カルタゴは元々はベルベル人が住んでいた。
紀元前9世紀ころに、
地中海東岸のティルスを本拠地としていたフェニキアによって、
地中海内の植民都市の一つとして建設された。
本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、
フェニキア人にとってはカルタゴのほうが本拠地となり、
ここを拠点として西地中海の貿易を支配してゆくことになった。
その後、地中海北側から突き出たイタリア半島を本拠地に台頭してきたローマと、
地中海の覇権を競うライバル関係となり敵対し、
地中海覇権の鍵を握る中央部の島々(シチリア島など)の支配をめぐってローマと軍事的に激突。
カルタゴとローマの間の一連の戦争は、「ポエニ戦争」と呼ばれている(紀元前264年~紀元前146年)。
造船技術に非常に優れ、 海軍力に優れたカルタゴに対して、 ローマは陸上の歩兵戦では優れていたが海戦は苦手とし、 両国の軍隊は対照的であった。 カルタゴからは、 ハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカなど、 幾人もの卓越した軍事司令官が輩出され、 ローマの本拠地を攻撃する目的で「アルプス越え」を行って北側から陸伝いに攻撃を行い、 歴史に残るような大勝も成し遂げた。
しかし、ローマの本拠地を支配することには成功せず、 強大化しつづけるローマに対して次第に劣勢になり、 ついには本拠地の城塞都市もローマの大軍に包囲され、 それでも3重の強固な城壁に護られた城塞都市のおかげで何年にも渡り籠城戦に耐えた。
だが、ついにローマ軍に城壁を乗り越えられ都市を全て焼き払われ、
もともと50万人はいたカルタゴ人は5万人になり、
残ったカルタゴ人も逃亡したり奴隷になるなどし、
カルタゴは滅亡した。
紀元前45年にカエサルによって再建され、 ローマ帝国の都市、 ローマ帝国内屈指の大都市として繁栄した。
現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、 行政上はチュニス県カルタゴ市としてチュニジアの首都圏の一部を成す。
「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Qart-ḥadat=「新しい町」)に由来するとされる。
カルタゴの破壊の際、 図書館の蔵書はアフリカの小王たちに譲られ、 『マゴの農書』だけはギリシャ語とラテン語に翻訳させたと言われる。