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朝鮮戦争

作成日:2024/6/1

朝鮮戦争  西暦1950年6月25日 - 西暦1953年7月27日

朝鮮戦争は、 第二次世界大戦後に独立し、 その直後に分断国家となった大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で勃発した、 朝鮮半島の主権を巡る国際紛争である。

ソ連崩壊を受けて公開された機密文書によると、 西暦1950年6月25日に、 ソ連のヨシフ・スターリンと中国の毛沢東の同意と支援を取り付けた金日成率いる北朝鮮が、 事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け、 勃発した。 分断国家朝鮮の両当事国、 北朝鮮と韓国のみならず、 東西冷戦の文脈の中で西側諸国を中心とした国連軍と東側諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、 3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。 西暦1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、 北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、 南北二国の分断状態が続くこととなった。

終戦ではなく休戦状態であるため、 名目上は西暦2020年代においても戦時中であり、 南北朝鮮の両国間、 及び北朝鮮とアメリカ合衆国などの国連軍との間に平和条約は締結されていない。 西暦2018年4月27日、 板門店で大韓民国大統領文在寅と北朝鮮朝鮮労働党委員長金正恩との間で第3回南北首脳会談が開かれ、 西暦2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、 実現には至らなかった。

年表

西暦1910年
  •   8月29日:韓国併合。朝鮮総督府設置(韓国統監府改組)
西暦1950年
西暦1951年
西暦1945年
西暦1945年
  • (この年)

概要

第二次世界大戦中の西暦1943年11月に、 連合国はカイロ宣言において、 西暦1910年より日本が併合し、 統治下であった朝鮮半島一帯を、 大戦終結後は自由独立の国とすることを発表した。 西暦1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて、 米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された。

西暦1945年8月8日よりソ連対日宣戦により満洲国に侵攻したソ連軍は、 8月13日に当時日本領であった朝鮮の清津市に上陸していたが、 ソ連と共に連合国を構成していたアメリカは、 西暦1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、 ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、 ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。 ソ連はこの提案を受け入れ、 朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。

西暦1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、 朝鮮は解放された。 その後8月24日に平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、 既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施した。 一方、朝鮮半島南部では、 9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を開始。 朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、 朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や半島外から戻った左翼と右翼が衝突する不安定な情勢を迎えた。

その後、 米ソ対立を背景に西暦1948年8月15日、 南部に大韓民国が建国され、 翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。 南北の軍事バランスは、 ソ連および西暦1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。 武力統一支配(赤化統一)を目指す金日成率いる北朝鮮は西暦1950年6月、 ソ連のスターリンの同意と支援を受けて、 事実上の国境であった38度線を越えて侵略戦争を起こした。

侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、 イギリスやフィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギーやタイなどの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦。 北朝鮮側にソ連が参戦すると米ソ間で第三次世界大戦が起こりかねないので北朝鮮側には抗美援朝義勇軍が加わった。 ソ連は武器調達や訓練などで支援したほか、 戦闘パイロットを秘密裏に参戦させたので実際には間接的に米ソが衝突していた。

本項では、 停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、 同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。
また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。
これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、 両国家とも建国以来現在に至るまで、 「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、 あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。

北朝鮮の奇襲攻撃

西暦1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、 北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。 宣戦布告は行われず、 北朝鮮の平壌放送は「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、李承晩政権から、韓国人民を解放する」と宣言した。 30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、 約10万の兵力が38度線を越える。 また、東海岸道においては、 ゲリラ部隊が工作船団に分乗して江陵南側の正東津と臨院津に上陸し、 韓国軍を分断していた。 朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、 状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。

前線の韓国軍では、 一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、 農繁期であったこともあり、 大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。 また、 首都ソウルでは、 前日に陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。 このため李承晩への報告は、 奇襲から6時間も経ってからとなった。 さらに韓国軍には対戦車装備がなく、 ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、 各所で韓国軍は敗退した。

