フェニキア人という名称は自称ではなく、
ギリシャ人による呼称である。
ギリシャ人は、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだ。
フェニキアという名称は、
フェニキア人の居住地が
ギリシャ語で「ポイニケー」と呼ばれたことに由来している。
その語源は不明であり、
フェニキアがミュレックス(en)と呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから、
「紫色」(または「緋色」)という意味の
ギリシャ語を語源とする説も存在する。
今日でも南部のサイーダなどの町中でこの貝殻の山を見ることができる。
フェニキア人の母体となったとされるカナンという呼称も、
アッカド語で染料を意味するキナッフに由来する。
ギリシャ文字がフェニキア文字を元とすることから、
フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。
フェニキア人は、
航海に長じて海上交易に従事、
その活動範囲は大西洋やインド洋に及び、
各地にオリエント文明を伝えた。
紀元前9世紀から
紀元前8世紀に、
内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、
フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。
アッシリアの滅亡後は新バビロニア、
次いでアケメネス朝(ペルシャ帝国)に服属するが、
海上交易では繁栄を続けた。
しかし、
アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、
マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となった。