周先王時代の一覧
作成日:2023/1/13
后稷(こうしょく)
周初代君主・后稷
こうしょく
先代 | : | - |
次代 | : | 不窋 |
姓・諱 | : | 姫・弃(棄) |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 帝嚳 |
母 | : | 姜嫄 |
后 | : | |
子 | : | 不窋 |
| | |
后稷(こうしょく)は、伝説上の
周王朝の始祖とされる人物。
「后稷」とは、古代中国の農業を司る官の官名であり、農業の神であり、また、五穀の神である。
生没年不詳。
姓は姫(き)、諱は弃(棄)、号は稷。
不窋の父。
また、
彼はもともと奔(棄と同じ意味。捨てられし者)という名であったが、
農業を真似するものが多くなってきたため、
帝
舜が、
農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。
彼の一族は引き続き
夏王朝に仕えたが、
徐々に夏が衰退してくると、
匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、
暮らしていたという。
史記・周本紀』によれば、
帝
嚳の元妃(正妃)であった
姜嫄が、
野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠し、
1年して子を産んだ。
姜嫄はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、
林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、
氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、
不思議に思って子を育てる事にした。
『
山海経』「大荒西経」によると、
帝夋(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる。
弃(棄)は成長すると、農耕を好み、麻や菽(まめ)を植えて喜んだ。
帝の舜に仕え、農師をつとめた。
また后稷の官をつとめ、
邰に封ぜられて、
后稷(農事を司る官名で、これが諡号とされた。)と号した。
死後、子の
不窋が後を嗣いだ。
...
后稷の親族
- 祖先
-
- 兄弟
-
-
摯/帝摯(后稷の異母長兄)。
母は常仪(常羲)。在位9年で退位した。
-
契。
后稷の異母弟(母は簡狄)。商朝の先祖。
-
堯。
后稷の異母弟(母は慶都)、帝堯。名は放勳。後に禪位の女婿となる舜???。
原文「后稷的異母弟,帝堯,名放勳,慶都所生,後禪位女婿舜」
- 台璽(后稷の同母弟)
-
嫦娥(姉または妹)。
母は常仪(常羲)。配偶者は后羿。
- 妻
-
- 子孫
-
不窋(ふちゅつ)
周2代君主・不窋
ふちゅつ
先代 | : | 后稷 |
次代 | : | 不窋 |
姓・諱 | : | 姫・刘(劉) |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 后稷 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 鞠 |
| | |
不窋(ふちゅつ);
夏王朝第14代帝・
孔甲時の周国第2代君主
帝
堯の時の重臣・
后稷の子。
夏朝・孔甲の時期の周国第2代君主。
姓は姫(き)。
子に周国第3代君主・鞠。
姫氏は帝
堯の時代から、
代々稷官(農師)であったが、
不窋(ふちゅつ)の晩年、
夏王朝の政治が腐敗し、
農業を重視しなかったので、
開祖の都・邰(現在の陝西省武功県)を離れ、
北豳(現在の甘粛省慶陽市慶城縣)に
遷都した。
鞠
周3代君主・鞠
先代 | : | 不窋 |
次代 | : | 公劉 |
姓・諱 | : | 姫・刘(劉) |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 不窋 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 公劉 |
| | |
鞠は、夏王朝末期の周国第3代君主 生没年不詳
周国第2代君主・不窋(ふちゅつ)の子。
周国第2代君主・不窋(ふちゅつ)の没後、鞠が周国第3代君主となった。
姓は姫(き)。
鞠の死後、子の
公劉が周国第4代君主・公劉を継いだ。
公劉(こうりゅう)
周4代君主・公劉
先代 | : | 鞠 |
次代 | : | 慶節 |
姓・諱 | : | 姫・刘(劉) |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 鞠 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 慶節 |
| | |
公劉(こうりゅう) 生没年不詳
公劉は、夏王朝末期の周国第4代君主 生没年不詳
鞠の子にして、后稷(こうしょく)の曾孫。
戎狄の間で生活し、農耕にはげんだ。
『詩経』大雅・篤公劉に讃えられた。慶節の父。
不窋(ふちゅつ)の末年より、
夏后氏のもとを離れて戎・狄の間に住むようになった后稷の一族は、
その孫の公劉の代になり、
ふたたび后稷の業を修めて農耕に務めるようになった。
また、公劉は各地を巡って漆水・沮水から渭水を渡って材木を調達し、用にあてた。
このため民は富んで、
行く者は資材を持ち、
居る者には貯蓄がありと、
百姓は彼の徳になついて他国から移ってくる者も多かった。
周朝が始まったのもまさにこの時とされ、
詩人が公劉の徳を思い、
歌い楽しんだのもそのためだという。
慶節
周5代王・慶節
先代 | : | 公劉 |
