小窓
桜島(さくらじま)  [火山]

作成日:2024/7/18

桜島は、 日本の九州南部、 鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)北部に位置する東西約12km、 南北約10 km、周囲約55 km、 面積約77 km2の火山(単独峰)。 鹿児島県指定名勝。

かつては、 名前の通り島だったが、 西暦1914年大正3年)の大正大噴火により、 鹿児島湾東岸の大隅半島と陸続きになった。

桜島火山は鹿児島湾北部に位置する直径約20kmの姶良カルデラ南縁付近にあり、 このカルデラは2.9万年前の巨大噴火で誕生し、 その3千年ほど後に桜島火山が誕生した。 日本の火山の中では比較的新しい火山である。 桜島火山は有史以来頻繁に繰り返してきた。 噴火の記録も多く、 現在もなお活発な活動を続けている。 海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、 鹿児島のシンボルの一つとされ、 観光地としても知られている。 西暦2007年に日本の地質百選に選定された。 国際火山学及び地球内部化学協会が指定する防災十年火山の一つだった。

また、 火山噴火予知連絡会によって、 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。

年表

約30,000年前
  • 現在の姶良カルデラを形成した大隅降下軽石と入戸火砕流・姶良Tn火山灰の噴出した破局噴火(姶良火砕噴火)によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった
約26,000年前
約13,000年前
紀元前2500年
  • 紀元前2500年くらいから、 噴出源が南岳とその側火山(中岳や昭和火口)に移行し、 ブルカノ式噴火による火山砂の堆積、 溶岩流の形成の他、 間欠的にプリニー式噴火が発生している。
西暦764年天平宝字8年)
西暦1471年文明3年)
西暦1779年安永8年)
西暦1914年大正3年)
西暦1939年昭和14年)
  • 南岳山頂火口縁の東側斜面で噴火が始まり、小規模な火砕流が発生した。
西暦1946年昭和21年)
  • 南岳山頂火口縁の東側斜面で噴火が始まり、体積0.18km3の昭和溶岩が流出した。 大規模な軽石噴火はなかったが、ブルカノ式噴火により火砕丘状の地形が形成された。
西暦1955年昭和30年)
  • 南岳の山頂火口で噴火活動が活発化した。この噴火様式は激しいブルカノ式噴火である。
西暦1985年昭和60年)
  • この年は、年間爆発回数が474回に達した。

概要

桜島火山は鹿児島湾北部に位置する直径約20kmの姶良カルデラ南縁付近にあり、 このカルデラは2.9万年前の巨大噴火で誕生し、 その3千年ほど後に桜島火山が誕生した。 日本の火山の中では比較的新しい火山である。 桜島火山は有史以来頻繁に活動を繰り返してきた。 噴火の記録も多く、 現在もなお活発な活動を続けている。 海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、 鹿児島のシンボルの一つとされ、 観光地としても知られている。 西暦2007年に日本の地質百選に選定された。 国際火山学及び地球内部化学協会が指定する防災十年火山の一つであった。 また、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。

桜島の大部分を構成し、 桜島の最高峰(標高1,117 m)である御岳(おんたけ)は、 南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、 山腹に多くの側火山を配する。 山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、 北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、 農地として利用されている。

火山活動史

桜島西部の横山にある城山横山城跡)は古い時代に形成された台地であり、 少なくとも約11万年前には陸地として存在していたと考えられているが、 残りの大部分は姶良火砕噴火以後の「後カルデラ火山」活動によって形成された。

約3万年前、 現在の姶良カルデラを形成した大隅降下軽石と入戸火砕流・姶良Tn火山灰の噴出した破局噴火(姶良火砕噴火)によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった。 桜島はこのカルデラ噴火の後に火山活動を開始した「後カルデラ火山」である。 約2.6万年前、 姶良カルデラの南縁で火山活動が開始し、 安山岩やデイサイト質の溶岩を流出しながら成層火山を形成していった。 この活動は2千年ほど続いたのち停止した(古期北岳火山)。 1万年ほどの休止期間を置いて、 約1.3万年前の桜島-薩摩テフラを噴出した噴火を皮切りに新規北岳火山が活動を開始した。 以降プリニー式噴火を繰り返し、 山体が更に成長していった。 約4500年前から噴出源が南岳とその側火山(中岳や昭和火口)に移行し、 ブルカノ式噴火による火山砂の堆積、 溶岩流の形成の他、 間欠的にプリニー式噴火が発生している。
城山
城山(しろやま)は鹿児島市中央部にある山、あるいは丘陵[2]。 国の史跡(史跡「鹿児島城跡」のうち)および天然記念物に指定されている。 かつては鶴丸山・上之山と呼ばれていた。

