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作成日:2025/1/12

このファイルに関する標準化事項
k00 奄美群島が日本に復帰
奄美群島が日本に復帰   調印:西暦1953年12月24日   復帰:西暦1953年12月25日

日本政府と連合軍側(現在の国際連合)との条約であるサンフランシスコ平和条約が発効するまでの期間は、 アメリカ軍の琉球列島米国民政府による自治権制約などの政策や、 沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、 本土との分離に伴う換金作物や物産の販売経路の途絶などにより、 経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美の住民は不満を増大させた。 分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、 日本復帰を願う署名は14歳以上の住民の99.8%に達し、 ガンディーの運動を真似て集落または自治体単位でハンガーストライキが行われ、 小中学生が血判状を提出する事態も発生した。

サンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約が発効した後では、 アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美の統治を諦めるようになり、 西暦1953年昭和28年)12月25日に施政権を返還した。 その日がクリスマスであることから、 米国政府は「日本へのプレゼント」として群島復帰を発表した。 これに対し衆議院が感謝の決議、 参議院が祝辞の決議を挙げ、 吉田茂首相はアメリカのダレス国務長官に「全国民が喜び、感謝している。…こんなに大きなクリスマスプレゼント有難う」と私信を発している。
k01 日ソ共同宣言
日ソ共同宣言   署名:西暦1956年10月19日   発行:西暦1956年12月12日

日本国ソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(昭和31年12月12日・条約第20号)は、 西暦1956年昭和31年)10月19日に日本国ソビエト連邦がモスクワで署名し、 同年12月12日に発効した条約。

これによって両国の国交が回復して外交関係も正常化したが、 国境確定問題(北方領土問題)は先送りされた。 通称は「日ソ共同宣言」と言う。
k02 アフリカの年
アフリカの年   西暦1960年

アフリカの年は、 西暦1960年の有名な呼び方である。 フランス第18代大統領シャルル・ド・ゴール大統領の措置によって独立が認められた旧フランス植民地の13カ国を主に、 アフリカ大陸で17カ国が植民地からの独立を達成し、 脱植民地化が進んだ。 西暦1960年のアフリカの急激な政治的変化は新たな時代の到来を予感させた。

この年、独立を達成した国
カメルーン、トーゴ、マリ連邦、マダガスカル、ソマリランド、コンゴ共和国、ソマリア、ダホメ、ニジェール、オートボルタ、コートジボワール、チャド、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、ガボン、モーリタニア ...

