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アッバース朝

作成日:2023/10/10

アッバース朝(西暦750年-西暦1258年)は、 中東地域を最初に支配したウマイヤ朝アッバース革命で倒し、 アッバース家のカリフ支配が続いたイスラム帝国イスラム王朝である。 王朝名は一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。

西暦762年に建造された新都バグダードを中心に、 8世紀末に全盛期となり、 北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領域を支配した。

9世紀なかごろから地方に独立政権が生まれ、 イベリア半島・エジプトにもカリフが分立した。 バグダードでは実権はブワイフ朝の大アミール、 セルジューク朝・アイユーブ朝のスルタンに奪われ、 カリフ支配は形骸化した。 最後はモンゴルのフラグによって滅ぼされた。

首都の変遷

年表

西暦747年
西暦749年
  • 8月。 ムハンマドのあとを継いでアッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドはウマイヤ朝に捕えられ、 ハッラーンで処刑された。
    アッバース一族が、 密かにウマイヤ朝への反乱運動を指導しつつ、 フマイマ村に潜んでいることは、 ウマイヤ朝側の察知するところとなり、
    アッバース家の当主となったイブラーヒーム・イブン・ムハンマドはウマイヤ朝に処刑された。

    イブラーヒームの弟アブー・アル=アッバースら14人は脱出に成功し、クーファに潜入した。
  • 9月。 ホラーサーン軍(反ウマイヤ朝軍)は、 イラク中部都市クーファ降した。
  • 西暦749年10月30日/西暦749年11月28日。 ホラーサーン軍によってアブー・アル=アッバース(サッファーフ)がカリフとして推戴された。 アブー=アル=アッバース(サッファーフ)は初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
西暦750年
  • 1月。 ウマイヤ朝のマルワーン2世はイラク北部の大ザーブ河畔でホラーサーン軍に抵抗するが(ザーブ河畔の戦い)、 西暦750年1月に大敗し、エジプトで殺害され、 アッバース朝が建国された。
    ウマイヤ朝の都ダマスカス西暦750年4月に陥落し、 ウマイヤ朝の王族のほとんどが殺害された。
    このとき辛うじて逃亡に成功したアブド・アッラフマーンはイベリア半島に奔り、 この地に後ウマイヤ朝を建てることになる。
  • アッバース革命
西暦751年
西暦756年
  • 後ウマイヤ朝が建国。
8世紀 - 10世紀
  • 分裂
西暦945年
  • ブワイフ朝がバグダード入城したことで実質的な権力を失った。
    西暦946年説もある。
    その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。

西暦1055年
  • セルジューク朝は、ブワイフ朝を滅ぼしバグダード入城。
    アッバース朝はセルジューク朝の庇護下に入る。

西暦1258年
  • モンゴル帝国により滅亡。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護される。
西暦1261年
  • マムルーク朝の保護
西暦1517年
  • オスマン帝国により断絶

概要

イスラーム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、 最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。 アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、 すべてのムスリムに平等な権利が認められ、 イスラム黄金時代を築いた。

東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、 首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。 また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、 それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。

アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、 アラビア、ペルシャ、ギリシャ、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、 学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。 イスラーム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

アッバース朝は10世紀前半には衰え、 西暦945年西暦946年説もある)にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、 その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。 西暦1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、 西暦1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。 しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、 西暦1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。

イスラーム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。 後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、 アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

歴代カリフ

バグダード・アッバース朝
名前在位備  考
サッファーフ 750年 754年
マンスール 754年 775年 首都バグダードを造営。
マフディー 775年 785年
ハーディー 785年 786年
ハールーン・アッ=ラシード 786年 809年 最盛期を達成。
アミーン 809年 813年
マアムーン 813年 833年 知恵の館を設立。
ムウタスィム 833年 842年
ワースィク 842年 847年
ムタワッキル 847年 861年
ムンタスィル 861年 862年
ムスタイーン 862年 866年
ムウタッズ 866年 869年
ムフタディー 869年 870年
ムウタミド 870年 892年
ムウタディド 892年 902年
ムクタフィー 902年 908年
ムクタディル 908年 932年
カーヒル 932年 934年
ラーディー 934年 940年
ムッタキー 940年 944年
ムスタクフィー 944年 946年
ムティー 946年 974年
ターイー 974年 991年
カーディル 991年 1031年
カーイム 1031年 1075年
ムクタディー 1075年 1094年
ムスタズィール 1094年 1118年
ムスタルシド 1118年 1135年
ラーシド 1135年 1160年
アル=ムクタフィー 1136年 1160年
ムスタンジド 1160年 1170年
ムスタディー 1170年 1180年
ナースィル 1180年 1225年
ザーヒル 1225年 1226年
ムスタンスィル 1226年 1242年
ムスタアスィム 1242年 1258年

