小窓
安土桃山時代(あづちももやまじだい)

作成日:2019/10/11

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、 日本の歴史において、 織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。 2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。

織田信長の居城が安土城(滋賀県近江八幡市安土町)で、 豊臣秀吉の居城伏見城が桃山丘陵(京都市伏見区桃山町)にあったことから、 このように歴史学者から呼ばれる。 特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、 この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。 ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、 安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので、 桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。

安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。

始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(西暦1568年)、 義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(西暦1573年)、 安土城の建設が始まった天正4年(西暦1576年)とする考えもある。

終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(西暦1598年)、 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(西暦1600年)、 家康が伏見城で征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(西暦1603年)などがある。

「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、 室町時代戦国時代と重複してしまうことがその定義を難しくしている。

年表

西暦1568年永禄11年)
  この年   尾張国の大名の織田信長が上洛を開始する。日本史において、この出来事を中世と近世の区切りとする
  この年   織田信長が入京し、足利義昭を室町幕府15代将軍にする
西暦1569年永禄12年)
1月14日(永禄11年12月27日)徳川家康が今川氏真が籠る遠江掛川城を包囲する
  7月   八流の戦いにて長宗我部元親が土佐東部を平定
  この年   北条氏康と上杉輝虎が越相同盟を締結
西暦1570年永禄13年)
5月27日(4月23日)改元して元亀元年
西暦1570年元亀元年)
6月1日(4月28日)金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)
8月9日(6月28日)姉川の戦い
9月19日(8月20日)今山の戦い。大友氏の大軍に攻め込まれた龍造寺隆信が勝利する
11月5日(10月8日)徳川家康と上杉輝虎が同盟を締結
西暦1571年元亀2年)
9月30日(9月12日)比叡山焼き討ち
  この年   長崎にポルトガル商館設立
西暦1573年元亀3年)
1月25日(12月22日)三方ヶ原の戦い。武田信玄による西上作戦の一環で、遠江国において徳川家康を破る。
西暦1573年元亀4年)
8月25日(7月26日)室町幕府第15代将軍足利義昭が槇島城の戦いで織田信長に降伏し追放され、室町幕府が事実上の滅亡。
一般的にはこれをもって室町時代および戦国時代が終了し安土桃山時代に移行したとみなされる。 ただし、義昭はなおも将軍職にあり、毛利氏の庇護を受けて備後国鞆に御所を置いたことから鞆幕府をなおも維持していたと見なされている。この時点での滅亡は、あくまで結果論である。
西暦1573年天正元年)
8月27日(7月28日)改元して天正元年
  この年   河内国若江城主・三好義継が佐久間信盛率いる織田軍に攻められて滅亡(若江城の戦い)
西暦1574年天正2年)
  5月    5月 武田勝頼、遠江高天神城を落とす[要出典]
  9月    9月 - 織田信長、伊勢長島一向一揆を壊滅させる(7月-)
西暦1575年天正3年)
6月29日(5月21日)織田・徳川連合軍と武田軍が長篠城西方の設楽原で激突(長篠の戦い)、織田・徳川連合軍が勝利し武田勝頼は撤退
  この年   長宗我部元親が四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐を平定する
西暦1573年元亀2年)
  4月    あ
11月    あ
  この年   あ


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