この年、独立を達成した国の詳細
カメルーン
武力闘争が活発化し、前年に国際連合が信託統治の終了を決定したフランス領地域がこの年の1月1日に独立を達成。翌1961年にはイギリス領カメルーンの南部と合併した。
トーゴ
1958年2月に独立派が議会選挙で勝利し、この年の4月27日にフランスからの独立を達成。シルバヌス・オリンピオ初代大統領は1963年1月に発生したクーデターによって殺害された。
マリ連邦
6月20日にフランスからの独立を達成。8月20日にセネガルが分離独立したために、9月22日にマリ共和国として改めて独立を達成。
マダガスカル
1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の6月26日にフィリベール・ツィラナナがド・ゴールを説得して独立を達成し、初代大統領に就任した。
ソマリランド
6月26日にイギリスからの独立を達成。
コンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)
パトリス・ルムンバの指導下で6月30日にベルギーからの独立を達成[7]。独立直後から国の南部で分離主義運動が盛んとなり、9月にはルムンバは権力を喪失した。彼はその後に誘拐されて拷問を受け、処刑された[8](コンゴ動乱)。
ソマリア
7月1日にイタリアからの独立を達成し、5日前にイギリスからの独立を達成したソマリランドと合併。
ダホメ
1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、8月1日に独立を達成。独立直後から政情は不安定であり、1975年に国名をベナンに改称した。
ニジェール
1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、この年の8月3日に独立を達成。アマニ・ディオリ初代大統領は1974年に発生したクーデターによって失脚した。
オートボルタ
1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月5日に独立を達成。1984年に国名をブルキナファソに改称した。
コートジボワール
1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、この年の8月7日に独立を達成。フランスとの親密な関係を維持し、西アフリカで最も豊かな国の一つとなった。
チャド
1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月11日に独立を達成。フランソワ・トンバルバイ初代大統領は少数派の南部のキリスト教徒の出身であり、北部のイスラム教徒との関係が急速に悪化し、内戦に発展した。
中央アフリカ共和国
1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月13日に独立を達成。初代大統領の従兄弟で国民的英雄でもあったバルテレミー・ボガンダは独立前年の1959年3月29日に飛行機事故により、亡くなった。
コンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)
1958年に実施された投票によって99%の人々がフランス共同体内の自治領となる道を選択し、この年の8月15日に独立を達成。
ガボン
8月17日にフランスからの独立を達成。
ナイジェリア
10月1日に北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家としてイギリスからの独立を達成。アフリカ大陸で最も多くの人口を抱える国となり、直ぐに深刻な民族・宗教対立の問題に直面した。
モーリタニア
11月28日にモロッコとアラブ連盟からの反対にもかかわらず、フランスからの独立を達成。
k03 ドイツの東西分断
4国分割占領と共同管理構想 ドイツ降伏前の西暦1945年2月、 アメリカイギリスソ連の三首脳のヤルタ会談で、 戦後のドイツフランスを加えた4国で分割管理する基本方針が決定された。 5月8日のナチス=ドイツの降伏後、 ベルリンに進駐した4国司令官によって、 6月「四国宣言」がだされ、 具体的なドイツ全域の分割区域と、 ベルリンの分割管理が示され、 7月のポツダム会談の結果、 8月2日にポツダム協定が成立し、 完全な非ナチ化、 民主化がなされるまでドイツの4カ国分割占領が確定した。 この分割占領はあくまで暫定的で将来のドイツの主権回復を想定していたので、 連合国4ヵ国は共同の管理機関としてベルリンに管理理事会を設置して、 調整されることになった。
東西冷戦とドイツ問題 しかし、 西側の米英仏占領地域では自由主義経済を基本とする経済復興をめざし、 ソ連占領地域では社会主義化をめざす措置が執られたため、 東西の違いが問題となっていった。 西暦1947年アメリカがトルーマン=ドクトリンを発表し、 ソ連に対する封じ込め政策を明確にし、 ヨーロッパ諸国へのテコ入れを図ってマーシャル=プランを具体化したことから東西冷戦は深刻となり、 このドイツ問題も主要な争点となっていった。 西暦1948年6月の西側の通貨改革強行を機にソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときから、 ベルリンの4国管理理事会は機能しなくなり、 ドイツの東西分裂が事実上確定してしまった。
東西ドイツの分断 翌西暦1949年9月7日に西側管理地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、 対抗する形で同年10月7日にソ連管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、 ドイツは東西に別個の国家権力が存在する分断国家となってしまった。 東西ドイツの両国は、 西ドイツが資本主義市場経済を再建し、 東ドイツは社会主義計画経済を目指すというまったく違った経済システムをとり、 それぞれがイデオロギー(精神的指導理念)において相手を受け入れられないという、 抜き差しならない対立関係にあり、 しかもそれぞれ西にはアメリカ合衆国、 東にはソ連という大国が控えているという世界を二分する対立の最前線に立つこととなった。
k04 聞慶虐殺事件
聞慶虐殺事件(ムンギョンぎゃくさつじけん / ぶんけいぎゃくさつじけん)

聞慶虐殺事件とは、 西暦1949年12月24日に大韓民国慶尚北道聞慶郡(現:聞慶市)で韓国軍が、 共匪に協力したなどとして非武装の住民88人を虐殺し、 共匪の犯行としていた事件。

