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古代ローマの人物

作成日:2023/8/24

ロムルス

ロムルス
王政ローマ初代王
民族  ラテン人
在位自 紀元前753年
在位至 紀元前717年
別号  アルバ王
王朝  アルバ朝
 
生年  不詳
没年  紀元前717年7月5日
      於:ローマ
禅譲  ヌマ・ポンピリウス
父親  マールス
母親  レア・シルウィア
配偶者 ヘルシリア
子女  アウィッリウス
 
ロムルス(Romulus、紀元前771年 - 紀元前717年7月5日)は、 ローマの建国神話に登場するローマの建設者で、 伝説上の王政ローマ建国の初代王である。 レムスの双子の兄弟。 ロームルスとも呼ばれる。

ラテン人貴族の子としてアルバ・ロンガに生まれ、大叔父アムーリウスを倒して祖父ヌミトルをアルバ王に復位させるなど、様々な冒険を経てローマを建国した。最初の国王として元老院や軍団(レギオー)、七つの丘の城壁など古代ローマの根幹となる概念を整備した。

また勇敢な王として他のラテン都市やサビーニー都市を征服して国を豊かにしたが、 同時に強権的な王として元老院とは対立したという。

伝承

ロムルス王と王弟レムスの伝承は多くの場合、 史実というよりは何らかの背景を持って伝承された神話と考えられている(ローマ神話)。
記述者によって細かい部分が異なるが、基本は同じ内容になっている。

アルバ王家の内紛

プルータルコスによれば、 古代ギリシャ人との戦いで滅んだトロイアの末裔アイネイアスと、 ラテン人の女王ラウィーニアとの間に生まれたシルウィウス王の末裔によって代々ラティウムは治められていた。 彼らはシルウィウス王の異母兄弟アスカニウスが築いた都市アルバ・ロンガに王宮を持っていた事からアルバ王と呼ばれていた。

シルウィウス王から11代後のアルバ王プロカが亡くなると王位は長子ヌミトルへと引き継がれ、 次男アムーリウスは王位の代わりに祖先アイネイアスが持っていたというトロイア王家の財宝を受け継いだ。 だが王位を欲したアムーリウスはその財宝を駆使して貴族や軍を味方につけ、 兄を追放して王位を奪い取った。

王となったアムーリウスはヌミトルの一人娘で姪であるレア・シルウィアを神殿に命じてウェスタの巫女とした。 巫女は神に体を捧げる聖職者である事から婚姻や姦通を許されず、 これで兄の血筋を断絶させようと目論んでいたのである。 異説ではシルウィアを手篭めにしようとして失敗したとも言われている。

神殿に軟禁されたシルウィアであったが、 その美しさを気に入った軍神マールスに見初められる。 神であれば巫女でも身を捧げても良いと考えたシルウィアは契りを結び、 双子の子供ロムルスとレムスを授かる。

アムーリウスはシルウィアの言い分を認めず、 王位を継ぎうる双子の子を殺すように兵士に命じる。 だが兵士は幼い双子を哀れんで、 彼らを籠に入れて密かに川へと流すのだった。

狼の双子

ティベリス川の精霊ティベリーヌスは川を流れる双子を救い上げ、 川の畔に住む雌狼に預ける。 やがて羊飼いファウストゥルスが双子を見つけると、 妻アッカ・ラーレンティアと相談して引き取ることにした。 彼の妻であるアッカ・ラーレンティアの正体は女神ケレースであり、 ヘーラクレースからの意向を受けてファウストゥルスの妻となり、 双子を拾うように仕向けたという説もある。

このエピソードは双子の印象を決定付けるものであり、 狼の乳を吸う双子の像は二人の伝承を示す一般的なものである。

アルバ戦争

神話の全ての版はロムルスが羊飼いとして成長したと伝えている。 ある時、弟レムスがアムーリウス王の配下と諍いを起こし、 兵士に捕らえられて宮殿に連れ去られる。 その過程でロムルスとレムスは自分たちがアムーリウス王の大甥で、 幽閉されている先王ヌミトルの孫である事を知る。 ロムルスは弟と祖父を助ける為に剣を取り、 アムーリウスと敵対する羊飼いらを率いて王宮へと攻め入った。

激しい戦いの末、アムーリウスは双子の兄弟によって討たれ、 囚われていたヌミトルは解放された。 ヌミトルは二人の孫に王位を継ぐように勧めたが、 彼らは祖父が王位に留まるべきだと述べた。 ロムルスは母シルウィアに別れを告げると、 自らの王国を興すべくレムスと宮殿を後にした。 二人の後には双子をアルバ王と認めた貴族や、 彼らの武勇を聞いた兵士達が従っていった。

レムスとの決闘

新しい王国を作り上げるために、 双子はどのような土地が相応しいか議論を交わした。 レムスはアウェンティヌスの丘に城壁を築くべきだと進言したが、 ロムルスはパラティーノの丘が適切であると考えていた。 二人は神の啓示で決めようと話し合い、 二つの丘にそれぞれ祭壇を用意した。 先にレムスの祭壇には神の僕である鷲が6羽舞い降りたが、 少し後にロムルスの祭壇には12羽の鷲が舞い降りた。

ロムルスはより多い鷹が使わされた事から啓示は自らに下されたと考え、 パラティーノ丘に街の建設を始めた。 兵士達は丘の周りに城壁と国境線を兼ねた溝を掘り、 住居や農地を切り開いていった。 だがレムスは数は少なくとも、 先に鷲が舞い降りた自らの方こそ神の啓示を受けたのだと譲らなかった。 何時しかロムルスはレムスと口論を重ねる様になり、 兄弟仲は非常に悪くなっていった。

