 ヤジードが死ぬとその子ムアーウィア2世がカリフ位を継ぐが、 病弱で在位3か月にして世を去り、 反乱は多発。 宿将マルワーンはこれらを平定し、 西暦684年にカリフ位に即位するも、 後継問題のこじれから在位1年にして妻の一人に暗殺される。 こうした中、 新たにカリフに即位したアブドゥル・マリクは、 文武に長けた名君と讃えられ、 再び反乱を起こしたメッカを落として、 ようやくウマイヤ朝は小康状態を取り戻した。 彼と、その子ワリードの代に、 イスラム教徒による遠征は再開され、 ギリシャでは東ローマ帝国に攻め入り、 コンスタンティノープルを包囲。

西暦708年には、 北アフリカ一帯を征服し、 西暦711年にはイベリア半島に上陸して、 現地のキリスト教国(西ゴート王国)を滅ぼして、 ピレネー山脈を越えて、フランスに侵入した。 フランスへの進撃は、 西暦732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れるまで続いたが、 その後、キリスト教徒による抵抗が強くなり、 8世紀中盤には、 フランスを放棄して、 ヨーロッパではイベリア半島のみを保持するようになる。 一方、東部でも同時期(西暦705年)に遠征を再開し、 名将クタイバは、サマルカンド占領を嚆矢に、 中央アジア、トルキスタン一帯を制圧し、 西暦751年にはタラス河畔で唐と激突し、これを撃破した。

しかし、その後彼は罷免され、 それを不満に反乱を起こすが、 自分の部下により殺害され、 こうしてイスラム帝国の領土拡張は終息した。 また、こうした時期、アブドゥル・マリクは、 キリスト教徒を激しく嫌い、厳しく弾圧したが、 何名かのカリフは懐柔策を行い、 キリスト教徒を下層民として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を課すことで満足した。 改宗は奨励され、重税の減免と社会的地位向上を求めて、 ムスリムに改宗する者も少なくなかったが、 一方で、このシステムにはジレンマがあり、 異教徒が減ることは税収の減少を意味し、 ウマル2世の代には改宗者(マワーリー)に地租を課すようになり、 それはしばしば大きな反乱を誘発した。 エジプトでは8世紀にはまだ大多数がキリスト教徒であり、 これらがイスラム教徒に改宗するまで、 なお500年の年月を必要とした。

アッバース朝以後

ウマイヤ朝では、ワリードが死ぬと、子のウマル2世が継いだが、 彼の治世は文治政策で後世の史家の評判は良い。 その後は、短命だったり暗愚なカリフが相次ぎ、 ウマイヤ朝が元来、 その構造に抱えた問題(シリア優先主義、アラブ人と改宗者(マワーリー)の不平等)のために、 相変わらずに反乱は頻発した。 最後の君主、マルワーン2世は、 首都をユーフラテス川上流のハルラーンに移し、 反乱の大部分を鎮定し、 再発防止にシリア諸都市の城壁の撤去を行った。

こうして、 ウマイヤ朝は自らの手で本拠地シリアに破壊の手を加えてしまい、 直後に起きたアッバース家の反乱にあえなく敗れ去った。 政権の移行は大きな体制の変化を伴ったため、 これをアッバース革命という。

前代のウマイヤ朝がシリア重視主義だったのに対して、 アッバース朝では、傾向としてイランが重視され、 アラブムスリムと非アラブムスリムの間の租税・待遇が平等化された。 政権発足当初の百年間は、政治・経済はもちろん、 文化面でも繁栄し、官僚体制やインフラが整備された。 (対して、ウマイヤ朝は、部族制の延長的なところがあった。)

一方で、前嶋信次は、
しかし、ウマイヤ朝は、白衣・白旗に烈日がてりりはえて、 どこか陽気で野放図なところがあったのに、 アッバース朝の方は黒旗、黒衣で、なにか重苦しく、 暗い影が付きまとう感じを与えるが、なぜであろう。

とこの時代の評価に一石を投じる。 政権交代にあたって、ウマイヤ家の者達は、徹底的に捜索され、 捕縛、虐殺された。 また、整備された官僚制と徹底したカリフの神聖視の結果、 人とカリフの間を文武百官の層が隔てるようになり、 人民とカリフの距離は、いよいよ遠くなった。

前嶋は、
ウマイヤ朝のカリフたちは人間くさいというか、俗っぽいというか、古代アラビアの気風が濃厚であったが、アッバース朝の帝王たちは、だんだん神がかった存在になって、一般民とは隔絶された半神半人のごときものと思われるにいたった

と評価する。 アッバース朝のカリフは初代は、アッラーが現世に示した影、と言われ、 二代目からは、「アッラーによって導かれたもの」 「アッラーによって助けられたもの」 といういかめしい称号を帯びるようになった。

こうした中、領土の拡張の停止に伴い、イスラム教の伝搬も下り坂になるが、 他方、イスラム商人の交易を通して、その後の数世紀間に、 東南アジア、アフリカ、中国などにイスラム教がもたらされ、 一部をイスラム教国、もしくは回族地域とすることに成功した。

しかし、同時にアッバース朝の時代には、 イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、 北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、 ともにカリフを称し、 カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。

近現代

近代に入ると、 イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、 現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。 現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、 イスラーム復興(英語版)と総称される潮流へと発展しており、 多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。 リベラル思想やアラブ社会主義等による世俗主義路線の軌道修正も試みられたが冷戦終結以降衰退が著しい。 従来世俗主義の代表格であったトルコでは、 軍部や財閥と結託した世俗派への反感から21世紀になるとイスラム主義に急旋回している。

