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メソポタミア

作成日:2020/5/22

メソポタミアとは、 古代ギリシャ語で「複数の河の間」の意味。 その名の通り、 チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、 現在のイラクシリア北東、 トルコ南東の地域一帯を指す。

世界最古の文明が発祥した地であり、 メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶが、 「メソポタミア」と呼ばれるひとつの国家があったわけではない。 また古代ローマでは、 このメソポタミアを含め地中海東一帯を“太陽が昇る場所”を意味する「オリエント」とも呼んでいた。

文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。 シュメールの後も、 アッカドバビロニアアッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。 やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、 紀元前4世紀アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。

年表

紀元前6750年頃
  • ジャルモ遺跡などに見られる初期の農耕文明が生まれた。
    • これらの遺跡から、 土器の使用、 ムギの栽培と日干し煉瓦による住居を持ち、 定住生活を開始したことがわかっている。
      この段階の初期農耕は灌漑農業ではなく降水に依存する天水農業であり、 また周辺での羊などの牧畜も行われるようになった。
      この時期のシュメール以前の人種の系統は不明である。
紀元前6000年紀
  • メソポタミアで灌漑農業が始まった。
    • 紀元前6000年紀の初め頃、 まずメソポタミアの北部のジャジーラ(島の意味)と言われる比較的降水量の多い地域でも農耕が開始され、 その中頃にさらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、 灌漑農業が始まったと考えられる。
      その最初はティグリス中流のサマッラ遺跡で、 年間最低降水量が200mm以下の地域であるので、 灌漑に依存したと思われる。
紀元前5500年頃
  • メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場するが、 これもサマッラ文化の灌漑技術を継承したと考えられる。
  • このころメソポタミア南部に大規模な定住が進んで都市が形成されていった。
紀元前3000年代(紀元前4000年紀
  • 紀元前3000年代の初め頃、最初の都市文明が形成された。
    • その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。
      またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、 これが最古のまとまった楔形文字資料である。
      このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。
紀元前2000年代(紀元前3000年紀
  • シュメール初期王朝時代
    • 紀元前2900~2335年頃のシュメール初期王朝時代には、 ウルク、ラガシュ、ウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。
      シュメール人は青銅器や楔形文字を用い、 多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。
  • アッカド王国
    • 紀元前2300年頃、 メソポタミアの都市国家を統一し領域国家を形成したのはのセム系のアッカド人であった。
      アッカド王国(前2334~前2193頃)初代のサルゴン1世は、 シュメールの都市国家を支配下におき、 知事を派遣して、 都市国家の枠を超えた領域支配を行った。
      シュメールの都市は時に反乱を起こしたが、 それを鎮圧した後、 さらに強大となり、 第4代ナムラ=シンは「四方世界の王」(四海の王ともいう)と言う称号を使い南北のメソポタミアとその周辺を支配した。
      しかしアッカド王国は前2193年、 北東の山岳民族の侵入を受けて滅んだと言われている。
  • ウル第3王朝(前2112~前2004)
    • アッカド王国が滅んだ後、 シュメール人の都市国家が復興し、 その中からウル=ナンムが起こしたウル第3王朝(前2112~前2004)がメソポタミアを支配した。
      ウル=ナンムと後継者シュルギは財政基盤を確立し、 常備軍を創設し、 中央集権体制をとり、 シュメール法典といわれる法律を制定した。
      シュルギも「四方世界の王」を称しみずからを神格化した。
      しかし次第に他の都市も力をつけて独立し、 ウル第3王朝は分裂状態となり、 東方はエラム人に侵攻され、 また西方ではアムル人の領内への移住が激しくなった。
      その結果、 紀元前2004年にエラム人によってウル第3王朝は滅ぼされ、 その後南部メソポタミアにはシュメール人の残存勢力のイシン王国、 アムル人のラルサ王国が現れた。
      またそのころバビロンにアムル人のバビロニア王国が成立した。
      この三国は抗争を続け、 イシンがラルサに滅ぼされた後、 紀元前1763年にバビロニア王国のハンムラビ王に倒された。
紀元前1000年代(紀元前2000年紀
  • 古バビロニア王国
    • アムル人がバビロニアのバビロンを都にして建てた国がバビロン第1王朝で、 後の新バビロニアと区別するため、 古バビロニア王国という。
      紀元前18世紀の後半、 その第6代の王ハンムラビ王は、 ラルサ王国など周辺の諸国を倒してメソポタミア全域を統一した。
      ハンムラビ王は交通網を整備し、 また有名なハンムラビ法典を制定して国家の形態をととのえた。
      しかしハンムラビ王死後は東方山岳民族のカッシートの侵攻を受けるなどして衰退に向かい、 紀元前1595年、 小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。
  • 民族移動期
    • 紀元前2000年ごろから紀元前1500年ごろまでは、 西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。
      インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、 カッシート、 ミタンニなどが西アジアに侵入し、 メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。
      彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、 この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
  • アッシリア帝国
    • メソポタミア北部にすでに活動していたアッシリアは、 この間、 鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、 紀元前9世紀には西アジアで最有力となり、 前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、 アッシリア帝国は西アジア最初の世界帝国となった。
      これによって、 メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、 オリエント文明に統合されたと言える。
4国分立時代
アッシリア帝国は紀元前612年に滅亡して、 4国分立時代となり、 メソポタミアにはバビロンを都にしてカルデア人が自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が成立し、 有力となった。
新バビロニアのネブカドネザル王は前6世紀前半にパレスチナのユダ王国を滅ぼし、 ユダヤ人をバビロンに連行してバビロン捕囚を行った。
その他、小アジア西部にはリディア王国、イラン高原にはメディア王国それぞれ成立し、エジプトも独立を回復した。
ペルシャ帝国
しかしイランでメディアに代わってアケメネス朝が起こると、 紀元前6世紀中頃、 その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。
アケメネス朝ペルシャは、 楔形文字に代表されるメソポタミア文明を継承し、 オリエント文明を開花させたが、 前4世紀になるとギリシャ人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされた。
メソポタミア文明の継承と忘却
アレクサンドロス大王の帝国の成立によって、 メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明がさらにギリシャ文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。
アレクサンドロス大王の帝国が崩壊した後には、 メソポタミアの地はギリシャ系国家のセレウコス朝シリアに支配されるが、 オリエント的要素はギリシャ軽文化と融合しながら継承され、 その後のパルティアとササン朝ペルシャへと続くが、 ペルシャ帝国から始まったイラン人の文化的要素(その中心がゾロアスター教)が次第に強くなる。
そして7世紀にアラビア半島の興ったイスラーム教とその文明が、 一気に西アジアを席巻し、 オリエント的・メソポタミア的文化要素は忘れ去られていく。

