天乙(紀元前1600年頃)は、古代中国の殷王朝(商王朝)の初代王。 生没年不詳。
始祖、契(せつ)より数えて14世にあたるという。
『史記』には成湯、天乙といい、『詩経』には武湯、湯、武王ともいうが、甲骨文では唐、大乙、高祖乙などとよばれている。
父は主癸。
子に外丙。
名は履。姓・諱を合わせ、子履(しり)ともいう。
殷墟出土の甲骨文占卜には、大乙、名は唐、成と見える。
湯王(湯)、太乙、成湯、成唐とも呼ばれる。
それまでの勢力を制圧し中原の覇権を得て、亳に王都を築営した。
天乙は夏の最後の桀を追放し夏を滅ぼした。
桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。
夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした(鳴条の戦い)。
書経には桀を滅ぼす時に諸侯に向けて演説したとされる『湯誓』がある。
天乙は夏の禹、周の文王、武王と並び聖王として後世に崇められている。
徳は高く鳥や獣にまで及ぶと言われた 。
湯王が夏を滅ぼしたのち七年間も大日照りが続き洛川は枯れてしまった。
そこで湯王は桑林まで出かけて神を祀り爪と髪を切り、
みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願した。
するとたちまちのうちに大雨が降り国中が潤ったのであった。