次代 | : | 皇僕 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 公劉 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 皇僕 |
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慶節; 周国第5代君主 生没年不詳
周国第4代君主・公劉の子。
周国第4代君主・公劉の没後、慶節が周国第5代君主となった。
姓は姫(き)。
慶節の死後、周国第6代君主・皇僕を擁立。
皇僕
周6代王・皇僕
先代 | : | 慶節 |
次代 | : | 差弗 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 慶節 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 差弗 |
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皇僕 / 皇仆; 周国第6代君主 生没年不詳
周国第5代君主・慶節の子。
周国第5代君主・慶節の没後、皇僕が周国第6代君主となった。
姓は姫(き)。
皇僕の死後、周国第7代君主・差弗を擁立。
差弗
周7代王・差弗
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先代 | : | 皇僕 |
次代 | : | 毀隃 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 皇僕 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 毀隃 |
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差弗; 周国第7代君主 生没年不詳
周国第6代君主・皇僕の子。
周国第6代君主・皇僕の没後、差弗が周国第7代君主となった。
姓は姫(き)。
差弗の死後、周国第8代君主・毀隃を擁立。
毀隃
周8代王・毀隃
| | |
先代 | : | 差弗 |
次代 | : | 公非 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 差弗 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 公非 |
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毀隃 周国第8代君主 生没年不詳
周国第7代君主・差弗の子。
周国第7代君主・差弗の没後、毀隃が周国第8代君主となった。
姓は姫(き)。
差弗の死後、周国第9代君主・公非を擁立。
【注】
「隃」を「ゆ」と読むのは仮。
この字は、「ゆ」、「しゅ」、「よう」と読める。
公非
周9代王・公非
先代 | : | 毀隃 |
次代 | : | 高圉 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 毀隃 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 高圉 |
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公非 周国第9代君主 生没年不詳
周国第8代君主・毀隃の子。
周国第8代君主・毀隃の没後、公非が周国第9代君主となった。
姓は姫(き)。
公非の死後、周国第10代君主・高圉を擁立。
高圉
周代10王・后稷
先代 | : | 公非 |
次代 | : | 亜圉 |
姓・諱 | : | 姫・ |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 公非 |
母 | : | |
后 | : | |
子 | : | 亜圉 |
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高圉 周国第10代君主 生没年不詳
周国第9代君主・公非の子。
周国第8代君主・高圉の没後、亜圉が周国第10代君主となった。
姓は姫(き)。
高圉の死後、周国第11代君主・亜圉を擁立。
高圉の死後、高圉に商王を追号し美徳を讃えた。
周王朝第2代王・成王の時、高圉廟を建てた。
亜圉
亜圉 周国第11代君主 生没年不詳
周国第10代君主・高圉の子。
周国第10代君主・高圉の没後、亜圉が周国第11代君主となった。
姓は姫(き)。
殷王朝第13代王・祖乙19年に邠侯に任ぜられる。
亜圉の死後、周国第12代君主・公叔祖類(姫類)を擁立。
公叔祖類
公叔祖類 周国第12代君主 生没年不詳
周国第11代君主・亜圉の子。
周国第11代君主・亜圉の没後、公叔祖類が周国第12代君主となった。
姓は姫(き)。
本名(百度百科の表記)は姫類。
子は周国第13代君主・古公亶父(ここうたんぽ)。
古公亶父(ここうたんぽ)
古公亶父(ここうたんぽ) 周国第13代君主 生没年不詳
公叔祖類の子。姓は姫(き)。
先祖の
后稷・
公劉の業を納め、
国人から慕われた。古公とも呼ばれる。
『詩経』では太王。周が殷を滅ぼした後は太王と尊称される。
あるいは太公とも呼ばれ、文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。
(但し太公は祖父、あるいは父の事を指す普通名詞であるという異説もある)
異民族の侵略から逃れるために一族を連れて古公亶父の一族が治めていたとされる、
漆水・沮水という川のほとりにあった邑である豳(ひん)の地から、
後の周の都の付近である岐山の麓に逃れたとされる。
古公亶父の死後、季歴が跡を継いだ。
...