西暦1949年12月24日に大韓民国慶尚北道聞慶郡山北面で、 共産匪賊に協力したなどとして、 韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の女性、 子供、 老人の88人を射殺した。 虐殺事件は長らく共産匪賊による蛮行とされてきたが、 西暦2005年に成立した真実和解のための過去史整理基本法によって設立された真実・和解のための過去史整理委員会によって、 西暦2007年6月26日に韓国政府の犯行であったことが明らかにされた。 ...
西暦2008年7月10日、 事件の遺族は、 韓国政府が共産匪賊による虐殺であるとして真実を隠蔽し、 真相究明を求めた遺族を反国家行為者として逮捕するなど、 事実上の損害賠償請求権行使を妨害してきたので時効は適用されないなどとして国家賠償を求める訴訟を起こした。 一審では国家賠償の責任はないと判決が下され、 遺族は上告した。

西暦2009年8月6日、 ソウル高等法院(高等裁判所)は不法行為があった日から5年が経過しているとして国家賠償の責任はないとの判決を下している。

2008年には韓国大法院は居昌良民虐殺事件への国家賠償を求める訴訟には、 時効により国家責任がないとの判決を下している一方、 西暦2009年2月には、 ソウル中央地方裁判所による釜山保導連盟事件への判決では国家責任を認めているため、 上訴審が注目されている。

西暦2011年9月8日、 最高裁判所は真実を隠してきた韓国政府が、 訴えを起すことが出来なかった原告を非難しながら時効の完成を理由として賠償に応じないことは不当であるとして、 原判決を破棄してソウル高等裁判所に差し戻した。
k05 共匪
共匪(きょうひ)

共匪とは、 中華民国時代の中国において、 中国共産党の指導のもとに反政府的に活動したゲリラのことである。 匪賊のうち共産主義を掲げる集団とされ、 共産匪赤匪毛赤匪中共匪とも呼ばれた。

なお、 共産主義者からは、 民衆の支持無しにゲリラ戦を行う者は、 極左冒険主義者と呼ばれる。 例えば、 間島共産党暴動や八一吉敦暴動を起こした共匪である朝鮮共産党員を、 金日成は極左冒険主義者と呼んで蔑んでいる。 ...
共匪は共産主義を謳う匪賊で、 中華民国、満洲国、大韓民国などに存在し、 政府によって討伐対象とされた。 共匪は、 ソ連共産党政治局(ポリトビューロ)の実質的な支配下にあるコミンテルン(第三インター)、 プロフィンテルン(赤色労働組合インター)及びプロフィンテルン下部組織の太平洋労働組合書記局から資金、 革命手法及び連絡手法を提供してもらい、 細胞組織を設立してプロパガンダを流したりストライキや暴動を起こし、 ロシア内戦を再現することによって、 最終的にソビエト地方政府の樹立を目指していた。 これらの組織には、 スターリン支持者とトロツキー支持者とが居たが、 トロツキー支持者は時世を顧みず極左冒険主義者だったとされる。 極東における共産主義者(共匪を含む)の連絡役は太平洋労働組合書記局の書記員イレール・ヌーランであったが、 西暦1931年に上海で逮捕されている(ヌーラン事件)。

共匪のなかには権力を掌握することに成功するものもあり、 中華ソビエト共和国、 朝鮮民主主義人民共和国、 中華人民共和国などを建国している。 また、韓国では反共を掲げる李承晩大統領によって共匪や協力者それに類するものと見做されたものは徹底的に殲滅され、 その過程で聞慶虐殺事件、 保導連盟事件、 高陽衿井窟民間人虐殺、 居昌良民虐殺事件、 山清・咸陽良民虐殺事件などの事件が引き起こされている。
k06 匪賊
匪賊(ひぞく)

匪賊は、 「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。 日本では、特に近代中国における非正規武装集団を指す。

匪賊とは暴力的手段を用いて不法行為を繰り返す集団である。 「匪」という漢字は「人でなし」や「悪党」といった意味を持つ。 匪賊は公権力の及びにくい農村部、 行政上の境界の周縁地域、 辺境の山岳地域などで活動する集団であることが多い。 匪賊には、 経済的には破産した農民や没落した地主・知識人、 戦時には敗残兵などが加わった。

