アイネイアス(Aineias)はトロイア戦争で敗れたトロイア側の将軍で、 トロイア王家の人間である。 また、愛と美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の子供でもある。
トロイアとギリシャのアカイア人の諸都市が約10年間戦ったトロイア戦争で、 トロイアが陥落した際、 アイネイアスは父アンキーセースを背負い、 幼いアスカニオスの手を引いて燃える都から脱出した。 アイネイアスらトロイア勢は奮戦するが、 アカイア側のトロイの木馬の計によってトロイアは陥落し、 アカイア人が侵入し、殺戮を行った。 多くのトロイア人が命を落とす中、 ウェヌスの忠告でアイネイアスは年老いた父のアンキーセースと子供のアスカニオスらと共に落城するトロイアを脱出した。
その後、アンタンドロス (es:Antandro) で船を建造し、 船に乗って新天地を目指し、放浪の旅を始めた。 まず、トラキアの王を頼ろうとトラキアに向かい、 海岸で犠牲式を開催したが、 ポリュドールスの亡霊の忠告によってトラキアを離れた。 その後、デロス島で神からのお告げでクレタ島に向かい、 建国をしようとした。 その後、再びのお告げでイタリアに新しい国を作るべく再び航海を始めた。 その後、嵐でストロバテス島に漂着、ハルピュイアと戦闘状態になる。 その時女王のケラエノがイタリア上陸後も苦難が続くことを予言した。 その後、逃げ延びた一行はアクティウム、イピロスに到達し、 そこでアンドロマケー、ヘレノスと再会する。 ヘレノスは今後の旅についてアイネイアスに助言をした。 そして、メッシーナ海峡に到達するも、波で押し戻され、 シチリア島のエリチェに到達した。 そこでアンキーセースが亡くなる。 しかし、女神ユーノーはパリスの審判でトロイアを恨んでいて、 更に予言からイタリアにトロイア人の国が再び誕生するという知らせを聞いたため、 風の神アイオロスに命じて暴風雨を起こさせた。
その後、なんとかカルタゴに漂着した一行は、 カルタゴの女王ディードーの歓迎を受ける。 しかし、ウェヌスは、 アイネイアスがディードーに危害を加えられることを恐れていた。 そこで、クピードーに命じてディードーがアイネイアスを愛するようにさせた。 そして、二人は愛し合ったが、 その噂を聞いたユーピテルはトロイア再興の使命を果たすように言った。 そして、アイネイアスらはカルタゴを発ってイタリアに向かった。 一方、ディードーは別れを嘆き、 アイネイアスを呪って炎の中で死ぬ。
イタリアに発ったアイネイアスらはシチリアに到達し、島の王に歓迎された。 その後、父を追悼するために競技祭を開催し、船のレースをした。 一方、女性と老人はシチリアに残されることになった。 その後、船でイタリア半島に向かった。 そして、クーマエに到着し、巫女のシビュラの下を訪れ、 冥界へ向かう方法を教えてもらう。 その後、黄金の小枝を用いてシビュラと共に冥界に向かった。 そしてカルタゴの女王ディードーと再会し、 彼女にカルタゴを離れたことを弁解した。 その後、父のアンキーセースと再会した。 アンキーセースはアイネイアスに今後ローマの歴史に現れる人物の運命やローマの歴史を予言し、 またアイネイアスの今後の身の振る舞い方についても述べた。 その後、冥界から戻ったアイネイアスは再び船に乗り旅を続けた。
アイネイアスらはガエータ等を経てついにティベレ川の河口に到達した。 アイネイアスはストロバテス島でケラエノが言った予言が当たったため、 そこが建国すべき約束の地であることを確信した。 そこはラテン民族の王ラティヌスが治めていた。 その後、アイネイアスはラティヌスに歓迎された。 そしてラティヌスは彼の娘であるラウィニアを外国から来た男に嫁がせなければならないという予言も受けていたため、 アイネイアスにラウィニアを嫁がせることを決めた。
しかし、それに対し不満を持ったユーノーはラウィニアの婚約者だったルトゥリの王であるトゥルヌス(第二のアキレウスと呼ばれていた)にアイネイアスに対し戦争をおこすように仕向けた。 また、毒蛇を使ってラティヌスの妻であるアマタにも戦争をそそのかした。
