啓示
ムハンマドは、アラビア半島の商業都市マッカ(
メッカ)で、
クライシュ族のハーシム家に生まれた。
父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、
母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、
ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護によって成長した。
成長後は、一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加した。
25歳の頃、富裕な女商人
ハディージャに認められ、
15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。
ハディージャは、ムハンマド最愛の妻として知られる。
ムハンマドは
ハディージャとの間に2男4女をもうけるが、
男子は2人とも成人せずに夭折した。
西暦610年8月10日、
40歳ごろのある日、
悩みを抱いて
メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、
そこで大天使
ジブリール(ガブリエル)に出会い、
唯一神(
アッラーフ)の啓示(のちに
クルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。
その後も啓示は次々と下されたと彼は主張し、
預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、
近親の者たちに彼に下ったと彼が主張する啓示の教え、
すなわち
イスラーム教を説き始めた。
最初に入信したのは妻の
ハディージャで、
従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いた。
西暦613年頃から、
ムハンマドは公然と
メッカの人々に教えを説き始めるが、
アラビア人伝統の多神教の聖地でもあった
メッカを支配する有力市民たちは、
ムハンマドとその信徒(
ムスリム)たちに激しい迫害を加えた。
伯父アブー・ターリブは、
ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、
西暦619年頃亡くなり、
同じ頃妻
ハディージャが亡くなったので、
ムハンマドは
メッカでの布教に限界を感じるようになった。
聖遷
西暦622年、
ムハンマドは、
ヤスリブ(のちの
メディナ)の住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。
これをきっかけに、
メッカで迫害されていた
ムスリムは、
次々にヤスリブに移住した。
メッカの有力者達は、
ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、
刺客を放って暗殺を試みた。
これを察知した
ムハンマドは、甥のアリーの協力を得て、
新月の夜にアブー・バクルと共に
メッカを脱出した。
メッカは追っ手を差し向けたが、
ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事に辿り着いた。
この事件を
ヒジュラといい、この年はのちにヒジュラ暦元年と定められた。
また、ヤスリブの名を
マディーナ・アン=ナビー(
預言者の町、
略称
メディナ)と改めた。
メディナでは、
メッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合し、
ムハンマドを長とする
イスラム共同体(
ウンマ)を結成した。
敵対者との戦争
- バドルの戦い
-
ムハンマド率いるイスラム共同体は、
周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、
ムハンマドに敵対するメッカの隊商交易を妨害したりしながら、
急速に勢力を拡大した。
こうして両者の間で睨み合いが続いたが、
ある時、メディナ側はメッカの大規模な隊商を発見し、
これを襲撃しようとした。
しかし、それは事前にメッカ側に察知され、
それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、
バドルの泉の近くで両者は激突、メディナ側が勝利した。
これをバドルの戦いと呼び、
以後イスラーム教徒はこれを記念し、
この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。
- ウフドの戦い
-
翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したメッカは、
報復戦として大軍で再びメディナに侵攻した。
メディナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、
メッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、
ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。
これ以後、ムハンマドは、組織固めを強化し、
メッカと通じていたユダヤ人らを追放した。
- ハンダクの戦い(塹壕の戦い)
-
西暦627年、
メッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。
このときムハンマドは、
ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人でありペルシャ人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、
メディナの周囲に塹壕を掘らせた。
それにより、敵軍の侵攻を妨害させ、
また敵軍を分断し撤退させることに成功した。
アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、
この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。
メッカ軍を撃退したイスラム軍は、武装を解かず、
そのままメッカと通じてメディナのイスラム共同体と敵対していたメディナ東南部のユダヤ教徒、
クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。
- ハイバル遠征
-
西暦628年、
ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってメッカと停戦した。
この和議は当時の勢力差を反映してメディナ側に不利なものであったが、
ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。
この和議の後、先年メディナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、
再度の討伐によってこれを降伏させた。
これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、
ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、
収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。
これに伴い、
ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、
このハイバル遠征がその後の
イスラム共同体における土地政策の
嚆矢、
征服地における戦後処理の一基準となった言われている。
しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、
ウマルの時代に彼らが追放された後
ムスリムによる土地の分配過程については、
様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。
この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。
自信を深めたムハンマドは、
ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、
イスラーム教への改宗を勧め、
積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。
西暦630年に、
メッカと
メディナで小競り合いがあり停戦は破れたため、
ムハンマドは1万の大軍を率いて
メッカに
侵攻した。
予想以上の勢力となっていた
ムスリム軍に、
メッカは戦わずして降伏した。
ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、
ほぼ全員が許された。
しかし、数名の多神教徒は処刑された。
カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
バドルの戦い
バドルの戦い(
西暦624年3月17日)は、
イスラム創成期におけるクライシュ族率いる
メッカと、
メッカを追放されたムハンマドを受け入れた
メディナ側の間の戦いの転機となった戦い。
圧倒的に不利とされたムハンマドが戦いに勝利し、
ムハンマドは危機を乗り越えたことで
メディナ内での権威を確立した。
背景
西暦622年7月16日の
ヒジュラ以降、
当時
メディナで対立していたユダヤ人とアラブ人の和平を謳った、
イスラーム共同体初の憲法と呼べる
メディナ憲章の締結により、
ウンマを組織したムハンマドは、
西暦624年にアブー・スフィヤーンの大商隊がシリアから到着するとの情報を得て、
これを襲撃するため
メディナを出て、
紅海に面するバドルの地で商隊を待ち受けた。
また、
メッカの隊商を襲撃することは、
ムハンマドを追放した
メッカへの復讐でもあったが、
