古代エジプト 紀元前3150年頃 -
紀元前30年
現在のエジプトと呼ばれる地域に芽生えた人類の営みを、
先王朝時代を経て、
複数あった王国が統合し初めてひとつの政体の下に統合された紀元前3150年頃の
初期王朝時代から、
紀元前30年頃にかけて
ナイル川流域に生まれた古代文明を、
紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代をいう。
ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された。
古代エジプト人は今日のエジプトの土地を上エジプト(タ・シェマ)と下エジプト(タ・メフ)と言う2つの国、あるいは2つの土地に分けて理解していた。
上下という表現は、
ナイル川の上流・下流に対応している。
ナイル川が一筋に流れ、
ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、
そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトと、
ナイル川の広大なデルタ地帯が扇状に広がり、
一面の緑が広がり海に面した下エジプトでは、
その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、
先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した。
その後エジプトが統一された後も、
この2つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。
現在のエジプトと呼ばれる地域では、
550万年前頃に原始
ナイル川が形成された。
この
ナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる。
当時
ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、
非常に温暖な気候であった。
古代エジプト文明は、
ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明である。
下エジプト(
ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、
メソポタミア文明の影響をうけて紀元前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、
ノモスという小国家の分立を経て、
紀元前3000年紀頃にノモスを統一してエジプト古王国を成立させた。
農耕文明は
メソポタミア文明より遅かったが、
統一国家の形成は
メソポタミア文明より早い時期であった。
古王国の時代に青銅器の使用、
文字(
ヒエログリフ)、
ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。
エジプト王国はその後、
中王国、新王国と推移し、
紀元前332年までに31の王朝が興亡した。
ここまでがエジプト古代文明と言うことができる。
この間、
一時的にヒクソス、
アッシリア、
ペルシャなどの異民族の支配を受け、
また新王国はシリアに進出するなど、
他のオリエント世界と密接な関係にあったが、
エジプト文明は維持された。
また、
オリエント世界だけでなく、
最近では
ナイル川上流のアフリカ世界の黒人王国であるクシュ王国のエジプト支配、
あるいは西方のリビアからの侵入があったこともわかってきている。
その後、
紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の支配、
プトレマイオス朝エジプトの
ギリシャ系権力が成立したが、
この王朝の王はファラオを名乗り、
エジプト文明の要素を吸収して、
いわゆるヘレニズム文明を形成した。
しかし、
プトレマイオス朝が
紀元前1世紀末にローマに滅ぼされ、
エジプト文明は終わりを告げた。
その後、
7世紀以降は
イスラーム化し、大きく変貌する。
- 先王朝時代
-
潅漑農業が始まった紀元前5000年頃から、
紀元前3100年頃から始まる初期王朝時代までをいう。
- 初期王朝時代
-
紀元前3000年頃、
ナイル川流域にエジプト古王国が成立。
ピラミッド、
ヒエログリフなどに見られる高度な文明を発展させ、
紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされる。
ナイル川
550万年前頃に原始ナイル川が形成された。
アフリカ東海岸を南から北に貫流する世界最長の川。
全長 6695km。流域はアフリカ大陸の約10分の1となる。
ウガンダ西部と
ルワンダ北部の高山地方に源を発するホワイトナイルと、
エチオピア高原(
エチオピアの北東部)に源を発するブルーナイルの2つの支流が、
スーダンのハルツームで合流しナイル本流となり、
さらに大支流アトバラ川と合流、
砂漠地帯でS字形を描き、
アスワンに達する。
そこからカイロまで洪水沖積地を流れ、
カイロ以北では広大なデルタを形成し、地中海に注ぐ。