その後、トゥルヌスは住民に対しアイネイアスらと戦うことを提案した。 そして、ラテン人の鹿をフリアエの陰謀によりアスカニオスが殺したため、 両者の間で争いが起き、ラティヌスは住民やトゥルスの意思に抗えず、 アイネイアスらとの戦いを決定する。
その後、ラテン民族はアイネイアスら(以後トロイア勢)と戦う準備をし、 女王カミラやサビニ人等の人達が集まってきた。
一方のアイネイアスは夢にティベレ川の神であるティベリヌスが現れた。 ティベリヌスはアスカニオスが将来アルバ・ロンガを建国すること、 ティベレ川の流域(現在のローマ)に王国を持つギリシャ系の王エウアンドロスと一緒に戦うこと、 そしてユーノーに祈りを捧げることを指示した。
夢から覚めたアイネイアスは神に感謝し、 2隻の船にのってエウアンドロスの下に行った。 その後、エウアンドロスはトロイア勢に協力すると告げ、 エトルリア人を暴君メゼンティウスに対し反乱を起こさせるように仕向けるべきだと告げ、 自国の軍勢と息子のパラスを派遣することを決定した。 また、ウェヌスはアイネイアスのために鍛冶の神ウゥルカーヌスに命じて楯や武器を作らせた。 完成した楯にはこれから起こるアクティウムの海戦までのローマの歴史が描かれてあった。
その頃、 トゥルヌスらはユーノーの助言でアイネイアスが留守の間のトロイアの陣営を襲うことにした。 ラテン人はティベレ川に係留されているトロイアの船を燃やそうとしたが、 船は神聖な木によって造られていたので沈没した船はニンフに変わった。 その後、ラテン人がトロイア陣営を包囲する。 夜になってトロイアの陣営ではエウリュアロスとニーソスの二人がアイネーイスの下に事態を知らせるべくトロイア陣営から包囲網を破って脱出しようとした。 ラテン人の陣営に到着した二人だが、 奮戦の末敗死する。 その後、ラテン人はトロイアの陣営に総攻撃を仕掛ける。
トロイアの塔に火災を起こさせ、 トロイア軍との戦闘中にルトゥリ人とトゥルヌスは陣営の門に突入する。 しかし、その時門が閉まってしまったので失敗し、 トゥルヌスらルトゥリ人だけがトロイア陣営に取り残される。 力が強いトゥルヌスだが、 徐々に疲れで状況は厳しくなり、 ティベレ川に飛び込んだが、 助かった。
その頃、ユピテルがオリュンポスで神々の会議を招集した。 ユピテルは神々にトロイア人とラテン人の戦争についてどうすればよいかを尋ね、 ウェヌスとユーノーのそれぞれの主張を聞いて、 戦争の結果を運命に委ねることにした。
一方、 アイネイアスらは暴君メゼンティウスを追い出したエトルリアのカエレ王であるタルコンが、 軍船30隻に多くの兵を乗せて応援に駆けつけた。 その後、 翌朝にトロイアの陣営に到着したアイネイアスらトロイア軍は岸に上陸し、 とたんにラテン軍と戦闘状態になった。 アイネイアスは多くの敵兵を殺し、 パラスも奮戦し、 メゼンティウスの子供、 ラウススと戦っている際にトゥルヌスがパラスを倒しにやってきた。 二人は戦い、トゥルヌスがパラスを槍で刺して殺した。
それに対し激怒したアイネイアスは多くの兵を殺し、 陣営にいたアスカニオスらは陣営から出てきた。 一方のオリュンポスではユーノーがユピテルにトゥルヌスを死から救うように相談し、 幻のアイネイアスをトゥルヌスの前に置き、 その後、逃げる幻を追いかけて停泊している船に乗ったところ、 ユーノーが船のロープを切ってトゥルヌスは漂流し、 戦線離脱した。
その頃、アイネイアスとメゼンティウスらが戦場で遭遇し、 アイネイアスはメゼンティウスに重傷を負わせるが、 ラウススの助けで一命を取り留める。 しかし、そのラウススもアイネイアスに殺され、 メゼンティウスも殺される。