開城・汶山方面の第1師団、春川・洪川方面の第6師団、 東海岸の第8師団は奇襲攻撃を受けながらも健闘した。 特に第6師団は北朝鮮軍第2軍団の春川攻略を遅らせ、 これによって6月25日中に春川を占領し、 漢江沿いに水原に突進して第1軍団とともに韓国軍主力をソウル周辺で殲滅するという計画を大きく狂わせることになった。 マシュー・リッジウェイは「良く戦闘の準備をしていたこれら少数の韓国軍部隊のすさまじい勇気がなかったならば、1日ないし2日の貴重な時間が失われ、被害はさらに甚大なものとなったであろう。」と評している。

連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、 日本の占領統治に集中していた為、 朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。 奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。

トルーマン大統領も、 ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。 ただちに安保理の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、 トルーマンの関心は、 当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。 まずはアメリカ人の韓国からの出国、 および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、 すぐには軍事介入を命じなかった。 2日後には台湾不介入声明 を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動した。

朝鮮人民軍

朝鮮人民軍は、 西暦1948年2月8日に創設された、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊である。

朝鮮人民軍朝鮮民主主義人民共和国の軍)は、 朝鮮人民の完全な開放、朝鮮半島の統一、国家の人民の安全、社会主義建設、海外勢力の支援の5つの役割を持つ軍隊である。 朝鮮人民軍は陸軍、海軍、空軍、戦略軍、特殊作戦軍の5つを擁している。

日本のメディアからは北朝鮮軍(きたちょうせんぐん)とも呼ばれている。 韓国では北韓軍(プッカングン)と呼ばれる。 また、かつては北傀軍(プッケグン)という表現もあった。

李承晩

李 承晩(り しょうばん、イ・スンマン)  西暦1875年3月26日 - 西暦1965年7月19日

李承晩は、 朝鮮の独立運動家で、 大韓民国の初代大統領(在任:西暦1948年 - 西暦1960年)。 本貫は全州李氏。 号は「雩南」(ウナム)。字は「承龍」(スンニョン)。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、 これは韓国では語頭子音の脱落が起こるためである。 韓国でも西暦1950年代以前には「リ・スンマン」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。

国連の非難決議

西暦1950年6月27日に開催された安保理は、 北朝鮮を侵略者と認定、 その行動を非難し、 軍事行動の停止と軍の撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」が可決された際は賛成したのは9カ国で反対国はおらず、 唯一棄権したのは社会主義国で当時ソ連と対立していたユーゴスラビアだった。 拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、 当時国際連合において「中国」を代表していた中華民国の中国国民党政府と、 前年に誕生した中華人民共和国の中国共産党政府の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、 この年の1月から安保理を欠席していた。

しかしスターリンには、 この安保理決議が通過するのを黙認することで、 アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、 ヨーロッパにおける共産主義を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。 これらのことは西暦1950年8月27日付のスターリンからチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に宛てられた極秘電文によって、 現在では明らかになっている。

決議後、 ソ連代表のヤコフ・マリクは、 国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、 スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。 これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。

保導連盟事件

保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)は、 朝鮮戦争の最中である西暦1950年6月25日、 韓国国軍、韓国警察、李承晩大統領支持者らが、 共産主義からの転向者やその家族を再教育するためとして設立されていた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。 韓国では保導協会員虐殺事件とも呼ばれる。

被害者は公式に確認されているもので4934人、 20万人から120万人とする主張もある。 西暦1960年の四月革命直後に、 この事件の遺族会である全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに報告書を作成したが、 その報告書は虐殺された人数を114万人としている。

韓国では近年まで事件に触れることがタブー視され、 この事件自体が表に出ることはなかったが、 西暦1990年代末に、 韓国各地で被害者の遺体が発掘され、 実際にあった事件であることが確認された。 「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」と言われてきたが、 西暦2009年11月 、 真実和解のための過去史整理委員会を通じて、 韓国政府は、韓国軍、警察という韓国の国家機関が主導して民間人が虐殺され犠牲になったことを確認したと発表した。

