ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族に属する言語を話し、
紀元前18世紀から
アナトリア北部の
ハットゥシャを中心とする王国を作った古代の人々である。
紀元前14世紀にヒッタイト王国はその最盛期を迎え、
アナトリア中央部、シリア南西部、
そして遠くはウガリット、
メソポタミア北部までを包含した。
紀元前1180年以降、
海の民が突如として侵入した事に関係したレバントにおける全般的な動乱の中で、
ヒッタイト王国は崩壊して、
いくつかの独立した「シロ・ヒッタイト国家群」と呼ばれる都市国家群となり、
それらの内のいくつかは
紀元前8世紀頃まで存続した。
ヒッタイト文明の歴史は、
その多くがヒッタイト王国の領域から見つかった
楔形文字の古文書、
およびエジプトや中東に残る数多くの古文書の中から見つかった外交・商業関係の文書により分かったものである。
ハッティ人とヒッタイト人
紀元前5000年ごろから紀元前2000年以前の中央アナトリアにおいて、
ハッティ人が最も有力な居住者で、
他にアッシリア人の入植地もあった。
ハッティ人は、
インド・ヨーロッパ語族には属さないハッティ語を話し、
ヒッタイト人とは別の文化を持っていた。
紀元前2000年より少し前に、
ヒッタイト人とその他のアナトリアの諸民族がアナトリアへ来たと考えられているが、
それ以前にヒッタイト人がどこにいたのかという事ははっきりとしない。
クルガン仮説を支持する学者は、
紀元前4千年紀から
紀元前3千年紀におけるインド・ヨーロッパ語族の根拠地はポンティック・ステップ、
すなわち現在のウクライナのアゾフ海周辺であり、
北からおそらくカスピ海に沿って中央アナトリアに来たと考えている。
一方、アナトリア仮説を支持する学者は、
同じアナトリアの別の地域から中央アナトリアに来たと考えている。
ヒッタイト人が中央アナトリアに定住するまでにはいくらかの時間が掛った。
数世紀にわたって、
ヒッタイト人はいくつかのグループに分かれており、
普通は様々な都市を中心として生活していた。
しかしボアズキョイを中心とするグループの強力な支配者たちが、
これらの都市をまとめあげて、
中央アナトリアの大部分を征服するに至り、
ここにヒッタイト王国が建国された。
初期のヒッタイト人は、
その出自は不明確だが、
既に存在した
ハッティ人やアッシリアの商人から多くの文化を取り入れており、
中でも特筆すべきものは
楔形文字や円筒印章の使用である。
ヒッタイト人は
ハッティ人やアッシリア人から
楔形文字を取り入れた。
紀元前2千年紀の初頭からこの地域にインドヨーロッパ語族のヒッタイト語が現れ、
その後6世紀~7世紀にわたってヒッタイト王国の公用語となった。
「ヒッタイト語」とは現代の慣用名であり、
ヒッタイト語では「Nesili」(「ネサの言語」の意)と呼んだ。
ヒッタイト王国においても、
ハッティ語は宗教目的で使われ続けており、
ハッティ人とヒッタイト人の文化にはかなりの連続性があるので、
ハッティ人はヒッタイト人に取って代わられたのか、
ヒッタイト人に吸収されたのか、
あるいは単にハッティ語が外来語として用いられただけなのかは定かでない。
ヒッタイト人がアナトリア地域へ移動してきた事が、
紀元前1900年ごろの中東における民族大移動を引き起こすきっかけとなった。
ハッティ人
ハッティ人(英語: Hattians)は、
アナトリア半島中央部の、
「ハッティの地」と称された領域に居住していた古代の民族。
非印欧語族の言語を話していたと推定される。
この民族については、
アッカド王サルゴン(紀元前2300年ころ)が築いた帝国の時代から、
インド・ヨーロッパ語族系のヒッタイト人に徐々に吸収、
同化された紀元前2000年から紀元前1700年ころまで記述が残されたが、
以降はもっぱらヒッタイト人たちが「ハッティの土地」と結びつけられるようになった。
歴史
アナトリア半島中央部を意味する最も古い表現である「ハッティの地」は、
アッカド王サルゴンの時代(紀元前2350年 - 紀元前2150年ころ)に遡る、
メソポタミアの
楔形文字の粘土板に現れる。
そこでは、アッシリア/アッカドの商人たちがサルゴン王に援助を求める嘆願を行なっていた。