その後、アイネイアスらはパラスの葬儀を行うことを決め、 葬儀のためにラテン民族と12日間の休戦期間を設けた。 その際に、アイネイアスはトゥルヌスとの一騎討ちを打診した。 トロイア側は3日間で埋葬を済ませた。 一方、ラテン側では葬儀の後、 ディオメーデースからの参戦拒否の通知が陣営に届いた。 厭戦気分も高まり、 ラティヌスらが信託によってトロイア側の勝利は決まっているとしてこれ以上の戦闘をやめ、 ラウィニアをアイネイアスに結婚させるように要請した。 また、ドランケスもそれに賛成した。
しかし、トゥルヌスは自分はトロイア人を一人で大量に殺したことや、 同盟国も多いことから、戦争を継続することを決定した。 一方、トロイア勢は平野部に進撃を始めた。 それに対し、ラテン側は戦うことを決め、守りを固めた。 そして、女戦士のカミラの一隊を森でラテン側の兵が待ち伏せしている間に、 トロイア勢に正面から突撃するように命じた。
一方、天上ではティーアナがオプスにカミラを殺した者に復讐をするようにさせ、 その後、 ラテン側の都市に攻め入ろうとするトロイア勢にカミラの一隊が戦いを仕掛ける。 カミラは多くの敵兵を殺した。 そして、エトルリアのアルンスという兵士がカミラを執拗に追い回し、 槍でカミラを殺した。
その後、オプスがアルンスを殺し、 復讐を果たした。カミラの死後、 混乱しているラテン軍は市内に押し込まれ、多くが殺された。 その知らせを聞いたトゥルヌスは絶望した。
その後、トゥルヌスはアイネイアスと一騎討ちで戦うことを決めた。 しかし、アマタやトゥルヌスの姉妹のユートゥルナは反対した。
翌朝、アイネイアスらトロイア側とトゥルヌスらラテン側は平原に集まり、 勝敗が決まった際の約束をかわした。 それに対し、ユートゥルナはこの決闘は不平等であると不安に思っていた。 そんな中、鷲が白鳥を捕らえ、それを浜辺にいた鳥の群が追い返した。 この事象を占い師トルムニスがトゥルヌスを助けるべきという予兆であると言い、 トロイア兵の中に斬り込んだ。 そして、両軍は戦い始める。
それに対し、やめるよう説得したアイネイアスに対し、 何者かが矢を放ち、アイネイアスは負傷する。 それに対し興奮したトゥルヌスは多くの敵兵を斬り殺した。
一方のアイネイアスは後方でイーアピュクスによって治療され、 ウェヌスの力で傷は治った。 そして、アスカニオスにメッセージを残したアイネイアスは再び戦場に戻り、 トゥルヌスを探すが、 ユートゥルナの策略によってトゥルヌスを見つけることができなかった。 しだいに怒りだしたアイネイアスとトゥルヌスは多くの敵将を殺戮する。
その後、アイネイアスはウェヌスの助言でラティヌスの国の都がある町を奇襲し、 混乱の中アマタは自殺する。
それを受け、 トゥルヌスは改めて一騎討ちをするべくユートゥルナの反対を押し切りアイネイアスの下に向かった。 一騎討ちが始まり、 トゥルヌスはアイネイアスに斬りつけようとしたが、 剣が折れてしまい、逃げまどったが、 ユートゥルナの助けで剣を取り戻す。
一方、天上界ではユピテルはユーノーやユートゥルナを説得し、 これ以上干渉することを止めさせた。 そして、アイネイアスとトゥルヌスは戦闘を続け、 アイネイアスが槍をトゥルヌスの太股に斬りつけた。 トゥルヌスは降伏し、命乞いをした。 しかし、アイネイアスはトゥルヌスの肩にパラスの剣帯を見て、 怒りを覚えてトゥルヌスを殺した。
その後、ラティウムを建設したアイネイアスは、 ユーノーの怒りも収まり、 アスカニオスの成長に伴い、 天上界に昇る時間が近づいた。 そこで、ウェヌスが他の神々と共にユピテルにアイネイアスを神にするよう、 嘆願した。 ユピテルは了承し、 ウェヌスは川辺でアイネイアスを神にする儀式をし、 アイネイアスは神になった。
ティトゥス・リウィウス著作のローマ建国史等の古代の文献にもアイネイアス伝承は描かれてある。 アイネイアスは数々の困難の末にティベレ川河口に到達したアイネイアスはアボリギネス人の王、 ラティヌスに歓迎されてラウィニアを与えられ、 ラウィニアとの間にアスカニオスが生まれ、 ラウィニウムを建設する。