ブルーナイルとアトバラ川は、
洪水期には肥沃な泥土を下流に運び、
古代エジプト文明を育てた。
アトバラ川合流点からデルタ地帯までは、
沿岸部はほとんど雨が降らない。
ナイル川は地中海からスーダンのワディハルファまで航行が可能である。
西暦1970年に完成されたアスワン・ハイダムは、
灌漑や発電などの多目的に利用され、
ナイル川の開発はエジプトの工業化計画に重要な役割を果している。
ピラミッド
ピラミッドは古代エジプトの石造の王墓。
底面が正方形の四角錐で、各側面は東西南北に面する。
地下に王と王妃の棺を安置する玄室を設け、
地上は切石を積み重ね、
石灰岩か花コウ岩でおおう。
北側から玄室へ通ずる
羨道を設ける。
マスタバから発展したもので、
サッカラにある階段式ピラミッドはこれを6段に積み上げた形式で、
最古とされる。
ピラミッドは第3王朝(前2800年ころ)から第17王朝(前1600年ころ)に建設されたものと、
はるか後代にスーダンに建設されたものと計60余を数える。
ギーザにある三大ピラミッドは有名。
エジプトのピラミッド地帯は西暦1979年
世界文化遺産に登録された。
なお
メソアメリカにもピラミッドが見られる。
- 羨道(えんどう/せんどう)
-
古墳で、主として遺体を収容しておく玄室から、
外部に通じる通路にあたる部分をいう。
横穴式石室、横穴にみられる。
まれにはこの部分に遺体を安置することもある。
副葬品の置かれている例がかなり多い。中国では墓道、甬道という。
エジプトを統一する王朝が登場するのは、
紀元前3150年頃である(
初期王朝時代)。
先王朝時代とは、それ以前の古代エジプトを指す時代区分である。
歴史学の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではないが、
考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる。
エジプト文明は、
ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて、
ナイル川流域に生まれた。
下エジプト(
ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、
メソポタミア文明の影響をうけて、
潅漑農業による農耕文明に入ったのは、
紀元前5000年頃からと考えられており、
その時期から、
紀元前3100年頃から始まる
初期王朝までの期間を先王朝時代と呼ぶ。
紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔に
ファイユーム文化が成立し、
紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心に
ナカダ文化が興った。
この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、
やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。
ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、
上エジプトに22、
下エジプトに20、
合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。
紀元前3500年頃にはまず上エジプト、
そして下エジプト、
二つの統一国家が成立したと考えられている。
紀元前3300年頃には
ヒエログリフの文字体系が確立し、
青銅器の使用、
ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄し、
太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。
農耕文明は
メソポタミア文明より遅かったが、
統一国家の形成はそれより早い時期であった。
エジプト暦
エジプト暦は、古代エジプトで行われた暦。
世界各地で暦法が発生した初期の時代、
その多くが太陰暦法であったと考えられるが、
ひとりエジプトでは太陽暦法であった。
紀元前4241年(一説には紀元前2781年)頃に成立した。
初めは1年を12か月、1か月を30日、1年を360日としたが、
紀元前20世紀ごろから365日の移動年(年始が年ごとに移動する)とし、
30日ずつの月12か月に5日の余日を最後に付加する太陽暦法であった。
また1年は4ヵ月ずつ3季節に分けられ、
第1の季節はシャイト (洪水) 、
第2はピリト (種まき) 、
第3はシェムウ (収穫) と呼ばれた。
エジプトではシリウス(おおいぬ座α(アルファ)星)が日の出の直前に東天に昇るころの一定時期に、
ナイル川が氾濫(はんらん)し、農業や生活に重大な影響を与えた。
そのためシリウスの日の出直前の出現を予知する必要から1年365.25日を知り、
シリウスの出現の日は元日とされた。この1年をシリウス年とよぶ。
しかしエジプト暦では、年は移動年であるから、季節はしだいにずれていく。
1461暦年は1460シリウス年に等しく、季節は1461移動年で元に戻る。
