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古代エジプト

作成日:2022/2/11

古代エジプト  紀元前3150年頃 - 紀元前30年

現在のエジプトと呼ばれる地域に芽生えた人類の営みを、 先王朝時代を経て、 複数あった王国が統合し初めてひとつの政体の下に統合された紀元前3150年頃の初期王朝時代から、 紀元前30年頃にかけてナイル川流域に生まれた古代文明を、 紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代をいう。

ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された。 古代エジプト人は今日のエジプトの土地を上エジプト(タ・シェマ)と下エジプト(タ・メフ)と言う2つの国、あるいは2つの土地に分けて理解していた。 上下という表現は、ナイル川の上流・下流に対応している。

ナイル川が一筋に流れ、ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、 そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトと、 ナイル川の広大なデルタ地帯が扇状に広がり、 一面の緑が広がり海に面した下エジプトでは、 その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、 先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した。 その後エジプトが統一された後も、 この2つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。

年表

550万年前頃
50万年前頃
紀元前5000年頃
  • 潅漑農業による農耕文明に入り、 ノモスという小国家が分立。
紀元前3150年頃
  • 複数あった王国が統合し初めてひとつの政体の下に統合された初期王朝時代の開始。
紀元前525年
  • アケメネス朝ペルシャ帝国のカンビュセス2世が、エジプト人たちが、猫など神聖と考えていた動物の姿を兵士たちの盾に描き、エジプトを征服した。エジプト人たちは、描かれた動物たちを「傷つける」ことを恐れて逃げ去った。戦いの後、カンビュセス2世は、聖なる動物のために国を犠牲にしたエジプト人を軽蔑し、エジプト人たちの顔に猫を投げつけたという。(ペルシウムの戦い(英語版))
  • カンビュセス2世は、エジプト第26王朝最後の王プサメティコス3世を捕虜とし、当初は手厚く遇していたが、プサメティコス3世の反乱の企てが露見すると、すぐさま処刑した。
  • 第26王朝は断絶し、第27王朝が始まった。
  • 《死去》エジプト第26王朝最後のファラオ・プサメティコス3世。
紀元前502年
  • 12月4日 - エジプトで日食。(計算による。明確な同時代の観測記録はない。)
紀元前486年
  • ダレイオス1世の死去に際し、エジプトでアケメネス朝ペルシャの支配に対する反乱が起こった。この反乱は、恐らく西デルタのリビア人に率いられ、翌年、クセルクセス1世によって鎮圧された。
紀元前205年
  • エジプトの首相ソシビウスらは、プトレマイオス5世の母アルシノエ3世の報復を怖れてプトレマイオス4世の死を秘密にした。彼らはアルシノエを暗殺し、わずか5歳の新王はソシビウスの後見の元で王位に就いた。アルシノエは国民から人気が高かったため、彼女の暗殺が伝わると国内で暴動が起こった
紀元前204年
  • 土着エジプト住人がギリシア人支配者に反乱を起こす。反乱は上エジプトにまで広がる
  • プトレマイオス4世が死に5歳の息子のプトレマイオス5世が即位する。しかし王の死については何も公表されなかった

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紀元前660年
紀元前660年
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

概要

現在のエジプトと呼ばれる地域では、 550万年前頃に原始ナイル川が形成された。 このナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる。
当時ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、 非常に温暖な気候であった。

古代エジプト文明は、 ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明である。
下エジプト(ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、 メソポタミア文明の影響をうけて紀元前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、 ノモスという小国家の分立を経て、 紀元前3000年紀頃にノモスを統一してエジプト古王国を成立させた。

農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、 統一国家の形成はメソポタミア文明より早い時期であった。
古王国の時代に青銅器の使用、 文字(ヒエログリフ)、 ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。

エジプト王国はその後、 中王国、新王国と推移し、 紀元前332年までに31の王朝が興亡した。
ここまでがエジプト古代文明と言うことができる。

この間、 一時的にヒクソス、 アッシリア、 ペルシャなどの異民族の支配を受け、 また新王国はシリアに進出するなど、 他のオリエント世界と密接な関係にあったが、 エジプト文明は維持された。
また、 オリエント世界だけでなく、 最近ではナイル川上流のアフリカ世界の黒人王国であるクシュ王国のエジプト支配、 あるいは西方のリビアからの侵入があったこともわかってきている。