しかし、ラウィニアの婚約者だったルトゥリ人の王であるトゥルヌスが反発し、 戦争を仕掛けるも敗北し、 ルトゥリ人共々エトルリア人の王メゼンティウスの下に逃げ込んだ。 エトルリア人は強力であったので、 アイネイアスはトロイア人とアボリギネス人の二部族をラテン民族とし、 結束力を高めたうえでエトルリアの軍と戦い、 勝利するも自身は戦死した。
また、古代にはアイネイアスはイタリアに辿り着くことができなかったという説を唱える人もいたとされる。 一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスはアイネイアスらはカルタゴに漂着せずに2年間でトロイアからラティウムに到着したとした。
レア・シルウィアがウェスタの巫女に任命されてから4年後、 彼女は巫女の身でありながら、妊娠した。 交わった相手は軍神マルスという説も、 アムーリウスという説もある。 その後、シルウィアは男児の双子を出産した。 ロムルスとレムスである。 しかし、 アムーリウスはシルウィアを牢に軟禁させ(川に身を投げさせたという説もある)、 双子を捨てるように命じた。 二人はティベレ川に流されたが、 すぐに人里離れた陸地に漂着した(無花果の木がそばにがあった。)。
その後、漂着したところに山からやって来たメスの狼が近づき、双子に乳を与えた。 また、キツツキは食料を与えた(キツツキはマルスの聖鳥)。 狼は王室の羊飼いが近づくと立ち去っていった。 羊飼いの名前はファウストゥルスという名前で、 双子を家に持ち帰り、妻のレンティアに育てさせた。 また、狼が乳を与えたという伝承については名前が狼という意味の名前だったから伝承ができたという説もある。 更に、レンティアの正体は女神であるという説もある。 また、ファウストゥルスは王の豚飼いで、 実は双子が捨てられていたのを知っていたが、 神の望みによりその頃死産だった妻に育てさせたという説もある。 その後、ロムルスとレムスと言う名を与えられた。
双子は、両親の元で健康に育ち、やがて遊牧・農耕生活をしながら、 若者の遊牧民の仲間と狩りをしたり、 盗賊を襲ったりした。 ロムルスは政治的素質を備えており、 徐々に若者の集団は規模を大きくしていき、 周辺の人々の間に名が知れ渡っていった。 また、ローマ時代にはロムルスの生家とされる”ロムルスの小屋”(ファウストゥルスの小屋)という小屋がパラティーノの丘にあったとされる。
ロムルスとレムスが18歳の頃、 ロムルスとレムスの一派とヌミトルの配下の一派とが土地を巡っての勢力争いが起こった(盗賊との説もある)。 一旦はロムルスらの一派が勝ったが、 ロムルスら多くの人が犠牲式のために出かけていた間に、 ルミトルの配下が待ち伏せをして、レムスを捕らえた。 また、ロムルスとレムスの一派がパラティーノの丘でルペルカリア祭を行っていた間に盗賊の不意打ちを受け、 ロムルスは助かったがレムスらファビウス派は捕まってしまったとも言われている。
そして、盗賊達はレムスをアルバ・ロンガのアムーリウス王の元に連行し、 アムーリウス王にロムルスとレムスがヌミトルの領地に侵入していることを話した。 アムーリウス王はヌミトルにレムスの身柄を引き渡した。 一方、ロムルスはレムスが捕まったことを聞くと、すぐに救出しようとしたが、 ファウストゥルスから二人の出生の秘密を知らされ、 ロムルスはアムーリウス王を打倒することを決意する。
一方、ヌミトルの家に連れて行かれたレムスはヌミトルと面談した。 ヌミトルは、レムスの体格や容貌が自分に似ている事や、 レムスが二人は捨て子だと名乗った事からレムスはヌミトルの孫であることを知った。 そのため、ヌミトルはレムスに真実を伝え、 レムスを無罪放免にした。
一方のロムルスはファウストゥルスから聞いたことが真実であるかどうか確かめるためにヌミトルの元へ向かった。 ファウストゥルスは双子が捨てられた時に使われた籠を持ってロムルスを追ったが、 アルバ・ロンガの城門の前で兵士に怪しまれ、 アムーリウス王の前に引き出されて尋問を受けた。 それに対し、 ファウストゥルスはロムルスとレムスが生きていることと彼らが遊牧民であること、 シルウィアに二人の運命を伝えに来たということを述べた。 そして、 アムーリウス王はファウストゥルスに二人の居場所を聞き出そうとしたが、 ファウストゥルスは自分と王の配下の者が二人を迎えに行くと言って脱出した。