史記』によれば、豳(ひん)から財物をかすめようとした異民族に侵略される前に与えたが、
その上、人や土地を奪おうとしたので民が怒って戦おうとした。
しかし、古公亶父は「民が君を立てるのは民の利益のためで、異民族でも利益を図るなら民にとってはそれでかまわないはずだ。自分が必ずしも国を治める必要は無い。民が戦うのは私のためで人の父子を殺して恨まれれば君主であることはできない」と、
自分の一族を率いて岐山の麓に逃れた。
国人はそれを慕って豳(ひん)から岐山の麓へと移住した。
その後、古公亶父は城郭家屋を築き、村落を分けて民を定住させ、五官の役人を作って政を行った。
民は詩を作って、古公亶父の徳を称えたとされる。
『詩経』の大雅の緜編には、
姜族の妻と共に岐山の麓へやってきたこと、
住むべき洞窟すらない岐山の麓で古公亶父が一から国を建国する様子、
その後の繁栄などがうたわれている。
その後、殷王室と親交を結び、
末子の季歴に王室から嫁(太任)をもらう(列女伝では、摯の任氏の娘で王室の娘ではない)。
その嫁と季歴の息子が後の文王である。
古公亶父には季歴の他に太伯と虞仲という長男と次男がいたが、
古公亶父が「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば孫(季歴の子)の昌(文王の諱)であろうか」と予言したので、
弟の季歴に位を継がせるために太伯と虞仲は出奔した。
太姜 古公亶父の正妃
太姜 生没年:不詳
有邰氏の女。姓は姜(きょう)。逄国(現在の山東省濱州市)の人。
周国第13代君主古公亶父の正妃。
周国第14代君主季歴、泰伯、仲雍の母。
周国第15代君主文王の祖母。
「貞節」という美徳をもって、
夫の右腕となり、
周王朝建国時の高潔な女性像であった。
生涯三人の子を儲ける。
太姜(周太王・
古公亶父の妻)、
太任(周王季・
季歴の妻)、
太姒(周・
文王の妻)を称して「三太」という。
後世、「三太」に因んで「
太太」という言葉が生まれた。
太伯(たいはく) 古公亶父の長子
太伯/泰伯(たいはく) 生没年:不詳
古公亶父の長子。
姓は姫(き)。
季歴の兄。
呉(
句呉)の祖。
父の
古公亶父の意向を汲み、
末弟の
季歴に父の跡を継がせるため、
次弟の虞仲とともに出奔し、
句呉を建てた。
虞仲(ぐちゅう) 古公亶父の次子
虞仲(ぐちゅう) 生没年:不詳
古公亶父の次子。
姓は姫(き)。
太伯の弟。
季歴の兄。
父の
古公亶父の意向を汲み、
末弟の
季歴に父の跡を継がせるため、
長兄の太伯とともに出奔し、
兄とともに
句呉を建てた。
兄が子なく亡くなったので句呉を継いだ。
季歴(きれき)
季歴は(きれき)、中国殷の時代の周の首長。
古公亶父の三男。
太任をめとる。
西伯昌(後の
文王)、
虢仲、
虢叔、
潘季孫の父。
孫の
武王によって追尊され、王季と称された。
季歴の父・
古公亶父には、
長男太伯、次男虞仲、三男季歴という三人の息子がいた。
三男の季歴に息子・昌が生まれた際に、
様々な瑞祥が起きたので、
古公亶父は「わが子孫で栄えるものがあるとすれば、それは昌の子孫であろうか」と述べていた。
古公亶父が季歴に後を継がせたいと思っていたことを察した太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために自ら出奔し、
南で呉を創始した。
季歴は古公亶父の跡を継ぎ、
その政治姿勢を受け継いで正義を行ったので、
諸侯はこれに従った。
後に殷の文武丁に監禁され餓死した。
太任(たいじん) 季歴の妃
太任(たいじん) 生没年:不詳
周の季歴の妃。文王の母。摯任氏の中女として生まれた。
摯と疇の2国は任姓で、奚仲・仲虺の後裔であり、これが太任の実家であるという。
太任は季歴に嫁ぎ、姫昌(
文王)を産んだ。
太任は胎教をおこなった人としても知られる。
太任は懐妊すると、
目は醜い色を見ず、
耳はみだらな音楽を聞かず、
口は驕った言葉を出さないことで、
胎児への教育をおこなった。
豕牢(しろう。豚小屋、便所)で小用を足そうとして文王を産んだものという。
文王は生まれながらに明聖で、
太任が教育をおこなうと、
一をもって百を知るありさまであった。
太姜(周太王・
古公亶父の妻)、
太任(周王季・
季歴の妻)、
太姒(周・
文王の妻)を称して「三太」という。
後世、「三太」に因んで「
太太」という言葉が生まれた。
虢仲(かくちゅう) 季歴の次男
虢仲(かくちゅう)
周の文王の弟で、季歴(きれき)の次男。
弟である季歴の3男・虢叔(かくしゅく)とともに文王の卿士となった。
また、東虢の初代君主でもある。
周の武王が帝辛(紂王)の殷を討伐し滅亡させると、
虢仲と虢叔は虢の国君に封じられた。
その中で虢叔被が封じられた雍地は西虢(せいかく)、
虢仲が封じられた制地(現在の河南省滎陽市)は東虢(とうかく)と称された。
東、西の虺は王畿の左右に位置し、周王室の藩屏となった。
後裔に虢恵叔大林や虢叔旅がいる。
虢仲(かくちゅう)と虢叔(かくしゅく)そして西虢(せいかく)と東虢(とうかく)については、
どの組み合わせになるのかは諸説ある。
虢叔(かくしゅく) 季歴の三男
虢叔(かくしゅく)
周の文王の弟で、季歴の三男。
兄である季歴の次男・虢仲(かくちゅう)とともに文王の卿士になった。
また、西虢の初代君主でもある。
周の武王が帝辛(紂王)の殷を討伐し滅亡させると、
虢叔と虢仲は虢の国君に封じられた。
その中で虢叔被が封じられた雍地は西虢、
虢仲が封じられた制地(現在の河南省滎陽市)は東虢と称された。
東、西の虢は王畿の左右に位置し、周王室の藩屏となった。
虢仲(かくちゅう)と虢叔(かくしゅく)そして西虢(せいかく)と東虢(とうかく)については、
どの組み合わせになるのかは諸説ある。
文王(ぶんおう)
周15代王・文王
ぶんおう
在位(自) | : | 不詳 |
在位(至) | : | 紀元前1051年 |
生年 | : | 紀元前1125年 |
没年 | : | 紀元前1051年 |
姓・諱 | : | 姫・昌 |
諡号 | : | 文王 |
| | 文皇帝(武則天追号) |
廟号 | : | 始祖(武則天追号) |
父 | : | 季歴 |
母 | : | 太任 |
后妃 | : | 太姒 |
| | 帝乙の妹 |
廟号 | : | 始祖(武則天追号) |
文王(ぶんおう、ぶんのう)は、
中国殷代末期の周国の君主。
姓は姫(き)、諱は昌(しょう)。
在世時の爵位から「西伯」「西伯侯」「西伯昌」とも呼ばれ、
『尚書』では「寧王」とも呼ばれる。
殷の
帝辛(紂王)に対する革命戦争(
牧野の戦い)の名目上の主導者であり、
周王朝を創始した
武王や
周公旦の父にあたる。
後世、とりわけ
儒教においては、武王や周公旦と合わせて、
模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される。
中国戦国時代の
儒学者である孟子は『孟子』において、
「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として、
舜は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている。
...