その物資を得て経済基盤を広げることはジハード(努力目標)でもあったとされる。
これに対してアブー・スフィヤーンから要請を受けて
メッカからアブー・ジャフルが指揮する軍隊が派遣されたが、
隊商が無事バドルを迂回して
メッカに向かったことを聞くとズブラ族の兵は目的が達せられたため
メッカに引き返し、
残るクライシュ族の600名の重装兵を含む約1,000名のみがムハンマド討伐のためバドルへと向かった。
それでも残ったクライシュ族率いる
メッカ軍は3倍以上の軍勢であることから戦前からムハンマドを過小評価していた。
他方、ムハンマドは兵の数こそ300名程度だったが、
ヒジュラ以来の教友や親戚縁者などで固められていたうえ、
一神教と多神教の戦いであるとの大義もあり戦意は高いものがあった。
開戦が決まるとムハンマドはすばやくバドルに進軍し、
要衝を押さえた。
さらに
メッカ軍の進軍路の井戸を先に埋めてしまった。
井戸を失った
メッカ軍は、
イスラム軍の守る井戸を奪取するため攻撃をくわえた。
まず
メッカ軍はアラブの戦いの恒例である一騎討ちによりウトバ・イブン・ラビア、アル・ワリード・イブン・ウトバやシャイバ・イブン・ラビアといった名だたる将を次々に失ってしまう。
イスラム軍は動揺する
メッカ軍に対し矢の雨を降らせ、
陣形をしっかりと組んだ歩兵が突撃したためクライシュ族の盾で武装した
メッカの正規兵は打ち破られ、
かつてムハンマドを迫害していたクライシュ族の頭目アブー・ジャハル(ヒシャム)を含む70余名の戦死者を出して
メッカの大軍は一敗地にまみれた。
バドルの戦いがムハンマドの勝利に終わると、
ムスリムは奇跡的な勝利により、
ムスリムの信仰心を一層高揚させた。
あまりの圧勝ぶりに天使が味方についたとも言われた。
また、多数の捕虜を手に入れたが、ムハンマドはアブー・バクルの進言を聞き入れ、身代金を取り解放、のちに身代金が払えない者も全員解放した。
バドルの戦いで多大な戦死者を出した
メッカは早くも復讐戦の準備を進め、
翌年、再びムハンマドに軍を差し向け
ウフドの戦いを引き起こすこととなる。
ウフドの戦い
西暦624年、
イスラム側は
バドルの戦いにおいて圧倒的有利であったはずの
メッカ軍を破って勝利を収めており、
イスラムとムハンマドの名声は周囲に轟いていた。
これに焦った
メッカ側は
メディナ市内のユダヤ教徒に目を付け、
メディナ側の内部分裂を画策する一方で、
指導者のアブー・スフヤーンは勇猛なアラブ騎兵200を含む3,000の軍勢を率いて
メディナ郊外のウフド山に布陣した。
兵の質量ともに劣る
メディナ側は始めは籠城論が主流だったが、
メディナ市内のユダヤ教徒の動向だけが不安材料だった。
そこでムハンマドは野戦を決意して出陣し、
戦いに向かう途中でユダヤ教徒を
メディナに帰らせて
ムスリムだけの軍勢を整えた。
ユダヤ教徒を去らせた結果、
ムハンマドの手元に残った兵力は僅か700人であり、
馬は2頭しかいなかった。
しかし、ムハンマドに心から付き従う者だけが残ったために士気は最高潮に達していた。
メッカ軍の騎兵の突撃を恐れたイスラム軍は弓兵隊を整え、
従来アラブで恒例とされた一騎討ちを禁止した。
戦闘はムハンマドの思惑通りに進み、
50人からなる弓隊は本陣を守り抜いて騎兵の突撃を防ぎ、
歩兵同士の乱戦は士気において勝るイスラム側の圧倒的な優勢のうちに進んだ。
しかし、
メッカ軍の歩兵が潰走を始めたことにより状況が一変する。
本陣を守っていた弓隊が持ち場を離れて追撃を開始し、
メッカ側のアラブ騎兵が本陣に突撃する隙を与えてしまった。
ムハンマドの叔父であったハムザ・イブン・アブド・アル=ムッタリブが戦死、
ムハンマド自身も負傷し、預言者が死んだという報せを聞いたイスラム軍は動揺して壊乱した。
戦いに勝った
メッカ軍はそのまま
メディナ攻略に移ることは無く撤退した。
これは
メディナ市内のユダヤ教徒と改めて連携を取るためであったが、
この時点でムハンマドの生死が確認できなかったことを用心したためでもあった。
メッカ軍撤退後、
ウフド山に籠って必死の抵抗を続けていたイスラム軍はムハンマドとともに
メディナへと帰還した。
この敗戦によってユダヤ教徒の離反が起きたが、
ムハンマドの彼らに対する処置は主立った者に財産を持たせて
メディナを退去させることのみに留めている。
また、この敗戦によって若者が数多く死んだことで、
メディナの防衛能力は低下していた。
このため
メッカ側は懸賞金をかけて遊牧民(ベドウィン)に
メディナを襲撃させ、
ムハンマドはこれへの対応にも悩まされることになった。
また、追放されたユダヤ教徒が勢力を挽回して
メディナを包囲するという事件も起きている。
しかし、結果だけを見ればこれらの苦難はイスラムの結束力を高めるのに寄与した。
またこの時期になると、相次ぐ戦いによって夫を失った寡婦や娘たちがいた。
これらの女性たちの法定後見人になった者たちの中で、
気に入った被後見の女性と婚資を払わずに結婚しようとしたり、
財産の分配を恐れて他へ嫁がせないようにして孤児の財産を奪うような動きがあった。
この時、啓示(