この周期をシリウス周期とよぶ。
紀元前238年にプトレマイオス3世(在位紀元前246年~紀元前221年)は4年ごとに1日を歳末に加えるよう法令を出したが、
実施されたのは、ローマ時代に
ユリウス暦が制定されたとき(紀元前45年)からであった。
古代エジプト人の子孫であるコプト人の間で使用されたコプト暦は、
エジプトと同じ太陽暦で、エチオピアでも用いられた。
ファイユーム文化
エジプト最古の新石器文化で、ファイユームA文化ともいう。
カイロの南西 80kmにあるカールーン湖の北西斜面で、
西暦1924年~西暦1928年に C.トムソンにより発見された。
サイロと炉が発見されているだけで、住居や墓は不明である。
小麦、大麦、亜麻を栽培し、豚、羊、やぎ、牛を飼育していた。
石器には磨製、打製の斧、
鏃、スクレーパー、槍などがあり、
球形の棍棒頭、骨製の銛や槍、土器としては赤色の粗製土器が多く使われた。
クアルン文化(カールーン文化ともいう)は、
ファイユーム遺跡を標式遺跡とする新石器文化。
従来ファイユームB文化とされていたもので、
ファイユームA文化 (→ファイユーム文化 ) よりも新しいものとされていたが、
クアルン文化がより古いと確認された。
ナイル川沿いにも分布を広げており、
ナイル川筋で確認できる最古の確立した農耕文化と考えられる。
年代は
紀元前6000年紀であり、
東サハラにより古く確立した農耕文化の伝統を受けているとされる。
他方、A文化は
西アジア起源の要素が強い。ナイルの農耕の起源は複雑である。
ナカダ文化
ナカダ文化は、
上エジプトのバダリー期に続く
先王朝時代の文化。
ルクソールの北方 30kmにあるナカダが標準遺跡。
多数の墓の副葬品から、
発掘者 F.ピートリーは SD法 (相対年代を決定する継起年代法) を工夫し、
これにより2つの文化期に大別した。
ナカダIはアムラー文化、ナカダⅡはゲルゼー文化に相当する。
アムラー文化は、エジプトのナイル流域 (上エジプト) の
先王朝時代初期の文化で、
紀元前3600年頃に相当する。
バダーリー文化から直接発展したもので、住居は大型化し、
集落は周壁で囲まれるようになる。
土器の中心は黒頂土器と赤色磨研土器で、
後者には幾何学文や動物、人物が描かれた。
押圧剥離を行なった美しい剥片石器、大型パレット、棍棒などが発見され、
分業や有力者の出現が想像される。
また木材やラピス・ラズリ、黒曜石などを
西アジアから輸入した。
エジプトの
先王朝時代後期の文化で、紀元前3300年~3100年頃に相当し、
ナカダⅡ文化とも呼ばれる。
標準遺跡はカイロの南 100kmにあるゲルゼー遺跡。
大規模な灌漑が取入れられたため、農業生産力は上昇し、
村は町に発展し、国家統一の過程にあった。
墓は数室をもつものや、
内部を漆喰で塗り壁画を描いたもの (ヒエラコンポリス出土) も現れた。
副葬品としては彩文土器、注口土器、波状取手付き土器、各種パレット、
洋なし形棍棒頭などがあり、
銅製品も発達した。
アジアとの交易は一層盛んとなり、
円筒印章の出土が報告されている。
...
バダーリ文化は、
紀元前5000年紀後半に成立した、
現在までに判明している上エジプト最古の
先王朝時代の文化で、
金石併用期に属する。
バダーリ、デイル・ターサ、ムスタジッダ、ハンマミーヤ等、
中部エジプトの
ナイル川東岸地域に集中して遺跡の分布を見るが、
その範囲は上流のナカダからヒエラコンポリス付近にまで及んでいる。
エンマ小麦、六条大麦、亜麻を栽培し、羊、ヤギ、牛等を飼育していた。
土器は薄手で、焼成は良好であり、
櫛目磨研土器とブラック・トップ赤色磨研土器とに代表される。
エジプト初期王朝時代は、
上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、
上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる、
紀元前3150年頃から、
エジプト第3王朝が成立する、
紀元前2686年頃のエジプトをいう。
紀元前3150年頃、
従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、
それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。
また、
ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、
ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。
ヘロドトスによれば第1王朝期に、
上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、
以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。
エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。
この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。