略歴
父は季歴、母は太任。
弟に虢仲と虢叔がいる。
祖父は古公亶父。伯父は太伯と虞仲。
先祖(姫氏)は代々、周の地を統治するとともに、殷(商)を宗主国として臣従し三公の地位を授かっていた。
殷の帝辛(紂王)に対する革命戦争(牧野の戦い)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。
後世、とりわけ儒教においては、武王や周公旦と合わせて、模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される。
父の死後、
周国を受け継いだ姫昌(文王)は、
首都を岐山の麓(現在の陝西省宝鶏市岐山県)から、渭河の支流である灃河西岸の豊邑(現在の陝西省西安市、すなわち後の長安近郊)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
一方で同時代の殷王は、暴君の代名詞として知られる帝辛(紂王)だった。
あるとき、
姫昌と同じ三公の地位にある九侯と鄂侯が、
帝辛(紂王)の不興を買って酷刑に処される(肉体を切り刻まれて塩漬け肉や干し肉にされる)という事件が起きた。
この事件を受けて姫昌は嘆息したが、そのことが崇侯虎に讒言されてしまう。
讒言を受けた帝辛(紂王)によって、姫昌は羑里の地に幽閉される。
幽閉中、一説によれば、人質だった長男の伯邑考が煮殺され、その死肉を入れた羹を供されたとされる。
また、儒教の教説によれば、このとき周易の基本部分を作ったとされる。
最終的には、財宝と領地を献上することで釈放され、同時に「西伯」(殷の西部を統括する諸侯)の爵位を授かった。
釈放された姫昌は、帝辛(紂王)の視線を警戒しつつ、周国で仁政を再開した。
あるとき、虞と芮という小国の間で紛争が発生した。
両国の君主は紛争の調停を求めて、ともに周国を訪問した。
そこで両国の君主が目にしたのは、農民が互いに畦道を譲り合い、若者が老人に道を譲って孝行するという、平和な共同体の姿だった。
これを見た両国の君主は、自分たちが争っていたことを恥じ、ついには姫昌に面会することなく帰国し、紛争を止めた。
紂王の暴虐に見切りを付けた諸侯は、
次第に姫昌を頼るようになるが、
当の姫昌は最期まで決起することなく、
諸侯達を引き連れて紂王に降伏し、
殷(商)の臣下であり続けた。
内緒では姫昌は、そのような仁政と並行して、対外戦争によって版図を広げる。
軍師として呂尚(太公望)を迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須や、近隣の方国の盂国を立て続けに征伐。
晩年には、宿敵である崇侯虎を征伐し、その領地である崇国を併呑した。
姫昌が老齢で没して間もなく、後を継いだ息子の姫発(武王)は、諸侯を率いて革命戦争を起こす。
このとき、革命の主導者は自分ではなく亡き父であるとして、戦車に姫昌の位牌を乗せて出陣した。
戦後、周王朝を立てた姫発は、姫昌を「文王」という諡で追号・追尊した。
評価・影響
儒教においては、
東周時代(春秋戦国時代)の儒家が一時代前の西周時代を模範とみなし、
周王朝にまつわる書物(五経)を経典としたことから、
文王は武王や周公旦と合わせて崇敬され、
『論語』や『孟子』以来頻繁に言及されてきた。
とりわけ、
暴君紂王に対して革命を起こしたという文王・武王の英雄的事績は、
同じく暴君である夏の桀王に対して革命を起こした殷の湯王の事績に結び付けられる。
一方で、
湯王・武王が反逆を実行したこと(湯武放伐)とは対照的に、
文王は反逆を実行することなく最期まで臣下であり続けたという点から、
儒教の教義である名分論・尊王論・忠義観の根本を問う論題としてしばしば俎上に載せられる。
その例として、
幽閉中の文王について歌った韓愈の『拘幽操』詩、
それに対する江戸時代の朱子学者山崎闇斎と、