漢江人道橋爆破事件

漢江人道橋爆破事件(かんこうじんどうきょうばくはじけん)   発生:西暦1950年6月28日2時30分

西暦1950年6月25日に朝鮮戦争が始まったが、 韓国側はこの自体を予想していなかったため、 2日後の6月27日には朝鮮人民軍がソウルに迫ってきた。 韓国軍は自らの退却と、 朝鮮人民軍の侵攻を阻むために、 約4000名の避難民が渡っていた漢江人道橋(現在の漢江大橋)を爆破し、 500人から800人と推測される兵士や警官それと避難民たちが犠牲になった事件である。

事件から60年を経た西暦2010年6月28日、 韓国では事件以来、 初となる慰霊祭が民間団体によって行われた。
現在に至るまで、 事件犠牲者の慰霊碑すら建立されていないため、 建設を要求する動きもある。

烏山の戦い

烏山の戦い(オサンのたたかい)は、 朝鮮戦争中の西暦1950年7月5日に京畿道烏山付近を戦場としてアメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。
アメリカと北朝鮮の地上軍同士が初めて本格的に衝突した戦闘として知られている。

戦闘に至る経緯

西暦1950年6月25日早朝より北朝鮮軍の全面侵攻が開始されたことを受けて、 ダグラス・マッカーサー元帥を司令官とするアメリカ極東軍(Far East Command)司令部は、 6月27日夕刻、 第4部副部長であったジョン・H・チャーチ准将および12名の班員を韓国に進出させ、 前進指揮所兼連絡班(ADCOM)としていた。 6月28日のソウル陥落、 および東海岸道・中央道の状況から、 6月チャーチ准将は、 6月米地上軍を投入するよう、 極東軍司令部に具申した。 マッカーサー元帥はこれを是認し、 6月30日早朝3時、 ワシントンに対して許可を求めた。 同6月30日4時57分、 トルーマン大統領はこれを許可した。

このとき、 極東陸軍の主力は、 ウォルトン・ウォーカー中将を司令官とする第8軍であり、 その戦力は、 北海道・東北の第7歩兵師団、 関東の第1騎兵師団、 関西の第25歩兵師団、 九州の第24歩兵師団であった。 マッカーサー元帥は、 第24師団の全力と、 第25師団のうち第27連隊戦闘団を朝鮮半島に投入するよう指示した。 第24師団の出動は6月30日夜には下命された。 この命令では、 大隊長指揮の2個中隊を先遣してチャーチ准将の指揮下に入れるように指示されていた。

第24師団長(ウィリアム・F・ディーン少将)は、 先遣隊の指揮官として、 練度・士気の面から、 熊本の第21連隊第1大隊長 チャールズ・B・スミス中佐 (Charles B. Smith,) を指名した。 この先遣隊はスミス中佐の名前からスミス支隊(Task Force Smith)と呼ばれ、 兵力は440名、 同大隊の主力(大隊本部中隊の半数、B中隊、C中隊、75mm無反動砲小隊、107mm迫撃砲小隊)によって編成されていた。 スミス支隊の各員は小銃1丁につき120発の弾薬と2日分の食料を携行していたが、 空輸上の問題から、 無反動砲小隊と迫撃砲小隊は、 それぞれ定数の半分の砲(それぞれ2門ずつ)しか輸送できなかった。 スミス支隊は、 7月1日、 C-54輸送機によって韓国釜山に到着し、 翌7月2日には大田に移動した。

7月2日午前、 大田において、 スミス中佐はチャーチ准将に申告した。 チャーチ准将は、 スミス支隊に対して、 平沢-安城の線を確保するように命令した。

一方、 第24師団主力の移動も開始されており、 師団長ディーン少将は、 7月3日午前10時に大田に到着し、 在韓米軍(USAFIK)の指揮官に任ぜられた。 ディーン少将はチャーチ准将の措置を是認したが、 スミス支隊のみでは阻止線として不十分であると考え、 さらに第34連隊の北上を急がせるように指導した。 第34連隊の到着は7月5日朝と予定され、 これでは展開の時間が不足であることから、 スミス支隊はさらに前進して、 第34連隊の展開する間、 敵を遅滞するよう命じられた。