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ 703

ムハンマド
生年  西暦570年
      於:メッカ
没年  西暦632年6月8日
      於:メディナ
墓地  預言者のモスク
民族  アラブ人
部族  クライシュ族
実績  イスラーム教の開宗
後任者 アブー・バクル
      アリ―
父親  アブドゥッラーフ、アーミナ
 
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ / ムハンマド

ムハンマドは、 アラブの宗教的、社会的、政治的指導者であり、 イスラーム教預言者である。

イスラム教の教義によると、彼は預言者であり、 アダム、アブラハム、モーセ、イエス、その他の預言者の「一神教(タウヒード)」の教えを説き、 確認するために遣わされた。

なお、ムハンマドの表記には、モハメッドモハンマドメフメトモハマッドモハマドモハメドなど数多くある。

概要

ムハンマドはイスラーム教のすべての主要な宗派において神の最終預言者と考えられていたが、 現代の一部の宗派ではこの信念から外れているものもある。 ムハンマドはアラビアを一つのイスラーム教国家に統一し、 コーランと彼の教えと実践がイスラーム教の信仰の基礎となっている。

西暦570年(象の年)頃にアラビアの都市メッカで生まれたムハンマドは、 6歳の時に孤児となった。 父方の祖父アブド・アル・ムッタリブの世話の下で育てられ、 彼の死後は叔父のアブー=ターリブに育てられた。 後年、彼は定期的にヒラという名の山の洞窟に身を潜め、 数日間の祈りの夜を過ごした。 彼が40歳の時、ムハンマドは洞窟の中でガブリエルの訪問を受け、 神からの最初の啓示を受けたと報告していた。

西暦613年、 ムハンマドはこれらの啓示を公に説き始め、 「神は一つである」こと、 神への完全な「服従」(イスラーム)が正しい生き方(ディーン)であること、 そしてムハンマドはイスラーム教の他の預言者と同様に、 神の預言者であり、神の使者であることを宣言した。

ムハンマドの信者は当初は数が少なく、 メッカの多神教徒からの敵意にさらされていた。 ムハンマドは西暦615年に信奉者の一部をアビシニアに送り、 訴追から身を守るために、 西暦622年メッカからメディナ(当時はヤトリブと呼ばれていた)に移住した。 この、ヒジュラの年はイスラム暦の始まりであり、 ヒジュラ暦としても知られている。 メディナでは、 ムハンマドはメディナ憲法の下で部族を統一した。

西暦629年12月、 メッカの部族との8年間の断続的な戦いの後、 ムハンマドは10,000人のイスラーム教徒の改宗者からなる軍隊を集め、 メッカの街へ進撃した。 この征服ではほとんど争いは起きず、 ムハンマドはほとんど流血することなく街を占領した。

西暦632年、別離の巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れて死んだ。 彼が亡くなった時には、アラビア半島のほとんどがイスラーム教に改宗していた。

ムハンマドが死ぬまでに受けたとされる啓示(それぞれの啓示はアヤ(文字通り「神のしるし」)として知られている)は、 イスラーム教にとってはこの宗教の基礎となる「神の言葉」としてクルアーンの一節を構成している。 クルアーンの他にも、 ハディースやシラ(伝記)に記されているムハンマドの教えや実践(スンナ)もまた、 イスラム法(シャリアを参照)の源として支持され、使用されていた。

生涯

啓示

ムハンマドは、アラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、 クライシュ族のハーシム家に生まれた。 父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、 母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、 ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護によって成長した。

成長後は、一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加した。 25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、 15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。 ハディージャは、ムハンマド最愛の妻として知られる。 ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、 男子は2人とも成人せずに夭折した。

西暦610年8月10日、 40歳ごろのある日、 悩みを抱いてメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、 そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、 唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。 その後も啓示は次々と下されたと彼は主張し、 預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、 近親の者たちに彼に下ったと彼が主張する啓示の教え、 すなわちイスラーム教を説き始めた。 最初に入信したのは妻のハディージャで、 従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いた。

西暦613年頃から、 ムハンマドは公然とメッカの人々に教えを説き始めるが、 アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったメッカを支配する有力市民たちは、 ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに激しい迫害を加えた。 伯父アブー・ターリブは、 ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、 西暦619年頃亡くなり、 同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、 ムハンマドはメッカでの布教に限界を感じるようになった。

聖遷

西暦622年ムハンマドは、 ヤスリブ(のちのメディナ)の住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。 これをきっかけに、メッカで迫害されていたムスリムは、 次々にヤスリブに移住した。 メッカの有力者達は、ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、 刺客を放って暗殺を試みた。 これを察知したムハンマドは、甥のアリーの協力を得て、 新月の夜にアブー・バクルと共にメッカを脱出した。 メッカは追っ手を差し向けたが、 ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事に辿り着いた。 この事件をヒジュラといい、この年はのちにヒジュラ暦元年と定められた。 また、ヤスリブの名をマディーナ・アン=ナビー(預言者の町、 略称メディナ)と改めた。

メディナでは、 メッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合し、 ムハンマドを長とするイスラム共同体ウンマ)を結成した。