その門弟の佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎たち(崎門学派)の議論が知られている。
儒教による崇敬から派生して、文王は民間信仰の対象にもなる。
明代の小説『封神演義』では、呂尚(太公望)に次ぐ主人公格の登場人物として描かれる。
21世紀においては、
劉慈欣によるSF小説『三体』で、
劇中劇の登場人物の一人として象徴的に描かれる。
親族
- 父母
-
- 妻
-
- 子(母・太姒) 1005
-
- 子(母・不詳)
-
- 十一男 郜叔
- 十二男 雍伯(雍叔)
- 十三男 毛叔鄭
- 十四男 滕叔繡
- 十五男 畢公高
- 十六男 原伯(原叔)
- 十七男 酆侯(酆叔)
- 十八男 郇侯葡(郇叔)
- 十九男 賴叔穎
- 孫
-
太姒(たいじ) 文王の正妃
太姒(たいじ)
文王・正妃
別称 | : | 文母 |
諡号 | : | 文定皇后 |
生没年 | : | 不詳 |
配偶者 | : | 周第15代王・文王 |
父 | : | 有莘姒氏 |
子 | : | 伯邑考、武王、 |
| | 管叔鮮、周公旦、 |
| | 蔡叔度、曹叔振鐸、 |
| | 成叔武、霍叔処、 |
| | 康叔封、冉季載 |
| | |
太姒(たいじ)は、
周第15代王・
文王の正妃。
生没年不詳。姓は姒。
有莘姒国(現在の
陝西省合阳县东南)の娘。
周王朝初代王・
武王の母。
太姒は美しく、賢く、高潔に生まれ、
国政についての心配事を共有し、子供たちに厳しく教え、
目上の人も目下の人も尊重した。
文王に愛され、官吏にも尊敬された彼女は、
「文母」と呼ばれ、
『詩経』や『女人伝』の中でも讃えられている。
西暦690年(天授元年)、武則天により太姒は文定皇后と追号された。
文王は渭水に舟を並べて橋を作り、太姒を迎えた。
太姒は
太姜や
太任を慕って、
朝に夕に勤労し、
婦道を推し進めた。
太姒は号を文母といった。
太姒は文王とのあいだに10人の男子を産んだ。
伯邑考・
武王・
管叔鮮・
周公旦・
蔡叔度・曹叔振鐸・成叔武・霍叔処・康叔封・冉季載の10人である。
太姒が10人の子を教育すると、
子どもたちが成長しても悪癖を見ることがなかった。
太姜(周太王・
古公亶父の妻)、
太任(周王季・
季歴の妻)、
太姒(周・
文王の妻)を称して「三太」という。
後世、「三太」に因んで「
太太」という言葉が生まれた。
伯邑考(はくゆうこう) 文王・太姒の長男
伯邑考
はくゆうこう
姓・名 | : | 姫(姬)・考 |
生没年 | : | 不詳 |
父 | : | 周・文王(長子) |
母 | : | 太姒 |
弟 | : | 西周・武王 |
| | |
周の
文王の長子。武王の兄にあたる。
文王と太姒(たいじ)の間の長男として生まれ、
『毛詩正義』が引く『大戴礼記』によると、
文王が13歳のときに伯邑考が生まれた。
文王が15歳のときに
文王が生まれた。
と伝わる。
『
史記・管蔡世家』によると、
文王の次男の
武王と四男の
周公旦が優れており、
文王に協力して補佐したため、
文王は伯邑考をさしおいて
武王を太子としたと伝える。
武王が周王として即位したときには、伯邑考はすでに亡くなっていた。
その子孫はどこの領地に封ぜられたか不明であると記されている。
『礼記』檀弓にも、文王が伯邑考を捨てて
武王を立てたと伝える。
『史記集解』が引く『帝王世紀』によると、文王が殷の
帝辛(紂王)によって羑里に捕らわれたとき、伯邑考は殷の人質であった。
後の
帝辛(紂王)は伯邑考を醢尸の刑(身体を切り刻む刑)で誅殺して、釜茹でにして食肉にされた後にその羹(肉汁)にして、
文王に与えた。の
帝辛(紂王)は「聖人ならその子の羹を食わないだろう」と言った。
それを聞いた文王は羹を食べた。
帝辛(紂王)は「誰が西伯(文王)を聖人などと言ったのだ?
その子の羹を食べてなお気づかないではないか」と言った。
...