そしてある時、レムスは兄に対する侮辱として国境の堀を飛び越えて見せた。 後代の歴史家ティトゥス・リウィウスによれば弟の挑発にロムルスは激怒し、 レムスと決闘を行う事になった。 共に武勇で知られる兄弟であったがこの戦いではロムルスの方が勝り、 レムスは命を落とした。 弟の亡骸を前にしてロムルスは「この壁を越えんとする全ての者に災いを」と祈りを捧げたという。

ティトゥス・リウィウスは同時に後世にはもう一つの伝承が残っているとも書き残している。 その伝承では壁を乗り越えたレムスを殺めたのはファビウスという将軍であった。 ロムルスはファビウスの行動を認めつつも、 弟の死を悼んで丁重に埋葬したという。

ローマ建都

レムス没後、ロムルスは都市を完成させるとその街をローマと名付た。 古代ローマ文明にとっての第一歩が踏み出されたのである。

国作りにあたってまずロムルスは配下の軍勢を整備することを決め、 3000名の歩兵と300名の騎兵を選抜して彼らにレギオー(ローマ軍団)という名称を与えた。 また貴族に関しても100名の大貴族からなる元老院を作り、 彼らと意見を交わす事で有力貴族を国王の支配下に収めた。 彼らは他の貴族から区別される形で父を意味するパーテルと呼ばれ(この語から後の貴族を意味するパトリキという言葉が生まれる)、 王に次ぐ存在として国政に携わった。

パトルヌスとクリエンテスという、 一種の主従契約に基づいた独特の社会階層も形成されていった。

ローマには周辺にある他のラテン人都市から次々と移住者が訪れて、 急速に発展していった。 ロムルスは人口増加に対応すべく、 かつて弟レムスとの諍いの元となったアヴェンティヌスの丘を含めた7つの丘に新しい居住区を築いた(ローマの七丘)。 そしてこれらを囲む城壁が建設され、 今日のローマ周辺部の基礎が出来上がった。

ロムルスは順調にローマを豊かにしていったが、 居住者が男性に偏っている事が悩みの種であった。 祖父であるアルバ王ヌミトルに相談すると、 ヌミトルはラテン人と縁深いサビニ人と交流してみてはどうかと提案した。ロムルスは早速ネプトゥーヌスを祭る催しに同じラテン人の国々だけでなく、サビニの国々を招待する事にした。

祭りは盛大に行われたがラテン人の力を恐れるサビニ人たちは申し出を断り、 それどころか同じラテン人の国々も新興国ローマを警戒して女性の移民を控えるとした。 これに怒ったロムルスは祭りに来ていた国々の娘達を力ずくでローマへと連れ去り、 妻を持たぬ男達へと嫁がせる行動を起こした(サビニの女たちの略奪)。

サビニ戦争

娘をわれたラテン人の国々やサビニ人はローマを非難したが、ロムルスはこれを一蹴した。ローマの蛮行にカエニナ、アンテムナエ、クルスツメリウスというローマと敵対する3つのラテン人サビニ人の国が挙兵して、ローマ最初の大規模な対外戦争が勃発した。

ロムルスはレギオーを率いて戦争に赴き、 ローマに攻め入ってきた諸国軍を悉く打ち破った。 主力であったカエニナ王国の王アークロンは戦場で討ち死にし、 ロムルスはアークロン王が身に着けていた鎧を戦勝物(スポリア・オピーマ)として、 主神ラティーヌスに捧げたと伝えられている。 ロムルスは同胞であるカエニナ王国に寛大に接し、 彼ら全てをローマ王国の民として取り込んだ。 続いてアンテムナエとクルストゥメリウスもローマに破られ、併合された。

やがて様子を見ていたクレースの王ティトゥス・タティウスに率いられた軍勢がローマとの戦いに参加した。 タティウスはローマの一角を占めるカピトリヌス丘への攻撃を行った。 丘の守備隊はクレス軍の攻撃を退けたが、 タティウスは指揮官の娘タルペーイアを篭絡して開城させた。 タルペーイアはタティウスから協力すれば礼として「兵士達が身につけているもの」を渡すと言われ、 これを兵士達が身に着けている金の腕輪と考えていた。 しかし兵士達は腕輪ではなく盾をタルペーイアに投げつけ、 彼女は盾に押し潰されて死んだ。

タティウスの策謀でカピトリーヌス砦を奪われたロムルスは主力軍を引き返し、 両軍は都市中心部の大広場で激突した。 戦いでは最初ローマ軍が不利を強いられ、 ロムルスは父祖ラティーヌス神に勝利を祈ったと伝えられている。 翌日、ローマ軍が反撃に転じて戦局は逆転、 敗れたクレス軍はローマから敗走していった。 直ちにローマ軍はクレス軍への追撃を開始したが、 そこに連れ去られていた住民の内、 サビニ系の人々がロムルスにサビニ人の国々に寛大な処置を行うように嘆願したという。

ロムルスはクレース王ティトゥス・タティウスを共同王に迎え、 サビニ人の有力貴族に元老院議席を与える事を対案にサビニ人全土を併合した。

突然の死

伝承はロムルスが突如として豪雨の中にその姿を隠した事で終わりを告げる。 誰かに暗殺されたのではないかとする者もいれば、 神として天に戻ったのだとする者もいたという。