敵対者との戦争

バドルの戦い
ムハンマド率いるイスラム共同体は、 周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、 ムハンマドに敵対するメッカの隊商交易を妨害したりしながら、 急速に勢力を拡大した。 こうして両者の間で睨み合いが続いたが、 ある時、メディナ側はメッカの大規模な隊商を発見し、 これを襲撃しようとした。 しかし、それは事前にメッカ側に察知され、 それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、 バドルの泉の近くで両者は激突、メディナ側が勝利した。 これをバドルの戦いと呼び、 以後イスラーム教徒はこれを記念し、 この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。
ウフドの戦い
翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したメッカは、 報復戦として大軍で再びメディナ侵攻した。 メディナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、 メッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、 ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。 これ以後、ムハンマドは、組織固めを強化し、 メッカと通じていたユダヤ人らを追放した。
ハンダクの戦い(塹壕の戦い)
西暦627年メッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。 このときムハンマドは、 ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人でありペルシャ人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、 メディナの周囲に塹壕を掘らせた。 それにより、敵軍の侵攻を妨害させ、 また敵軍を分断し撤退させることに成功した。 アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、 この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。 メッカ軍を撃退したイスラム軍は、武装を解かず、 そのままメッカと通じてメディナイスラム共同体と敵対していたメディナ東南部のユダヤ教徒、 クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。
ハイバル遠征
西暦628年、 ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってメッカと停戦した。 この和議は当時の勢力差を反映してメディナ側に不利なものであったが、 ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。 この和議の後、先年メディナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、 再度の討伐によってこれを降伏させた。 これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、 ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、 収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。

これに伴い、ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、 このハイバル遠征がその後のイスラム共同体における土地政策の嚆矢、 征服地における戦後処理の一基準となった言われている。 しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、 ウマルの時代に彼らが追放された後ムスリムによる土地の分配過程については、 様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。 この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。 自信を深めたムハンマドは、 ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、 イスラーム教への改宗を勧め、 積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。

西暦630年に、 メッカメディナで小競り合いがあり停戦は破れたため、 ムハンマドは1万の大軍を率いてメッカ侵攻した。 予想以上の勢力となっていたムスリム軍に、メッカは戦わずして降伏した。 ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、 ほぼ全員が許された。 しかし、数名の多神教徒は処刑された。 カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
バドルの戦い

バドルの戦い(西暦624年3月17日)は、 イスラム創成期におけるクライシュ族率いるメッカと、 メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナ側の間の戦いの転機となった戦い。 圧倒的に不利とされたムハンマドが戦いに勝利し、 ムハンマドは危機を乗り越えたことでメディナ内での権威を確立した。
背景
西暦622年7月16日のヒジュラ以降、 当時メディナで対立していたユダヤ人とアラブ人の和平を謳った、 イスラーム共同体初の憲法と呼べるメディナ憲章の締結により、 ウンマを組織したムハンマドは、 西暦624年にアブー・スフィヤーンの大商隊がシリアから到着するとの情報を得て、 これを襲撃するためメディナを出て、 紅海に面するバドルの地で商隊を待ち受けた。

また、 メッカの隊商を襲撃することは、 ムハンマドを追放したメッカへの復讐でもあったが、 その物資を得て経済基盤を広げることはジハード(努力目標)でもあったとされる。

これに対してアブー・スフィヤーンから要請を受けてメッカからアブー・ジャフルが指揮する軍隊が派遣されたが、 隊商が無事バドルを迂回してメッカに向かったことを聞くとズブラ族の兵は目的が達せられたためメッカに引き返し、 残るクライシュ族の600名の重装兵を含む約1,000名のみがムハンマド討伐のためバドルへと向かった。 それでも残ったクライシュ族率いるメッカ軍は3倍以上の軍勢であることから戦前からムハンマドを過小評価していた。

他方、ムハンマドは兵の数こそ300名程度だったが、 ヒジュラ以来の教友や親戚縁者などで固められていたうえ、 一神教と多神教の戦いであるとの大義もあり戦意は高いものがあった。

開戦が決まるとムハンマドはすばやくバドルに進軍し、 要衝を押さえた。 さらにメッカ軍の進軍路の井戸を先に埋めてしまった。 井戸を失ったメッカ軍は、 イスラム軍の守る井戸を奪取するため攻撃をくわえた。 まずメッカ軍はアラブの戦いの恒例である一騎討ちによりウトバ・イブン・ラビア、アル・ワリード・イブン・ウトバやシャイバ・イブン・ラビアといった名だたる将を次々に失ってしまう。

イスラム軍は動揺するメッカ軍に対し矢の雨を降らせ、 陣形をしっかりと組んだ歩兵が突撃したためクライシュ族の盾で武装したメッカの正規兵は打ち破られ、 かつてムハンマドを迫害していたクライシュ族の頭目アブー・ジャハル(ヒシャム)を含む70余名の戦死者を出してメッカの大軍は一敗地にまみれた。

バドルの戦いがムハンマドの勝利に終わると、 ムスリムは奇跡的な勝利により、 ムスリムの信仰心を一層高揚させた。 あまりの圧勝ぶりに天使が味方についたとも言われた。 また、多数の捕虜を手に入れたが、ムハンマドはアブー・バクルの進言を聞き入れ、身代金を取り解放、のちに身代金が払えない者も全員解放した。

バドルの戦いで多大な戦死者を出したメッカは早くも復讐戦の準備を進め、 翌年、再びムハンマドに軍を差し向けウフドの戦いを引き起こすこととなる。
ウフドの戦い
ウフドの戦いは、 イスラム創成期に置ける重要な戦いの一つ。 クライシュ族の拠るメッカと、 メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナの間で西暦625年3月23日に起き、 メッカ側の勝利に終わった戦い。

こののち西暦627年ハンダクの戦いにてムハンマドは攻勢する。
西暦624年、 イスラム側はバドルの戦いにおいて圧倒的有利であったはずのメッカ軍を破って勝利を収めており、 イスラムとムハンマドの名声は周囲に轟いていた。 これに焦ったメッカ側はメディナ市内のユダヤ教徒に目を付け、 メディナ側の内部分裂を画策する一方で、 指導者のアブー・スフヤーンは勇猛なアラブ騎兵200を含む3,000の軍勢を率いてメディナ郊外のウフド山に布陣した。

兵の質量ともに劣るメディナ側は始めは籠城論が主流だったが、 メディナ市内のユダヤ教徒の動向だけが不安材料だった。 そこでムハンマドは野戦を決意して出陣し、 戦いに向かう途中でユダヤ教徒をメディナに帰らせてムスリムだけの軍勢を整えた。

