小窓
孝明天皇(こうめいてんのう、かうめいてんのう)

作成日:2020/6/25

日本の第121代天皇 孝明天皇(こうめいてんのう、かうめいてんのう)

[在位] 弘化3年2月13日(西暦1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(西暦1867年1月30日)
[生没] 天保2年6月14日(西暦1831年7月22日)- 慶応2年12月25日(西暦1867年1月30日)37歳没
[時代] 江戸時代
[先代] 仁孝天皇  [次代] 明治天皇
[陵所] 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)
[] 統仁(おさひと)  [称号] 煕宮(ひろのみや)
[父親] 仁孝天皇(第4皇子)
[母親] 左大臣鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子・鷹司 祺子  [実母] 正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子・正親町 雅子。
[皇居] 平安宮 取り込む
孝明天皇は、 日本の第121代天皇。
孝明天皇自身は、 「百廿二代孫統仁」(122代)と自署していた。 光格天皇も同様に現在のものから一代増えたものを使用しているが、 この差異は、 『本朝皇胤紹運録』にて、 現在は歴代天皇に数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として数えていることから来る。

年表

天皇の系譜(第119代から今上)
西暦1831年7月22日(天保2年6月14日)
平安京にて、仁孝天皇の第四皇子として誕生。 煕宮(ひろのみや)と命名。御乳人は押小路甫子。 傳役(養育係)は近衛忠煕。
西暦1835年7月16日(天保6年)
7月16日(6月21日) 儲君
11月8日(9月18日) 親王宣下により統仁親王となった。
儲君
西暦1835年11月8日(天保6年9月18日)
親王宣下により統仁親王となった。
西暦1840年4月16日(天保11年3月14日)
立太子の儀が行われ皇太子となる。
西暦1843年天保14年)
侍講に中沼了三を迎えた。
西暦1846年2月21日(弘化3年1月26日)
仁孝天皇が崩御
西暦1846年3月10日(弘化3年2月13日)
践祚
西暦1846年10月19日(弘化3年8月29日)
幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。
西暦1847年4月23日(弘化4年3月9日)
学習所(学習院)の開講式が行われた。
西暦1847年6月8日(旧暦4月25日)
石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。
西暦1847年10月31日(旧暦9月23日)
即位の大礼が行われた。
西暦1847年11月4日(旧暦9月27日)
将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。
西暦1848年4月1日(弘化5年2月28日)
西暦1850年5月19日(嘉永3年4月8日)
「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。
西暦1853年嘉永6年)日付不詳
徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。
西暦1854年嘉永7年)
3月31日(3月3日) 日米和親条約が締結された。
5月2日(旧暦4月6日)
  • 内裏が炎上した。
  • 黒船来航
  • 大地震発生(翌年の改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)。
西暦1855年1月15日(嘉永3年11月27日)
昨年に発生した内裏炎上、大地震のため元号を安政と改元した。
西暦1858年安政5年)
2月27日(1月14日) 日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、 近衛忠煕、 鷹司輔煕、 三条実万の三大臣および議奏、 武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。
3月10日(旧暦1月25日) 大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。 しかし、 大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、 結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。
太閤鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白九条尚忠(以下、九条関白)は、 ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。 徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、 孝明天皇は容れなかった。
しかし「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。
3月2日(旧暦1月17日) 九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。 3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、 堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、 ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。
(記載順、日付は出典元(Wikipedia)に記載された通り。)
4月5日(旧暦2月22日) 朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。
4月18日(旧暦3月5日) 堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を提出した。
この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。 逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。 九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。 勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになった。
4月25日(旧暦3月12日) 88人の公卿が列参という事件を起こし条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。
『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、 岩倉具視とともに行動に移したとされる。
5月3日(旧暦3月20日) 堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。
7月29日(旧暦6月19日) 幕府は日米修好通商条約に調印。
8月6日(旧暦6月27日) 7月29日(旧暦6月19日)に行った条約調印に関する奉書が京都へ到着。
朝廷では評議が開かれたが、 孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。
8月7日(旧暦6月28日) 評議で九条関白に下した宸翰は 「差し当たり祐宮(さちのみや)(睦仁(むつひと)、当時5歳、のちの明治天皇)がいるが、天下が重大事にある時、幼年の者に任せるのは無理だから、伏見、有栖川の3人の親王の誰かに譲位したい」と譲位の意思を示した。 譲位の中継ぎの天皇候補になったのは伏見宮の貞教親王(崇光天皇16世)、有栖川宮の幟仁親王(霊元天皇4世)と熾仁親王(霊元天皇5世)の三人だ。 驚愕した一同は関東より御三家、 大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。
8月14日(旧暦7月6日) 大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。
8月15日(旧暦7月7日) 井伊大老は多忙のため、 御三家の当主は処罰したため上京はできないので、 酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成した。
8月17日(旧暦7月9日) 昨日作成した答書を京都へ送った。
8月19日(旧暦7月11日) 日露修好通商条約を勅許がないまま調印した。
8月26日(旧暦7月18日) 日英修好通商条約を勅許がないまま調印した。
8月30日(旧暦7月22日) 近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。
9月11日(旧暦8月5日) 近衛忠煕、 鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、 自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。 内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、 近衛らは九条関白へ交渉し、 具体的には9月13日(旧暦8月7日)の朝議のため参内を求めた。
しかし九条関白は参内をしなかったため、 近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。 九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。 この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。
9月2日(10月8日) 幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。
9月2日(10月8日) 辞表を受け取る。
9月4日(10月10日) 内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。
9月17日(10月23日) 間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。
10月19日(11月24日) 九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。
10月25日 徳川家茂の将軍宣下が行われた。
10月24日(11月29日) 間部老中が参内したが、 孝明天皇は出御しなかった。 九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、 幕府の本意ではないこと、 海岸の防備を固めて、 国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。
11月9日(12月13日) 宸翰で、 開国は日本国の瑕瑾(かきん。きず。特に、欠点。短所。)であり承知はできないとする意思を伝えた。 間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、 皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。
西暦1859年1月27日(安政5年12月24日)
間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。
西暦1859年2月2日(安政5年12月30日)
間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。
西暦1859年安政6年)
2月12日(1月10日) 幕府と九条関白からの圧力により、 近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、 鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。 孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合ってもらいたいと宸翰を出した。
3月9日(2月5日) 酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、 青蓮院門跡尊融法親王、 一条忠香らへの処分案もあった。
3月21日(2月17日) その後も九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。
4月30日(3月28日) 辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられた。
5月24日(4月22日) 酒井所司代から圧力を加えられ、落飾の勅許を出した。
9月8日(8月12日) 幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈った。
9月11日(8月15日) 九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。 落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞をうけるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、 その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。
三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、 その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。 「たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていてくださる」という行動論理を持つ人々が、 安政の大獄の反動として生まれた。
西暦1860年万延元年)
6月1日(4月12日) 幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。
6月22日(5月4日) 和宮の将軍家降嫁を奏請に対しこの日付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。
6月29日(5月11日) 酒井所司代は独断で再度奏請した。
7月7日(5月19日) 再び拒絶する宸翰を出した。
7月21日(6月4日) 酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出し、 この日、上奏された。
観行院の生家・橋本家は、 元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。 孝明天皇は、 鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。
8月20日(7月4日) 幕府は降嫁について三度目の奏請を行ったが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため、却下された。
9月14日(7月29日) 酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、 今後七八カ年ないし十カ年の中で、 その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、 干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。 これにより孝明天皇は勅許を決断したが、 当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。
9月29日(8月15日) 和宮はついに降嫁を受諾した。
12月26日(11月15日) 和宮は江戸城に入った。詳細は「和宮親子内親王#降嫁」を参照
西暦1861年文久元年)
7月9日(6月2日) 正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、 この日、長州藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。
12月(11月) 薩摩藩の島津久光と島津茂久が近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し、 上京のために勅命を求めてくるが容れることは無かった。
しかし、 当年12月から翌1862年1月(旧暦12月)に御製の和歌を下した。
西暦1863年文久3年)
4月から5月(文久3年3月)に家茂が上洛してきたときは、 攘夷の勅命を下し、 攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸した。

もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。 孝明天皇は1863年6月8日(文久3年4月22日)付の中川宮宛の書簡で、 5月27日(旧暦4月10日)の石清水八幡宮行幸について、 体調不良にもかかわらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白し、 同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では、 「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ、 自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている。

その後、 幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、 孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。

西暦1865年慶応元年)
攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、 艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、 天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。 だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、 保守的な姿勢は崩さなかった。

このような状況の中で、 次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、 天皇に対する批判が噴出するようになる。 第二次長州征伐の勅命が下されると、 大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、 岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、 「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している。
西暦1866年10月8日(慶応2年慶応2年8月30日)
天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、 その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、 天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、 奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。
西暦1867年1月30日(慶応2年12月25日)
在位21年にして崩御。 宝算37(満35歳没)。
死因は天然痘と診断されたが、 他殺説も存在し議論となっている(「崩御にまつわる疑惑と論争」参照)。

四海静謐(しかいせいひつ)

四方の海(天下・世界中)が波風立てず、 穏やかである様子を指す言葉。
国の内外が平和に治まり、 社会が安穏である「天下太平」とほぼ同義の四字熟語であり、 戦乱のない、 平穏で落ち着いた世の中を願う意味が込められている。

崩御にまつわる疑惑と論争

崩御に至るまでの経緯

西暦1867年1月16日(慶応2年12月11日)、 風邪気味であった孝明天皇は、 宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、 翌1月17日(旧暦翌12日)に発熱する。 天皇の持病である肛門脱を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、 孝明天皇が発熱した1月17日(旧暦12日)、 執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、 翌18日(旧暦13日)になっても病状が好転しなかった。 翌19日(旧暦14日)以降、 伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、 昼夜詰めきりでの診察が行われた。

1月21日(旧暦慶応2年12月16日)、 高階経由らが改めて診察した結果、 天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。 執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、 経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、 いよいよ痘瘡の疑いは強まり、 翌22日(旧暦17日)に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。 これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、 24時間交代制での治療が始まった。