歴史家ティトゥス・リウィウスは以下のように書き残している。

人々はロムルス王の死を嘆き悲しみ、 何人かの貴族は王を神として神殿に祭るべきだと主張した。 王の葬儀に参列した貴族や民衆は口々にこれに賛同した。 僅かな王の敵対者は元老院と王が不仲であった事との関係を噂したが、 王に対する民衆や貴族の尊敬に変わる所はなかった。 民衆は次第に元老院を憎んで、 強権的な王であったロムルスを疎んで殺したのだと噂するようになった。 これに対して元老議員ユリウス・プロクルス(ユリウス氏族の祖先とされる)は元老院で演説を行った。
「ロムルス陛下は神となられた。…我々の父にして王たる人物は昨夜、私の枕元に現れた。畏怖と敬意を抱いた私は王にその御顔を拝見する事を乞い、王はこれを許された。王は私にローマの繁栄を民に託すと述べられると、神として天に昇られたのだ」

ティトゥス・リウィウスはロムルスは暗殺された可能性が高いと見ており、ユリウス・プロクルスは神格化を行う事で罪の追及を免れようとしたのだと推測している。共和制末期の政治家キケローはプロクルスは貴族ではなく一介の平民で、貴族たちに押されてロムルスの夢を見たと証言したという説を主張した。またキケローのロムルス暗殺と神格化に関する論考は彼の著作によって広く知られる所となっている[5]。

帝政期の歴史家カッシウス・ディオは前者二人より更に具体的にロムルスは暗殺されたと論じている。 彼の著作『ローマ史』で冒頭に位置するロムルス王の評伝において以下のように述べられている。

ロムルスは元老院議員によって議場で暗殺された。 ロムルスの身辺には警護兵が居たが、 日食と豪雨によって暗殺は巧妙に隠蔽された。 ユリウス・プロクルスはロムルスを神格化する一方で新しい王選びに奔走した。 王をラテン貴族から選ぶか、 元老院で第二勢力となっていたサビニ貴族から選ぶかは難しい問題だった。 結局、ヌマが即位するまでの間は実質的に元老院が統治を代行した。

元老院によってロムルスはクゥイリーヌス神の化身であり、 俗世での目的を果たして天に帰ったものとされた。

ヌマ・ポンピリウス

ヌマ・ポンピリウス
王政ローマ第2代王
民族  サビニ人
在位自 紀元前715年
在位至 紀元前673年
生年  紀元前753年4月21日
      於:クレス
没年  紀元前673年
選出  トゥッルス・ホスティリウス
父親  ポンポン
母親 
配偶者 タティア
      ティトゥス・タティウスの娘)
子・女 ポンピリア
子・男 ポンポン、ピヌス
      カルプス、マメルクス
 
ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius)  紀元前753年 - 紀元前673年

王政ローマにおける第2代の王。 この時代のローマは史料に乏しく、 一般的には伝説上の存在だと考えられている人物である。 戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、 42年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。 後世皇帝アントニヌス・ピウスはヌマ・ポンピリウスに比肩された。

生涯

プルタルコスによれば、 ヌマはサビニ人の有力者ポンポンの子で、 4人兄弟の末っ子として、 ロムルスがローマを建国したその日に生まれたという。

ヌマは哲学と瞑想を好み、 ピタゴラス学説の思索にあまりに没頭したために、 年若くして白髪になったと言われている。 ヌマはサビニ人の王であるティトゥス・タティウスの娘を娶って王の義理の息子となったが、 権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。 しかし妻タティアは結婚13年目に死去したと言われている。

だが紀元前716年にローマで王ロムルスが亡くなると、 元老院では後継者を定めるまで摂政制を敷くこととし、 インテルレクスを置いて王の権力を継承していたが、 その期間も一年を過ぎ、 プレブス(平民)の不満が高まってきたため、 元老院が後継者を選ぶこととなった。 当時クレスにいたヌマは、 その人格を評価されてローマ第2代の王として指名される。 ヌマは要請を何度も断ったが、 ロムルスが建国した時行った例に従って鳥占いをするよう言われ、 ユーピテル、マールス、クゥイリーヌスの三神が同意したという結果が出たので、 王位に就くことを決断した。 彼の妻は若くして亡くなっていたが、 その後ニンフのエゲリア(ギリシャ神話のカリオペーと同一であるとも)と恋におちて結婚し、 政治の助言を貰うためにたびたびパラティヌスの丘の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。

ヌマが即位する前までのローマは、 近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと思われていたが、 彼の治世により法と慣習と祭祀を確立した文化都市へと成長した。 ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、 彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、 カプリニア氏族やアエミリウス氏族もここから発した。 また死後千年が経過した時代においても、 ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。

業績

当時のローマ暦は1年が10ヶ月の不正確なものであったが、 ヌマはこれに2ヶ月を追加してより正確な暦とした。 またローマ内部にあった部族同士のいさかいをなくすために、 農民達を「パギ」と呼ばれるさらに小さな集団に分割した。 そして商業や手工業に携わる人々は職能別の組織に分割し、 それらの共同体を部族よりも重要視させることによって部族対立を消滅させた。 そのほか、 戦争を抑えるために宣戦布告の権限を「伝令僧」と呼ばれる祭祀職のみに許すようにした。 伝令僧は戦争が起こりそうになると対立相手に補償条件を伝え、 その回答に満足いかなかったときのみ宣戦布告が行われた。

ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、 ヤヌス神殿の建立である。 これは始まりと終わりの神ヤーヌスに捧げられたもので、 この神殿の扉は戦争のときは開かれ、 平和なときは閉じられるとされた。 扉はヌマの治世中はずっと閉じたままであったが、 彼の死後は開いたままとなり、 ローマが帝政となるまでの間に閉じられたのはポエニ戦争後の6年間だけであった。