カイロ・アッバース朝
名前在位備  考
ムスタンスィル2世 1261年 1262年
ハーキム1世 1262年 1302年
ムスタクフィー1世 1302年 1340年
ワースィク1世 1340年 1341年
ハーキム2世 1341年 1352年
ムゥタディド1世 1352年 1362年
ムタワッキル1世 1362年 1377年 第1期
ムウタスィム 1377年 1377年 第1期
ムタワッキル1世 1377年 1383年 第2期
ワースィク2世 1383年 1386年
ムウタスィム 1386年 1389年 第2期
ムタワッキル1世 1389年 1406年 第3期
ムスタイーン 1406年 1414年
ムウタディド2世 1414 1441年
ムスタクフィー2世 1441年 1451年
カーイム 1451年 1455年
ムスタンジド 1455年 1479年
ムタワッキル2世 1479年 1497年
ムスタムスィク 1497年 1508年 第1期
ムタワッキル3世 1508年 1516年 第1期
ムスタムスィク 1516年 1508年 第2期
ムタワッキル3世 1517年 1517年 第2期

歴史

前史

ウマイヤ朝末期、 ウマイヤ家によるイスラーム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、 ムハンマドの一族の出身者こそがイスラーム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。 このシーア派の運動はペルシャ人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、 現在でも中東の大問題として尾を引いている。

また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシャ人などの非アラブ人ムスリムとの対立があった。 ウマイヤ朝では非アラブ人ムスリムはマワーリーと呼ばれ、 イスラーム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、 アラブ人と同等の権利を認められなかった。 この差別待遇はイスラームの原理にも反するものであり、 ペルシャ人などの間には不満が高まっていた。

ザーブ河畔の戦い

こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において、 西暦747年に、 反体制派のアラブ人シーア派の非アラブ人ムスリム(マワーリー)である改宗ペルシャ人からなる反ウマイヤ朝軍が蜂起した。
西暦749年9月、 反ウマイヤ朝軍はイラク中部都市クーファに入城し、 アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。
翌、西暦750年1月、 アッバース軍が「ザーブ河畔の戦い」でウマイヤ朝軍を倒し、 アッバース朝が建国された。

ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、 第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、 モロッコまで逃れた。
彼は後にイベリア半島に移り、 西暦756年にはコルドバで「後ウマイヤ朝」を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

アッバース革命

シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、 安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、 シーア派を裏切りスンナ派に転向した。 この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、 アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。

弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、 イラクで大きな勢力を持つ非アラブ人ムスリムのペルシャ人の支持を取り付ける事が必要であったため、 クルアーンの下でイスラーム教徒が平等であることが確認され、 非アラブ人ムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、 アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、 差別が撤廃された。

アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラーム教の教理に基づく統治を実現し、 秩序の確立を図った。 征服王朝のアラブ人帝国が、 イスラーム帝国に姿を変えたこのような変革を「アッバース革命」という。 アッバース革命は、イスラーム教、 シャリーア(イスラム法)、 アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

アッバース朝の最盛期

建国の翌年の西暦751年に、 アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、 シルクロードを支配下に置いた。 その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。 一方で、西暦756年に後ウマイヤ朝が建国され、 マンスールの軍が敗北したことでイスラーム世界の統一は崩れることとなった。 また、マンスール治世の晩年、 西暦776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。

第2代カリフマンスールは、 首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフ・アリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、 ティグリス河畔のバグダード(ペルシャ語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、 西暦762年から新都を造営した。 この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。 また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシャ人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、 権力基盤を固め、 集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。 また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。

アッバース朝のカリフは、 それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、 「信徒たちの長」に加えて、 「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、 単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、 神権的な指導者としての権威を確立していった。 一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、 カリフ無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、 スンナ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。

第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、 バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。 その人口は150万人を超え、 市内には6万のモスク、 3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。 バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、 ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。 一方で地方支配は緩みを見せ始め、 西暦789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、 西暦800年にはチュニジアのカイラワーンに、 アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、 実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、 マグリブがアッバース朝統治下から離れた。

衰退への道

ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、 弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して西暦809年に死去したが、 2年後の西暦811年、 兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、 西暦813年バグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、 マアムーンと名乗ってカリフに就任した。 しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、 そのためにバグダードは安定を失った。 西暦819年には帝国統治のためマアムーンがバグダードに戻るが、 ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、 ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。