アッシリアの年代記類において、
「ハッティの地」という呼称は、
その後も
紀元前650年まで、
1,500年ほど用いられ続けた。
その後のヒッタイトの記録によれば、
サルゴン大王は、
ルウィ人の王プルシュアンダのヌルダガル (Nurdaggal) と戦ったとされ、
サルゴンの後継者であるアッカドのナラム・シンは、
ハッティ王パムバや16の連合者たちと戦ったという。
ハッティ人を指して「原ヒッタイト (proto-Hittite)」と呼ぶことがあるが、
これは不正確な呼称である。
ネサ(キュルテペ)の言葉でネシリと呼ばれていたヒッタイトは、
インド・ヨーロッパ語族の言語を用いており、
ハッティ人とは言語系統が異なっていた。
ハッティ人たちは、
自分たちの王国を「ハッティの地」と称し続けた。
やがてハッティ人も、
ヒッタイト語、
ルウィ語、
パラー語などインド・ヨーロッパ語族の言語を用いる人々と同化していった。
ハッティ人は、都市国家や小規模な王国、公国ごとに組織されていた。
それぞれの都市は神権政治を行う公国として組織されていた。
言語
ハッティ人が用いていたハッティ語は、
インド・ヨーロッパ語族の言語ではなく、
系統は不明である。
今日では、一部の研究者たちは、
北西コーカサス語族に関係する言語と考えている。
トレヴァー・ブライスは、
次のように記している。
いわゆる「ハッティ人」の文明の証拠は、
後年のヒッタイト語の古文書の中に見出される、
インド・ヨーロッパ語族の言葉ではない、
ある言語の断片によってもたらされる。
この言語は「hattili」、
すなわち「ハッティの言語」と称されている。
伝えられている数少ないテキストは、
宗教的、
ないしカルト的な性格の内容である。
これらのテキストは、
多数のハッティの神々の名や、人名、地名を伝えている。
ヒッタイトの
楔形文字の粘土板に見出されるハッティ語のテキストは、
150件ほどの例がある。
ハッティ人の指導者たちは、
おそらくは古アッシリア語を書く書記を用いたものと思われる。
トルコの考古学者エクレム・アクルガルによれば、
「アナトリアの君主たちは、
メソポタミアとの交易やカネシュ(キュルテペ)における取引のためにアッシリア語を身につけていた書記を用いていた」が、
これはアッシリアとの取引を行うことが目的であった。
紀元前21世紀から紀元前18世紀にかけて、
アッシリアはハッティの地に、
ハットゥム (Hattum) やザルプワなど交易の拠点を設けていた。
研究者たちは長らく、
アナトリア地方の人口の大部分は、
「(紀元前の)第3千年紀には、インド・ヨーロッパ語族の言語を用いる人々が到来する以前からの先住民であるハッティ人と呼ばれる人々であった」と考えてきた。
しかし、インド・ヨーロッパ語族の言語を用いる人々が、
アナトリア半島中央部に、
より早い時点から共存していたこともあり得る、
という見方もある。
ペトラ・ゲーデゲブーレ (Petra Goedegebuure) は、
ヒッタイト人による征服以前に、
インド・ヨーロッパ語族の言語、
おそらくはルウィ語が、
ハッティ語とともに既に長期間にわたって話されていた、
とする見方を提案している。
ヒッタイト新王国の時代に近づくにつれ、
ハッティ語は能格性を強めていった。
この展開は、
ハッティ語が、
少なくとも紀元前14世紀末までは、
生きた言語であったことを示唆している。
アレクセイ・カッシアン (Alexei Kassian) は、
統語論的にSOV型の構文をとる北西コーカサス語族(アブハズ・アディゲ語族)が、
語彙においてハッティ語に通じるという説を提案している。
宗教
ハッティ人の宗教は、
石器時代まで遡る。
それは地母神として神格化された大地への信仰に関わるものであり、
ハッティ人たちは地母神を讃えることで、
収穫の豊穣と、自分たちの安寧を願った。
ハッティ人の万神殿には、嵐の神タル(Taru:雄牛の姿をしている)、
太陽神フルセムないしウルセム(豹の姿をしている)をはじめ、
他の様々な要素を神格化した神々がいた。
チャタル・ヒュユクに残されたレリーフには、
女性が雄牛を生む図があるが、
これはすなわち地母神カタハ (Kattahha) ないしハンナハンナ (Hannahanna) が、