その後、 紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の支配、 プトレマイオス朝エジプトのギリシャ系権力が成立したが、 この王朝の王はファラオを名乗り、 エジプト文明の要素を吸収して、 いわゆるヘレニズム文明を形成した。
しかし、 プトレマイオス朝が紀元前1世紀末にローマに滅ぼされ、 エジプト文明は終わりを告げた。

その後、7世紀以降はイスラーム化し、大きく変貌する。
先王朝時代
潅漑農業が始まった紀元前5000年頃から、 紀元前3100年頃から始まる初期王朝時代までをいう。
初期王朝時代
紀元前3000年頃、 ナイル川流域にエジプト古王国が成立。
ピラミッドヒエログリフなどに見られる高度な文明を発展させ、 紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされる。

ナイル川

550万年前頃に原始ナイル川が形成された。 アフリカ東海岸を南から北に貫流する世界最長の川。 全長 6695km。流域はアフリカ大陸の約10分の1となる。
ウガンダ西部とルワンダ北部の高山地方に源を発するホワイトナイルと、 エチオピア高原(エチオピアの北東部)に源を発するブルーナイルの2つの支流が、 スーダンのハルツームで合流しナイル本流となり、 さらに大支流アトバラ川と合流、 砂漠地帯でS字形を描き、 アスワンに達する。 そこからカイロまで洪水沖積地を流れ、 カイロ以北では広大なデルタを形成し、地中海に注ぐ。

ブルーナイルとアトバラ川は、 洪水期には肥沃な泥土を下流に運び、 古代エジプト文明を育てた。 アトバラ川合流点からデルタ地帯までは、 沿岸部はほとんど雨が降らない。 ナイル川は地中海からスーダンのワディハルファまで航行が可能である。

西暦1970年に完成されたアスワン・ハイダムは、 灌漑や発電などの多目的に利用され、 ナイル川の開発はエジプトの工業化計画に重要な役割を果している。

ピラミッド

ピラミッドは古代エジプトの石造の王墓。
底面が正方形の四角錐で、各側面は東西南北に面する。

地下に王と王妃の棺を安置する玄室を設け、 地上は切石を積み重ね、 石灰岩か花コウ岩でおおう。
北側から玄室へ通ずる羨道を設ける。

マスタバから発展したもので、 サッカラにある階段式ピラミッドはこれを6段に積み上げた形式で、 最古とされる。
ピラミッドは第3王朝(前2800年ころ)から第17王朝(前1600年ころ)に建設されたものと、 はるか後代にスーダンに建設されたものと計60余を数える。
ギーザにある三大ピラミッドは有名。

エジプトのピラミッド地帯は西暦1979年世界文化遺産に登録された。
なおメソアメリカにもピラミッドが見られる。

羨道(えんどう/せんどう)
古墳で、主として遺体を収容しておく玄室から、 外部に通じる通路にあたる部分をいう。 横穴式石室、横穴にみられる。
まれにはこの部分に遺体を安置することもある。 副葬品の置かれている例がかなり多い。中国では墓道、甬道という。

先王朝時代

エジプトを統一する王朝が登場するのは、 紀元前3150年頃である(初期王朝時代)。 先王朝時代とは、それ以前の古代エジプトを指す時代区分である。

歴史学の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではないが、 考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる。
エジプト文明は、 ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて、 ナイル川流域に生まれた。
下エジプト(ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、 メソポタミア文明の影響をうけて、 潅漑農業による農耕文明に入ったのは、 紀元前5000年頃からと考えられており、 その時期から、 紀元前3100年頃から始まる初期王朝までの期間を先王朝時代と呼ぶ。

紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、 紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。 この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、 やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。
ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、 上エジプトに22、 下エジプトに20、 合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。 紀元前3500年頃にはまず上エジプト、 そして下エジプト、 二つの統一国家が成立したと考えられている。

紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、 青銅器の使用、 ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄し、 太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。

農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、 統一国家の形成はそれより早い時期であった。

エジプト暦
エジプト暦は、古代エジプトで行われた暦。 世界各地で暦法が発生した初期の時代、 その多くが太陰暦法であったと考えられるが、 ひとりエジプトでは太陽暦法であった。 紀元前4241年(一説には紀元前2781年)頃に成立した。

初めは1年を12か月、1か月を30日、1年を360日としたが、 紀元前20世紀ごろから365日の移動年(年始が年ごとに移動する)とし、 30日ずつの月12か月に5日の余日を最後に付加する太陽暦法であった。 また1年は4ヵ月ずつ3季節に分けられ、 第1の季節はシャイト (洪水) 、 第2はピリト (種まき) 、 第3はシェムウ (収穫) と呼ばれた。

エジプトではシリウス(おおいぬ座α(アルファ)星)が日の出の直前に東天に昇るころの一定時期に、 ナイル川が氾濫(はんらん)し、農業や生活に重大な影響を与えた。 そのためシリウスの日の出直前の出現を予知する必要から1年365.25日を知り、 シリウスの出現の日は元日とされた。この1年をシリウス年とよぶ。

しかしエジプト暦では、年は移動年であるから、季節はしだいにずれていく。 1461暦年は1460シリウス年に等しく、季節は1461移動年で元に戻る。 この周期をシリウス周期とよぶ。

紀元前238年にプトレマイオス3世(在位紀元前246年~紀元前221年)は4年ごとに1日を歳末に加えるよう法令を出したが、 実施されたのは、ローマ時代にユリウス暦が制定されたとき(紀元前45年)からであった。

古代エジプト人の子孫であるコプト人の間で使用されたコプト暦は、 エジプトと同じ太陽暦で、エチオピアでも用いられた。

ファイユーム文化

エジプト最古の新石器文化で、ファイユームA文化ともいう。 カイロの南西 80kmにあるカールーン湖の北西斜面で、 西暦1924年~西暦1928年に C.トムソンにより発見された。 サイロと炉が発見されているだけで、住居や墓は不明である。

小麦、大麦、亜麻を栽培し、豚、羊、やぎ、牛を飼育していた。 石器には磨製、打製の斧、、スクレーパー、槍などがあり、 球形の棍棒頭、骨製の銛や槍、土器としては赤色の粗製土器が多く使われた。

クアルン文化(カールーン文化ともいう)は、 ファイユーム遺跡を標式遺跡とする新石器文化。
従来ファイユームB文化とされていたもので、 ファイユームA文化 (→ファイユーム文化 ) よりも新しいものとされていたが、 クアルン文化がより古いと確認された。
ナイル川沿いにも分布を広げており、 ナイル川筋で確認できる最古の確立した農耕文化と考えられる。 年代は紀元前6000年紀であり、 東サハラにより古く確立した農耕文化の伝統を受けているとされる。
他方、A文化は西アジア起源の要素が強い。ナイルの農耕の起源は複雑である。

ナカダ文化

ナカダ文化は、 上エジプトのバダリー期に続く先王朝時代の文化。 ルクソールの北方 30kmにあるナカダが標準遺跡。 多数の墓の副葬品から、 発掘者 F.ピートリーは SD法 (相対年代を決定する継起年代法) を工夫し、 これにより2つの文化期に大別した。
ナカダIはアムラー文化、ナカダⅡはゲルゼー文化に相当する。

アムラー文化は、エジプトのナイル流域 (上エジプト) の先王朝時代初期の文化で、 紀元前3600年頃に相当する。 バダーリー文化から直接発展したもので、住居は大型化し、 集落は周壁で囲まれるようになる。 土器の中心は黒頂土器と赤色磨研土器で、 後者には幾何学文や動物、人物が描かれた。 押圧剥離を行なった美しい剥片石器、大型パレット、棍棒などが発見され、 分業や有力者の出現が想像される。 また木材やラピス・ラズリ、黒曜石などを西アジアから輸入した。