第7代カリフのマアムーンはギリシャ哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。 彼はバグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、 ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシャ語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。 翻訳されたギリシャ諸学問のうち、 アリストテレスの哲学はイスラーム世界の哲学、 神学に影響を与えた。

その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、 学問研究と教育の場として機能した。 バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。

マアムーンが死ぬと、 西暦836年に弟のムウタスィムが即位した。 彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、 アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、 この軍はバグダード市民と対立したため、 西暦836年バグダード北方に新首都サーマッラーを造営して遷都を行った。 しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、 アッバース朝の権威は低下していく。 第10代カリフのムタワッキル没後は無力なカリフが頻繁に交代するようになり、 衰退はさらに進んだ。 西暦868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。

西暦869年カリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、 独立政権を10年以上存続させる反乱となり、 カリフの権威を損ねることとなった。

政治的混乱

9世紀後半になると、 多くの地方政権が自立し、 カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。 西暦892年にはサーマッラーからふたたびバグダードへと遷都を行ったが、 勢力は衰退を続けた。

10世紀になると、 北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、 イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、 イスラーム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。 さらに西暦945年、 西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、 アッバース朝カリフの権威を利用し、 「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。 これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、 政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。

そうしたなかで、 イスラーム世界の政治的統合は崩れ、 地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。 長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、 中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。

西暦1055年に入ると、 スンニ派の遊牧トルコ人の開いたスンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、 カリフからスルタンの称号を許されて、 イラク・イランの支配権を握ることとなった。

アッバース朝のイラク支配回復

詳細は「ムスタルシド」、「ムクタフィー (12世紀)」、および「ナースィル」を参照

11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、 西暦1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、 アッバース朝もその庇護下に入る。 しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、 これを好機と見た第29代カリフ、ムスタルシド、 第31代カリフ、 ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、 イラク支配の回復を目指した。 第34代カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、 西暦1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。 これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、 ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。

モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡

詳細は「チンギス・カンの西征」および「フレグの西征」を参照

西暦1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、 モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、 モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえでバグダードを攻略させた(バグダードの戦い、西暦1258年1月29日 - 2月10日)。 西暦1258年、 当時のカリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、 長男、次男と共に処刑された。 その後、7日間の略奪により、バグダードは破壊された。 バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。 ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。

バグダード・アッバース朝の滅亡後

カイロ・アッバース朝のカリフ存続

西暦1261年、 アッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィルが遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、 この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。 カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、 これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。 これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、 彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンの手厚い保護を受けることができた。

カイロ・アッバース朝の滅亡

西暦1517年、 オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、 最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、 行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどを伴ってイスタンブールに移住した。 このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。 アッバース家のカリフの存在は、 2世紀を経て、エジプトのムスリムのなかに根を下ろすようになったとみるべきであろう。

その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、 西暦1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。 歴史家のイブン・イヤースはこの滅亡の経緯について、 「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。


無謬(むびゅう)

あやまりがないこと。間違っていないこと。また、そのさま。

ザーブ川の戦い

西暦750年、ウマイヤ朝の軍が新興のアッバース朝の軍に敗れ、 ウマイヤ朝滅亡の直接の原因となった戦い。

イラク北部の都モスルの南、 チグリス川に東方から合流する支流ザーブ川の左岸で行われた。

サーマッラー

イラク中央部、サラーフウッディーン県の県都。 バグダード北北西約 110km、チグリス川沿岸に位置する。 紀元前5千年紀の遺跡が存在するが、町は3~7世紀の間につくられたもの。

西暦836年にアッバース朝8代のカリフ・ムータシムがバグダードからこの地に遷都、広大な宮殿を建築した。 10代のカリフ、ムタワッキルもイスラム最大といわれるモスク (9世紀) を建てている 。 現在は廃虚となっているが、その北端のマルウイーヤのミナレットは、 螺旋状をなしていて有名。

紀元前892年にカリフのムータミドのときに再びバグダードに遷都され、 急速に衰退、西暦1300年頃には廃虚となった。 市内には 10~11世紀の預言者の墓を含むシーア派の廟などが残っている。 シーア派イスラム教徒の巡礼の中心でもある。 洪水調節用の堰があり、水路でサルサール湖に導いている。

西暦2007年考古都市サーマッラーとして世界遺産の文化遺産文化遺産に登録。 人口 21万 4100 (2004推計) 。