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役職(古代)

作成日:2024/10/30

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京職(きょうしき)

京職(きょうしき)  古訓は「みさとづかさ」

京職とは、 日本の律令制において京域内を統括するため、 一般の地方行政組織(国郡制)とは別に特別に置いた官司。 司法、行政、警察を行った行政機関である。 唐名は、京兆府、馮翊、扶風など。 なお、 江戸幕府の京都所司代の別称を、 京職(きょうしょく)といった。

京職のことは西暦685年(《日本書紀》天武14年3月条)に初めてみえることから、 日本の古代京域は天武天皇の飛鳥浄御原宮の造営に伴って形成されたものであるらしい。

京は碁盤目状に大路・小路が南北・東西方向に整備され(条坊制)、 天皇の居所である内裏とそれを取り囲む中央官庁街である大内裏は京の中央北端に設けられた。 これは中国の「天子は南面する」思想に基づく都城制にならったためであり、 南面する玉座より見て左に位置する京内東側を「左京」、 右に位置する西側を「右京」と呼び、 それぞれに左京職(さきょうしき)、 右京職(うきょうしき)が置かれた。 左京職の長官を左京大夫(さきょうのだいぶ)、 右京職の長官を右京大夫(うきょうのだいぶ)という。

宮人(くにん/きゅうじん)

宮人(くにん/きゅうじん)

律令制において宮中に奉仕する女性職員のこと。 日本の後宮制度は飛鳥浄御原令の頃に整備された。

大宝令・養老令の後宮職員令には「宮人職員」として後宮十二司の職事と散事(女孺・采女・氏女)から構成されていた。 宮人には官位相当が存在していないが、 職事は四等官に相当するとされ、 季禄支給の基準として准位が設定され、 縫殿寮が考課を審査、 これに基づいて中務省が叙位と位記を発給した。 ただし、采女は采女司の管轄であった。

また、 後宮以外にも東宮職や斎宮寮には、 それぞれ東宮・斎宮に仕える宮人がおり、 その管理はそれぞれの官司が行った。

大化以前より律令制前期まで、 後に「内裏」と称された大王・天皇の日常空間には男性官人は自由に出入りできなかったために奏上・宣下のことは女性である宮人を通じて行われるのが普通であった。 ところが、 奈良時代(8世紀)後期になると内裏の重要性が増して男性官人が内裏に立ち入ることは珍しくなくなっていった。

この時期より、 「宮人」という名称に代わって女性官人を意味する「女官」という呼称が用いられるようになった。

更衣(こうい)

更衣(こうい)

平安時代、後宮の女官の一つ。

初めは、 天皇が衣服を着替えるために設けられた便殿 (べんでん) を更衣と称したが、 のちにはそばに仕える女官をさすようになった。

女御 (にょうご) の次位にあって天皇の御寝に侍し、 四、五位に叙された。

最初は近衛の次将や受領の娘が任じられたが、 次第に公卿の娘が任官するようになった。

侍講(じこう)

侍講(じこう)

主君に仕えて儒書その他を講義して君徳を養うこと、 またはそれを役目とする職名。

奈良時代から天皇に侍講、 皇太子、親王に侍読 (じとう、じどく) をつけたが、 明治天皇が若年で即位すると官職として侍講がおかれ、 秋月種樹、松平春嶽、大原重徳その他が任命され、 西暦1877年侍講局ができた。

西暦1886年廃止。

正室(せいしつ)

正室(せいしつ)、本妻(ほんさい)、嫡妻(ちゃくさい/てきさい)、正妻(せいさい)

正室は、高貴な人物の公的に認められた妻のこと。正妻本妻とも言う。 律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。 これに対し、正室以外を側室という。

奈良平安時代の律令の元では事実上の一夫多妻制であり、 夫が最初に婚姻を結んだ女性を嫡妻あるいは前妻(こなみ)と呼んだ。 これは複数の正室を迎える場合があったとしても、 嫡妻と法的に認められるのは一人だけであり、 貴族の子弟の立身を定めた蔭位においては嫡妻が生んだ長男が嫡子と呼称されて父親の後継者とする制度が法制度として存在していた。

平安時代後期以後には蔭位制度が形骸化して、 代わって父親が自らの地位・財産の継承者として嫡子を選択するようになったため、 嫡妻の法的意味が失われていく事になる。

太政官(だじょうかん)