エジプトの先王朝時代後期の文化で、紀元前3300年~3100年頃に相当し、 ナカダⅡ文化とも呼ばれる。 標準遺跡はカイロの南 100kmにあるゲルゼー遺跡。 大規模な灌漑が取入れられたため、農業生産力は上昇し、 村は町に発展し、国家統一の過程にあった。 墓は数室をもつものや、 内部を漆喰で塗り壁画を描いたもの (ヒエラコンポリス出土) も現れた。 副葬品としては彩文土器、注口土器、波状取手付き土器、各種パレット、 洋なし形棍棒頭などがあり、 製品も発達した。 アジアとの交易は一層盛んとなり、 円筒印章の出土が報告されている。 ...

バダーリ文化は、 紀元前5000年紀後半に成立した、 現在までに判明している上エジプト最古の先王朝時代の文化で、 金石併用期に属する。

バダーリ、デイル・ターサ、ムスタジッダ、ハンマミーヤ等、 中部エジプトのナイル川東岸地域に集中して遺跡の分布を見るが、 その範囲は上流のナカダからヒエラコンポリス付近にまで及んでいる。

エンマ小麦、六条大麦、亜麻を栽培し、羊、ヤギ、牛等を飼育していた。 土器は薄手で、焼成は良好であり、 櫛目磨研土器とブラック・トップ赤色磨研土器とに代表される。

初期王朝時代

エジプト初期王朝時代は、 上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、 上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる、 紀元前3150年頃から、 エジプト第3王朝が成立する、 紀元前2686年頃のエジプトをいう。

紀元前3150年頃、 従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、 それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。
また、 ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、 ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。
ヘロドトスによれば第1王朝期に、 上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、 以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。
エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。
この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。

古王朝時代

(紀元前2686年 - 紀元前2181年)エジプト古王国
紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、 エジプト古王国期と呼ばれ、 エジプト最初の繁栄期に入る。
首都は一貫してメンフィスに置かれた。
古王国時代には中央政権が安定し、 強力な王権が成立していた。
このことを示すのが、 紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。
このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、 宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、 最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。
これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。
このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、 以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。
紀元前2613年にはスネフェルが即位し、 エジプト第4王朝が始まる。
この第4王朝期には経済が成長し、 またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。
スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、 リビュア、 シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、 まず屈折ピラミッドを、 さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。
スネフェルの次の王であるクフの時代に、 ピラミッド建設は頂点を迎え、 世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。 その後、 クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、 さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、 ピラミッドの建設は頂点に達した。
この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、 エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。
この後、 エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、 ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、 材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。
続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、 紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシャ語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、 中央政府の統制力は失われていった。
紀元前2184年にペピ2世が崩御">崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、 紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。
(紀元前2181年 - 紀元前2040年)エジプト第1中間期
第6王朝崩壊後、 首都メンフィスにはエジプト第7王朝、 エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、 実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。
この混乱の時代を総称し、 第1中間期と呼ぶ。
やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、 上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。
(紀元前2040年 - 紀元前1663年)エジプト中王国
紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、 紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、 エジプト中王国時代が始まった。
首都は引き続きテーベにおかれた。
また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、 第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、 日干しレンガを多用したものが主となった。
紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、 首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。
第12王朝期は長い平和が続き、 国内の開発も急速に進んだ。
特に歴代の王が力を注いだのは、 ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、 センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、 ファイユームは広大な穀倉地帯となった。
センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。
中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、 とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、 唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。
センウセレト3世は名君として知られており、 国内においては州侯の勢力を削ぎ、 行政改革を行って国王の権力を拡大している。
つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、 紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、 またハワーラのピラミッドが造営されている。
しかし彼の死後は短命な政権が続き、 紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。
(紀元前1663年 - 紀元前1570年)エジプト第2中間期
第12王朝からエジプト第13王朝への継承はスムーズに行われ、 制度その他もそのまま引き継がれたものの、 王朝の統治力は急速に弱体化していった。
この時期以降、 エジプト第2中間期と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。
まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、 ついでエジプト第14王朝などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、 やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、 各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。
下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、 一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、 南北分立の体制となった。
また、 第15王朝は下エジプトのみならず、 隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。
(紀元前1570年 - 紀元前1070年)エジプト新王国
紀元前1540年頃、 上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、 エジプト新王国時代がはじまった。
イアフメス1世は第17王朝の王であるが、 エジプト統一という一大画期があるため、 連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。
イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、 第15王朝を完全に滅ぼした。
これが嚆矢となり、 以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、 パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、 ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。
このため、 新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。
首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。
イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、 この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。
次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。
紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、 ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、 ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。
また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、 以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。
次のトトメス2世は早世したため、 紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、 実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、 統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、 この時代にプントとの交易が再開され、 またクレタなどとの交易も拡大したが、 一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。
紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、 実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、 メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。
続くアメンホテプ2世、 トトメス4世、 アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、 エジプトの国力は絶頂期を迎えた。
しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、 王家と徐々に衝突するようになっていた。
こうしたことから、 次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、 アメン信仰の中心地である首都テーベからテル=エル=アマルナへと遷都し、 太陽神アテンの一神教に改める、 いわゆるアマルナ宗教改革を行った。
このアテン信仰は世界最初の「一神教」といわれ、 アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、 国内の統治に集中して戦闘を避けたため、 当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、 国力が一時低下する。
紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、 テル=エル=アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、 アイを経てホルエムヘブが即位する。
ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、 親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。
これにより第18王朝の血筋は絶え、 以後は第19王朝と呼ばれる。

