シュメールは、
古代文明、
その文明を築いた人々、
またはその文明が栄えた
イラク南部地方を指す歴史地理的な名称である。
現代の
イラク南部、
ユーフラテス川とティグリス川に挟まれた地域は現在、
メソポタミアと呼ばれる。
この
メソポタミアの南部(現代のバグダードからペルシャ湾に至る地域)はバビロニアと呼ばれ、
さらにバビロニアのうち古代都市ニップル近辺よりも北側をアッカド、
南側を
シュメール(
シュメル)と呼ぶ。
紀元前5500年ごろから紀元前3500年ごろのウバイド期の中頃から
シュメール地方では灌漑農業が本格化し、
続くウルク期(紀元前3500年ごろ - 紀元前3100年ごろ)には都市文明が発達した。
この都市文明を担った人々を
シュメール人と呼ぶ。
彼らは現代ではシュメール語と呼ばれる系統不明の言語を話し、
楔形文字を発明して、
アッカド人とともに
メソポタミア文明の基礎を作り上げた。
メソポタミア2900年ごろからメソポタミア2350年ごろまでの初期王朝時代にはキシュ、
ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、
ウルのような有力な都市国家を形成した。
メソポタミア3000年紀後半、
アッカド帝国による征服を経て、
メソポタミア2112年ごろにはウル第3王朝が成立した。
ウル第3王朝のころから、
日常の言語としてのシュメール語は次第に使用されなくなり、
アッカド語などセム系の言語が優勢となっていった。
一般的にはウル第3王朝が滅亡した紀元前3000年紀末ごろまでがシュメール人の時代として取り扱われる。
紀元前2000年紀には口語としてのシュメール語は完全に死語となったが、
学問・宗教・文学の言語としてのシュメール語は
メソポタミア文明の終焉まで継承され続けた。
日本語ではシュメール、
またはシュメルと表記される。
この名称はアッカド語のシュメルム(umerum)に由来し、
英語のSumerをはじめ、
現代では多くの言語でこのアッカド語由来の名称が使用されている。
日本語表記ではシュメルの方がよりアッカド語の原音に近いが、
日本におけるシュメール学の先駆者中山与茂九郎がシュメールという表記を採用したことで長音表記法が広く受容された。
これは第二次世界大戦中に日本で「高天原はバビロニアにあった」、
天皇を意味する「すめらみこと」は「シュメルのみこと」だ、
といった俗説が流布したことから、
これを退けるためであった。
地名としてのシュメルムに相当する地域はシュメール語ではキエンギ(ル)(Kiengir)、
あるいはカラム(kalam、「国土」「土地」の意)と呼ばれた。
これは非文明的な東方のクルクル(Kurkur、「外の国々」)の対立概念であり、
紀元前3000年ごろには概念として成立していたと見られる。
しかし、「シュメール人」が自分たちのことをシュメール人と呼ぶことはなく、
文学作品内では自らを指して「黒頭人」と表現した。
現代においてアッカド語由来のシュメールという名称が一般的であるのは、
シュメール語の発見よりもアッカド語の解読が先行した近代のアッシリア学の進展過程の結果である。
メソポタミア文明の終焉の後に忘れ去られた楔形文字が近代に発見された際、
古代ペルシャ語、
次いでアッカド語が解読された。
しかし、
楔形文字がアッカド語などセム系言語の音価特性を区別しないことなどから、
この文字が異なる言語のために発明されたものであることが予想された。
そして
西暦1869年にフランスの学者ジュール・オッペールがこの楔形文字を発明した未知の民族をシュメール人と名付け、
この名称が定着した。
前史
いわゆるシュメール人がいつごろ、
どのようにして南部メソポタミアに定着するようになったのか、
また彼らが最初の居住者であったのかなどはわかっていない。
彼らは楔形文字を発明し、
古代エジプト人と並んで人類の中でもっとも古い歴史記録を残した人々であったが、
それでも具体的な歴史を把握できるようになるのは紀元前2500年ごろ以降に限られる。
このシュメール人の起源をめぐる未解決の課題は「シュメール人問題」と称される。
ウバイド文化
ウバイド文化(Ubaid culture)はシュメール地方に誕生した先史文化。
開始時期に関しては、紀元前6500年、紀元前6000年、紀元前5500年などいくつかの記事がある。
イラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイド(al-`Ubaid)という
遺丘で発見された、
西アジアのより広い範囲では、
先土器新石器時代が終わる紀元前6000年ごろまでに、
コムギ・オオムギなどの栽培とヤギ・ヒツジなどの家畜化が進展し、
農耕・牧畜に基盤を置く社会が成立していた。
ウバイド期にはのちのシュメールの神殿建築
(*****ジッグラト)に連なる神殿の建設が始まっている。
ウバイド文化は南
メソポタミアの定住農耕民の文化の基層を成し、
さらに南
メソポタミア外の地域へも拡散した。
この文化はメソポタミア南部の沖積平野での最古の文化で、
紀元前6500年ごろからメソポタミアに広がり始め、
紀元前4000年ごろから始まるウルク文化へと引き継がれた。
ただし、
ウルク文化のようなシュメール文化との関連がみられるといっても、
ウバイド文化の担い手とシュメール人との関連性は不明である。
灌漑農業の導入による農業の飛躍的発展、車輪の導入、
銅器時代などがウバイド期に始まっている。
ウルク期
ウバイド期に続くウルク期(紀元前3500年ごろ - 紀元前3100年ごろ)の中盤から後期にかけて、
本格的な都市が誕生していく。
ウルク期の代表的な都市が、
その分類名の由来ともなった南
メソポタミアの都市
ウルクであり、
当時人口数万人を数えた。
ウルク期には
西アジアにおける南部
メソポタミアの優位性が明確なものとなり、
ウルク文化がメソポタミア全域へと拡散した。
北
メソポタミア各地に南部
メソポタミアからの移住者による植民都市・前哨地が形成され、
資源取引の拠点とされた。
また、
ウルク期の後期には都市ウルクで初めて粘土板に記号を刻むことによる記録システムが登場した。
この最初期の文字(ウルク古拙文字)は非常に絵文字的な文字であり、
現代の学者はそれが表しているモノをある程度理解することが可能である。
ああ