ユダヤ教徒を去らせた結果、 ムハンマドの手元に残った兵力は僅か700人であり、 馬は2頭しかいなかった。 しかし、ムハンマドに心から付き従う者だけが残ったために士気は最高潮に達していた。

メッカ軍の騎兵の突撃を恐れたイスラム軍は弓兵隊を整え、 従来アラブで恒例とされた一騎討ちを禁止した。 戦闘はムハンマドの思惑通りに進み、 50人からなる弓隊は本陣を守り抜いて騎兵の突撃を防ぎ、 歩兵同士の乱戦は士気において勝るイスラム側の圧倒的な優勢のうちに進んだ。

しかし、 メッカ軍の歩兵が潰走を始めたことにより状況が一変する。 本陣を守っていた弓隊が持ち場を離れて追撃を開始し、 メッカ側のアラブ騎兵が本陣に突撃する隙を与えてしまった。

ムハンマドの叔父であったハムザ・イブン・アブド・アル=ムッタリブが戦死、 ムハンマド自身も負傷し、預言者が死んだという報せを聞いたイスラム軍は動揺して壊乱した。

戦いに勝ったメッカ軍はそのままメディナ攻略に移ることは無く撤退した。 これはメディナ市内のユダヤ教徒と改めて連携を取るためであったが、 この時点でムハンマドの生死が確認できなかったことを用心したためでもあった。

メッカ軍撤退後、 ウフド山に籠って必死の抵抗を続けていたイスラム軍はムハンマドとともにメディナへと帰還した。 この敗戦によってユダヤ教徒の離反が起きたが、 ムハンマドの彼らに対する処置は主立った者に財産を持たせてメディナを退去させることのみに留めている。 また、この敗戦によって若者が数多く死んだことで、 メディナの防衛能力は低下していた。 このためメッカ側は懸賞金をかけて遊牧民(ベドウィン)にメディナを襲撃させ、 ムハンマドはこれへの対応にも悩まされることになった。

また、追放されたユダヤ教徒が勢力を挽回してメディナを包囲するという事件も起きている。 しかし、結果だけを見ればこれらの苦難はイスラムの結束力を高めるのに寄与した。

またこの時期になると、相次ぐ戦いによって夫を失った寡婦や娘たちがいた。 これらの女性たちの法定後見人になった者たちの中で、 気に入った被後見の女性と婚資を払わずに結婚しようとしたり、 財産の分配を恐れて他へ嫁がせないようにして孤児の財産を奪うような動きがあった。 この時、啓示(クルアーン 婦人の章3節)が下されたが、 その内容は「気に入った女性を娶ってもかまわないが、婚資は同じように支払え、そして二人、三人、四人を娶っても良いが、同じ(平等)ように婚資が支払えないなら、現在の妻一人にせよ」というものである。 この啓示が、以後、イスラーム教徒の四人妻制限として適用されることになった。 また預言者が四人を超える妻を持っていることに関する啓示(部族連合の章51~53)が下ったが、 「預言者が現在娶っている妻について離縁するか、しないかを選択し、選択後は妻を変えたり、娶ったりできない」との内容で、 啓示時期についてはヒジュラ暦8年説が多数説であることから、 最終的に預言者が以後は妻を増やすことも、娶ることもできないとされた。 アラブは一夫多妻であったことがクルアーンによって証明され、 イスラムはそれを制限したと解釈される。

ムハンマド自身も後に2代目カリフとなるウマルの娘ハフサを娶っている。 また自らの2人の娘であるウンム・クルスームを後の3代目カリフウスマーンと、 ファーティマを後の4代目カリフ・アリーとそれぞれ結婚させるなど、 一夫多妻の導入は敗戦によって一時的に低下したムハンマドの指導力を婚姻によって強化することも容易にした。
ハンダクの戦い
ハンダクの戦い西暦627年)は、 イスラム創成期における重要な戦いの一つ。 ウフドの戦いで勝利を収めて勢いに乗るクライシュ族率いるメッカ連合軍と、 ムハンマドを受け入れたメディナの間の戦い。 この戦いでの勝利により、 イスラム軍とムハンマドはその勢力を確固たるものとした。 塹壕の戦いともいう。

西暦625年ウフドの戦いで勝利を収めたメッカはアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、 更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた1万の軍勢でメディナに向かって進撃を開始した。 対するムハンマドはウフドの敗戦を教訓とし、 ペルシャ人の技術者サルマーン・アル=ファーリスィーに命じてメディナの周囲に塹壕(ハンダク)を掘らせ、 徹底した防衛線を敷くことでメッカ連合軍の攻撃に備えようとした。

従来のアラブの戦いは、 野戦での騎士による一騎討ちが伝統とされ、 攻城戦という概念はなかった。 メッカ連合軍は初めて目にする塹壕に為すすべもなく、 騎兵による塹壕突破を図ったが成功しなかった。 騎士アムルのみが塹壕の幅が狭くなっている箇所を発見し、 数名の従者と共に塹壕内に飛び込んだが、 アリーとの一騎討ちの果てに敗れて討ち取られた。 これ以降メッカ連合軍の士気は振るわず、 夜襲をかけてもイスラム側の見張りに発見されて成功ししなかったので、 やがて遠巻きに町を囲むのみになる。

長引く戦いに焦ったメッカ連合軍は、 メディナ内部にいるユダヤ教徒と連携してイスラム軍を内外から同時に攻撃しようと試みる。 一方メディナ側でも一騎討ちを禁じたムハンマドの作戦に不満を募らせる兵が増えていた。 メッカの策略は成功し、 一旦はメッカメディナのユダヤ教徒の間に協定が結ばれるが、 ユダヤ教徒がメッカ側に人質を要求したことから話がこじれ、 結局ユダヤ教徒がメッカのために動くことはなかった。