戦闘の展開

西暦1950年7月4日午後、 スミス支隊は平沢で集結し、また、支援に来た第52野砲大隊を掌握したのち、5日午前3時、水原南方の烏山近くの高地に進出した。第52野砲大隊は、ミラー・O・ペリー中佐によって指揮されて、本部管理中隊の半数とA中隊から編成されており、M2 105mm榴弾砲 6門、榴弾 1,200発、人員 134名を有していた。ただし、対戦車榴弾は、合計で6発しか配布されていなかった[要出典]。

5日午前7時30分、8両のT-34-85戦車を先頭にした縦隊が南下するのを視認し、午前8時16分、砲兵部隊は距離3,600メートルで初弾を発射した[要出典]。これは、朝鮮戦争においてアメリカ軍が発射した初弾である。射撃開始から間もなく命中弾を得たが、効果は認められなかった。一方、スミス支隊は、距離630メートルにおいてM20 75mm無反動砲の射撃を開始し、多数の命中弾を得たものの、これも効果は無かった。さらにオリイ・D・コーナー中尉は、自ら戦車の後方に回り込んで60mmバズーカを発射し、実に22発を撃ち込んだものの、目に見える効果は得られなかった。これは、炸薬が劣化していたためとされている。さらに前進した戦車に対して、砲兵の対戦車専任砲が射撃を開始し、2両を撃破したものの、この射撃で対戦車榴弾を撃ちつくし、後続車によって破壊されてしまった。戦車部隊はさらにスミス支隊歩兵部隊の陣地を突破して、前進していった。この戦車部隊は第107戦車連隊であり、最後の戦車が通過したのが午前11時15分ごろであった。

一方、午前10時ごろより、戦車3両に先導されて、北朝鮮軍第4師団第16, 18連隊が前進してきた。スミス支隊歩兵部隊は、距離900メートルで射撃を開始し、北朝鮮軍もこれに対応して展開した。スミス支隊は第52野砲大隊に対して射撃を要請しようとしたが、有線通信は戦車によって切断され、また無線機も不通になっていたため、適切な火力支援を受けることができなかった。正午ごろには、スミス支隊は両翼より包囲されつつあり、スミス中佐は陣地正面を縮小して対応したが、北朝鮮軍の機関銃部隊は東側の高地に展開して瞰射しはじめた。午後2時30分ごろより、北朝鮮軍は包囲の環を縮めはじめた。砲兵部隊からの応答はなく、全滅したものと考えられ、また、悪天候であり航空支援も期待できなかったことから、スミス中佐は後退を決心した。

スミス中佐は、B, C中隊を交互に後退させて相互に掩護するように措置した。しかし、支援火力がなかったことから後退には難渋し、後方に進出していた重機関銃の射撃を受けて壊乱、部隊としての組織を失ってしまった。スミス中佐は、殿のB中隊の後退準備を見届けたのち、砲兵とともに後退した。

この戦闘で、スミス支隊は150名の人員を喪失し、また無反動砲と重迫撃砲の全数を遺棄した。砲兵も全砲を遺棄して後退し、また人員31名が行方不明となった。

戦闘の影響

烏山が突破されたのち、平沢-安城を確保していた第34連隊も壊乱に近い状態で後退することとなり、ディーン少将が企図した最初の阻止線は大した抵抗も示さずに放棄されることとなってしまった[要出典]。

このとき、東方においては、韓国軍が遅滞戦闘を展開していたが、戦車が出現しなかったこともあり、しばしば待ち伏せ攻撃を仕掛けて、北朝鮮軍の前衛部隊に大損害を与えていた。しかし、スミス支隊や第34連隊が次々に後退することから、韓国軍は常に左翼に危険を感じ、米軍にあわせて後退せざるをえなかった。[2]アメリカ第24師団はさらに大田の戦いでも大敗し、連合軍は、釜山をめぐる円陣陣地に追い詰められていくことになる。