一方のアムーリウス王はヌミトルを召還するべく、 ヌミトルの下に使者を送ったが、 使者がヌミトルと親しく、 ヌミトルにアムーリウス王の計画を密告した。 それを知ったヌミトルはロムルスとレムスにそれを知らせた。 その後、レムスとヌミトルは一族郎党やファビウス派の羊飼い、 剣を隠し持った一団を率いて王宮に向かった。 そして、アムーリウス王を殺害した。 一方のロムルスは市外からアムーリウス王に反対する市民を集めて百人隊を構成し、 城を攻めた。 そして、ヌミトルは王位に返り咲き、 シルウィアは牢獄から解放された。
祖父を再びアルバ王に就けたロムルスとレムスはアルバではなく、 自分の生まれ育ったパラティーノの丘に新しい都市を建てようとした。 人口過剰やヌミトルの勧めもあって(ヌミトルは二人を厄介払いをしようとしたという説もある)、 支持者を連れてパラティーノの丘に向かった。 そして都市の建設をロムルスとレムスの二人がそれぞれ率いる2グループに分け、 作業の効率化を図ろうとしたが、 結果的にロムルスとレムスが対立する原因となってしまった。 そして、ロムルスはパラティーノの丘に、 レムスはアヴェンティーノの丘に都市を建設すべし、 と争った他、 新都市の名前についても争い、 収拾がつかなくなったので、 アルバ・ロンガに出向き、ヌミトル王に相談した。
そこで、ヌミトル王は鳥占い (en:Auspice) で最初により良い鳥が飛んできた方が王になるというふうに決めるように言った。
そこで、ロムルスとレムスはそれぞれパラティーノの丘とアウェンティーノの丘に登り(二人ともアウェンティーノの丘に登ったという説もある)、
鳥がやってくるのを待った。
まず、レムスの下に6羽のハゲタカがやって来て、
直後にロムルスの下に12羽のハゲタカがやってきた。
そして、ロムルスの支持者は数の多さを、 レムスの支持者は最初に飛んできたことを理由にそれぞれを王にするように争った。 そして、ロムルスの支持者とレムスの支持者が戦闘を始め、 戦闘中にレムスとファウストゥルスが戦死してしまった。 ロムルスは二人をアヴェンティーノの丘に葬った。 また、一説にはロムルスが建てた都市の境界の壁を、 レムスが嘲笑し、飛び越えたため、ロムルスが怒って殺したという説もある。
レムスが生きている間に(もしくは死後)ロムルスはパラティーノの丘に先述の都市の壁を建設した。 紀元前753年4月21日(牧畜の神パレスの祭日だった)に、 ロムルスはまず、パラティーノの丘に深い穴を掘り、 それを果実や土を投げ入れて埋めた。 その上に神殿を建て、ユピテル神に祈った。 その後、ロムルスは二頭の牛を使って、 ローマの境界壁の基準となる溝を掘った。 その後、市民が壁を作った。 また、これらの儀式はエトルリアからもたらされたといわれている。 また、ローマ建国史によるとロムルスは壁を作った後ヘヘラクレス他、 様々な神々に生け贄の儀式を行ったとされる。
伝説では、ローマはロムルスと彼が率いる男たちによって建国された。 ロムルスは人口を増やすために「避難所」という施設を設けた。 この避難所には住むところを追われた犯罪者やならず者、負債者、逃亡奴隷なども逃れてきて保護を求めた。 ローマはこれらの者もすべて市民として受け入れた。 こうしてローマの人口は増加したが、 女性が僅かなので、 子孫を得ることが望めず国が一代限りで絶える危機があった。 彼らローマ人は妻を娶るため近隣国のサビニ人と交渉したが、 交渉は失敗に終わった。サビニ人は、 ローマ人の素性の悪さを蔑み、 また、近くに新たな社会が根付いてライバルになることを恐れたため、 娘を嫁がせることを拒否した。 ローマからの使者は「女性用の避難所を作ればふさわしい女性が集まるだろう」と言われて追い返された。 