小窓
日本の地震(0000年代) 西暦1年~西暦999年

作成日:2022/3/4

参考:日本の歴史地震の西暦換算

発生日付順に記載する。

0416/08/22:允恭地震

允恭地震(いんぎょうじしん)  西暦416年8月22日(ユリウス暦)
日本書紀』に記された記録の残る日本最古の歴史地震。

日本書紀』允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。 記録に残る日本史上最初の地震である。

允恭天皇は先に玉田宿禰反正天皇の殯を命じていたが、 地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。 玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、 尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れた。 允恭天皇玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため捕えて殺したという。

このようにこの地震の記事は政治的事件の発端として記されており、 地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。 また武烈天皇8年(西暦506年)以前は日本暦が明らかでないため厳密に西暦には換算できず、 西暦換算が416年であるかも疑わしいとの見方もある。

『熊野年代記』にも諸国で大地震であったと記され、 『豊浜町誌』にも讃岐国で地震があったことが記されているが、 これらは『日本書紀』よりも遥か後世に記されたものであり出典や詳細は不明である。 ...
『大日本地震史料』は「河内国地震フ」としているが、 これは地震記録が記された当時の都が河内国にあっただけのことであり、 その震源が河内国であるか他国にあったかを知る由は無い。 允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮であるがこれは現・明日香村とも考えられている。

大森房吉は『本邦大地震概表』の冒頭に本地震を大地震の部に入れているが、 今村明恒はこの地震の記録は次の推古地震まで約200年間に大地震の記述が一回も現れないとはいうものの、 揺れの強度や家屋の倒壊に言及しておらず、 殯殿に異状なきか否かが問題となる程度の地震と解釈され、 大地震と分類することに異議を唱えている。

0599/05/26:推古地震

推古地震(すいこじしん) 西暦599年5月26日(ユリウス暦)、5月28日(グレゴリオ暦)

日本書紀』に現れる日本最古の被害記録が残る歴史地震。
日本書紀』推古天皇7年4月27日の条項に被害地震の記述が登場する。
地震が発生し建造物が悉(ことごと)く倒壊した。 四方に命じて地震の神を祭らせたという。 聖徳太子の伝記によれば、太子が地震を予測して建物の補強を促し、 地震後は税の免除を建言したと伝わる。

日本書紀』巻第二十二
推古天皇七年夏四月乙未朔辛酉。
地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。

地震学者の今村明恒は「日本初の地震記録である被害記述のみられない允恭地震とは対照的に、 本地震こそ正史に現れる最初の大地震である」とし、 また「この地震は当時の都の位置から『大日本地震史料』は「大和国地震ヒ」としているが、 四方をして地震の神を祭らしめた位であるから、 そう狭小な範囲の地震ではなかったであろう」と推定している。

同じく地震学者の河角廣は規模MK = 4.3と判定し、 マグニチュードは M = 7.0と換算しているが、 震央は示しておらず規模の根拠も不明である。

0679/00/00:筑紫地震

筑紫地震(つくしじしん) 西暦679年

筑紫地震は、 飛鳥時代後期(白鳳時代)に九州北部で発生した大地震。 『日本書紀』に記述されており、 震源域がほぼ判明しているものとしては日本最古の歴史地震である。

日本書紀』には筑紫地震前後から地震の記述がしばしば登場し、 本地震の約6年後には南海トラフ巨大地震である白鳳地震が発生している。

日本書紀』には、 天武天皇7年12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日、グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国を中心に大地震が発生し地割れが発生したと記述されている。

0684/11/26:白鳳地震

白鳳地震(はくほうじしん) 西暦684年11月26日(天武天皇13年10月14日)

白鳳地震は、 白鳳時代飛鳥時代後期)に起きた巨大地震。 南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている。

南海トラフの巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。 白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、 白鳳大地震(はくほうおおじしん)、 あるいは天武地震(てんむじしん)とも呼ばれる。

記録による土佐や伊予の被害の様相から南海道沖の地震と考えられていたため、 白鳳南海地震(はくほうなんかいじしん)とも呼ばれてきたが、 発掘調査により、 ほぼ同時期に東海道沖も震源域(宝永地震のように南海トラフ全域)となった可能性が推定されている。

白鳳地震は、 『日本書紀』に記述があり、 有史以来、 確かな記録の残る南海トラフ巨大地震と推定される地震としては最古のものである。

なお、『日本書紀』にある最古の地震の記録は允恭5年7月14日(ユリウス暦[J]416年8月22日、グレゴリオ暦[G]8月23日)のものであるが(允恭地震)、 これは「地震」(なゐふる)とあるのみである。 また、推古7年4月27日(599年5月26日[J]、5月28日[G])には大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場するが(推古地震)、 これらは大和(飛鳥)で大地震であったことを推察するのみであり震源域は特定されていない。

震源域がほぼ判明しているものとしては、 白鳳地震の6年前の天武7年12月(679年初頭)の筑紫における水縄断層上で発生したと見られる筑紫地震の記録が登場する。 ...
森博達は『日本書紀』の記述を正格漢文で綴られたα群と、 倭音で表記された和化漢文で綴られたβ群とに分類し、 巻第29、 天武紀の地震の記録は全てβ群に属しており、 このβ群の記述は日食や彗星など天文現象の記録との整合性から信頼度が高いとされる。