明代の小説『封神演義』では琴の名手として描かれている。
姫昌が殷の帝辛(紂王)に罪を問われて幽閉されたとき、父の釈放を願い財宝を持って王都朝歌に出向いた。
しかし帝辛(紂王)に献上した猿が愛妾妲己を襲ったために隗肉刑に処せられ、遺体は肉餅(ハンバーグのようなもの)にされて姫昌に与えられた。
姫昌は肉餅が何であるかを知っていたが、下賜を拒んだと思われることを避け、肉餅を口にした。
姫昌は調理された息子を食べたことで釈放された。
姫昌が本拠地の西岐に帰還したのちに肉餅を吐き出すと、肉餅は兎になったという。
武王(ぶおう) 文王・太姒の次男
管叔鮮(かんしゅくせん) 文王・太姒の三男
管叔鮮/管叔鲜
かんしゅくせん
姓・名 | : | 姫(姬)・鲜 |
別名 | : | 管叔鲜 |
| | 管叔 |
生没年 | : | 不詳 - 紀元前1039年 |
父 | : | 周・文王(三男) |
母 | : | 太姒 |
兄 | : | 西周・武王 |
| | |
周の
文王の三男。
姓は
姫で、名は鮮。
また、関叔とも称される。
武王の12年に、
殷が滅亡した。
翌西周の初年に、
叔鮮は管(現在の
河南省鄭州市管城回族区)に封じられて、
管叔と称して諸侯となり、
帝辛(紂王)の子の
武庚禄父とともに殷の遺民を統治する任を与えられた。
彼は兄弟の蔡叔度や霍叔処とともに周の三監と称された。
成王の元年、
周の
成王が即位すると、
幼年であったため王族の
周公旦が摂政となった。
管叔鮮は周公旦に簒奪のたくらみがあるのではないかと疑い、
蔡叔度とともに
武庚禄父(禄父)を擁して反乱を起こした。これが「
三監の乱」である。
周公旦が東征して、戦争は3年にわたり、管叔鮮は敗れて誅殺された。
『
史記・管蔡世家』では、
管叔鮮の子孫は途絶えたと記されているが、
宮城谷昌光の小説『管仲』では、
姜斉の宰相の管仲は管叔鮮の子孫ではないかと憶測している。
周公旦(しゅうこう たん) 文王・太姒の四男
周公旦
しゅうこう たん
姓・名 | : | 姫(姬)・旦 |
別名 | : | 周公、周公旦、叔旦 |
父 | : | 周・文王(四男) |
母 | : | 太姒 |
生年 | : | 不詳 |
没年 | : | 紀元前1037年? |
兄 | : | 西周・武王 |
出生地 | : | 不詳 |
封地 | : | 鲁(現在、曲阜) |
| | |
中国
周王朝の政治家で且つ、周邑の君主。姓は姫、諱は旦。
文王の四男で、
周朝初代・
武王の同母弟であり、
周王朝の政治家である。
魯の初代の公である
伯禽の父。
呂尚(太公望)や召公奭(しょうこうせき)と並ぶ、
周建国の功臣の一人である。
「周公」は称号と思われる。
次兄にあたる初代
武王存命中は兄の補佐をして殷打倒に当たったとだけとしかわからない。
周が成立すると曲阜に封じられて魯公となるが、
天下が安定していないので魯に向かうことはなく、
嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、
自らは中央で政治にあたっていた。
...
【疑問点】魯の建国時期
「周が成立すると曲阜に封じられて魯公となる」との記述から
紀元前1046年のことと考えられるが、
一方で(コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の魯の記述で)「周の武王の弟の周公旦が封じられたのに始るが(紀元前1055年)」との記述がある。
魯の国の始まり(建国)は2説あるようだ。
誰が、
周公旦を魯に封じたのかが明記されていれば判断できるが、
現時点(2023.1.17)では不明である。
概要
建国間もない時期に武王は病に倒れ、
余命いくばくもないという状態に陥った。
これを嘆いた旦は自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。
武王の病は一時回復したが、再び悪化して武王は崩御した。
武王の死により、
武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。
成王は未だ幼少であったため、
旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。
その中で三監の乱が起きた。
殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、
さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。
だが、
霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、
武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。
反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、
同母弟の蔡叔度は流罪、
霍叔処は庶人に落とし、
蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた。
さらに、
引き続き唐が反乱を起こしたので、
再び旦自らが軍勢を率いて、
これを滅ぼした。
その後、