西暦1877年明治10年)、 西南戦争の最終決戦である城山の戦いが城山付近で勃発し、 西郷隆盛ら士族の敗北により終結した。

横山城
築城時期は平安末期(西暦1180年頃)の山城で, 長田到将(おさだむねなが)によるものである。 元和元年(1615)の一国一城令で廃城となったと考えられる。

年代によって「長田城」「横山城」「三角城」とも呼ばれたが, 一般には「ながたどんの城」と呼ばれ, この「ながた城」が「ながと城」になったものと考えられる。

本丸の位置は鹿児島気象台桜島観測所の建っていた位置で薩英戦争後, 陸軍所轄地の石碑のあった土塁上と考えられる。

元亀2年(西暦1571年)肝付(きもつき)・根占(ねじめ)・伊東軍が野尻に攻めて来た際, 島津家久・鎌田政近などが当城を守ったとされ, 鹿児島湾から攻め入る敵に対し戦略上重要な城であったと考えられる。

姶良火砕噴火

姶良火砕噴火(あいらかさいふんか)
約2.9万年前あるいは約3万年前、大噴火が発生した。 一連の噴火は総称して姶良火砕噴火と呼ばれる。

はじめに、現在の桜島付近で大規模なプリニー式噴火が発生し、 軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。 この噴火では噴煙柱が複数回にわたって部分的に崩壊し、 火砕流(垂水火砕流)が発生した。 このプリニー式噴火に引き続いて現在の若尊付近を噴出源として妻屋火砕流が発生した。 この火砕流堆積物と大隅降下軽石堆積物の上部と指交関係にあり、 この二つの堆積物は時間間隙を置かない連続的な噴火と考えられる。 妻屋火砕流は火山豆石を多量に含み、 また堆積物は全て非溶結であることから、 マグマ水蒸気噴火によって生じたと考えられる。

垂水火砕流堆積物や妻屋火砕流堆積物の上面にしばしば見られる軽微な侵食構造が見られる。 これについては、 入戸火砕流の噴出までにわずかな時間間隙(数ヶ月以内)があったとの説と、 この侵食は入戸火砕流による侵食であり時間間隙は示さないとする説がある。 ...

最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の流紋岩質マグマが火砕流(軽石流)として一度に噴出した。 素材となったマグマは温度が770-780℃、圧力が1600-1900気圧であったと推定されている。 この火砕流は入戸火砕流と呼ばれ、 地表を走り九州南部に広がった。 この火砕流堆積物は最大層厚は180mに及び、 シラス台地を形成した。 火砕流から巻き上げられた火砕物 (co-ignimbrite ash)は姶良Tn火山灰と呼ばれ、 偏西風に流されて北東へ広がり、日本列島各地に降り積もった。 関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされる。 現在の霧島市牧之原付近を中心とした地域の入戸火砕流堆積物最下部には、 亀割坂角礫と呼ばれる岩塊が堆積しており、 最大層厚は30m、中には直径2mの巨礫も含まれている。 これは、噴火と同時にカルデラの陥没によって基盤岩が粉砕されて空中に放出され周辺に落下したものと考えられる。

噴出物の総量は見かけ体積で、 大隅降下軽石が98km3・垂水火砕流が1-20km3・妻屋火砕流が13.3km3、 入戸火砕流が500-600km3・姶良丹沢テフラが300km3推定されており、 火山爆発指数は7から8となる。
若尊

若尊(わかみこ)
日本の鹿児島湾北東部の海中にある南北約2.5キロメートル、 東西約3.5キロメートルの海底カルデラおよび海底火山群。 西暦2003年平成15年)には活火山に指定された。