『孝明天皇紀』によれば、 医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。 この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、 一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。

伊良子光順の日記における12月25日(新暦1月30日)の条には「天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、 光順が膏薬を貼り、 他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、 同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された」と記されている。

中山忠能の日記にも、 「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、 崩御の事実は秘され、 実際には命日となった1月30日(旧暦25日)にも、 「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。 天皇の崩御が公にされたのは2月3日(旧暦29日)になってからのことだった。
執匙(しっし/しっぴ)
執匙(しっし / しっぴ)

読みは「しっし」と「しっぴ」が検索できた。 「しっぴ」の根拠は検索できなかったが、 「しっし」の根拠は「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」にあった。

主に漢方医学において、 医師が匙(さじ=薬さじ)を持って薬を調合する、 あるいは具体的な治療(投薬)を執り行うことを意味する言葉。
「診察は行うが、最終的な薬の処方・投薬は他の医師に任せる」といった文脈で使われる。

毒殺説

孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、 それ以外では至って壮健であり、 前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。 なお、御所を警護していた江戸幕府による声明は無く、 孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、 徳川慶喜の従兄弟である二条斉敬が就任した為、 幕府上層部では毒殺説が唱えられることは無かった。

その後、明治維新を経て、 皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、 学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。 一方で、西暦1909年明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげたり、 大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官・坂東登女子が宮中でも孝明天皇殺害説が語られていたことを示唆する発言をしているなど、 噂は消えずに流れ続けていた。
また西暦1940年昭和15年)7月、 日本医史学会関西支部大会の席上において、 京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。 ただし、堀河紀子は西暦1862年文久2年)には霊鑑寺に出家しており、 孝明天皇が没した年には御所にいなかった。

第二次世界大戦後に、 皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、 変死説が論壇に出てくるようになった。 最初に学問的に暗殺説を論じたのは、 「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)である。 禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、 一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、 その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。 また犯人も戦前の佐伯説と同様に、 岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。

次いで西暦1975年昭和50年)から西暦1977年昭和52年)にかけ、 前述の伊良子光順の拝診日記が、 滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。 この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、 天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、 伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。 だがこれを発表した伊良子光孝は、 断定こそ避けているものの、 禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。

孝明天皇暗殺説を唱えるもののごく一部(鹿島曻など)はさらに睦仁親王暗殺説を唱えることがある。 即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。 当初この論を主張した鹿島の説では、 大室は南朝の末裔であるなどとし、 いくつかの理由が示されたが、 いずれも事実無根であり、 学会では議論の対象にすらなっていない。 現在、この説は陰謀論の一つとなっている。 すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに、 根拠もなく大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、 この陰謀論は迷走を続けている。

毒殺説に対する反論

西暦1989年平成元年)から西暦1990年平成2年)にかけ、 当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。

「孝明天皇の死因について」、 「孝明天皇は毒殺されたのか」というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
  1. 12月19日(新暦1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わっていくこと
  2. 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
  3. 中山慶子の12月23日(新暦1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
などから、医師たちによる「御容態書」の、 特に20日(新暦1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、 これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。 その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。

また原口は別に記した論文の中で、 諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(新暦の西暦1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、 孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、 岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。

人物

系譜

女御
  • 九条夙子(英照皇太后)(1834年 - 1897年) - のち皇太后
    • 第一皇女:順子内親王(1850年 - 1852年)
    • 第二皇女:富貴宮(1858年 - 1859年)
    • 養子:睦仁親王(明治天皇)
典侍
  • 坊城伸子(1830年 - 1851年)
    • 第一皇子:妙香華院(1851年)
  • 中山慶子(三位局, 後一位局)(1836年 - 1907年)
    • 第二皇子:睦仁親王(明治天皇)(1852年 - 1912年)
  • 今城尚子(1839年 - 1867年)
掌侍
  • 堀河紀子(1837年 - 1910年)
    • 第三皇女:寿万宮(1859年 - 1861年)
    • 第四皇女:理宮(1861年 - 1862年)
  • 今城重子(1828年 - 1901年)
養子・猶子
  • 載仁親王(三宝院門跡、還俗後に閑院宮を相続)
  • 貞愛親王(伏見宮)
  • 博経親王(知恩院門跡、還俗後は華頂宮)
  • 智成親王(聖護院門跡、還俗後は北白川宮)

諡号・追号

崩御後、漢風諡号「孝明天皇」が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。勘申者は八条隆祐。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。

孝明天皇の埋葬にあたっては、 文久の修陵事業で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、 従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、 歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、 円墳を模した現陵が築かれた。 ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。 歴代天皇で最後に仏式で葬儀が営まれた天皇となった。

皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに祀られている。 また、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、 平安京最後の天皇として西暦1940年昭和15年、皇紀2600年)に合祀された。 そのほか、愛知県武豊町の玉鉾神社に祀られている。
後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)

仮御所

西暦1855年嘉永7年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、 翌年の再建までの間に聖護院や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。



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