7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。
その後、
洛邑(洛邑、成周と呼ばれる)を営築し、
ここが周の副都となった。
また旦は、
礼学の基礎を形作った人物とされ、
周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、
『儀礼』を著したとされる。
旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、
文武両道の旦を理想の聖人と崇め、
常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、
ある時に夢に旦のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたという。
「周公」の称号については旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったのでこう呼ばれるのではないかとの説もある。
また、
武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、
その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。
周公の墓はどこにあるのかは未だ謎であるが、
西暦2004年に陝西省宝鶏市岐山県の周公廟(中国語版)付近で、
それらしい墓が発見されている。
『尚書大伝』は、
「一年で乱を収め、二年で殷を滅ぼし、三年奄を践み、四年で封建し、五年で成周を営み、六年で礼を制し、七年で政権を返還した」と旦を評する。
前漢末の思想家賈誼は旦を「文王、武王のあらゆる功績を一身にまとい、黄帝より後、孔子より前の人物では右に出るものが無い」と評した。
周公旦は賢人が訪れると、
何度でも、
食事中なら口の中の食べ物を吐き出し、
洗髪の折は髪を握ったまま出迎えたとされる。
握髪吐哺(あくはつとほ) - 吐哺握髪ともいう。
為政者の、賢者を求め、得る気持ちの強く熱心なたとえ。
周公は賢者の訪問を受けたときは、洗髪中でもたびたび洗いかけの髪を手に握ったまま、また食事中でもいったん口にふくんだ食べ物でもそれを吐き出して、待たせることなくすぐに出て面接したという故事。
『
史記・魯周公世家』による。
親族
- 祖父母
-
- 父母
-
- 兄弟
-
- 伯邑考(兄・長男)
- 武王(兄・次男)
- 管叔鮮(兄・三男)
- 蔡叔度(弟)
- 霍叔处(弟)
- 郕叔武(弟)
- 卫康叔(弟)
- 毛叔郑(弟)
- 冉季载(弟)
- 郜叔(弟)
- 雍伯(弟)
- 曹叔振铎(弟)
- 滕叔绣(弟)
- 毕公高(弟)
- 原叔(原丰)(弟)
- 丰叔(弟)
- 郇叔(弟)
- 子
-
- 伯禽
- 君陈
- 凡伯
- 蒋伯龄
- 邢朋叔
- 茅侯
- 胙伯
- 祭伯
- 孫
-
後世、
周公旦の息子たちは、
周、呂、樊、江、興、毛、贄などの国の支配者となり、
その子孫はすべて周公旦の子孫である。
魯公24年(紀元前256年)、楚の高麗王は魯の智公を市民として咸宜(現在の安徽省唐山県)に移し、魯の国は没落した。
蔡叔度(さいしゅくど) 文王・太姒の五男
蔡叔度
蔡叔度
さいしゅくど
姓・名 | : | 姫(姬)・度 |
父 | : | 周・文王(五男) |
母 | : | 太姒 |
生没年 | : | 不詳 |
同母兄 | : | 西周・武王 |
| | |
蔡叔度(さいしゅくど)は、西周の諸侯である
蔡の初代の君主。姓は姫で、名は度。
周の
文王の五男として生まれた。
武王が殷を滅ぼすと、叔度は蔡(河南省駐馬店市上蔡県の南西)に封じられ、
帝辛(紂王)の子の武庚を監視する任を与えられた。
成王が即位すると、幼年であったため周公旦が摂政を務めた。
蔡叔度は周公旦が朝政を専断するのが不満で、
管叔鮮とともに三監の乱を引き起こした。
戦争に敗れると、周公旦によって郭鄰に流され、配所で死去した。
子の
蔡仲が蔡に封じられて、祭祀を継いだ。
武王が殷を滅ぼすと、
叔度は蔡(河南省駐馬店市上蔡県の南西)に封じられ、
帝辛(紂王)の子の武庚を監視する任を与えられた。(三監の一人)
成王が即位すると、幼年であったため周公旦が摂政を務めた。
蔡叔度は周公旦が朝政を専断するのが不満で、
管叔鮮とともに三監の乱を引き起こした。
戦争に敗れると、周公旦によって郭鄰に流され、配所で死去した。
子の蔡仲が蔡に封じられて、祭祀を継いだ。
...
親族
曹叔振鐸(そうしゅくしんたく) 文王・太姒の六男
曹叔振鐸
そうしゅくしんたく
姓・名 | : | 姫(姬)・度 |
父 | : | 周・文王(五男) |
母 | : | 太姒 |
生没年 | : | 不詳 |
同母兄 | : | 西周・武王 |
封地 | : | 曹 |
| | |
西周の諸侯である曹の初代の君主。姓は姫で、名は振鐸。
周の文王の六男として生まれた。
武王が殷を滅ぼすと、
振鐸は曹(山東省菏沢市定陶区の北西)に封じられた。
子の脾(太伯)が後を継いだ。
成叔武 / 郕叔武(せいしゅくぶ) 文王・太姒の七男
周の文王の七男。
武王が殷を滅ぼすと、叔武は成(現在の山東省寧陽県の東北)に封じられた。
霍叔処 / 霍叔處(かくしゅくしょ) 文王・太姒の八男
周の文王の八男。
西周の諸侯である霍の初代の君主。