カルデラは、水深約200メートルの平坦な地形で、姶良カルデラの一部となっており、 約25,000年前に起きた、 姶良大噴火の主要な火口の跡と考えられている。 海底火山は、タギリ中央火口丘、ホリノデ中央火口丘、 アブラツボ中央火口丘などがあり、 記録に残っている噴火はないが現在も活動が継続しており、 年間数回から数十回の微小な地震が観測される。 海底において活発な噴気活動が観察されており、 海面に泡となって現れることから地元漁師の間で「滾り(たぎり)」と呼ばれている。 また、この若尊海底火山からの噴出物により、 鹿児島湾内安永諸島のひとつが形成されたと考える研究者もいる。

桜島-薩摩テフラ

桜島-薩摩テフラ

約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラで、 火砕物の総体積は11 km3(6.6 DRE km3)に及び、 2.6万年前から現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。 火山爆発指数(VEI)は6。 他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2 km3を越えるイベントはないので、 桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。 この噴火によって、 桜島の周囲10 km以内ではベースサージが到達したほか、 現在の鹿児島市付近で2 m以上の火山灰が堆積しており、 薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている。

有史以降の噴火

30回以上の噴火が記録に残されている。 『薩藩地理拾遺集』においては西暦708年和銅元年)、 『薩藩名勝考』においては西暦716年霊亀2年)、 『神代皇帝記』においては西暦717年養老元年)、 『麑藩名勝考』や『三国名勝図会』においては西暦718年養老2年)に桜島が湧出したとの説が紹介されているが、 その記述は断片的で実態のよく分からないものが多い。

西暦766年から西暦1468年までの約700年間は歴史記録に記述が残されていないため、 噴火が無かったと考えられていたが、 その後の調査により、 西暦950年ごろに大平溶岩を形成する山頂火口からの噴火や、 西暦1200年ごろの活動で中岳が形成されたとする研究がある。
有史以降(歴史時代)の4回の大規模噴火。
名称時期(自)時期(至)備 考
西暦和暦西暦和暦
天平宝字大噴火 西暦764年 天平宝字8年 西暦766年 天平神護2年
文明大噴火 西暦1471年 文明3年 西暦1476年 文明8年 死者多数。
安永大噴火 西暦1779年 安永8年 西暦1782年 天明2年 死者150余名。
大正大噴火 西暦1914年 大正3年 西暦1915年 大正4年 死者58名。

天平宝字大噴火

天平宝字大噴火   西暦764年天平宝字8年) - 西暦766年天平神護2年)

天平宝字大噴火は南岳の東山麓で起きたもので, まず鍋山火砕丘が形成され、 その海側に長崎鼻溶岩が流出した。 鍋山火砕丘はマグマ水蒸気噴火に特有な径の大きな火口を持つタフコーンで、 噴出物は多面体型の軽石と火山灰で構成されており、 急冷による黒曜岩片も多い。 この火砕丘は当時の海岸付近に出現したため、 形成中から形成直後の波浪侵食によりその東半分は欠落している。 長崎鼻溶岩は、 欠けた火砕丘の基部から広がるように分布し、 溶岩流出が火砕噴火の後であることを示している。 黒神沖の海底には、 北東方向にのびる溶岩状の地形が認められるが、 海域に流入した溶岩地形と推定される。 なお鍋山の東に隣接する小火砕丘(蝦ノ塚)も、 この時期に形成されたものである。 西暦766年には群発地震が発生し、 多くの島民が避難したとの記録がある。 火砕物と溶岩を合わせ たマグマ噴出量は、 それ以降の大噴火に比べると小規模である。

続日本紀』の天平宝字8年12月の箇所に麑嶋」(鹿児島)における噴火の記述が残る。
記述によれば、 鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされている。 島の詳細な位置は明確になっていないが桜島に関連した火山活動の一つと考えられており、 「麑嶋」(鹿児島)が桜島を指しているとする説と、 広く薩摩国と大隅国の境界地域を指しているとする説がある。 地質学的な調査により小林(1982)は、 最初の活動で鍋山が出現し次いで長崎鼻溶岩が流出したとしている。 西暦931年ごろ(承平年間)に書かれた『和名類聚抄』において、 大隅国囎唹郡に「志摩」(島)という地名が登場する。 これが具体的な地域としての桜島を指した最古の文献である。