ロムルスは、 サビニ人を罠に嵌め未婚女性を拉致するという、 誘拐婚を企てることとし、周到な準備を命じた。 そして、ロムルスはネプトゥーヌス (Neptune Equester) の祭りを開催することを計画し、 近隣の部族に祭りへの参加を呼びかけた。 リウィウスによれば、カエニナ、クルストゥメリウム、アンテムナエといった町を含む多くのサビニ人が未婚女性を連れて参加したという。 彼らは最初は家ごとに懇ろに招待された。 催物の時刻が来て、サビニ人たちの目と心がそれへ釘づけになった時、 示し合わせたとおりの襲撃が行われた。 ロムルスが合図すると、 ローマ人の若者がサビニ人の未婚女性を捕らえるべく走り散り襲いかかった。 不意を突かれた女性たちは悲鳴をあげて逃げ惑ったが、 男達に捕らえられ、無理矢理拉致された。 容姿、美貌の麗しい女性はパトリキの有力者達のものと決められていた。 役目を言いつかった下男どもに選ばれた哀れな美女たちは、 取り押さえられ体を拘束され、 自らが所有される家いえに送り届けられ、 戦争捕虜として貴人に対して献上された。 他の女性たちも力ずくで、ローマ人にとっては順調に身柄を確保され、 自由を奪われた。 ローマ人の計略は成功したが、 悪辣な方法で大量の女性を強奪されたサビニ人は「神の掟、人の信義に背く裏切りに遭った」と訴えた。 ローマに略奪された女性の数をウァレリウス・アンティアスは527人といい、 ユバは685人としている。
屈辱的な仕打ちを受け、 サビニ人未婚女性は悲憤したが、 その身の上に良い見通しはなかった。 今や彼女らの運命は完全にローマ人に握られて、 助けは来なかった。 ロムルスは自ら足を運び女性たちに説いてまわった。
ロムルスは、 捕獲され虜囚の身となったサビニ人女性に対し、 彼女らがこのような境遇になったのは全て近隣の民族が異民族婚を拒否したのが原因であって、 彼女たちの両親のプライドのせいだと主張し、 不法行為の責任は彼女らの両親であるとした。 そして「結婚すればその後の生活は安泰で、市民権や財産権を夫と共に持つ、そして何よりも大事なことは人間にとって無上の宝である子を持ち、自由な人の母になれるということだ」とした。 そして、「どうか怒りを鎮めてもらいたい。偶然によりその体を与えることになった相手に今度は心も与えてほしい。不法の後、しばらくして和解が生まれることはしばしばある。彼女らの故郷への思慕が埋め合わされるよう努力する」と述べ、 ローマ人の妻になりローマ人の子を産むよう求めた。 そしてロムルスはサビニ族からのローマに強奪された女性たちの解放要求は拒否した。 帰国の望みを絶たれたサビニ人女性はローマ人の理不尽な要求を受け入れた。 サビニ人女性たちは強制的に婚姻関係を結ばされ、 ローマ人の子を産んだ。 ローマは一代限りで国が絶える危機を回避した。 ロムルスの深謀遠慮により、 サビニ人女性たちはその後もローマに留め置かれた。 取り決めによりサビニ人女性を酷使することは禁止されたが帰郷は認められず、 引き続きローマ人によって容赦なく子供を出産させられローマの発展に奉仕した。
サビニ族は好戦的でプライドが高く、城壁のない村々に住んでいて、 恐れることを知らないのは当然だと考えていた。 それにもかかわらず自分たちが大事な大量の人質のために縛られているのを見、 また、囚われの身となった女性たちの身の上を恐れたので、 ローマに対して女性たちの身柄の解放と謝罪を求める使者を派遣した。 しかし要求は拒否された。 ロムルスは「奴隷ではなく正式な結婚である」と主張した。 娘をローマ人に誘拐婚させられ、 家庭や生活を崩壊させられた親たちは涙ながらにローマの不法を詰ってまわった。 これに憤慨したカエニナの王は、 軍勢を率いてローマの領土に侵入した。 ロムルスとローマ人たちはカエニナ軍と一戦を交え、 カエニナ王を殺し、軍を敗走させ、力を欠いた怒りの空しさを悟らせた。 ロムルスはその後カエニナに進軍し、 最初の戦闘でこれを陥落させた。 ローマに戻ったロムルスはユーピテル (Jupiter Feretrius) の神殿を建て(リウィウスによれば、ローマに建設された最初の神殿である)、 カエニナ王の鎧を捧げ物 (スポリア・オピーマ) として奉献した。 フォルム・ロマヌムにかつて存在したという戦勝記念碑 「凱旋式のファスティ」 によれば、 ロムルスがカエニナ人に対する勝利を祝ったのは紀元前752年3月1日のことだったという。
