小窓
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)

作成日:2023/5/18

穴穂部間人皇女
あなほべのはしひとのひめみこ
時代 飛鳥時代
生年 不詳
没年 推古天皇29年12月21日
(西暦622年2月7日)
諱  穴穂部間人
父親 欽明天皇(第三皇女)
母親 蘇我小姉君
配偶者 用明天皇
 子:聖徳太子来目皇子
 子:殖栗皇子、茨田皇子
田目皇子
 子:佐富女王
 
異母兄・用明天皇の皇后(用明天皇元年1月1日 - 用明天皇2年4月9日)。のちに大后。 聖徳太子来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子を産む。 同母弟に穴穂部皇子崇峻天皇がいる。 用明天皇崩御後は、 用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、 佐富女王(長谷王妃、葛城王・多智奴女王の母)を産んだ。

大和国斑鳩に所在し、 現在は法隆寺と隣接する中宮寺は、 聖徳太子が母のために建てたといわれているが、 中世以前は現在地より550メートルほど東にあったといわれる。 この地はかつて穴穂部間人皇女の宮であったという伝承があり、 その言い伝えによれば、 葦垣宮、飛鳥岡本宮、斑鳩宮を結んだほぼ中央にあったゆえに「中宮」と呼称されたというが、 詳細は不明である。

京都府京丹後市丹後町にある「間人(たいざ)」という地名は、 穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。
穴穂部間人皇女は蘇我氏物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せ、 宮に戻る際に自分の名を贈ったが、 人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、 皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。
ただし、 『日本書紀』『古事記』などの文献資料には穴穂部間人皇女が丹後国に避難したとの記述はない。 ...

穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后、間人皇后とも称される。
「穴穂部」の名は、 石上穴穂宮で養育されたことに由来すると考えられている。

なお「間人」(はしひと、もしくは はしうど)の名を持つ皇女は他に舒明天皇皇女(孝徳天皇皇后)がいるが、 舒明天皇皇女は、単に間人皇女(はしひとのひめみこ)と呼ばれることが多い。

大和国斑鳩に所在し、 現在は法隆寺と隣接する中宮寺は、 聖徳太子が母のために建てたといわれているが、 中世以前は現在地より550メートルほど東にあったといわれる。 この地はかつて穴穂部間人皇女の宮であったという伝承があり、 その言い伝えによれば、 葦垣宮、飛鳥岡本宮斑鳩宮を結んだほぼ中央にあったゆえに「中宮」と呼称されたというが、 詳細は不明である。