概要

メソポタミアは、「川のあいだ」(メソ=間、ポタモス=川)を意味し、 チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。 特に南部(ティグリス・ユーフラテス両河の下流)は「肥沃な三日月地帯」の一部となっている洪積平野が広がり、 メソポタミア文明が形成された。

古代メソポタミア文明は、 メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、 世界最古の文明であるとされてきた。 最初の農耕・牧畜が始まり、 その中から青銅器を持ち、 楔形文字を用い、 多神教に基づく神殿(ジッグラト)を中心とした都市文明が生まれ、 六十進法や太陰暦などの文化が形成された。

このメソポタミア文明はエジプト文明とともに、ひろくオリエント文明を構成してる。 文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

地域的に、 北部がアッシリア、 南部がバビロニアで、 バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、 下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。 南部の下流域であるシュメールから、 上流の北部に向かって文明が広がっていった。 土地が非常に肥沃で、 数々の勢力の基盤となったが、 森林伐採の過多などで、 上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、 農地として使えない砂漠化が起きた。

古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。 古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。

発明等

車輪の発明
車輪は最古の最重要な発明とされているが、 その起源は古代メソポタミアで紀元前5000年紀(ウバイド期)にさかのぼる。
歴訪・占星術
星占術、暦法の研究。アッシリアの暦はユダヤ暦の基礎。
アルコール飲料
ワインやビールはメソポタミアでシュメール人により作られ、 後にシリアや周辺地域へ広まった。
シュメール文明の遺跡から発掘された粘土板では「ワイン」や「ビール」を指す単語がシュメール楔形文字ではなく、 違う系統の文字が使われていた例が存在する。
  • ワインは高級な部類で、一般市民はビールを飲んでいた。
  • ワインやビールのサービスや商売をするのは女性だった。
  • ハンムラビ法典では、酒の量をごまかしたら死刑になる。

文明・文化・遺跡

サマッラ文化

⇒出典