嵐の神タルの母親であることを表している。
後には、ヒッタイト人たちが、
こうしたハッティ人の神々の多くを自分たちの信仰に組み込んで行った。
ジェームス・メラートは、アナトリア先住民の宗教は、
「大地から得られた水 (water-from-the-earth)」という概念を軸にしているとする説を唱えた。
画像や文で示された典拠は、
アナトリアの住民たちにとって特に重要であった神が、
大地の水の神であったことを示している。
他の多数の神々が大地と水に結び付けられていた。
ヒッタイトの
楔形文字では、
大地の水の神は、通常 dIM と表現された。
アナトリアの嵐の神々は、
確認されている異綴りが百種類ほどあるが、dU などとされ、
大部分は「ハッティの嵐の神」というように、
各都市の名を入れて呼ばれていた。
ヒッタイトの伝説であるテリピヌと大蛇のような竜イルルヤンカシュの話は、
その原型がハッティ人の文明に遡る。
人相
青銅器時代のアナトリアに存在した社会は、
ほとんどの場合に複数の言語を用いていたが、
ハッティ人とヒッタイト人では、
おそらくは個人の身体的特徴も異なっていたと考える研究者もいる。
カデシュの戦いを記録したエジプト側の描写には、
鼻の高いハッティ人の兵士たちへの言及があるが、
それを指揮するヒッタイト人の指揮官たちは風貌が異なっていたとエクレム・アクルガルは述べている。
この説は非常に疑わしく、実際のところ、
ヒッタイトのエリートと庶民で描写の違いが見られない。
ヒッタイト王国の起源
ヒッタイト王国の初期の歴史は、
紀元前17世紀ごろに初めて書かれたとみられるが、
紀元前14世紀および
紀元前13世紀に作られた複製としてしか残っていない粘土板を通じて知る事が出来る。
これらの粘土板はアニッタ文書という総称で知られるもので、
クッシャラ(KussaraあるいはKusssar。考古学的に未だ発見されていない小さな都市国家)の王ピトハナがいかにして隣の都市カニシュ(ネサ)を征服したかを説くところから始まる。
しかしながら、これらの粘土板の本当の主題はピトハナの息子アニッタについてである。
アニッタは父の遺業を継いで、
隣接する
ハットゥシャ、
ザルプワ(ザルパ)などいくつかの都市を征服した。
しかしながら、
アニッタの帝国は建国してほとんど間もなく崩壊し、
その地域ではその後数十年にわたって歴史の記録も行われなくなったが、
いくつかの主要な遺跡は明らかに破壊されており、
長きにわたって続いてきたアッシリア商人の交易システムも機能しなくなっていた。
再び文献記録が現れた頃には、
クッシャラを根拠地とする小さな王国が再び中心的地位を占めていたが、
その支配者がアニッタに連なる者であるかどうかは不確かである。
古王国
ヒッタイト王国を建国したのは、
ハットゥシャの南北の地域を征服したラバルナ1世あるいはハットゥシリ1世のいずれかとされている(これらが同一人物ではないかとする論争もある)。
ハットゥシリ1世はシリアのヤムハドまで遠征して攻撃したが、
その首都であるアレッポを攻め落とす事は出来なかった。
彼の後継者であるムルシリ1世は、
紀元前1595年の戦役でアレッポを征服した。
また紀元前1595年にムルシリ1世はユーフラテス川を下って大襲撃を行い、
マリとバビロンを陥落させた。
しかしながら、ヒッタイトの外征は国内の紛争により中止され、
軍はヒッタイト本国へ引き揚げた。
それ以降の
紀元前16世紀の間を通じて、
ヒッタイトの王たちは王家の争い、
そして東に隣接するフルリ人との戦争により本国に止まらざるを得なかった。
またシリアと
メソポタミアへの遠征により、
アナトリアに
楔形文字による筆記が再び取り入れられたものとみられる。
なぜなら、
ヒッタイト文字は先行するアッシリア人の入植地時代の文字とは明らかに異なっているからである。
ムルシリはハットゥシリ1世の外征を継続した。
ムルシリの外征は
メソポタミアに達し、
紀元前1531年にはバビロンを略奪しさえもした。
しかしムルシリは、
バビロニアをヒッタイトの支配下に組み込むというよりは、
むしろバビロニアを同盟国のカッシートに引き渡したようで、
その後カッシートが4世紀にわたってバビロンを支配する事になる。
しかしながら、
この長きにわたる戦役はハッティの資源を浪費し、
