西暦1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、
北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。
宣戦布告は行われず、
北朝鮮の平壌放送は「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と宣言した。
30分後には
朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、
約10万の兵力が38度線を越える。
また、東海岸道においては、
ゲリラ部隊が工作船団に分乗して江陵南側の正東津と臨院津に上陸し、
韓国軍を分断していた。
朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、
状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。
前線の韓国軍では、
一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、
農繁期であったこともあり、
大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。
また、
首都ソウルでは、
前日に陸軍庁舎
落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。
このため李承晩への報告は、
奇襲から6時間も経ってからとなった。
さらに韓国軍には対戦車装備がなく、
ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、
各所で韓国軍は敗退した。
開城・汶山方面の第1師団、春川・洪川方面の第6師団、
東海岸の第8師団は奇襲攻撃を受けながらも健闘した。
特に第6師団は北朝鮮軍第2軍団の春川攻略を遅らせ、
これによって6月25日中に春川を占領し、
漢江沿いに水原に突進して第1軍団とともに韓国軍主力をソウル周辺で殲滅するという計画を大きく狂わせることになった。
マシュー・リッジウェイは「良く戦闘の準備をしていたこれら少数の韓国軍部隊のすさまじい勇気がなかったならば、1日ないし2日の貴重な時間が失われ、被害はさらに甚大なものとなったであろう。」と評している。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、
日本の占領統治に集中していた為、
朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。
奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。
トルーマン大統領も、
ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。
ただちに
安保理の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、
トルーマンの関心は、
当時冷戦の最前線とみなされていた
ヨーロッパへ向いていた。
まずはアメリカ人の韓国からの出国、
および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、
すぐには軍事介入を命じなかった。
2日後には台湾不介入声明 を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動した。
朝鮮人民軍は、
西暦1948年2月8日に創設された、
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊である。
朝鮮人民軍(
朝鮮民主主義人民共和国の軍)は、
朝鮮人民の完全な開放、朝鮮半島の統一、国家の人民の安全、社会主義建設、海外勢力の支援の5つの役割を持つ軍隊である。
朝鮮人民軍は陸軍、海軍、空軍、戦略軍、特殊作戦軍の5つを擁している。
日本のメディアからは
北朝鮮軍(きたちょうせんぐん)とも呼ばれている。
韓国では
北韓軍(プッカングン)と呼ばれる。
また、かつては
北傀軍(プッケグン)という表現もあった。
李 承晩(り しょうばん、イ・スンマン)
西暦1875年3月26日 -
西暦1965年7月19日
李承晩は、
朝鮮の独立運動家で、
大韓民国の初代大統領(在任:
西暦1948年 -
西暦1960年)。
本貫は全州李氏。
号は「雩南」(ウナム)。字は「承龍」(スンニョン)。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、
これは韓国では語頭子音の脱落が起こるためである。
韓国でも
西暦1950年代以前には「リ・スンマン」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。