21世紀においては、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にて、 略奪などを行い住民を困らせる軍人を「土匪」と表現することがある。
k07 ボパール化学工場事故
ボパール化学工場事故   西暦1984年12月3日

ボパール化学工場事故は、 西暦1984年にインドのマディヤ・プラデーシュ州ボパールで発生した化学工場からのガス漏れ事故である。 世界最悪の産業災害とされる。

西暦1984年12月2日から3日にかけて、 ユニオンカーバイド・インディア社(UCIL)のマディヤ・プラデーシュ州ボパールの農薬製造プラントでガス漏れが発生し、 500,000人以上がイソシアン酸メチル(MIC)のガスや他の化学物質に曝露(ばくろ)した。 強い毒性を持つガスはプラントのそばの貧民街を直撃した。

死者数は推計によって異なる。 公式の中間発表では死者数は2,259人とされた。 マディヤ・プラデーシュ州政府は3,787人の事故関連の死者を確認している。 西暦2006年の政府の陳述書によれば、 事故によって558,125人が負傷し、 そのうち38,478人が一時的なもので、 約3,900人が後遺症の残る深刻なものであったとされる。 また別の推計では2週間のうちに8,000人が死亡し、 その後さらに8,000人以上が事故が原因の病気で亡くなったとされる。
k08 ハンガリーがオーストリア国境の鉄条網の撤去に着手
ハンガリーがオーストリア国境の鉄条網の撤去に着手

ハンガリー政府がオーストリアとの国境にある鉄条網の撤去に着手。 鉄のカーテンが破られる。
k09 鉄のカーテン
鉄のカーテン(Iron Curtain)

鉄のカーテンは、 冷戦時代のヨーロッパにおいて東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩である。 同じく冷戦による分断の象徴として有名なベルリンの壁とは異なり、 物理的な構造物のことではない。

イギリスのウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の西暦1946年3月5日、 アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、 ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行った演説の中で、 下記の演説をしたことに因む。
(日本語仮訳)
バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、 ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。
中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、 全てその向こうにある。
ーウィンストン・チャーチルー

米ソ冷戦の緊張状態を表す言葉として盛んに用いられた。 その後、ヨシップ・ブロズ・チトーが指導していたユーゴスラビア、 またアルバニアが社会主義国でありながらも東側陣営から離脱して非同盟の動きを見せたり、 ドイツの東西分裂により生まれたドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足後に東側陣営へ組み入れられるなどして、 境となる線は何度か変化した。 この「鉄のカーテン」は、 ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなった。
k10 スペイン東部で大規模な洪水が発生
スペイン東部で大規模な洪水が発生   西暦2024年10月28日 - 西暦2024年11月8日
スペイン東部で記録的な豪雨による大規模な洪水が発生し、 少なくとも223人が死亡。

西暦2024年10月29日、 地中海沿岸部で毎年発生する寒冷低気圧の影響によって、 スペイン東部のバレンシア州などで記録的な豪雨が発生した。

バレンシア州では18時から19時の1時間あたり降水量が174.4ミリメートルを記録し、 スペインにおける1時間あたり降水量の記録を更新している。 バレンシア州の他にカスティーリャ=ラ・マンチャ州やアンダルシア州でも豪雨となった。 河川や雨水排水管の許容水量を超えたことで洪水に発展した。

電気や水道などのライフラインが破壊され、 主要道路や鉄道線路が寸断されたことにより、 多数の住民が孤立した。

この洪水による死者は223人、 行方不明者は93人に上った。 スペインの水害としては過去最悪の被害であり、 スペインの自然災害としても過去最悪の被害のひとつである。
k11 リトアニアでボーイング737型機が墜落、1人死亡
リトアニアでボーイング737型機が墜落、1人死亡   西暦2024年11月25日
リトアニア・ヴィリニュス国際空港付近でDHL機のボーイング737型機が墜落、 1人死亡。

