小窓
タラス河畔の戦い

作成日:2023/10/12

タラス河畔の戦い(中国語: 怛羅斯會戰)は、 西暦751年A.H.133年、天宝10載)5月から9月にかけて、 中央アジアのタラス地方(現在のキルギス共和国ジャンプイル付近)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦闘である。 唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラム化が始まった。 製紙法が技術的に出遅れていた西方に伝来する契機となった。

戦闘

西暦751年7月、 ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、 天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。 戦いの最中、唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったため、 唐軍は壊滅し数千人を残すのみとなった。 高仙芝自身は、部下の李嗣業がフェルガナの軍中に血路を開くことで撤退には成功したものの、 多くの兵士が捕虜となった。

唐側の被害は甚大で、 イブン・アル=アスィールの『完史』によると、 アッバース朝軍は「唐軍5万人を殺し、2万人を捕らえた」という。

戦いの影響

この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、 ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。

唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、 まもなく起こった安史の乱の際はかつての敵国であるアッバース朝からアラブ人の援軍を送られるまで弱体化した唐の中央アジア支配は後退していった。 高仙芝と李嗣業は安史の乱で活躍するものの、 両者とも非業の死を遂げた。

中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、 サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。