首都は無政府状態のまま放置された。
ムルシリは帰国後すぐに暗殺され、
ヒッタイト王国は混乱状態に陥った。
チグリス川とユーフラテス川の上流部の山地に住むフルリ人は、
この状況を利してアレッポとその周辺地域を掌握し、
さらにアダニヤ(Adaniya)の沿岸地域を獲得してキズワトナ(後のキリキア)と改称した。
この後、ヒッタイトは弱小期に入り文献記録も途絶え、
傑出した君主もなく、
その支配領域も縮小した。強い王の下での拡張と、
弱い王の下での縮小というこのパターンがヒッタイト王国の500年の歴史を通じて何度も何度も繰り返された。
このため衰弱期の事象の歴史を正確に組み立てる事は難しい。
この頃のヒッタイト古王国の政情不安定の一因は、
その頃のヒッタイトの王権のあり方により説明できる。
紀元前1400年以前のヒッタイト古王国では、
ヒッタイト王はヒッタイト市民からエジプトのファラオのような「生き神様」と見なされていたのではなく、
むしろ平等市民の中の第一位の者と見なされていた。
ムルシリ1世から数代を経た君主がテリピヌ(紀元前1500年ごろ)である。
彼は南西方面でフルリ人の国の一つであるキズワトナと同盟して、
別のフルリ人の国(ミタンニ)に対して何度か勝利したようである。
中王国
テレピヌの治世が「古王国」の最後となり、
「中王国」として知られる長きにわたる弱小期が始まる。
紀元前15世紀の期間は、
現存する記録が疎らであるため殆ど分かっていない。
中王国は、ヒッタイトの歴史における一つの時代というよりは、
むしろ古王国から新王国への過渡期に当たる。
この期間のヒッタイトの歴史については殆ど分かっていないが、
古王国の最後の君主テレピヌの治世は紀元前1500年まで続いた。
それに引き続き詳細不明の「中王国」が70年続き、
その後で新王国が誕生する。
新王国
新王国の時代は「ヒッタイト帝国時代」とも呼ばれ、
歴史の霧の中に覆われていたヒッタイト王国が再び姿を現してくる。
ヒッタイト文明は「ヒッタイト帝国時代」と呼ばれる時代に入った。
この時代には多くの変化が起こった。
紀元前1430年頃からのトゥドハリヤ1世の行った革新的な事績は、
隣国との条約や同盟の実施である。
これによってヒッタイトは国際政治・外交の分野における先駆者とされている。
トゥドハリヤ1世王の治世(紀元前約1400年頃)の時代、
再びキズワトナと同盟を結び、
フルリ人の都市であるアレッポとミタンニを征服し、
アルザワ(ルヴィ人の国)を犠牲にして更に西へ拡張した。
王権が強化され、
帝国時代にはヒッタイト人の入植が進んだ。
しかしながら、
ヒッタイトの人々はエーゲ海の土地よりもむしろアナトリア南部の古来の土地に定住する傾向があった。
この入植がすすむにつれて、隣接地域の人々と条約を調印した。
ヒッタイト帝国時代の間、王権は世襲制となり、
王は「神がかり的な雰囲気」をまとい、
ヒッタイト市民からは「わが太陽」と呼ばれ始める。
帝国時代の王は高位の聖職者として行動するようになり、
毎年ヒッタイトの聖なる都市を巡幸したり、祭祀を執り行い、
聖地の維持費を監督したりした。
紀元前1400年から紀元前1200年までのヒッタイト帝国後期の間だけ、
ヒッタイトの王権はより中央集権化した。
トゥドハリヤ1世の引き続いて、再び弱小期となり、
ヒッタイトの敵が全ての方向から攻め込み、
ハットゥシャまでもが陥落して破壊された。
しかしながら、
王国はシュッピルリウマ1世(紀元前約1350年頃)の下でかつての栄光を取り戻し、
彼は再びアレッポを征服し、
ミタンニを服属させて彼の養子の下に納税させ、
更にウガリットを従属させ、
シリアの都市国家カルケミシュを破った。
彼自身の息子たちがこれらの新しい征服戦争に配置されている中、
バビロニアは依然としてカッシートの手中にあり、
そしてミタンニ帝国の崩壊によりアッシリアだけが新たに完全に独立した。
こうした中、
シュッピルリウマはエジプト域外における最高権力の調停役としてあり続けたが、
間もなく別の息子とツタンカーメンの未亡人の婚姻を通じてエジプトと同盟することを模索した。
だが、その息子は目的地へ到着する前に明らかに殺されており、
この同盟が結ばれる事はなかった。
シュッピルリウマ1世と、