攻城戦も3週目に入ると厳しい砂漠での滞陣を強いられたメッカ連合軍の士気は目に見えて低下し、 戦列を離れる部族が続出する事態となる。 メッカ側は結局メディナのイスラム教徒を6名殺しただけでメディナ攻略を諦めねばならなかった。
大軍を率いながらメディナ攻略戦に失敗したメッカの権威は失墜し、 メディナとの地位はまたしても逆転する。 これ以降、 メッカが再び攻勢に出ることはなく、 周辺の遊牧民(ベドウィン)を切り従えたムハンマドの勢力は日増しに高まっていった。
マディーナ憲章
ムハンマドはメディナでイスラーム教徒となったアラブ人と、 ユダヤ教徒であるユダヤ人との間の条約である「マディーナ憲章(メディナ憲章)」を結んだ。
  • メッカからの移住者とメディナの改宗者は一つの共同体(ウンマ)を形成する。
  • 信者の間の紛争は神とムハンマドの調停に委ねる。
  • ユダヤ教徒は、利敵行為がないかぎり、ウンマとの共存が許される。
マディーナ憲章では、 ユダヤ教徒の宗教文化や財産を保護されると同時に、 ユダヤ教徒は教団国家に従うことが前提とされ、 外部からの防衛や戦費負担も義務づけられた。 ユダヤ教徒は後にジンマの民(ズィンミー)とされ、 反イスラム的行動をとらず、 ジズヤ税(人頭税)を支払い、 イスラムの公権力に従うことを条件に庇護された。 しかし、マディーナのユダヤ教徒は憲章に従わなかった。

晩年

ムハンマドは、メッカイスラーム教の聖地と定め、異教徒を追放した。 ムハンマド自身は、その後もメディナに住み、 イスラム共同体の確立に努めた。 さらに、1万2000もの大軍を派遣して、 敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。 以後、アラビアの大半の部族からイスラーム教への改宗の使者が訪れアラビア半島はイスラーム教によって統一された。

また東ローマ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。

西暦632年メッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。 このとき、ムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。 大巡礼を終えてまもなく、ムハンマドの体調は急速に悪化した。 ムハンマドは、アラビア半島から異教徒を追放するように、 また自分の死後もクルアーンに従うようにと遺言し、 西暦632年6月8日、 メディナの自宅で没し、この地に葬られた。 彼の自宅跡と墓の場所は、メディナ預言者のモスクになっている。

家族と子孫

伝承によるとムハンマドが25歳のとき、 15歳年長とされる福家の寡婦ハディージャと最初の結婚をしたと伝えられる。 スンナ派などの伝承によれば、 ムハンマドが最初の啓示を受けた時、 その言葉を聞いて彼女が最初のムスリムになったと伝えられている。 彼女の死後、イスラム共同体が拡大するにつれ、 共同体内外のムスリムや他のアラブ諸部族の有力者から妻を娶っており、 そのうち、アブー・バクルの娘アーイシャが最年少(結婚当時9歳)かつ(スンナ派では)最愛の妻として知られる。 最初の妻ハディージャの死後、 ムハンマドはイスラム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、 アーイシャ以外はみな寡婦や離婚経験者である。 これは、メディナ時代は戦死者が続出し寡婦が多く出たためこの救済措置として寡婦との再婚が推奨されていた事が伝えられており、 ムハンマドもこれを自ら率先したものとの説もある。 なお、ムハンマドと結婚し妻になった順番としては、 ハディージャ、寡婦サウダ・ビント・ザムア、アーイシャ、ウマルの長女ハフサの順であったと伝えられ、 他にメッカの指導者でムハンマドと敵対していたアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバ(したがってウマイヤ朝の始祖ムアーウィヤらの姉妹にあたる)がハンダクの戦いの後、 西暦629年ムスリムとなってムハンマドのもとへ嫁いでいる。

ムハンマドは生涯で7人の子供を得たと伝えられ、 うち6人は賢妻として知られるハディージャとの間に生まれている。 男子のカースィムとアブドゥッラーフは早逝したが、 ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマの4人の娘がいた。 このうち、ルカイヤ、ウンム・クルスームの両人はウスマーンに嫁いでいる(ムハンマドの娘二人を妻としていたため、ウスマーンはズンヌーライン『ふたつの光の持ち主』と呼ばれた)。 末娘ファーティマはムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚し、 ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。 最後の子供は晩年にエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に儲けた3男イブラーヒームであるが、 これも二歳にならずに亡くなっており、 他の子女たちもファーティマ以外は全員ムハンマド在世中に亡くなっている。

ムハンマドは上記のとおり男児に恵まれなかったため、 娘婿で従兄弟のアリーがムハンマド家の後継者となった。 ムハンマドは在世中、自身の家族について問われたとき、 最愛の妻であるハディージャとの間の娘ファーティマとその夫アリー、 二人の間の息子ハサンとフサインを挙げ、 彼らこそ自分の家族であると述べている。 またほかの妻の前で何回もハディージャを最高の女性であったと述べていた。 そのためほかの妻、 とりわけアーイシャはこのようなムハンマドの姿勢を苦々しく思っており、 後にアーイシャがアリー家と対立する一因となる。

ムハンマドの血筋は、 外孫のハサンとフサインを通じて現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、 サイイドやシャリーフの称号などで呼ばれている。 サイイドはイスラム世界において非常に敬意を払われており、 スーフィー(イスラーム神秘主義者)やイスラーム法学者のような、 民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。 現代の例で言うと、 イラン革命の指導者のホメイニ師と前イラン大統領モハンマド・ハータミー、 イラク・カーズィマインの名門ムハンマド・バキール・サドルやその遠縁にあたるムクタダー・サドル、 ヨルダンのハーシム家やモロッコのアラウィー朝といった王家もサイイドの家系である。

