小窓
遺跡(アジア)

作成日:2024/2/14

記事はあいうえお順で記載。

ジャルモ遺跡

ジャルモ遺跡 / チャルモ遺跡 紀元前6750年頃

紀元前6750年頃の遺跡といわれ、イラク北東部の、クルド人の住むクルディスタンにある遺跡。 渓谷に面した台地上にあり、 遺跡の名前「チャルモ」は、 クルド語で「白い」という意味であり、 遺跡全体が土壌の色から白く見えることが由来である。 これがアラビア語になると濁って「ジャルモ」と発音されてしまう。

肥沃な三日月地帯」の東に位置し、 麦の原種が自生していた地域である。 そのため、 人類が小麦・大麦を栽培しはじめた場所と考えられている。 チャルモ遺跡は「初期の農耕事情」を知ることの出来る遺跡なのだ。

「人類史上最古といわれる農耕牧畜社会」と書かれているが、 約9,000年前の農耕社会の痕跡が残されているので、 最古級なのは間違いない。

50戸ほどの家屋に300人くらいが居住していたと考えられている。
家は石の基礎の上に粘土壁が築かれており、炉や土器がそなえてあった。
小麦・大麦・豆などが栽培され、 家畜は羊・山羊・牛・豚などがいた。

また、 道具としては石のかまやきね、 うすなどが使われていたようだ。
これらの道具は以前の打製石器とはちがい、砂や砥石で研磨された磨製石器であった。

土器のない先土器新石器時代から、 土器を初めて製作する時代にいたる初期原始農耕集落の実相が明らかになった。

テル・アブ・フレイラ遺跡

テル・アブ・フレイラ遺跡(Tell Abu Hureyra)

テル・アブ・フレイラは古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。 紀元前11,000年以上古くに穀物を栽培した跡が見られ、 現在のところ人類最古の農業の例となっている。 テル・アブ・フレイラはシリア北部アレッポから東に120km、 ユーフラテス川中流域の南岸の台地上にあったが、 現在ではアサド湖の水底にある。

住居跡は、 今からおよそ紀元前9,500年に成立し、紀元前8000年前頃まで続いた。 おそらくレバント南部に早くからいた終末期旧石器時代のナトゥーフ文化人が北東方面に当たるこの地に勢力を拡大したとみられる。 人口は最大で100人から200人であった。

一方、 紀元前11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出された。
この時期は、 最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、 この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、 採集に依存していた人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。
この時代の地層から出土したライムギの種子を放射性炭素年代測定などで分析した結果、 終末期旧石器時代にはすでに野生種から栽培種となっていただろうことが明らかになった。

なお、 発掘者のアンドリュー・ムーアらは同遺跡から得られた証拠に基づき、 西アジアにおける農耕の始まりはヤンガードリアス期の寒冷化が影響したとの仮説を提示した。

ナトゥーフ文化

ナトゥーフ文化(Natufian culture)

ナトゥーフ文化は、 紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化。
人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、 定住あるいは定住に近い生活が行われていた点に特徴がある。
おそらく世界最古の都市であるとされるイェリコは、 この時期に建設された。
いくつかの考古学的証拠は、 穀物、特にライ麦の計画的な栽培が、 ナトゥーフ文化期後半にテル・アブ・フレイラにおいて行われていたことを示しており、 これは人類史における最初の農耕の証拠である。
ただし、野生の穀物の方がより広く利用されていた。
また、ガゼルが狩猟されていた。

ナトゥーフの名前はイギリスの考古学者ドロシー・ギャロッドによってワジ・アン=ナトゥーフにちなんで名付けられた。
ワジ・アン=ナトゥーフはこの地域に多い涸れ川の一つであり、 ナトゥーフ文化の最初の考古学的証拠は、 ワジ・アン=ナトゥーフ北岸の土手にあるシュクバ洞窟(Shuqba cave)から発見された。