クルアーン 婦人の章3節)が下されたが、
その内容は「気に入った女性を娶ってもかまわないが、婚資は同じように支払え、そして二人、三人、四人を娶っても良いが、同じ(平等)ように婚資が支払えないなら、現在の妻一人にせよ」というものである。
この啓示が、以後、イスラーム教徒の四人妻制限として適用されることになった。
また預言者が四人を超える妻を持っていることに関する啓示(部族連合の章51~53)が下ったが、
「預言者が現在娶っている妻について離縁するか、しないかを選択し、選択後は妻を変えたり、娶ったりできない」との内容で、
啓示時期についてはヒジュラ暦8年説が多数説であることから、
最終的に預言者が以後は妻を増やすことも、娶ることもできないとされた。
アラブは一夫多妻であったことが
クルアーンによって証明され、
イスラムはそれを制限したと解釈される。
ムハンマド自身も後に2代目カリフとなるウマルの娘ハフサを娶っている。
また自らの2人の娘であるウンム・クルスームを後の3代目カリフウスマーンと、
ファーティマを後の4代目カリフ・アリーとそれぞれ結婚させるなど、
一夫多妻の導入は敗戦によって一時的に低下したムハンマドの指導力を婚姻によって強化することも容易にした。
ハンダクの戦い
ハンダクの戦い(
西暦627年)は、
イスラム創成期における重要な戦いの一つ。
ウフドの戦いで勝利を収めて勢いに乗るクライシュ族率いる
メッカ連合軍と、
ムハンマドを受け入れた
メディナの間の戦い。
この戦いでの勝利により、
イスラム軍とムハンマドはその勢力を確固たるものとした。
塹壕の戦いともいう。
西暦625年、
ウフドの戦いで勝利を収めた
メッカはアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、
更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた1万の軍勢で
メディナに向かって進撃を開始した。
対するムハンマドはウフドの敗戦を教訓とし、
ペルシャ人の技術者サルマーン・アル=ファーリスィーに命じて
メディナの周囲に塹壕(ハンダク)を掘らせ、
徹底した防衛線を敷くことで
メッカ連合軍の攻撃に備えようとした。
従来のアラブの戦いは、
野戦での騎士による一騎討ちが伝統とされ、
攻城戦という概念はなかった。
メッカ連合軍は初めて目にする塹壕に為すすべもなく、
騎兵による塹壕突破を図ったが成功しなかった。
騎士アムルのみが塹壕の幅が狭くなっている箇所を発見し、
数名の従者と共に塹壕内に飛び込んだが、
アリーとの一騎討ちの果てに敗れて討ち取られた。
これ以降
メッカ連合軍の士気は振るわず、
夜襲をかけてもイスラム側の見張りに発見されて成功ししなかったので、
やがて遠巻きに町を囲むのみになる。
長引く戦いに焦った
メッカ連合軍は、
メディナ内部にいるユダヤ教徒と連携してイスラム軍を内外から同時に攻撃しようと試みる。
一方
メディナ側でも一騎討ちを禁じたムハンマドの作戦に不満を募らせる兵が増えていた。
メッカの策略は成功し、
一旦は
メッカと
メディナのユダヤ教徒の間に協定が結ばれるが、
ユダヤ教徒が
メッカ側に人質を要求したことから話がこじれ、
結局ユダヤ教徒が
メッカのために動くことはなかった。
攻城戦も3週目に入ると厳しい砂漠での滞陣を強いられた
メッカ連合軍の士気は目に見えて低下し、
戦列を離れる部族が続出する事態となる。
メッカ側は結局
メディナのイスラム教徒を6名殺しただけで
メディナ攻略を諦めねばならなかった。
大軍を率いながら
メディナ攻略戦に失敗した
メッカの権威は失墜し、
メディナとの地位はまたしても逆転する。
これ以降、
メッカが再び攻勢に出ることはなく、
周辺の遊牧民(ベドウィン)を切り従えたムハンマドの勢力は日増しに高まっていった。
マディーナ憲章
ムハンマドは
メディナでイスラーム教徒となったアラブ人と、
ユダヤ教徒であるユダヤ人との間の条約である「
マディーナ憲章(メディナ憲章)」を結んだ。
- メッカからの移住者とメディナの改宗者は一つの共同体(ウンマ)を形成する。
- 信者の間の紛争は神とムハンマドの調停に委ねる。
- ユダヤ教徒は、利敵行為がないかぎり、ウンマとの共存が許される。
マディーナ憲章では、
ユダヤ教徒の宗教文化や財産を保護されると同時に、
ユダヤ教徒は教団国家に従うことが前提とされ、
外部からの防衛や戦費負担も義務づけられた。
ユダヤ教徒は後にジンマの民(ズィンミー)とされ、
反イスラム的行動をとらず、
ジズヤ税(人頭税)を支払い、
イスラムの公権力に従うことを条件に庇護された。
しかし、
マディーナのユダヤ教徒は憲章に従わなかった。
晩年
ムハンマドは、
メッカを
イスラーム教の聖地と定め、異教徒を追放した。
ムハンマド自身は、その後も
メディナに住み、
イスラム共同体の確立に努めた。
さらに、1万2000もの大軍を派遣して、
敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。
