小窓
後奈良天皇(ごならてんのう)

作成日:2020/6/20

後奈良天皇は、日本の第105代天皇。
後柏原天皇の第二皇子。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第105代天皇 後奈良天皇(ごならてんのう)

[在位] 大永6年4月29日(西暦1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(西暦1557年9月27日)《紀》
[生没] 明応5年12月23日(西暦1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(西暦1557年9月27日)61歳没 《紀》
[時代] 戦国時代
[先代] 後柏原天皇
[次代] 正親町天皇
[陵所] 深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)。深草十二帝陵
[追号] 後奈良院
[いみな] 知仁(ともひと)
[父親] 後柏原天皇
[母親] 勧修寺教秀の娘、勧修寺藤子(かじゅうじ ふじこ)。院号:豊楽門院(ぶらくもんいん)。
[皇居] 京都御所

年譜

天皇の系譜(第96代から第105代)
明応5年(西暦1497年)
12月23日(1月26日) 降誕
(西暦)
() 元服
(西暦)
() 
() 
天文5年(西暦1535年)
2月26日(3月29日) 即位礼
(西暦)
() 大嘗祭
弘治3年(西暦1557年)
9月5日(9月27日) 崩御。於:
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
() 
() 
(西暦)
() 
() 

生涯

明応5年12月23日(1497年1月26日)、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。 大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。 後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた[1]。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。 弘治3年(1557年)9月5日、崩御。宝算61。

人物

慈悲深く、天文9年(1540年)6月、 疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には

今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬

大意:
このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。
人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。
大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。
(略)
これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。

との悲痛な自省の言を添えている。 この写経は大覚寺と醍醐寺のほか、 24か国の一宮に納められたと伝わっている。 三河国伊豆国甲斐国安房国越後国周防国肥後国のものが現存している。

また、天文14年(西暦1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願すると同時に大嘗祭が催行できないことを
「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく、 国力の衰退によるものです。 いまこの国では王道が行われれず、聖賢有徳の人もなく、 利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。 このうえは神の加護を頼むしかなく、 上下和睦して民の豊穣を願うばかりです。」
という趣旨で謝るなど、 天皇としての責任感も強かった。

三条西実隆、吉田兼右らに古典を、 清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。 御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、 日記『天聴集』を残している。 さらに、なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』(ごならいんぎょせんなぞ、ごならいんごせんなぞ)は、 貴重な文学資料でもある。

后妃・皇子女

諡号・追号・異名

「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている[6]。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。

後世の評価

皇太子徳仁親王は平成29年(2017年)の誕生日前の記者会見で、上記の後奈良天皇による般若心経奥書を西尾市岩瀬文庫で見た思い出に言及。同様に疫病に苦しんだ民を思いやり、般若心経を写経し奉納した嵯峨天皇など7人の天皇とともに、国民に寄り添う模範として挙げた[7]。


後柏原天皇 [← 先代天皇]  [次代天皇 →] 正親町天皇