ハディージャ

ハディージャ・ビント・フワイリド西暦555年? - 西暦619年)は、 イスラーム教預言者ムハンマドの最初の妻、商人。 ムハンマドと結婚前に二人の亡き夫を持つ寡婦であり、 相続した遺産でムハンマドを経済的にも支えた。 クライシュ族アサド家に属するフワイリド・イブン・アサドの娘。 ハディージャの父と預言者ムハンマドの祖父は「はとこ」にあたる。 預言者 ムハンマドの最愛の妻。 ムハンマドは彼女が死ぬまで再婚することはなかった。

ムハンマドとの結婚・扶養

ハディージャムハンマドと結婚する前2人の夫に先立たれ、 その遺産を受け継ぐ裕福な商人であった。 2番目の夫の死後交易商を営んでいたハディージャは、 交易代理人として働いていた親戚であるムハンマドの誠実さに惹かれ西暦595年、 40歳の頃に当時25歳前後のムハンマドと結婚する。 裕福な彼女と結婚したムハンマドは経済的自由を得て、 瞑想に耽られるようになった。

ハディージャムハンマドとの間に2男4女をもうけるが、 長男カースィム、次男アブドゥッラー、 次女に第3代正統カリフ、ウスマーン・イブン・アッファーンと結婚したルカイヤが、 また末娘に第4代カリフのアリーと結婚したファーティマがいる。 ムハンマドの血はファーティマの子孫たちによって後世に引き継がれた。

物質的に恵まれた2人だったが、 2人の息子は成人前に死去し、 娘たちも長生きしていない。 ムハンマドハディージャが死ぬまで他に妻を持たなかった。

初期イスラームへの貢献

610年ヒラー山で天使ジブリールに啓示を誦めと命じられ困惑して帰ってきたムハンマドハディージャは励まし、 彼女の「いとこ」でネストリウス派キリスト教修道僧だったワラカ・イブン・ナウファルに相談した。 ワラカは天使から啓示を受けたムハンマドはモーセやイエスなどと同じ預言者であると認識しムハンマド預言者であると自覚させるに至った。ハディージャはイスラム教の最初の信者となりイスラム教を布教するムハンマドを支え続け、啓示を受ける以前も以後も保護者の役割を果たした。

ハディージャは619年頃死去し同時期にムハンマドの叔父で保護者のアブー=ターリブ(従弟アリーの父)が死去している。この2人の死をきっかけに、マッカでのクライシュ族の迫害は過熱し、ムハンマドがヒジュラを行う一因となっている。2人が死んだ619年は「悲しみの年」として知られている。

あああ

ウマイヤ朝 1295

ウマイヤ朝は、 イスラーム教を奉じるアラブ人の王朝。
正統カリフ時代(西暦632 - 西暦661年)時代に続く、 西暦661年から西暦750年まで西アジアを支配した、 アラブのイスラーム国家最初のカリフ世襲制度による王朝である。

正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていたが、 ウマイヤ朝からカリフの地位は世襲とされ、 初代のムアーウィヤ以後、ウマイヤ家が代々世襲した。

ウマイヤ家がシリアのダマスカスを都として西アジアを支配、 さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、 さらにイベリア半島まで拡大した。 しかし、 ウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり、 8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰え、 アッバース家によって倒された。

概要

ウマイヤ朝は、 イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。 大食(唐での呼称)、 またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、 イスラム帝国のひとつでもある。

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、 メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。 第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、 西暦660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、 西暦661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、 カリフ位を認めさせて成立した王朝。 首都はシリアのダマスカス。 ムアーウィヤの死後、 次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、 ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。 西暦750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、 ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、 後ウマイヤ朝を建てる。

非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、 ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。 また、ディーワーン制や駅伝制の整備、 行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、 イスラム国家の基盤を築いた。

カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、 アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。 また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、 また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、 今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。

歴代カリフ

名前 在位(自) 在位(至)
ムアーウィヤ1世 西暦661年 西暦680年
ヤズィード1世 西暦680年 西暦683年
ムアーウィヤ2世 西暦683年 西暦684年
マルワーン1世 西暦684年 西暦685年
アブドゥルマリク 西暦685年 西暦705年
ワリード1世 西暦705年 西暦715年
スライマーン 西暦715年 西暦717年
ウマル2世 西暦717年 西暦720年
ヤズィード2世 西暦720年 西暦724年
ヒシャーム 西暦724年 西暦743年
ワリード2世 西暦743年 西暦744年
ヤズィード3世 西暦744年 西暦744年
イブラーヒーム 西暦744年 西暦744年
マルワーン2世 西暦744年 西暦750年

ムアーウィヤによる創始

西暦656年、 ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、 イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によってマディーナの私邸で殺害された。 ウスマーンの死去を受け、 マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、 これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、 第一次内乱が起こった。

両者の抗争は西暦656年12月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、 アリーが勝利を収めた。 その後クーファに居を定めたアリーはムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、 ムアーウィヤはこれを無視したうえにウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、 これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。 ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、 西暦657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。 しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。

このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、 イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。

和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、 西暦660年、 ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。 ムアーウィヤとアリーはともにハワーリジュ派に命を狙われたが、 アリーのみが命を落とした。 アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンはムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、 マディーナに隠棲した。 ムアーウィヤはダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、 正式にカリフとして認められた。 こうして第一次内乱が終結するとともに、 ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

第一次内乱が終結したことにともなって、 ムアーウィヤは、 正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。 ムアーウィヤはビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、 西暦674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。 また、東方ではカスピ海南岸を征服した。 しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、 正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。 ウマイヤ朝の重要な制度はほとんど彼によってその基礎が築かれた。

