小窓
光格天皇(こうかくてんのう、くゎうかくてんのう)

作成日:2020/6/25

光格天皇は、日本の第119代天皇。
傍系・閑院宮家の出身であるためか、 中世以来絶えていた朝儀の再興、 朝権の回復に熱心であり、 朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。
父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、 以降、 2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位するまでの202年間、 天皇が譲位する例はなかった。
閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。
東山天皇は曽祖父、 桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。
践祚前の1779年12月15日(安永8年11月8日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、 儲君治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。
また、 江戸幕府将軍徳川家治の御台所倫子女王は実の叔母(実父の妹)に当たる。
つまり、光格天皇は家治の義理の甥でもある。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第119代天皇 光格天皇(こうかくてんのう、くゎうかくてんのう)

[在位] 安永8年11月25日(西暦1780年1月1日) - 文化14年3月22日(西暦1817年5月7日)
[生没] 明和8年8月15日(西暦1771年9月23日) - 天保11年11月18日(西暦1840年12月11日)70歳没
[時代] 江戸時代
[先代] 後桃園天皇   [次代] 仁孝天皇
[陵所] 後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)
[] 師仁(もろひと)。西暦1779年12月21日(安永8年11月14日)命名
    兼仁(ともひと)。西暦1780年1月1日(安永8年11月25日)改名
[称号(幼名)] 祐宮(さちのみや)。
[父親] 閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)。諡号:慶光院。
[母親] 大江磐代
[皇居] 平安宮(土御門東洞院殿)
[中宮] 欣子内親王(よしこないしんのう)。女院号:新清和院(しんせいわいん)。

年譜

天皇の系譜(第119代から今上)
明和8年(西暦1771年)
8月15日卯半刻(9月23日) 降誕。於:閑院宮邸。
安永10年(西暦1781年)
1月1日(1月24日) 元服
(西暦)
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安永9年(西暦1780年)
12月4日(12月29日) 即位礼
天明7年(西暦1788年)
11月27日(1月5日) 大嘗祭
天保11年(西暦1840年)
11月18日子刻(12月11日) 崩御。於:桜町殿
天保11年(西暦1841年)
12月20日(1月12日) 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

元々は、 閑院宮家から聖護院に入寺し出家する予定であったが、 安永8年10月29日(1779年12月6日)、 後桃園天皇が崩御したときに内親王しかおらず、皇子がいなかったため、 世襲親王家から新帝を迎えることになった。
当時、 後継候補者として伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、 先帝の唯一の遺児欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、 残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を、 九条尚実は師仁親王を推薦した。
会議の結果、 貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、 世襲親王家の中で創設が最近で、 天皇と血筋が近い師仁親王が選ばれ、 急遽養子として迎え入れられた。
安永8年11月25日(1780年1月1日)、 践祚
直前に儲君治定されていたものの、立太子はなされなかった。なお、この時に先々帝後桜町上皇は皇位継承のために伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就くことはなかった。

天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした[2]。また、寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。

天明の大飢饉の際には幕府に民衆救済を申し入れた。ただしこれは、幕府が定めた禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした(御所千度参り)。

ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る[3]など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある[4]。

寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。寛政12年1月22日(1800年2月15日)に2人の間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。

博学多才で学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ。また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や新嘗祭など朝廷の儀式の復旧に努めた[5]。さらに平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった(学習院 (幕末維新期)参照)。寛政9年(1797年)11月7日には善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている[6][7]。     

文化14年3月22日(1817年5月7日)、仁孝天皇に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した明仁は太上天皇ではなく天皇退位特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である[8]。天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算70。

2019年(令和元年)現在、先帝とは2親等以上離れた続柄かつ宮家から践祚した最後の天皇でもある。次代・仁孝天皇以後は皇太子(天皇の直系子孫)によって皇位が継承され[9]、この皇統が第126代天皇徳仁を含めた現在の皇室に連なっている。

諡号・追号・異名

天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(但し、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。先代までの月輪陵と同じ寺域に所在する。 天保11年(1840年)11月25日に御槽(おふね)に奉納され、翌月4日に入棺、同月20日に奉葬された。倹約のため、御槽には蓋がなかったという。翌年(1841年)1月19日に石塔が完成し、即日供養が修された。同月27日には陵前において諡号の奉告が行われ、この時の記録に初めて「後月輪山陵」の陵号が見える。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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