小窓
玉田宿禰(たまだのすくね)

作成日:2023/4/28

玉田宿禰(たまだのすくね)  生年不詳 - 允恭天皇5年

玉田宿禰は、 『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 『古事記』に記載はない。

日本書紀』では玉田宿禰について、 允恭天皇5年7月14日条において葛城襲津彦の孫、 雄略天皇7年是歳条において子とし、 異同が見られる(『公卿補任』では子とする)。

子に関して『日本書紀』では雄略天皇7年是歳条に「別本云」として毛媛(吉備上道田狭の妻、のち雄略天皇の妃)の名を挙げる。 『公卿補任』では、葛城円を子に挙げる。

日本書紀允恭天皇5年7月14日条によると、 玉田宿禰は反正天皇の殯を命じられていた。 地震(允恭地震:日本の記録上初めての地震)があったため、 夜に尾張吾襲を遣わして、 殯宮の消息を観察させた。

このとき諸人は欠けることなく皆が集まっていたが、 ただ玉田宿禰だけがいなかった。 吾襲は「殯宮大夫玉田宿禰が殯宮にいません」と上奏した。 また吾襲を葛城に遣わして、玉田宿禰を探させた。

この日、玉田宿禰は男女を集めて酒宴をしていた。 吾襲は状況を玉田宿禰に告げた。 宿禰は問題になる事を恐れて、馬一匹を吾襲に授けて賂とし、 密かに吾襲を待ち受けて殺し、 武内宿禰(葛城襲津彦の父)の墓域に逃げ込んだ。

允恭天皇は玉田宿禰を呼び出したが、 玉田宿禰が鎧を身につけているのを見つけ、 これを誅したという。

玉田宿禰の態度からも、当時の葛城氏の専横ぶりが伺われる。