武王が殷を滅ぼすと、
叔処は霍(現在の
山西省霍州市)に封じられ、
帝辛(紂王)の子の武庚を監視する任を与えられた。
叔処は
管叔鮮、蔡叔度とともに周初の三監と称された。
成王のとき、
三監は共同して紂王の子の武庚を擁して三監の乱を起こしたが敗北し、
霍叔処は
周公旦によって庶人に落とされた。
霍叔処の子が霍に封じられて後を継いだ。
康叔(こうしゅく) 文王・太姒の九男
周の文王の九男で
武王の同母弟。衛の初代君主。
衛康叔、康叔封とも表記される。
周の
武王が崩御し、
子の
成王が立ったが、
まだ幼かったので、
弟の
周公旦が国政を代行した。
しかし、
その弟である管叔と蔡叔らは
周公旦を疑い、
殷の帝辛(紂王)の子である武庚禄父とともに反乱を起こして成周を攻撃しようとした。
そこで周公旦は成王の命により出兵して反乱軍を討ち、
首謀者である管叔と武庚禄父を誅殺し、
蔡叔を放逐した。
周公旦は武庚禄父亡き後の殷の民を弟の康叔に委ね、
康叔を衛君に封じ、
黄河と淇水の間にある故商墟(旧殷の都、のちの朝歌:現在の
河南省淇県)に赴任させた。
この時、
周公旦は康叔がまだ若いのを危惧して、
「康誥」・「酒誥」・「梓材」の3つを教え込み、
為政者の法則とさせた。
こうして康叔は封国である衛に赴任すると、
周公旦の命に従って善政を布いたため、
民から慕われることとなった。
やがて周の成王も成人となり、
国政を行えるようになったので、
成王は康叔を周の司寇とし、
周王室の宝物を下賜して康叔の有徳を表彰した。
康叔が
薨去すると、子の康伯が立った。
冉季載 / 爯季載(ぜん きさい) 文王・太姒の十男
周の文王の十男、生母は太姒(たいじ)。
同母兄の
武王の分封のときはまだ幼く、
すぐ上の同母兄の康叔封とともに封地を与えられなかった。
三監の乱の後に、
成人したために爯(現在の
安徽省阜陽市潁州区の西)に封じられた。
周の司空となり、甥の成王を補佐した。
滕叔繡(とうしゅくしゅう) 文王の十四男
西周の諸侯である
滕(とう)の初代の君主。姓は姫で、名は繡。滕錯叔ともいう。
周の文王の庶子として生まれた。
武王が殷を滅ぼすと、叔繡は滕(山東省滕州市の西南)に封じられた。
畢公高(ひつこう こう) 文王の十五男
西周初期の重臣で王族のひとり。姓は姫、名は高。
畢公高は周の
武王・成王・
康王の3代に仕えた。
武王により畢(現在の陝西省西安市長安区の北)の地に封じられたため、
「畢公」と呼ばれた。
武王が即位すると、
畢公高は召公奭(しょうこうせき)とともに王の側近にあった。
武王が殷を攻撃しようと鮮原に進出したとき、
畢公高は召公奭とともに召し出された。
武王が朝歌に入ると、
周公旦は大鉞を取り、
畢公高は小鉞を取って、
武王を挟んで護衛した。
畢公高は武王の命を受けて囚われていた人々を釈放した。
成王のとき、畢公高は太師となって、成王を教導した。
成王死去にあたって、
畢公高は召公奭とともにその遺命を受け、
諸侯を率い、
康王の輔弼にあたった。
成王の葬礼にあたっては、
召公奭は西方諸侯を率い、
畢公高は東方諸侯を率いた。
康王12年、東郊の民生安定を図るよう
康王に命じられた。
畢公高は周原近郊の居里の区画整理をおこなった。
彼の死後、その子孫は畢の封土を失った。
末裔に晋の大夫の畢万がおり、
戦国時代の七雄のひとつ魏の始祖となった。
s
酆侯(ほうこう) 文王の十七男
『姓纂』によると酆氏の姓の由来は文王の十七男の酆侯が国名を姓にしたこととある。
『通志』「氏族略・以国為氏」によると、
文王の十七男が酆に受封されて、酆侯を名乗り、国名を氏としたとある。
『辞海』の注釈によると、
酆侯の地は鄠であり、
長安の西南の澇水の東岸に位置する。
夏代にが扈国が存在し、
秦代に扈邑、漢代に扈県が置かれた。
現在の陝西省西安市扈邑区とある。
『春秋大事表』巻五では、
酆は殷の崇侯虎の地であり、
文王が崇を滅ぼすと酆邑を作り、
武王の弟の酆侯を封じられたとある。
武庚禄父() 殷・紂王の子 *** 移動 ***
武庚禄父(ぶこうろくほ) 生没年:不詳) 殷・
帝辛(紂王)の子、継母は
妲己。
武庚禄父を一人の人名とする『
史記』の説があるが、
武庚と禄父という『論衡』などの二人の人名説が妥当である[1]。
概要
周武王は殷紂王を打倒したが、
殷王朝の祭祀は殷の旧領土に封じた武王の子の武庚と禄父に継承させた。
武庚は殷の故都(安陽)に封じられ、
禄父は梁山出土の銅器の銘文からみて、梁山に封じられた。
武庚は
周王朝に反乱、禄父も加担したが、周公旦や召公?に平定された[1]。
史書のなかの武庚禄父
『後漢書』東夷伝に
「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」
とある[2]。
管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられた。
蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。
管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、
殷紂王の子の武庚禄父とともに、
周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、
平定された[2]。