ヌマの孫にあたるアンクス・マルキウスは4代ローマ王となった。

トゥッルス・ホスティリウス

トゥッルス・ホスティリウス
王政ローマ第3代王
民族  ラテン人
在位自 紀元前673年
在位至 紀元前641年
生年  紀元前710年
没年  紀元前641年
父親 
母親 
配偶者
子女 
 
トゥッルス・ホスティリウス(Tullus Hostilius)  紀元前710年 - 紀元前641年

王政ローマにおける第3代の王。
王政ローマの他の諸王と同じく、 一般的には伝説上の人物と見なされることが多い。 その後もローマで元老院会議場として長らく使われた「ホスティリウスの会議場」を建設したとされているが、 元々は会議場の名前が先にあって、 後に伝説の王の名前に転用されたのではないかと唱える歴史家もいる。

生涯

王政ローマでは初期の頃、 王はラテン人サビニ人から交互に選ぶという取り決めになっていた。 初代のロムルスラテン人で、 第2代のヌマ・ポンピリウスサビニ人であったため、 第3代はラテン人の名門出身であるトゥッルス・ホスティリウスが選ばれ、 紀元前673年に即位した。 彼の祖父ホスティウス・ホスティーリウスはサビニ人との戦争の際に奮戦し、 華々しく戦死した名将として有名であった。

その頃、 ローマは隣国アルバ・ロンガとの間で農地の境界を巡る不満が蓄積していたが、 強国であったアルバ・ロンガを恐れて話し合いで解決させていた。 だが王位に就いたトゥッルスはこれを戦争で解決することを主張する。 両国は戦争となるが、 アルバ・ロンガは初代王ロムルスの出身でもあるため、 無用な流血を避け、 代表者同士による決闘で勝敗を決めることとなった。 ローマはホラティウス3兄弟、 アルバ・ロンガはクリアティウス3兄弟を代表とし、 始めはアルバ・ロンガ側が圧倒するように見えたが、 結局はローマが勝利した。

結果としてアルバ・ロンガはローマに忠誠を誓うことになったが、 内心では大いに不満を抱いていた。 そのためアルバ・ロンガはフェデナイとウェイイの2都市を扇動し、 ローマに宣戦布告させる。 そしてアルバ・ロンガはローマの味方として参戦するように見せかけながらも、 戦いの瞬間に裏切る計画を立てていた。 だがトゥッルスはこの策略を見抜いていた。

フェデナイの近くで戦闘が始まると、 アルバ・ロンガ軍はローマ軍から離脱してフェデナイ・ウェイイ連合軍の方へと駆け出した。 しかしこのタイミングでトゥッルスは、 敵軍に届くほどの大声で「見よ、なんと勇敢に飛び込んでいくのか。敵はすぐに騙されていたことに気づくぞ」と叫んだために、 フェデナイ・ウェイイ連合軍は大混乱を起こして敗走した。 そしてその戦いの後にアルバ・ロンガの王は戦勝祝賀会に招待されて、 武器も持たずに出席したところを捕らえられて処刑された。 アルバ・ロンガの都市は完全に破壊され、 住民はローマへの移住を強制された。 しかしアルバ・ロンガ人は奴隷にされたわけではなく、 全員がローマ市民権を与えられ、 有力者の一族は元老院議員となった。 ユリウス氏族はこのとき移住させられた有力者の一族だと言われている。 また、議員が増えて手狭になったため新たに建てられた会議場が「ホスティリウスの会議場」であるとされている。

その後、紀元前641年にトゥッルスは死亡する。 32年の治世であった。 伝説によれば、 先王ヌマ・ポンピリウスの遺した書を元にユピテル神を呼び出そうとしたが、 あまりに儀式が粗雑であったために神の怒りを買い、 落雷に当たって死亡したという。

アンクス・マルキウス

アンクス・マルキウス
王政ローマ第4代王
民族  サビニ人
在位自 紀元前641年
在位至 紀元前616年
生年  紀元前675年
没年  紀元前616年
父親 
母親 
配偶者
子女 
 
アンクス・マルキウス(Ancus Marcius)   紀元前675年 - 紀元前616年

王政ローマにおける第4代の王。 この時代は史料に乏しく、 歴史というより伝説上の人物である。
ローマで初めて水道橋を建設したと言われており、 冷静な人物であり平時でも戦時でも優れた王であったと歴史家から評価されている。

生涯

アンクス・マルキウスはサビニ人で、 ローマ第2代の王であるヌマ・ポンピリウスの孫として生まれた。 当時のローマはラテン人サビニ人が交代で王になるという取り決めがあったため、 ラテン人である第3代の王トゥッルス・ホスティリウスの死んだ紀元前641年に後継者として選ばれた。 トゥッルス・ホスティリウスが戦争に明け暮れたのでローマ人の中で平和を望む声が高まり、 治世中に一度も戦争をしなかったヌマ・ポンピリウスの孫ならばと期待されたのである。

それを知った近隣部族は、 今度のローマの王は戦争が苦手だと侮り攻撃を開始した。 しかしアンクス・マルキウスは非戦的であるという予想を裏切り、 見事な軍の指揮を行った。 ローマはフェデナイ人、アニオ川中流のサビニ人、カンパニア地方のウォルスキ人と戦って勝利を収め、 近隣の都市一つを屈服させた。 彼は先王トゥッルス・ホスティリウスと同じく、 屈服した都市の建物を破壊して住民はローマに強制移住させる。 またアンクス・マルキウスは北方のエトルリア人に備えるためヤニクルムの丘に要塞を作った。 さらにローマから26km離れた漁村のオスティアを征服し、 ここをローマの外港とした。