その最年長の息子によるごく短期間の治世ののち、
別の息子であるムルシリ2世が王となった(紀元前約1330年頃)。
東における優勢な地位を継承して、
ムルシリは西に注意を向ける事ができ、
彼はアルザワ、
およびアヒヤワ(Ahhiyawa)の沿岸の土地にあるミラワンダとして知られる都市を攻撃した。
最近の多くの研究では、アヒヤワのミラワンダとは、
ギリシャ史において知られるアハイアとミレトスを指すものではないかと推測しているが、
このつながりに異を唱える説も少数存在する。
カデシュの戦い
ヒッタイトの繁栄は、主に交易路と鉱山を掌握している事に依存していた。
キリキアの門(トルコ南部のトロス山脈を抜ける山道)と
メソポタミアをつなぐ生命線としてシリア北部は重要な地域であり、
したがってこの地域の防衛がヒッタイトの興廃を決する言ってもよい。
カデシュの戦い(英語:Qadesh battle)は、
紀元前1286年頃にシリアのオロンテス川一帯で起きた、
古代エジプト(ラムセス2世)とヒッタイト(ハットゥシリ3世)の戦いである。
史上初の公式な軍事記録に残された戦争であり、
成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。
エジプトのファラオ、
ラムセス2世の下で行われたエジプトの外征に対して、
この地域をムワタリ率いるヒッタイト軍が防衛できるかどうかが早速にも試されることとなった。
この戦いの結果は不確かであるが、
エジプトの援軍が適時に到着した事により、
ヒッタイトの完全勝利とはならなかったようである。
エジプト軍はヒッタイト軍をカデシュ要塞に追い詰めたが、
エジプト軍の損害も大きく、
それ以上の攻城戦を戦う余力は残っていなかった。
この戦いはラムセス治世の5年目(最も一般的に用いられている年代記によれば紀元前約1274年)に起こった。
戦いの経過
エジプトのラムセス2世は治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、
ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。
ヒッタイトのムワタリ2世はすぐにアムル奪還を目指し、
同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。
進軍途上で2人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、
ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、
防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。
エジプト軍は、
それぞれ神の名を冠したプタハ、
セト(ステフ)、
アメン(アモン)、
ラーの四軍団に分けられていた。
ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、
強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。
再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、
先の情報が嘘であること、
そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、
時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊2,500両が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、
その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。
エジプト軍の敗勢必至であったが、
アムルからの援軍が突如現れ、
ヒッタイトを撃退した。
エジプト軍は再結集し、
戦車隊を破ったが、
逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。
戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。
