『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。
別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。
神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、
大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、
『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。
伊勢神宮においては、
通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、
神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。
なお、 「大日孁貴神」の「貴(ムチ)」とは「貴い神」を表す尊称とされ、 神名に「貴(ムチ)」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(大国主)、 道主貴(宗像大神)などわずかしか見られない。
『日本書紀』ではスサノヲに姉と呼ばれていること、 アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、 つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、 機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、 古来より一般に女神と解されている。
別名の「大日孁貴(オホヒルメノムチ)」の「大(オホ)」は尊称、
「貴(ムチ)」は「高貴な者」、
「日孁(ヒルメ)」は「日の女神」を表す。
但し「孁」は「巫」と同義であり、
古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる。
「彦(ヒコ)・姫・媛(ヒメ)」、「男(ヲトコ)・(ヲトメ)」、「郎子(イラツコ)・郎女(イラツメ)」など、
古い日本語には伝統的に男性を「子(コ)」・女性を「女(メ)」の音で表す例がみられ、
この点からも女神ととらえられる。
後述するように中世には仏と同一視されたり、 男神説等も広まった。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、
神御衣を織らせ、
神田の稲を作り、
大嘗祭を行う神であるから、
太陽神であるとともに、
祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある。
ただし、
「女(メ)」という語を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる。
もとはツングース系民族の太陽神として考えると、
本来は皇室始祖の男神であり、
女神としてその造形には、
女帝の推古天皇や、
持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)、
同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある。
兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名のまたの名が伝わる。
これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、
荒祭宮の荒御魂が女神であることの証左とされる。
天照大神は、 『古事記』においては、 伊邪那岐命が伊邪那美命の居る黄泉の国から生還し、 黄泉の穢れを洗い流した際、 左目を洗ったときに化生したとしている。
このとき右目から生まれた月読命、
鼻から生まれた建速須佐之男命と共に、三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。
このとき伊邪那岐命は天照大御神に高天原を治めるように指示した(「神生み」を参照)。
海原を委任された須佐之男命は、
伊邪那美命のいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため伊邪那岐命によって追放された。
須佐之男命は根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、
天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
須佐之男命は身の潔白を証明するために誓約をし、 天照大御神の物実から五柱の男神、 須佐之男命の物実から三柱の女神が生まれ、 須佐之男命は勝利を宣言する(「アマテラスとスサノオの誓約」を参照)。
このとき天照大御神の物実から生まれ、 天照大御神の子とされたのは、 以下の五柱の神である。
これで気を良くした須佐之男命は高天原で乱暴を働き、
その結果天照大御神は天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。
世の中は闇になり、
様々な禍が発生した。
思金神(おもいかねのかみ)と天児屋命(あめのこやねのみこと)など八百万(やおよろず)の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、
須佐之男命は高天原から追放された(「天岩戸」を参照)。
大国主神(おおくにぬしかみ)の治めていた葦原中国を生んだのは親である岐美二神(イザナギとイザナミ)と考え、
葦原中国の領有権を子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に渡して降臨させることにし、
天津神の使者達を大国主神の元へ次々と派遣した。
最終的に武力によって葦原中国が平定され、
いよいよ天忍穂耳命が降臨することになったが、
その間に瓊瓊杵尊が生まれたので、
孫に当たるニニギを降臨させた(「葦原中国平定」「天孫降臨」を参照)。
その時八尺鏡を自身の代わりとして祀らせるため、降臨する神々に携えさせた。
『日本書紀』においては、 第五段の本文では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が自然の神を産んだ後に大日霎貴(おおひるめのむち)を産んでいる。 第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに大日霎貴が生まれている。 第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の眼を洗った時天照大神が生まれている。
中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、インドの仏が神の姿をとって日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになる[19][20]。 平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した[21][注釈 5]。 天照大神男神説 神道において、陰陽二元論が日本書紀の国生みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。 平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。 京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように『記紀』を作り替えたとも言われる[22]。 ただし前述のように女神説が主流であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。 各仏教宗派の教学 仏教界においては、宗派にもよるがちょうど八幡神(やはた/ハチマン)のように「てんしょうだいじん」と音読みで読まれることが多い。 真言宗 真言宗では天照大神を大日如来の化身と見ていた[23](詳しくは両部神道の項へ) 日蓮宗・法華宗 日蓮は御書の中で自身の出身地である安房国長狭郡(現在の千葉県鴨川市の大半)を、天照大神の日本第一の御厨(東条御厨)であると記している。日蓮は天照大神と八幡大菩薩を日本の法華経守護の善神の筆頭とし十界曼荼羅に勧請しており[24]、その本地を釈迦牟尼仏だとしている[25]。現在でも日蓮宗・法華宗の寺院では三十番神の一柱として天照大神が祀られている姿が見られる。 昭和になると日蓮宗・法華宗各派は、日蓮が御書にて天照大神を帝釈天や梵天などのインドの神と比べて「小神」と呼んだこと、「天照大神」という文字が十界曼荼羅の中で鬼子母神や八大龍王などよりも下に書かれていることなどが問題視され、法華宗が不敬罪で訴えられる事件となった[26]。