文明大噴火

文明大噴火   西暦1471年文明3年) - 西暦1476年文明8年)

西暦1468年応仁2年)に噴火したが被害の記録はない。 その3年後、 西暦1471年10月25日(文明3年9月12日)に大噴火が起こり、 北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、 死者多数の記録がある。 2年後の西暦1473年にも噴火があり、 続いて、 西暦1475年文明7年)8月15日には、 桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出した。 さらに翌西暦1476年文明8年9月12日)には桜島南西部で再び噴火が起こり、 死者多数を出し、 沖小島と烏島が形成された。

西暦1509年6月2日(永正6年5月15日)、 福昌寺の僧天祐が南岳山頂に鎮火を祈願する真鍮の鉾を立てた。 この鉾は後に風雨により折損したため、 西暦1744年11月27日(延享元年10月24日)に銅の鉾として再建されている。 戦国時代において桜島は島津氏の領地となっており、 鹿児島湾を挟んで対峙していた肝付氏との争いの最前線として各所に城塞が築かれ兵が配置されていた。 西暦1571年12月6日(元亀2年11月20日)には肝付氏、禰寝氏、伊東氏の連合軍が100艘余りの船で桜島の各所を攻撃した。 これに対して島津家久は横山、脇、瀬戸などに陣を構えて応戦している。

安永大噴火

安永大噴火   西暦1779年11月7日 (安永8年9月29日) - 西暦1782年天明2年)

11月7日(9月29日)の夕方から地震が頻発し、 翌11月8日(10月1日)の朝から、 井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。 正午ごろには南岳山頂付近で白煙が目撃されている。 昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、 その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。 夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。 夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、 江戸や長崎でも降灰があった。

11月9日(10月2日)には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、 翌11月10日(10月3日)には海岸に達した(安永溶岩)。 翌年西暦1780年8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、 続いて西暦1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。 一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、 硫黄島、 猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。 島々のうちいくつかは間もなく水没したり、 隣接する島と結合したりして、 『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという。 死者は150人を超えたが、 最も大きい燃島(現・新島)には西暦1800年寛政12年)から人が住むようになった。

噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5 - 1.8 m上昇したという記録があり、 噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。 一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、 軽石が約0.4立方kmにのぼった。 VEIは4。 薩摩藩の報告によると死者153名、 農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。

幕末においては瀬戸に造船所が設置され、 日本で最初の蒸気船「雲行丸」(江戸で建造との説あり)が建造された。 西暦1863年文久3年)の薩英戦争では、 袴腰(横山)と燃崎に砲台が築かれた。

大正大噴火

大正大噴火   西暦1914年1月12日 - 西暦1915年

西暦1914年1月12日に噴火が始まり、 その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5 km3、溶岩に覆われた面積は約9.2 km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。

また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、 軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、 溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。 噴火によって桜島の地盤が最大約1.5 m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。 この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、 この中心部の直下、 深さ約10 kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。

定量的な観測に基づく噴火前後の地震調査原簿などの資料は東京の中央気象台に集められていたが、 西暦1923年関東大震災で焼失して残っていない。 噴火活動の経過などは各地の気象台や測候所に残っていた資料を元に行われたため、 精度に欠ける部分があるとされている。

麑嶋(かごしま)   鹿児島の古い表記

「麑」は「げい」と読み、 1字で鹿児島を意味している。 これは、 「阪」の1文字で大阪という地名を表していることと同様である。 つまり、 大阪に来ることを「来阪(らいはん)」と言い表すことと同じである。 これは、「大阪」の「阪」の1文字を音読みにして(はん)と読み、 「大阪」を表したように、 「麑」を音読みにして(げい)と読み「麑嶋(かごしま)」を表したものである。

「麑」という文字は、 「鹿」と「兒(児)」を組みあわせた形になっていることから、 鹿児島を意味する文字としてあてられたものと考えられる。