以後、アラビアの大半の部族から
イスラーム教への改宗の使者が訪れアラビア半島は
イスラーム教によって統一された。
また東ローマ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。
西暦632年、
メッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。
このとき、ムハンマド自らの指導により
五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。
大巡礼を終えてまもなく、ムハンマドの体調は急速に悪化した。
ムハンマドは、アラビア半島から異教徒を追放するように、
また自分の死後も
クルアーンに従うようにと遺言し、
西暦632年6月8日、
メディナの自宅で没し、この地に葬られた。
彼の自宅跡と墓の場所は、
メディナの
預言者のモスクになっている。
伝承によるとムハンマドが25歳のとき、
15歳年長とされる福家の寡婦
ハディージャと最初の結婚をしたと伝えられる。
スンナ派などの伝承によれば、
ムハンマドが最初の啓示を受けた時、
その言葉を聞いて彼女が最初の
ムスリムになったと伝えられている。
彼女の死後、
イスラム共同体が拡大するにつれ、
共同体内外の
ムスリムや他のアラブ諸部族の有力者から妻を娶っており、
そのうち、アブー・バクルの娘アーイシャが最年少(結婚当時9歳)かつ(
スンナ派では)最愛の妻として知られる。
最初の妻
ハディージャの死後、
ムハンマドは
イスラム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、
アーイシャ以外はみな寡婦や離婚経験者である。
これは、
メディナ時代は戦死者が続出し寡婦が多く出たためこの救済措置として寡婦との再婚が推奨されていた事が伝えられており、
ムハンマドもこれを自ら率先したものとの説もある。
なお、ムハンマドと結婚し妻になった順番としては、
ハディージャ、寡婦サウダ・ビント・ザムア、アーイシャ、ウマルの長女ハフサの順であったと伝えられ、
他に
メッカの指導者でムハンマドと敵対していたアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバ(したがってウマイヤ朝の始祖ムアーウィヤらの姉妹にあたる)がハンダクの戦いの後、
西暦629年に
ムスリムとなってムハンマドのもとへ嫁いでいる。
ムハンマドは生涯で7人の子供を得たと伝えられ、
うち6人は賢妻として知られる
ハディージャとの間に生まれている。
男子のカースィムとアブドゥッラーフは早逝したが、
ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマの4人の娘がいた。
このうち、ルカイヤ、ウンム・クルスームの両人はウスマーンに嫁いでいる(ムハンマドの娘二人を妻としていたため、ウスマーンはズンヌーライン『ふたつの光の持ち主』と呼ばれた)。
末娘ファーティマはムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚し、
ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。
最後の子供は晩年にエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に儲けた3男イブラーヒームであるが、
これも二歳にならずに亡くなっており、
他の子女たちもファーティマ以外は全員ムハンマド在世中に亡くなっている。
ムハンマドは上記のとおり男児に恵まれなかったため、
娘婿で従兄弟のアリーがムハンマド家の後継者となった。
ムハンマドは在世中、自身の家族について問われたとき、
最愛の妻である
ハディージャとの間の娘ファーティマとその夫アリー、
二人の間の息子ハサンとフサインを挙げ、
彼らこそ自分の家族であると述べている。
またほかの妻の前で何回も
ハディージャを最高の女性であったと述べていた。
そのためほかの妻、
とりわけアーイシャはこのようなムハンマドの姿勢を苦々しく思っており、
後にアーイシャがアリー家と対立する一因となる。
ムハンマドの血筋は、
外孫のハサンとフサインを通じて現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、
サイイドやシャリーフの称号などで呼ばれている。
サイイドはイスラム世界において非常に敬意を払われており、
スーフィー(イスラーム神秘主義者)や
イスラーム法学者のような、
民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。
現代の例で言うと、
イラン革命の指導者のホメイニ師と前イラン大統領モハンマド・ハータミー、
イラク・カーズィマインの名門ムハンマド・バキール・サドルやその遠縁にあたるムクタダー・サドル、
ヨルダンのハーシム家やモロッコのアラウィー朝といった王家もサイイドの家系である。