ラムセス2世はこれを受諾し、
両軍とも兵を退くこととなった。
ラムセス2世が負けることはなかったものの、
多くの死傷者を出し、
領土も獲得できなかった。
また、アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。
王国の衰退と消滅
この時から、アッシリアの台頭によりヒッタイトの力は再び凋落していった。
ムワタリがエジプト軍に専念している間に、
アッシリア人はミタンニを征服する機会を掴み、
さらにユーフラテスへ拡大した。
ヒッタイトの交易路に対して、
アッシリアはかつてのエジプトと同じくらい強大な脅威として台頭してきた。
ムワタリの息子ウルヒ・テシュプ(Urhi-Teshub)がムルシリ3世として王位に就き7年間にわたって王として支配したが、
短期間の内戦の末に叔父のハットゥシリ3世が簒奪した。
アッシリアによる国境への侵入が増加している事に対応して、
ハットゥシリ3世はラムセス2世との和平・同盟を締結し、
娘をファラオに嫁がせた。
「カデシュの和約」は、
完全な形で現存する歴史上最古の条約の一つであり、
両者の国境線をカナン(Canaan)に定め、
ラムセス治世の21年目(紀元前約1258年)に署名された。
この条約の約定の中にはヒッタイトの王女の内の一人をファラオ・ラムセスに嫁がせるという項目が含まれていた。
ハットゥシリの息子トゥドハリヤ4世は、
アッシリアをシリア域外にて食い止め、
さらに一時はキプロス諸島を編入しさえもしたが、
ヒッタイトにとっては彼が最後の強い王となった。
最後の王、シュッピルリウマ2世も、
キプロス沖合における
海の民との海戦を含めていくつかの勝利を挙げた。
しかし、その勝利は小さすぎ、また遅すぎた。
海の民は、地中海の海岸沿いに既に侵攻を始めており、
エーゲ海を初めとしてフィリスティアに向かって進軍を続け、
彼らの望む交易路を切り開くべくキリキア(旧キズワトナ)およびキプロスをヒッタイトから切り離した。
これによりヒッタイト本国は全ての方向からの攻撃に対して脆弱となり、
紀元前1180年ごろに
ハットゥシャは全焼し、
カスカ(Kaskas)、
フリギア(Phrygia)、
ブリゲス(Bryges)の連合した猛攻にさらされた。
これにより、ヒッタイト王国は歴史記録から姿を消した。
シリア・ヒッタイト王国群
詳細は「シロ・ヒッタイト国家群(英語版)」および「リュディア」を参照
紀元前1160年までに、
小アジアの政治状況は、
その僅か25年前と比べると大きく様変わりしていた。
その年、
アッシリアは「ムシュキ」(フリギア)をアナトリア高地から
メソポタミア最北部へと圧迫しており、
そしてカスカ族(ハッティと黒海間の山国から来て古くはヒッタイトと敵対した民族)も間もなくそれに加わったと思われる。
「ムシュキ」(あるいはムシュク)は西からカッパドキアを越えて逃れたみられる。
最近発見された碑文の証拠によれば彼らの出自はバルカン半島の「ブリゲス」(Bryges)族であり、
マケドニア人によって追い出されたと確認できる。
この時点でヒッタイトはアナトリアから姿を消していたが、
いわゆる「新ヒッタイト」と呼ばれる数多くのヒッタイト王国群がアナトリアとシリア北部で勃興してきた。
シリアの新ヒッタイト王国群の中で最も顕著なものはカルケミシュおよびメリド(後のマラティヤ付近)にあったものである。
それらはヒッタイト王国の継承者であった。
これらの新ヒッタイト王国群は、
紀元前8世紀にはアッシリアのサルゴン2世の治世の間にカルケミシュが侵略され、
更に数十年後にはメリドも侵略されて、
次第にアッシリアの支配下に入っていった。
タバルとして知られる広大で強い国がアナトリア南部の大部分を占めていた。
かれらの言語はルウィ語であったかもしれない。
アナトリア象形文字を使って書かれたルウィ語の碑文でそう証言されている。
最終的に、
楔形文字ルウィ語とアナトリア・ヒエログリフは、
新たに登場した画期的なアルファベット(en:Alphabets of Asia Minor)によって廃れた。
アルファベットは(後にフリギアに名を変えたブリゲス族とともに)エーゲ海文明から、
そしてフェニキア人やシリアの隣の人々から、
ほぼ同時的に入ってきたとみられる。[要出典]