アンクス・マルキウスは平時の治世にも能力を発揮した。 敵を強制移住させて増えた人口に対応するため、 ローマの7つの丘の一つであるアウェンティヌスの丘がローマの市街地に組み込まれる。 また、いかだ橋しかなかったテヴェレ川に初めて堅固な橋を作る。 さらに水道橋を建造することでローマに初めて水道を引いた。 また宗教儀式などの制定にも努め、 後のローマに伝わる慎重な宣戦布告手順を考案したとも言われている。

アンクス・マルキウスは紀元前616年に病死する。 彼には2人の息子がいたが、 その後見人であったエトルリア人のタルクィニウス・プリスクスが第5代の王となり、 ラテン人サビニ人が王位を交代していた時代が終わる。 アンクスの2人の息子は王位を狙ってタルクィニウス・プリスクスを暗殺するが、 その後を継ぐことに失敗し、 ウォルキスの村で乞食となる末路を辿ったと言われている。

なお紀元前144年にアンクス・マルキウスの名にちなんだマルキア水道を建設したマルキウス家は、 アンクス・マルキウスの末裔を自称していた。

タルクィニウス・プリスクス

タルクィニウス・プリスクス
王政ローマ第5代王
全名  ルキウス・タルクィニウス・プリスクス
民族  ギリシャ人とエトルリア人のハーフ
在位自 紀元前616年
在位至 紀元前579
生年  不詳
      於:タルクィニア
没年  紀元前579年
父親  コリントスのデマラトス
母親 
配偶者
子女 
 
ルキウス・タルクィニウス・プリスクス(羅:Lucius Tarqinius Priscus)  在位:紀元前616年 - 紀元前579年

王政ローマの第5代の王。
ギリシャ人とエトルリア人の混血として、 エトルリア都市タルクィニアに生まれ、 のちに政治的野心のためにローマに移住。 アンクス・マルキウスに素質が認められ養子となり、 実子を差し置いて王に選ばれた。 即位後はザビニ人やエトルリア人との多くの戦いに打ち勝ち、 湿地の干拓事業を推進(下水道クロアカ・マキシマの建設)するなど、 外政・内政の両面で多くの業績を残した。

先王アンクス・マルキウスの実子に暗殺され死亡。

生涯

即位以前

ティトゥス・リウィウスによれば、 タルクィニウス・プリスクスはエトルリア人の都市タルクィニアの出自で、 名前を「ルクモ」と呼ばれていたとされる。 現在では「ルクモ」という名がエトルリアでの政治的な地位のある人物を指す言葉だという事が分かっている。 また父ダマラトゥスはコリント出身のギリシャ人であった。 純血のエトルリア人でない彼は、 その出自のため本国のタルクィニアでは政治的な地位に就く事は適わず、 ローマへと移住したという。 この時、一羽の鷲が戦車を駆る彼の帽子を持ち去り、 再び戻って帽子を返した。 それを見て占いに詳しい者は、 これは吉兆の表れと言って喜んだという。

ローマではタルクィニウス・プリスクスは一躍知られた存在となる。 先王アンクス・マルキウスは彼の素質を見抜いて自分の養子とし、 息子の護衛とした。 先王の死後になって彼は民会で自分が王に適切であると主張、 実子に代わりローマの王となる。

王として

王になってすぐにローマはサビニ人の攻撃を受け、 タルクィニウス・プリスクスの資質が試される事になる。 一時はローマの市内での戦闘になり、彼はこれを辛くも撃退する。 そして今度はエトルリア人都市へ出征、出征は成功を収め、 多くのエトルリア人都市を攻略し、 彼は数多くの略奪品をローマにもたらした。 彼の治世にケントゥリアを2倍とし、 下層の出自の者から100名を選び元老院に加えた。 その多くがオクタウィウス氏族の者であった。

また内政に関してもタルクィニウス・プリスクスは多くの事を成し遂げる。 そのひとつにはローマの湿地の干拓事業が挙げられ、 これはのちのフォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)やチルコ・マッシモの原型となる。 当時ローマ人が民族別に住み分けて暮らしていた7つの丘(ローマの七丘)は、 それぞれが湿地帯によって隔てられていた。 タルクィニウス・プリスクスはまず、 七丘のひとつであるパラティーノの丘の北部に下水溝を通し、 湿地の水をテヴェレ川に排水し干拓するという公共事業を打ち立てる。 この事業によって建設されたのが下水道クロアカ・マキシマであった。 建設には、タルクィニウス・プリスクスの出自であるエトルリアの建築者が従事したという。 干拓された土地は民族ごとに暮らす丘の間にあって中立的な地点となり、 次第に会合や会談のための場所、 もしくは公共施設の造成地として用いられるようになった。 のちにこの場所にはフォルム・ロマヌムとして後世まで残ることとなる。 同様に、七丘のうちパラティーノの丘とアヴェンティーノの丘も干拓され、 現在ではチルコ・マッシモと呼ばれる戦車競技場の原形を作った。

他にもタルクィニウス・プリスクスは、 ラテン人、サビニ人から得た略奪品を使ってローマの主神ユピテル神を祀る神殿を築いた。 そしてこのローマの神々のための勝利を祝うために凱旋式という儀式を創り上げたのも彼であった。 この凱旋式はエトルリア人の儀礼から取られ、 後にローマには重要な祭典のひとつになっていく。

