農耕・牧畜が発達すると、
作物を生育させるのに必要な水を、
雨水だけ依存していた初期農業に対し、
人工的な用水路やため池、
地下水の利用などによって得る農法が表れてくる。
前者を天水農法というのに対し、
この発達した農法を潅漑農法という。
潅漑農法では土木工事が必要になるので、
集団的、
組織的な共同作業を通じて、
より広範囲の農業共同体を生み出す。
この農法によって、
生産力は飛躍的に向上したが、
また水利をめぐって共同体間の争いが起こり、
地域権力が発生する。
このような潅漑農業は、
およそ
紀元前6000年紀なかごろ(紀元前5500年頃)に、
ティグリス・ユーフラテス川流域の
メソポタミア、
さらにナイル川流域のエジプトで始まった。
この両地域では、定期的な氾濫を繰り返す大河との格闘の中から人々は潅漑農業の技法を獲得し、
その発達を背景に、
定住が大規模に進み、
交易も広範囲となり、紀元前3000年頃には、
青銅器の使用、
文字の使用などを指標とする都市文明が形成されたと考えられる。
潅漑農業が始まったことを示す遺跡としては、
メソポタミア南部のウバイド遺跡の紀元前5500年以降の小神殿を持つ集落跡の出土などから想定されている。
洪水が多いこの低湿地で、
麦類の栽培を行うには、
人々が水の統御に成功したからと考えられている。
ナイル川流域では紀元前5000年頃、
おそらく
メソポタミアの農耕文明が伝えられ、
定期的な増水をくりかえすことからベイスン・イリゲイション(貯留式潅漑あるいは湛水潅漑)といわれる潅漑法を発達させた。
農業用水を確保するための水利工事は春秋時代から行われていたが、
戦国時代に各国の富国強兵策の一環として積極的に進められた。
中でも有名なのは、
秦王政(後の始皇帝)が鄭国という人物の策をいれて渭水の支流から水を引き、
咸陽の北方の原野を灌漑した鄭国渠(ていこくきょ)である。