ムアーウィヤの後継者としてはアリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、 体制の存続を望んでいたシリアのアラブはムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。 ムアーウィヤは他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

用語集(あいうえお順)1574

アッラー

アッラー(口語アラビア語発音) / アッラーフ(文語休止形アラビア語発音)

アッラーは、 イスラーム教の唯一絶対の神を意味する言葉。 西アジア一神教信仰に共通する。 ムハンマドクルアーンアッラーへの絶対の服従を説いた。 アラビア語でアッラーというのは、 「アル=イラーフ」の短縮形で、神そのもを意味する。 アッラーはもともとメッカの守護神の一つにすぎなかったが、 ムハンマド以前からアラブ人の中でもっとも崇拝された神の一つであった。 ムハンマドは、このアッラーを、 唯一絶対の創造主であり、 全知全能の神であるととらえなおしイスラーム教を創始し、 クルアーンを通してその教えを伝えた。

ユダヤ教で言えばヤハウェ、 キリスト教で言えば「父なる神」にあたるのがアッラーであり、 世界を創造し、最後の審判の日には人々を裁き、 天国や地獄に送る存在として崇拝される。 つまり、西アジア世界に生まれた一神教での共通の神である。 したがってイスラーム教徒はユダヤ教徒とキリスト教徒の同じ神を信じていると認識していおり、 彼らを「啓典の民」と捉えている(ただし、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、イスラーム教徒を同じ神を信仰しているとは考えていない)。
「アッラーの神」とは言わない。 アッラーはアラビア語の一般的な言葉で、 唯一の「神」を表す語である。
そのため「アッラーの神」という表現は「神の神」というおかしな事になる。

この神は人知を越えた存在であるので、 人間の手で描いたり、 像にしたりすることは出来ないし、 許されないとされた。 それが偶像崇拝の否定であり、 イスラーム教の重要なポイントとなっている。 また、イスラーム教徒の六信の第一にあげられ、 その義務である五行の第一の信仰告白は「アッラーのほかに神はなし」で始まる。

ウンマ

ウンマとは、 アラビア語で民族・国民・共同体などを意味する。

「イスラームの」という形容詞で修飾したウンマ・イスラーミーヤイスラーム共同体と訳され、 イスラーム国家とほぼ同義である。

クルアーンの用法ではウンマは、 神(アッラーフ)によって使徒(ラスール)を遣わされて啓典を与えられる人間集団の単位のことである。 ムーサー(モーセ)のウンマといえばユダヤ教徒の共同体のことであり、 イーサー(イエス)のウンマといえばキリスト教徒の共同体を意味する。 彼らにはそれぞれ律法書(タウラート)、 福音書(インジール)という啓典が与えられた。 しかし、彼らはこれらの啓典を改竄したり、 ゆがめて解釈したりしているとコーランは主張する。 そして、神の言葉をそのままの形で伝える啓典がムハンマドウンマ、 すなわちイスラーム共同体に遣わされたクルアーンであるとする。

こうして信徒共同体の意味を与えられたウンマというアラビア語の単語は、 次第に特にイスラーム共同体を指して言うようになり、 イスラームを含めた個々の共同体には「ミッラ」という呼称が広まる。

これを踏まえて、 現代のイスラームの歴史に関する研究、 論述では単にウンマと言うと、 イスラーム共同体のことを指す場合が多い。

ガブリエル

ガブリエルは、 旧約聖書『ダニエル書』にその名があらわれる天使。 ユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれ、 キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人であると考えられている(ユダヤ教ではウリエルを入れて四大天使)。 西方キリスト教美術の主題の一つ「受胎告知」などの西洋美術において、 彼は優美な青年で描かれる。 時には威厳のある表情で描かれることもある。

聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」であった。 ガブリエルという名前は「神の人」という意味である。 日本ハリストス正教会では教会スラヴ語読みからガウリイルとよばれている。

ユダヤ教
ユダ王国の滅亡からバビロン捕囚時代を舞台に書かれた旧約聖書の『ダニエル書』の中で、 預言者ダニエルの幻の中に現れるのがガブリエルであり、 神がその名前を呼ぶ場面がある。 ダニエルは雄山羊と雄羊が格闘する幻を見せられ、 その意味について思い悩むが、 そこへガブリエルが幻の意味を解き明かすために現れる。
キリスト教
ガブリエルはキリスト教の伝統の中で「神のメッセンジャー」という役割を担うことが多い。 たとえば『ルカによる福音書』では祭司ザカリアのもとにあらわれて洗礼者ヨハネの誕生をつげ、 マリアのもとに現れてイエス・キリストの誕生を告げる。 また、 最後の審判のときにラッパを鳴らし、 死者を甦らせる天使はガブリエルである。
イスラム教
ユダヤ教、キリスト教から天使の姿はイスラム教にも受け継がれた。 アラビア語ではジブリールと呼ばれている。 イスラム教では、 ジブリール預言者ムハンマドに神の言葉である『クルアーン』を伝えた存在である。 このため、 ジブリールは天使の中で最高位に位置づけられている。

クルアーン

コーラン / クルアーン

クルアーン(日本語で多い表記はコーラン)は、 イスラム教の聖典である。 コーランはアラビア語で「アル=クルアーン」という。 「アル」は定冠詞で、 「クルアーン」には「声に出して読むもの・こと」という意味がある。 つまり、「コーラン」とは「読誦すべきもの」の意。

イスラームの信仰では、 コーランは最後の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが40歳の頃(西暦610年)、 彼がヒラー山洞窟で瞑想していたとき、 大天使ジブリール(ガブリエル)を通じてアッラーの啓示が下され、 ムハンマドが死ぬ西暦632年まで続いたとされる。

ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、 死後にまとめられた現在の形は114章からなる。 コーランはアラビア語で神が下した啓示を一字一句忠実に記録したものと信じられている。 そのため、 それを翻訳したものは厳密にはコーランとは言えない。 コーランの文体は散文詩の形式で脚韻を踏んでおり、 その韻律による響きの美しさは、 神の奇跡であるとされている。

イスラム教においては、 コーランは単純な黙読よりも音読に重点が置かれ、 礼拝において必ず詠唱される。 この中でも特に、開端章は頻繁に読まれる。 コーランを暗記すること(=ハーフィズ)はムスリム(イスラム教徒)の間で重要なこととされており、 これを成し遂げた者は大きな名声を得る。

五行

五行(イスラーム教)

五行とは、 ムスリム)(イスラム教徒)に義務として課せられた5つの行為であり、 六信とともにイスラームの根幹を成す重要な定めである。 具体的には次の5つを指す。
  • 信仰告白(シャハーダ):「アッラーの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
  • 礼拝(サラート):一日五回、キブラに向かって神に祈ること。
  • 喜捨(ザカート):収入の一部を困窮者に施すこと。
  • 断食(サウム):ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
  • 巡礼(ハッジ):経済的・肉体的に可能であれば、ヒジュラ暦第十二月であるズー・ル=ヒッジャ(巡礼月)の8日から10日の時期を中心に、メッカのカアバ神殿に巡礼すること。
5つともクルアーン中で度々取り上げられているが、 5つを一箇所でまとめて述べている章句は無い。 ハディースでは「真正集」などで述べられている。

なおシーア派では十行(①礼拝、②喜捨、③断食、④巡礼、⑤五分の一税、⑥ジハード、⑦善行、⑧悪行の阻止、⑨預言者とその家族への愛、⑩預言者とその家族の敵との絶縁)となる。

ジハード 1765

ジハード

ジハードは、 アラビア語の「努力する」から派生した動詞「ジャーハダ(自己犠牲して戦う)」の動名詞で、 「違うベクトルの力の拮抗」を意味するが、 一般的にイスラームの文脈では「宗教のために努力する、戦う」ことを意味する。 「大ジハード」と「小ジハード」がある。

大ジハード(内へのジハード)」は個人の信仰を深める内面的努力を指す一方、 「小ジハード(外へのジハード)」は異教徒に対しての戦いを指すため、 一般的に「ジハード」というと後者を指す。

イスラム法学上の「ジハード」は、 「イスラムのための異教徒との戦闘」と定義される。 しばしば「聖戦」と和訳されるが、 ジハードという語には「聖」の意味はないため、正確ではない。

小ジハード(外へのジハード)」は、 イスラーム教およびイスラーム教徒(ムスリム)を迫害する不信心者(異教徒)との戦いのことで、 ムハンマド時代のメッカとの戦いから続いている。 特に正統カリフ時代には、 シリア・パレスチナのユダヤ教徒やキリスト教徒、 ササン朝ペルシアのゾロアスター教徒などとの戦いがあった。

異教徒との戦いはムスリムの義務の一つであるが、 その戦いで戦死した者は天国に行くことが出来ると信じられていて、 最近のアラブ側の自爆テロまでその精神は継承されている。

シャハーダ

シャハーダ(信仰告白)

シャハーダは、 イスラーム教の五行のひとつで、 「アッラーの他に神はなし。ムハンマドアッラーの使徒である。」とアラビア語で唱えることである。 この一文はサウジアラビアの国旗にも記されている。

シャハーダは、「アッラーの他に神はなし」という部分と、 「ムハンマドはアッラーフの使徒である」という前後ふたつの部分から成り立っている。

イスラームの法学的解釈によると、 最初のシャハーダである「アッラーフ(神)の他に神はなし」の部分は、 ユダヤ教やキリスト教なども含めた唯一神を信仰することを宣言している。 なお、日本人ムスリムの中田考による説明によると、 この文は、神は時間や空間上のどこにも存在しない、 ということを前提とした上で、 唯一神のアッラーだけに関しては例外である、 という留保規定の文である。

ふたつめのシャハーダである「ムハンマドはアッラーフの使徒である」の部分は、 ムハンマドアッラーフによってアッラーフへの信仰(イスラーム)を確立するためにアラブ諸部族、 ひいては人類全体に派遣された最後の預言者にして使徒(ラスール)であることを表明することであり、 ユダヤ教徒やキリスト教徒になることとは違い、 特にこのふたつめのシャハーダによってイスラーム教徒(ムスリム)であることを強調して宣言する意味がある。

ヒジュラ(聖遷)

ヒジュラとは、 マッカでイスラームの布教を行っていたムハンマドと彼に従うムスリムが、 西暦622年に本拠をメッカからメディナに移したこと。聖遷と訳されている。

ヒジュラは元来移住という意味だが、 聖遷や遷都と訳されることが多い。

ムスリム

ムスリム(Muslim)とは、 「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、 イスラーム教を信仰する人びとを指す。

キリスト教圏ではムハンマド教徒(英: Mohammedan 等)とも呼ばれ、 日本でもかつては一部でこの語を用いた。 女性形はムスリマだが、 アラビア語社会以外では基本的には区別しない。 また、中世キリスト教世界では、 イシュマエル人、カルデア人、モーロ人、サラセン人などあたかも民族集団であるかのような名称でも呼ばれた。

ムスリムになるためには、 証人となるムスリムの前で信仰告白(シャハーダ)の手続きを取ることが必要である。 ムスリムは、神(アッラーフ)を常に身近に感じるように、 五行を実践することが建前である。 父親がムスリムであるものは自動的にムスリムとなるとされている。