しかし、先王アンクス・マルキウスの実子によって、 タルクィニウス・プリスクスは38年の治世の後に斧で殺された。 王妃のタナクィルの機転で次代の王にタルクィニウス・プリスクスの実子は選ばれず、 義理の息子であったセルウィウス・トゥッリウスが擁立された。

セルウィウス・トゥッリウス 815

セルウィウス・トゥッリウス
王政ローマ第6代王
民族  エトルリア人
在位自 紀元前578年
在位至 紀元前535年
生年  不詳
没年  紀元前535年
父親 
母親 
配偶者 タルクィニウス・プリスクスの娘
子女  大トゥッリア
      小トゥッリア
 
セルウィウス・トゥッリウス(ラテン語: Servius Tullius)

伝説上の王政ローマ第6代の王。 エトルリア系の王としては2人目。

奴隷の出自と言われる。 ティトゥス・リウィウスは彼が奴隷の出自だったとは信じられなかったらしく、 母親はエトルリア人都市の出自であったが、 故郷の都市をローマ人によって陥落させられ、 王の許しで王宮に住まうことが許された身であったと述べている。

紀元前579年、 先代ルキウス・タルクィニウス・プリスクスの暗殺後に、 先王の娘を妻として王となる。 セルウィウス・トゥッリウスはプレブスの承認なくして王位に就任した最初の王となり、 王座には先王の妃の助力が大であったと言う。

王となり、彼はウェイイを攻略、エトルリア人都市に出征を行う。 また内政としてはローマの領域を拡張、 中でも彼の信仰するフォルトゥナ神、ディアナ神の神殿を多く建てた。 またセルウィウスは王政ローマの組織を大幅に変革した。 彼は下層階級のプレブスの支持を得ていたが、 同時にその政策は既存勢力であるパトリキには人気はなかった。

紀元前535年、 セルウィウス・トゥッリウスは自分の娘小トゥッリアと、 その夫タルクィニウス・スペルブスに殺された。

タルクィニウス・スペルブス

タルクィニウス・スペルブス
王政ローマ第7代王
民族  エトルリア人
家名  タルクィニウス家
在位自 紀元前535年
在位至 紀元前509年
生年  不詳
没年  紀元前495年
      於:クーマエ
父親  タルクィニウス・プリスクス
母親  タナクィル
配偶者 トゥリア
子女  セクストゥス・タルクィニウス
      (三男、末子)
 
ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(羅: Lucius Tarquinius Superbus)

王政ローマ第7代にして最後の王。 タルクィニウス・スペルブスが追放された後、ローマは共和政に移った。

第5代ルキウス・タルクィニウス・プリスクス王の息子で、 先代の王であるセルウィウス・トゥッリウスの娘婿にあたる。 コグノーメンの Superbus は「傲慢な」を意味し、 日本語では傲慢王と訳される。 ルキウス・ユニウス・ブルトゥスらによってローマから追放された。

生涯

伝承によれば、 先王セルウィリウスを殺害するとラティウム地方に覇権を伸ばしたと言う。 また彼の妻トゥリアは先王の娘であったが、 父親の殺害の中心的人物だったとも伝えられている。 少なくともタルクィニウスとトゥリアがセルウィウスの殺害に何らかの形で関わったのは間違いないとされている。

王として

妻にけしかけられて遂にセルウィウスを排除すると、 タルクィニウスは王の諮問機関である元老院を召集、 自らを王と宣言する。 常に身近に衛兵を置き自らの身を守ると、 先王に関わった元老院議員を殺害していき、 更に市民の生殺与奪を思いのままにして恐怖でもって支配を強めていった。

対外的にはラティウム同盟との盟約を新たにし、 ローマとラティウムの混成部隊を編成すると、 ウォルスキ族や近隣都市ガビイとの戦争を始め、 ガビイの守りが堅いと見るや、 息子セクストゥス・タルクィニウスを使った計略でもって手に入れた。 そうして国外が安定した所で、 今度はユピテル神殿や下水道の建設事業に市民を酷使し始めた。

ローマ追放

紀元前509年に王子セクストゥス・タルクィニウスが起こした強姦事件に端を発するルクレティアの自殺をきっかけとして、 ルキウス・ユニウス・ブルトゥスらがタルクィニウスに反旗を翻し、 彼の演説に同調したローマ民衆によって王を支援する家族・勢力は追放された。 王政のローマは終焉し、 共和制へと移行することになる。

亡命生活

彼の故郷はエトルリアのタルクィニイで、 ローマに内通者を作る計略に失敗した後、 ウェイイとタルクィニイの支援を取り付けローマに反撃した (シルウァ・アルシアの戦い)。 ブルトゥスと息子の一人が刺し違える激戦だったものの敗北すると、 エトルリアの強大な都市クルシウムの王ラルス・ポルセンナを頼った。

紀元前508年、 ポルセンナはローマを攻囲する (ローマ包囲戦)などして共和政ローマを苦しめたものの、 最終的には和平を結ぶこととなり、 タルクィニウスはトゥスクルムに亡命することとなったという。

更にその後も虎視眈々とローマを狙うもののレギッルス湖の戦いで敗北。 結局、王位に戻る事なく紀元前495年頃にクーマエにて没した。

ティトゥス・タティウス

ティトゥス・タティウス(Titus Tatius)

ローマの建国伝説に登場するサビニ人の王。 のちにロムルスと共治する王政ローマの王となった。

概要

ティトゥス・タティウスはロムルスによる「サビニの女たちの略奪」のちその名前が現れる。 被害を受けた勢力のうち最も大きな被害を受け、 また最も有力でもあったサビニ人は、 対ローマ戦の中心と考えられた。 サビニ人の都市国家クレスの王であったティトゥス・タティウスは、 サビニ人の中でも指導的地位にありこの戦争の指揮をとったが、 復讐を急ぐ他の勢力に対し慎重な準備を主張した。 ティトゥス・タティウスの主張を入れず単独でローマに戦争を仕掛けた勢力はいずれも敗北した。