スウィフトエア5960便墜落事故は、 西暦2024年11月25日にリトアニアのビリニュスで発生した航空事故である。 ライプツィヒ・ハレ空港からヴィリニュス国際空港へ向かっていたスウィフトエア5960便(ボーイング 737-476SF)が最終進入中に墜落し、 乗員乗客4人中1人が死亡した。

事故機は1993年に製造されたボーイング 737-476SF(EC-MFE)で、 2基のCFMインターナショナル CFM56-3C1(エンジン)を搭載していた。 この機体はスウィフトがユーロピアン・エア・トランスポート・ライプツィヒ(DHL)向けに運航されていた[7]。

現地時間(CET)3時8分に5960便はドイツのライプツィヒ・ハレ空港を離陸した。 現地時間(EET)5時28分、 5960便はヴィリニュス国際空港の滑走路19へ最終進入中に墜落した。 機体は空港の北1.3Km地点に墜落、 2階建ての家屋に衝突し、 炎上した。 スペイン系フランス人のパイロット1人が死亡、 その他の乗員乗客3人が救助された。 このうちスペイン人のパイロットが重傷を負い、 スペインへ移送された。 救助隊員によれば、 墜落の衝撃でコックピットが分離したため火災を免れた。

また、事故機が衝突した建物に居た13人は全員避難した。 現場付近の複数の道路が閉鎖された。
k12 モスクワオリンピック開幕。日本などは不参加を表明
モスクワオリンピック開幕。日本などは不参加を表明   西暦1980年7月19日

モスクワオリンピックが開幕。 日本、アメリカなど67か国のIOC加盟国が不参加(ボイコット)を表明。 日本ではテレビ朝日系列が同オリンピックを独占中継。

西暦1979年12月に起こったソ連軍のアフガニスタン侵攻に対する制裁措置として米国をはじめとする西側諸国がボイコット。 参加は80カ国・地域にとどまった。 カーター米大統領が主導したボイコットに日本オリンピック委員会(JOC)は臨時総会を開いたが、 29対13(棄権2)で不参加を決定、 246人の選手団の派遣は見送られた。 参加した国の中でも、 開会式に選手団が参加しなかったり、 国旗を用いず五輪旗や各国のオリンピック委員会(NOC)旗で代用したりするところもあり、 政治色の強い大会となった。
k13 アメリカ・ウィスコンシン州の宗教施設で銃乱射事件が発生
アメリカ・ウィスコンシン州の宗教施設で銃乱射事件が発生

アメリカ合衆国ウィスコンシン州の宗教施設で銃乱射事件が発生。
死者6名、負傷者4名。犯人は自殺。
k14 ボイジャー1号が太陽圏を離脱
ボイジャー1号が太陽圏を離脱

ボイジャー1号が太陽から約190億kmの地点で、 太陽圏を離脱した初めての人工物となる。
k15 2013年エジプトクーデター
2013年エジプトクーデター

エジプトで軍部によるクーデター発生(2013年エジプトクーデター)。ムハンマド・ムルシー大統領の権限を剥奪、同国憲法を停止し、アドリー・マンスール最高憲法裁判所長官を暫定大統領に任命
k16 ソフトバンクが売上高で世界3位規模となる
ソフトバンクが売上高で世界3位規模となる

日本のソフトバンクによるアメリカ合衆国携帯電話大手スプリント・ネクステルの企業買収が完了、携帯電話事業の売上高で世界3位規模のグループが誕生。
k17 『和食-日本人の伝統的な食文化』が無形文化遺産に登録
『和食-日本人の伝統的な食文化』が無形文化遺産に登録

アゼルバイジャン・バクーで開催されるユネスコ政府間委員会で、『和食-日本人の伝統的な食文化』が無形文化遺産に登録される。
k18 「安重根義士記念館」開館
「安重根義士記念館」開館

中華人民共和国黒竜江省ハルビン市ハルビン駅前に、 同駅で西暦1909年に日本の伊藤博文元内閣総理大臣を暗殺した安重根を記念する「安重根義士記念館」開館。
k19 セウォル号沈没
セウォル号沈没