王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、 権力はスムーズに移譲された。
ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、 前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。
紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、 彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。
紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、 カデシュの戦いが起きた。
この戦いは痛み分けに終わり、 この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。
またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、 下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。
その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、 彼の死後は短期間の在位の王が続き、 内政は混乱していった。
紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、 第20王朝が新たに開かれた。
第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、 この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、 彼の死後は国勢は下り坂に向かい、 やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。
これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、 基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。
(紀元前1069年 - 紀元前525年)エジプト第3中間期
第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、 紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。
紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、 アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。
紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、 アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、 その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。
こうした中、 エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、 紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、 第25王朝を開いた。
しかしその後、 メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、 紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。
一時奪回に成功したものの、 アッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。
(紀元前525年 - 紀元前332年)エジプト末期王朝
アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。
この王朝を第26王朝と呼ぶ。
第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、 アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、 紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。
これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、 また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。
アッシリアはその後滅亡し、 その遺領はエジプト、 新バビロニア、 リディア、 メディアの4つの王朝によって分割された。
プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、 紀元前605年、 カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。
サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、 上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、 紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、 リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、 紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、 エジプトはペルシャによって征服された。

ペルシャのエジプト支配は121年間に及び、 これを第27王朝と呼ぶが、 歴代のペルシャ王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。
しかしダレイオス2世の死後、 王位継承争いによってペルシャの統治が緩むと、 サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、 紀元前404年にはペルシャからふたたび独立を達成した。
これが第28王朝である。
第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、 次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、 紀元前378年からは第30王朝が立てられ、 約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、 東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、 それにおびえながらの不安定な政情が続いた。
そして紀元前341年、 アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、 エジプトはペルシャに再征服された。
アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、 圧政を敷いた。
(紀元前332年 - 紀元前30年)プトレマイオス朝
ペルシャのこの圧政は10年間しか継続せず、 紀元前332年、 マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、 占領された。
アレクサンドロスがペルシャを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、 紀元前323年アレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、 王国は分裂した。
この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、 紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、 古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。
この王朝はセレウコス朝シリア王国、 アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、 国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。
プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、 国制を整え、 またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。
続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、 その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、 またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。
紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、 以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。
紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、 紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、 紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。
クレオパトラ7世は自殺し、 プトレマイオス朝は滅亡した。
これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、 以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。