十分な準備を整えた後ティトゥス・タティウスはローマに戦いを挑んだ。 当時のローマにはパラティウムのほかにカピトリウムの砦だけが防備となった。 ティトゥス・タティウスはカピトリウムの麓に布陣しこの砦を攻めた。 タルペーイアの裏切りの結果この砦を奪った後はサビニ人はここに陣を移し、 のちにフォルム・ロマヌムとなるパラティウムとカピトリウムの間でローマとサビニの戦闘は行なわれた。

サビニ側の前線指揮官はメッティウス・クルティウスで、 当初はローマ側の前線指揮官ホスティウス・ホスティリウスを戦死させるなどサビニ側が優勢に戦いを進めた。 しかしこの戦争最後の戦闘では、 ロムルスのユピテル・スタトルへの祈願後ローマ側も勢いを盛り返した。

このとき戦争の原因となったローマ人に略奪された女性たちが両軍の間に飛び出し、 父と夫との間での殺し合いを止めるように懇願した。 これを受けて両軍は休戦し、 ティトゥス・タティウスとロムルスはただ休戦するだけでなく両民族を統合して一つとする条約を締結した。 この場所がのちにコミティウムとなった。

サビニとローマの統合によってティトゥス・タティウスはロムルスと共にローマ人の王となった。 サビニ人からは100人が選ばれパトリキに追加された。 また新たに作られた騎士の3つのケントゥリアの1つとローマの3つの氏族(トリブス)の1つは、 ティトゥス・タティウスの名にちなんで「ティティエス(ティティエンセス)」と名付けられた。 さらにティトゥス・タティウスの名は「ティティウス祭司団」の起源ともなった。 以降統合したローマ人たちはティトゥス・タティウスの母市クレスから「クィリテス」と呼ばれることになった。

ローマの王となったティトゥス・タティウスはサビニからいくつかの神の信仰をローマにもたらしたとされる。 かつてユーピテル、マールスとともにカピトリウム丘で祀られたクゥイリーヌス神はその1つとされる。 また一人娘タティアをのちにローマの王となるヌマ・ポンピリウスに嫁がせている。 ティトゥス・タティウスはロムルスとは別の、 のちにモネタの神殿となるところを住居としていた。 ティトゥス・タティウスが王となって5年目、 ティトゥス・タティウスの周辺の人物がラウレントゥムからの使者に強盗を企てたすえ殺害するという事件が起こった。 しかしティトゥス・タティウスはこれを罰せず、ラウレントゥム人からの恨みを買った。 その後ティトゥス・タティウスがロムルスと共にラウィニウムへ祭礼のために赴いた際、 この事件が原因でティトゥス・タティウスは殺害された。 ローマにもどったティトゥス・タティウスの遺体はのちにアルミルストリウムと呼ばれたアウェンティヌスの月桂樹林に埋葬された。

当初ロムルスはティトゥス・タティウスの殺害犯たちを処罰しなかったが、 ラティウムで疫病などの災いが起こるとティトゥス・タティウスの殺害者とラウレントゥムの使者の殺害者を共に罰しラウレントゥムとローマを清めた。 すると災いは消えたという。

伝承は以上のようなものだが、 ティトゥス・タティウスは他のローマ初期の物語同様実在は疑わしい。 ローマのサビニ要素の擬人化とも言われる。 またティトゥス・タティウスとロムルスの2人の王の伝説は共和政期の2人制の執政官の起源を王政時代に求め、 正当性を与えるためのものであったと考えられている。

ルキウス・ユニウス・ブルトゥス

ルキウス・ユニウス・ブルトゥス
初代執政官(コンスル)
氏族  ユニウス氏族
階級  パトリキ(貴族)
官職  執政官
生年  不詳
没年  紀元前509年
      於:シルウァ・アルシア
父親 
母親 
後継者 ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス
      ティベリウス・ユニウス・ブルトゥス
 
ルキウス・ユニウス・ブルトゥス(ラテン語: Lucius Iunius Brutus)

共和政ローマの実質的な設立者。
紀元前509年、 第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスを追放して共和政を布き、 初代執政官(コンスル)に就任した。

王政下での経歴

ティトゥス・リウィウスによると、 ルキウスはタルクィニウス・スペルブスの姉妹の子だという。 ブルトゥス家はタルクィニウス・スペルブス王家に対して憎悪を抱いており、 元老院で強力な指導力を発揮し始めたルキウスの兄弟が殺害されるなど深刻な対立関係にあった。 王家による危険分子への粛清の嵐が吹き荒れる中、 ルキウスはわざと愚鈍な人間を装い、 粛清を逃れる事に成功した。 国王タルクィニウス・スペルブスはルキウスを無能だと侮り、 彼なら自分の王位への脅威にはならないと判断して自らの側近に取り立てた。 彼のあだ名「ブルトゥス」は「阿呆」の意味であり、 これは彼がいかに軽く見られていたかを物語っている。

王の信任を得たブルトゥスは王の息子たちとギリシャのデルポイに神託を伺いに赴いた。 その折、タルクィニウス・スペルブスの息子が「次の王は誰になるか?」と聞いたところ、 「母なるものに最初に接吻する者」と返ってきた。 王の息子たちは帰国後どちらが先に母親に接吻するかくじ引きで決めようとしたが、 「母なるもの」を「大地」と解釈したブルトゥスは転んだフリをして地面に接吻したと言う。 そしてローマに戻ると、 ルトゥリ人の住む都市アルデーアへの遠征が待っていた。