大韓民国全羅南道珍島沖で、 仁川港から済州島へ向け航行していたクルーズ旅客船「セウォル号」が沈没。 死者299人を出す海難事故が発生。
黄海を航行中だったアメリカ海軍佐世保基地所属の強襲揚陸艦ボノム・リシャールも捜索活動に参加。
k20 閏秒挿入
閏秒挿入

国際地球回転・基準系事業の決定により、 協定世界時23時59分59秒と翌7月1日0時00分00秒の間に「23時59分60秒」の閏秒を挿入。
k21 キューバの雪解け
キューバの雪解け

アメリカキューバ相互に大使館が再び開設され、 西暦1961年に断交して以来54年ぶりに国交を回復する。
k22 冥王星無人探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に最接近
冥王星無人探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に最接近

NASAが2015年から9年前の2006年に打ち上げた、人類初の冥王星無人探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に最接近。最接近時の距離は13,695 km
k23 RIRのARINはIPv4アドレスのストックが枯渇したと発表
RIRのARINはIPv4アドレスのストックが枯渇したと発表

北米エリアを管轄する地域インターネットレジストリ(RIR)地域インターネットレジストリ(ARIN)は、 IPv4アドレスのストックが枯渇したと発表。
これによってAfriNICを除く地域で、 IPv4アドレスの在庫が枯渇した。
Wikipedia.IPアドレス枯渇問題
k24 持続可能な開発目標(SDGs)が国連総会で採択された
持続可能な開発目標(SDGs)が国連総会で採択された

2015年に期限切れとなるミレニアム開発目標(MDGs)を継承・発展させたもので、 国際連合が2030年までの新たな指針「持続可能な開発のための2030アジェンダ」として示した持続可能な開発目標(SDGs)が国連総会で採択された。 西暦2015年9月25日~27日
k25 シンハラ人の王朝が開かれた
シンハラ人の王朝が開かれた

ウィジャヤが北インドからセイロン島へ侵攻し、 シンハラ人の王朝が開かれた。
ウィジャヤ(Vijaya)は、 パーリ語による古代スリランカの複数の年代記において、 スリランカの最初の王とされている人物である。 タミル語の文献にも見られる。 紀元前483年にスリランカへ上陸しシンハラ王朝を開いたとされているが、 その治世は紀元前543年から紀元前505年であろうと考えられている。 ヴィジャヤに関する最も古い記録は『ディーパワンサ』および『マハーワンサ』に見られるが、 その他の史料は少なく、 現存の記述は史実と伝説が混ざったものと見られているため、 正確な史実は未だ明確ではない。 歴史学者の H. W. Codrington は「2回行われた古代スリランカ征服について、それぞれの王についての記述が混ざってウィジャヤとして伝えられている可能性がある」と述べている。
シンハラ人は、 スリランカの民族。 シンハリ人とも呼ばれる。
先住民のドラヴィダ人とインド・アーリア人が混合した民族である。
k26 ヘール・ボップ彗星が夜空に現れ、地球に最も接近した
ヘール・ボップ彗星が夜空に現れ、地球に最も接近した

ヘール・ボップ彗星が夜空に現れ、 地球に最も接近した。
この次にこの彗星が出現したのは西暦1997年である。
k27 地球誕生
地球誕生 約45.55億年前

約45.66億年前:原始惑星系円盤内を浮遊する塵が集積し、直径数kmから数十kmの微惑星が形成される。
約45.65億年前:惑星集積を経て、地球型惑星の公転軌道領域に原始惑星が数十個から100個程度形成される。この時点の原始惑星の直径は月や火星程度であった。
原始惑星同士の衝突合体を経て、約45.55億年前に最終的な地球型惑星が形成される。
出展
k28 月の誕生
月の誕生  

