小窓
仁孝天皇(にんこうてんのう、にんかうてんのう)

作成日:2020/6/25

仁孝天皇は、日本の第120代天皇。
光格天皇の第四皇子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第120代天皇 仁孝天皇(にんこうてんのう、にんかうてんのう)

[在位] 文化14年9月21日(西暦1817年10月31日)- 弘化3年1月26日(西暦1846年2月21日)
[生没] 寛政12年2月21日(西暦1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(西暦1846年2月21日)47歳没
[時代] 江戸時代
[先代] 光格天皇   [次代] 孝明天皇
[陵所] 後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)
[] 恵仁(あやひと)。
[称号(幼名)] 寛宮(ゆたのみや)。
[父親] 光格天皇
[母親] 欣子内親王。女院号:新清和院。
[実母] 藤原婧子・勧修寺 婧子。院号:東京極院。
[皇居] 京都御所
[女御] 関白鷹司政煕の女、藤原繋子(たかつかさ つなこ)。女院号:新皇嘉門院(しんこうかもんいん)。
    繋子没後はその妹、藤原祺子・鷹司 祺子(たかつかさ やすこ)。女院号:新朔平門院(しんさくへいもんいん)。

年譜

天皇の系譜(第119代から今上)
寛政12年(西暦1800年)
2月21日(3月16日) 降誕
(西暦)
() 元服
文化6年(西暦1809年)
3月24日() 父・光格天皇の中宮である欣子内親王の養子として立太子された。
() 
文化14年(西暦1817年)
文化14年9月21日(西暦1817年10月31日) 即位礼
文政元年(西暦1818年)
文政元年11月21日(西暦1818年12月18日) 大嘗祭
文化3年(西暦1846年)
即位後、父・光格天皇の意を受けて、朝儀復興に尽力した。
皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。
幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。
文化3年1月26日(西暦1846年2月21日) 崩御。47歳。
弘化4年(西暦1847年)
光仁天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。
(明治10年(西暦1877年)、明治天皇の命によって設立された皇族・華族教育機関の学習院(現・学校法人学習院および学習院大学)の前身である。)
(西暦)
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(西暦)
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略歴

文化6年(1809年)3月24日、父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子された。 文化14年(1817年)に即位し、父・光格上皇の意を受けて朝儀復興に尽力した。皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。宝算47であった。 崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。1877年(明治10年)明治天皇の命によって設立された皇族・華族教育機関の学習院(現・学校法人学習院および学習院大学)の前身である。 なお、仁孝から昭和までの歴代天皇はいずれも終身在位であり、徳仁(今上)までは皇太子(仁孝天皇の直系子孫)によって皇位が継承されている。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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