共和政の樹立

ブルトゥスがローマから離れていた間に、 近親の既婚女性ルクレーティアがタルクィニウスの息子で王子のセクストゥス・タルクィニウスに強姦され、 辱めを受けたルクレーティアが自らの胸を短刀で貫いて自殺するという事件が起きた。 伝説では、 この場に居合わせたブルトゥスが息絶えたルクレーティアの胸に刺さった小刀を手に取り、 「タルクィニウス・スペルブスにも他の何人にも、ローマで王たるを許すまじ」と居合わせた人々にも誓わせ、 民衆にも武器を取るよう扇動したという。

ブルトゥスの熱弁によってこれまで王の建設事業に酷使されていた市民たちは不満を爆発させ、 国王タルクィニウス・スペルブスとその一族をエトルリアへと追放することが決議された。 以後は王を置かず本来は王の諮問機関であった元老院に政務を担わせることとし、 元老院の代表として2人の定員でプラエトルという役職を設置、 亡きルクレーティアの夫ルキウス・タルキニウス・コッラティヌスと共に自ら就任した。

その後もコッラティヌスのローマ退去や、 王の財産返還交渉に来ていた使節が行っていた内通工作の陰謀が明るみに出るなど受難が続くが、 ブルトゥスは陰謀に加担していた自分の息子ティトゥスを容赦無く処刑するなど断固とした態度で挑み、 共和政維持のために尽力した。 また、亡命した元国王タルクィニウス・スペルブスが他のエトルリア人勢力と同盟を結んでローマに侵攻(シルウァ・アルシアの戦い)。 ブルトゥスは同僚のプブリウス・ウァレリウス・プブリコラとこれを迎撃し、 ローマ軍は勝利したものの、 タルクィニウス・スペルブスの息子の一人(Arruns Tarquinius)と刺し違えて命を落とした。

死後

ブルトゥスの葬儀はプブリコラによって盛大に執り行われたという。 特にローマの妻たちは、 ブルトゥスがルクレーティアの貞節を汚された事に対して激しく報復した事を思い起こし、 実の父に対するのと同じように一年間喪に服したという。

一つ空席となった執政官の座には、 ルクレーティアの父トリキピティヌスが補充執政官として選出されたものの、 高齢のためほどなく死去し、 更に補充としてマルクス・ホラティウス・プルウィルスが選出された。

死後も共和政ローマの理念を象徴する者とされ、 ガイウス・ユリウス・カエサルが王位への野心を露にしたときには、 ブルトゥスの像に「ブルトゥスは最初の執政官となって王を追放したのに、こいつ(カエサル)は執政官を追放して、ついに我々の王位に上り詰めた」と書かれたと伝わっている。

テンプレート
テンプレート
民族 
在位自 紀元前535年
在位至 紀元前509年
生年  不詳
没年  紀元前495年
      於:
父親 
母親 
配偶者
子女 
     
 

比肩(ひけん)

同等の、匹敵する、相当するなどの意味のある熟語。

インテルレクス(ラテン語: Interrex、複数形: interreges)

文字通り中間王のことであり、 王政並びに共和政ローマ時代に存在した、 ごく短期間限定の摂政の一種である。

インテルレクスは恐らく初代ロムルス王の崩御に伴って作られ、 その起源は伝説に包まれている。 王政ローマの元老院は当初、新王を決められずにいた。 ローマ存続のため、当時100人で構成されていた元老院は10人ずつのグループに分かれ、 それぞれのグループから1人を任命して計10人の参事会を作り、 1人ずつに次々と5日間交代でインテルレクスの地位を与えて法的権力を継承させた。 新王が期限の50日以内に任命されなければ、 また新たに同じ手順を踏んだ。 彼らが権力を継承した空位期間が1年に及んだ後、 ヌマ・ポンピリウスが新王として指名された。

その後に続く王が崩御した際には、 元老院によってインテルレクスが任命され、 その任務は新王を選ぶためのクリア民会を召集することだった。

ティトゥス・リウィウス(Titus Livius)  紀元前59年頃 - 紀元前17年

共和政末期、帝政初期の古代ローマの歴史家。 単にリウィウスと呼ばれることが多い。 アウグストゥスの庇護の下に『ローマ建国史』を著した。

リウィウスは、 パタウィウム(現在のイタリア・パドヴァ)において生まれた。 結婚しており少なくとも2人の子供がいた。 没したのもパタウィウムであり、 一部の記録では死んだのは11年または16年-17年であるとされる。

リウィウスの企図の規模と巨大さはその最も著名な作品『ローマ建国史 (Ab Urbe Condita)』の直訳したタイトル『都市の創設から』にも表れている。 リウィウスは著述において新たなコンスルの選出を告げるために物語をしばしば中断させているが、 このような年代記と物語を足し合わせたような書き方はローマ人が歴史著述を行う際にしばしば用いる方法であった。 リウィウスは紀元前387年のガリア人によるローマの破壊によって生じた史料の不足が自身の仕事を困難にしたと嘆いている。

プレブス(古典ラテン語:plebs プレープス)

古代ローマ社会における階級のひとつである。 主にパトリキ(貴族)と対比して用いられる。 日本語では「平民」と訳されることが多い。

主にローマ社会での中流以下の階級を指したが、 共和政後期からその意味は次第に薄れていった。