説1:約45.1億年前
アポロ計画で採取された月のサンプルの組成分析から、月の形成時期が45億1000万年前であることが示された。従来説よりも1億年古い時期となる。
出展
説2:44.7億年前
原始地球に原始惑星テイアが衝突し、テイアの大部分と原始地球の一部が宇宙空間へ吹き飛んで月を形成する(ジャイアント・インパクト説)。
出展
の誕生は、初期の地球火星ほどもある天体が激突した結果であるとされている。(ジャイアント・インパクト説
この頃の地球は、 頻繁に衝突する隕石のエネルギーにより高温になり、マグマの海であった。
k29 北西ヨーロッパ狩人達が新たな狩猟具を手にして狩猟をしていた
北西ヨーロッパ狩人達が新たな狩猟具を手にして狩猟をしていた。

北西ヨーロッパには森林が広がり、 狩人達が新たな狩猟具を手にして獲物を追い始めていた。
(投げ槍に替わって弓矢が普及した時代で、中石器時代と呼ばれる。)
k30 北アメリカでは気候が温暖化し、マンモスが姿を消した
北アメリカでは気候が温暖化し、マンモスが姿を消した

北アメリカでは気候が温暖化し、 マンモスが姿を消す。
遊牧インディアンは定住・農耕生活へと向かう。
k31 メソポタミア地方で銅の精錬がはじまった
メソポタミア地方で銅の精錬がはじまった 紀元前6000年-紀元前3000年

豊富な鉱石の生産地であるメソポタミア地方で精錬がはじまった。
初期は硬度が足りず装飾品等に使われていたが、 徐々に精錬の技術を発展させ武器等にも使うようになった。
集落の中での分業もよりはっきりしたものになり、 コミュニティ同士の交易も発達した。
k32 野生種の馬が初めて家畜化された
野生種の馬が初めて家畜化された 紀元前4000年頃

馬の家畜化は紀元前4000年頃に現在のウクライナで食肉を得る目的で始まったと考えられている。 その後、馬乳を得るようになった。
続いて動力として利用し、 さらに騎馬遊牧民は馬の背に跨る騎乗の技術を編み出した(スキタイ)。 内燃機関登場以前の世界では最速の陸上移動手段として発展を遂げた。

馬の家畜化は、 人間が馬を家畜として飼い慣らすことである(種はノウマ(学名 Equus ferus))。
特に最古と考えられている中央アジアにおける馬の家畜化の起源は約5000年前。 ただしDNA調査等からは、これ以外に、 複数の時代・地域において行われた可能性が示唆されている。
家畜化されたことが判明している亜種として、 現生ウマ(学名 Equus ferus caballus)とモウコノウマ(学名 Equus ferus przewalskii)との二亜種がある。 しかしながら家畜馬としては現生ウマが人類にとって特に有用だったと考えられている。 それ以外の亜種の系統は家畜化が途絶えた(また野生種も次第に絶滅した)。
家畜化に向いた特徴としては、 病気に強い、従順、騎乗に向く、雪の下の草も食べる習性などがある。
k33 アンデスの高地でリャマの飼育が始まった
アンデスの高地でリャマの飼育が始まった 紀元前4000年頃

リャマは、毛と皮を利用するほか食用や運搬用に用いられている。
k34 インド北東部から中国雲南にかけての山岳地帯で稲の栽培が始まった
インド北東部から中国雲南にかけての山岳地帯で稲の栽培が始まった 紀元前4000年頃

稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった
k35 文明・都市国家が成立しはじめた
文明・都市国家が成立しはじめた 紀元前4000年頃

メソポタミア文明のはじまりであるシュメール文明が発展し、 記号ではない文字・支配階級・奴隷・商人・通貨・神殿・都市国家等が次々と生まれた。
国家と国家による戦争もはじまった。 それに伴い条約や法典も生まれてきた
k36 ウラルトゥがメディア王国に征服され滅亡
ウラルトゥがメディア王国に征服され滅亡

この頃、遊牧民(キンメリア人・スキタイ人)の度重なる侵攻で弱体化していたウラルトゥが、 メディア王国に征服され滅亡した。
ウラルトゥ 紀元前9世紀-紀元前585年