太政官(だじょうかん、だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)

律令制下の太政官
太政官は、 日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。 長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。 通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。 事務局として少納言局と左右弁官局が附属する。 唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 古代日本において中国から律令制を導入する際、 祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けた。 太政官の原型は天武天皇の時代に形成された。
平安時代になると、 本来、 律令で定められていない令外官にすぎなかった摂政や関白が、 天皇の代理として政治を執り行ったため、 相対的に地位が低下したが、 国政に関する最高機関として機能し続けた。 武家社会の時代に入っても、 鎌倉時代には政務機関として機能していたが、 室町時代になると次第に形骸化が進み、 単純に格式を表す職名になった。 明治維新で律令制が廃止されるまで存在した。 太政官の庁舎は「太政官庁」または「官庁」と呼ばれ、大内裏の中の八省院の東に置かれた。
近代の太政官
太政官(だじょうかん)は、 日本で幕末から明治にかけて設けられた官僚名。 西暦1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。 当初は、 議政官以下7官の総称であり、 翌西暦1869年(明治2年)の官制改革で、 民部省以下6省を管轄することとなった。 後に、 長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。 西暦1885年(明治18年)、 内閣制度が発足したことに伴い廃止された。

掌侍(ないしのじょう)

掌侍(ないしのじょう)

令制で後宮の内侍司(ないしのつかさ)の判官(じょう)。 もと従七位相当、のち従五位相当。
その第一位を「勾当内侍(こうとうのないし)」略して「ないし」ともいい、 後には「内侍」の字を当てるようになった。

定員四人(平安時代は六名)。 職掌は尚侍・典侍と同じであるが、 天皇と男官との執次役(奏請・宣伝)はできない。

明治以後、 皇室に置かれた女官の一階級の称。
明治二年(一八六九)一〇月一二日、四人を置くことを定めた。
〔太政官第九八二‐明治二年(1869)一〇月一二日〕

典侍(ないしのすけ/てんじ)

典侍(ないしのすけ/てんじ)

典侍とは、 律令制における官職で、 内侍司ないしのつかさ(後宮)の次官(女官)である。
単に「すけ」とも呼ばれた。

長官は、 尚侍(ないしのかみ/しょうじ)であったが、 後に后妃化して設置されなくなったため、 典侍が実質的に長官となった。
准位では、 従四位であったが、 実際には女叙位を受けて二、三位に昇る者も多かった。
なお、 「藤典侍」、 「源典侍」や「大納言典侍」などと、 前に姓や、 父親の官職名を付けて称する者が多かった。

女御(にょうご、にょご)

女御(にょうご、にょご)

天皇の寝所にはべる婦人の称。 中宮の次に位した。

初見は『日本書紀』の雄略天皇の条にあるが、 桓武天皇のとき、 紀乙魚 (きのおとな) 、 百済教法 (くだらのきょうほう) を女御としたのが最初とされる。

平安時代初期、 女御所生の皇子が皇位につくと、 皇太夫人となり、 のちには皇太后と尊称され皇后に代る地位となり、 家司、 職員なども付置されるようになった。

醍醐天皇女御藤原穏子が皇后位についてから、 以後皇后は女御から進むのが慣例となった。

嬪(みめ、ひん)

嬪(ひん、みめ)

令(りょう)制の後宮において妃・夫人の下位を占める身位。
三位(さんみ)以上の夫人に対し、四位・五位の者をあて、定員は4人とする。

嬪の称は中国隋(ずい)唐の制に由来し、 『日本書紀』にも数例みえるが、 大宝(たいほう)令制定後は、 文武(もんむ)天皇の後宮に紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)、 石川刀子娘(とねのいらつめ)の2人を数えるだけで、 その後の実例は見当たらない。

しかし養老(ようろう)令をはじめ、 延喜式(えんぎしき)にもその待遇に関する規定が存することから、 制度としては平安中期まで存続したことがわかる。

女嬬/女孺/女豎(めのわらわ/にょうじゅ/にょじゅ)

女嬬/女孺/女豎(にょうじゅ/にょじゅ/めのわらわ)

律令制で、宮中に仕えた下級の女官。 采女(うねめ)・氏女(うじめ)から採用され、 堂上の掃除、灯油のことなどをつかさどった。

中国で、后・妃・夫人・嬪(ひん)などに仕えた女官。