同じころ、アンテムナエ軍がローマの領土に侵入してきた。 ローマ軍はこれを迎え撃って撃破し、 アンテムナエの町も征服した。 「凱旋式のファスティ」 によれば、 対アンテムナエ戦をローマが祝ったのも紀元前752年のことだという。
重なる勝利を祝うロムルスに対して拉致女性たちは、 彼女らの親たちを宥し市民団に受入れてほしいと懇願した。願いは容易に叶った。
クルストゥメリウム軍も挑んできたが、 ローマ軍はこれも撃破し町を征服した。
アンテムナエとクルスメトゥリウムにはその後ロムルスがローマから入植民を送り込み、 もともとの住民の多く(特に拉致された女性たちの家族)もローマに同化されていった。
サビニ人は王ティトゥス・タティウスに率いられ、 ローマとの戦争に突入した。 これは遥かに重大だった。 というのは、憤怒とか激情にまかせて行動をおこすことが全くなく、 また、開戦まで戦いを明かさなかったからである。 カピトリヌスの砦を支配していたスプリウス・タルペイウスの娘とされるタルペーイアの裏切りがあったため、 タティウスのローマ攻めはほぼ成功という状況にまでなった。 彼女は「サビニ人が腕につけているもの」を報酬としてもらう約束で都市の城門を彼らのために開けた。 彼女はサビニ人の金の腕輪を貰えるものと思っていたが、 彼らの投げつけた盾の重さで圧死させられ、 タルペーイアの岩と後に名付けられた岩からその遺骸が捨てられた。
砦を占領したサビニ軍を、今度はローマ軍が攻める側となった。 ローマ軍側はホストゥス・ホスティリウスが率い、 サビニ軍側はメッテス・クルティウスが率いた。 ホスティリウスが敗北すると、 ローマ側は総崩れとなってパラティヌスの宮殿の門まで退却した。 そこでロムルスは男たちを集め、 パラティヌスの丘にユーピテル (Jupiter Stator) の神殿を建てることを約束し、 ローマ人を戦いに引き戻した。
戦いは続いた。 メッテス・クリティウスは追い詰められ、戦場から逃げ出し、 ローマ軍が優位に立った。
このとき、女性たちが戦場に割って入り、両者を和解させようとした。
こうして休戦の誓いが取り交わされ、双方の指揮者が会談に集まり、 盟約が結ばれた。 サビニ人はローマ人と1つの国家を形成することに合意し、 ローマは領土の拡張に成功した。 5年後に亡くなるまでサビニ王ティトゥス・タティウスがロムルスと共にローマを治めることになった。
新たなサビニ人居住者はカピトリヌスの丘に居住した。
ローマの人口は2倍になったので、 ロムルスは人民を30のクーリア(市民団)に分けた。 このクーリアの名は拉致されたサビニ人女性の名からとってつけられたという。
共和政時代の古代ローマで発行された銀貨に、 表面にサビニ族の王ティトゥス・タティウスとサビニ族を示す「SABIN」銘が刻まれ、 裏面に、 一人一人ローマ兵士に脇をがっしり抱きかかえられ、 強制的にローマに身柄を運ばれて行く、 サビニ人女性達が描かれたデナリウス銀貨が存在する。
学者らは、 「サビニの女たちの略奪」と北欧神話のアース神族とヴァン神族の戦争やインド神話の「マハーバーラタ」との類似性を指摘している。
ギリシャ神話にでてくるテューローはポセイドンの双子を産んだが、 川に流してしまう。 そこで馬飼いに拾われ、成長し、 迫害されていた母を救ったという話もある。
また、アッカドの王サルゴンも生後すぐに川に流されて拾われた先で庭師をしているとイシュタル女神に愛され、 アッカドの王になったと言う伝説もある。
聖書のモーセやギリシャ神話のペルセウス等の神話の登場人物も生後すぐに川に流され、 後に頭角をあらわしている。