ウラルトゥ(Urartu)は、 紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。 その版図は、 現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、 メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。

k37 ゴブリュアスの率いたペルシャ軍が、抵抗なくバビロンに入城した
ゴブリュアスの率いたペルシャ軍が、抵抗なくバビロンに入城した 紀元前539年

10月7日。ゴブリュアスの率いたペルシャ軍が、抵抗なくバビロンに入城した。
10月29日にはキュロスもバビロンに入城した。
アケメネス朝ペルシャは、新バビロニアを併合した。
キュロス大王によるバビロン征服は、 ナボニドゥスの年代記、 ナボニドゥスの円筒形碑文などによって伝えられている。
年号については楔形文字で粘土板に記された天文観測記録から、 天文学的に確定されている。
k38 エウフロニオスがクラテール(大型の甕)を制作した
エウフロニオスがクラテール(大型の甕)を制作した 紀元前515年

エウフロニオスがサルペードーンの死を描いた赤絵式の装飾を施したクラテール(大型の甕)を制作した。
現在、この作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。
k39 マケドニア王アミュンタス1世が、女性たちをペルシャに提供することになった
マケドニア王アミュンタス1世が、女性たちをペルシャに提供することになった 紀元前513年

アルゲアス朝のマケドニア王アミュンタス1世が、 ダレイオス1世の要求に従い、 側室となる女性たちをペルシャの外交団に提供することになった。
王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス1世)は、 一計を案じ、 女性の代わりにヒゲを剃った男性たちを送った。
k40 ウールカ がウェイイのアポロを制作した
ウールカ がウェイイのアポロを制作した 

ウールカ(Vulca)がウェイイのアポロ(Apollo of Veii)をポルトナッキオ(Portonaccio)神殿に制作した。
この像は現在、ローマのヴィラ・ジュリア国立博物館にある。
k41 スカンディナヴィアの青銅器時代が終わり、先ローマ鉄器時代に移行した
スカンディナヴィアの青銅器時代が終わり、先ローマ鉄器時代に移行した 紀元前500年

オスカル・モンテリウスの時代区分によれば、 この頃、 スカンディナヴィアの青銅器時代(北欧青銅器時代:Nordic Bronze Age)が終わり、 先ローマ鉄器時代 (Pre-Roman Iron Age) に移行したとされる。
(おおよその年代)
k42 紀元前498年のギリシャの出来事
紀元前498年のギリシャの出来事
k43 紀元前498年のシチリアの出来事
紀元前498年のシチリアの出来事

k44 紀元前498年の中国の出来事
紀元前498年の中国の出来事

k45 世界人口は1億人に達した
世界人口は1億人に達した 紀元前500年

世界人口は1億人に達し、そのうち8500万人は東半球に、1500万人はおもにメソアメリカ(現在の、メキシコ、中央アメリカ、コロンビア、ペルー、ベネズエラ)を中心として西半球にいたと考えられている。
k46 紀元前494年のペルシャの出来事
紀元前494年のペルシャの出来事

k47 紀元前493年のペルシャの出来事
紀元前493年のペルシャの出来事

k48 紀元前492年のペルシャの出来事
紀元前492年のペルシャの出来事

k49 紀元前492年のシチリアの出来事
紀元前492年のシチリアの出来事

k50 紀元前492年のギリシャとペルシャの出来事
紀元前492年のギリシャとペルシャの出来事

k51 紀元前492年のシチリアの出来事
紀元前492年のシチリアの出来事

k52 紀元前492年のペルシャの出来事
紀元前492年のペルシャの出来事

k53 紀元前488年のシチリアの出来事

紀元前488年のシチリアの出来事
k54 紀元前485年のペルシャ帝国の出来事
紀元前485年のペルシャ帝国の出来事

k55 紀元前485年のシチリアの出来事
紀元前485年のシチリアの出来事

k56 紀元前484年のペルシャ帝国の出来事
紀元前484年のペルシャ帝国の出来事

k57 紀元前483年のペルシャの出来事
紀元前483年のペルシャの出来事

k58 紀元前483年のインドの出来事
紀元前483年のインドの出来事

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