前史
ウマイヤ朝末期、
ウマイヤ家による
イスラーム教団の私物化は
コーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、
ムハンマドの一族の出身者こそが
イスラーム教団の指導者でなければならないと主張する
シーア派の反発が広がった。
この
シーア派の運動はペルシャ人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、
現在でも中東の大問題として尾を引いている。
また、このほかにも
アラブ人と改宗したペルシャ人などの非
アラブ人ムスリムとの対立があった。
ウマイヤ朝では非
アラブ人ムスリムはマワーリーと呼ばれ、
イスラーム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、
アラブ人と同等の権利を認められなかった。
この差別待遇は
イスラームの原理にも反するものであり、
ペルシャ人などの間には不満が高まっていた。
ザーブ河畔の戦い
こうした不満を受けてイラン東部のホラーサーン地方において、
西暦747年に、
反体制派の
アラブ人と
シーア派の非
アラブ人ムスリム(マワーリー)である改宗ペルシャ人からなる反
ウマイヤ朝軍が蜂起した。
西暦749年9月、
反
ウマイヤ朝軍はイラク中部都市クーファに入城し、
アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代
カリフとする新王朝の成立を宣言した。
翌、
西暦750年1月、
アッバース軍が「ザーブ河畔の戦い」で
ウマイヤ朝軍を倒し、
アッバース朝が建国された。
ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、
第10代
カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、
モロッコまで逃れた。
彼は後にイベリア半島に移り、
西暦756年にはコルドバで「後ウマイヤ朝」を建国してアブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。
アッバース革命
シーア派の力を借りて
カリフの座についたサッファーフは、
安定政権を樹立するには
アラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、
シーア派を裏切り
スンナ派に転向した。
この裏切りは
シーア派に強い反発を潜在させ、
アッバース朝の下で
シーア派の反乱が繰り返される原因となった。
弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、
イラクで大きな勢力を持つ非
アラブ人ムスリムのペルシャ人の支持を取り付ける事が必要であったため、
クルアーンの下で
イスラーム教徒が平等であることが確認され、
非
アラブ人ムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、
アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、
差別が撤廃された。
アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどして
イスラーム教の教理に基づく統治を実現し、
秩序の確立を図った。
征服王朝の
アラブ人帝国が、
イスラーム帝国に姿を変えたこのような変革を「
アッバース革命」という。
アッバース革命は、
イスラーム教、
シャリーア(イスラム法)、
アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。
アッバース朝の最盛期
建国の翌年の
西暦751年に、
アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍を
タラス河畔の戦いで破り、
シルクロードを支配下に置いた。
その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互に接続する大交易路が成立した。
一方で、
西暦756年に後ウマイヤ朝が建国され、
マンスールの軍が敗北したことで
イスラーム世界の統一は崩れることとなった。
また、マンスール治世の晩年、
西暦776年には北アフリカのターハルト(en)にルスタム朝が成立した。
第2代カリフマンスールは、
首都ハーシミーヤが
シーア派が崇拝する第4代正統
カリフ・アリーの故都クーファに近いことから
シーア派の影響力が高まることを恐れ、
ティグリス河畔の
バグダード(ペルシャ語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、
西暦762年から新都を造営した。
この新都の正式名称はマディーナ・アッ=サラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。
また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシャ人のホラーサーン軍を
カリフの近衛軍とすることで、
権力基盤を固め、
集約的官僚制や、
カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。
また、マンスールはサーサーン朝の旧首都クテシフォンに保存されていた学問を大規模に
バグダードに移植した。
アッバース朝の
カリフは、
それまでの
カリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、
「信徒たちの長」に加えて、
「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、
単なる
イスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、
神権的な指導者としての権威を確立していった。
一方で、
カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、
カリフに
無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、
スンナ派の指導者としての
カリフの特性が現れている。
第5代
カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、
バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。
その人口は150万人を超え、
市内には6万のモスク、
3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。
バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、
ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
一方で地方支配は緩みを見せ始め、
西暦789年にはモロッコのフェスにイドリース朝が成立、
西暦800年にはチュニジアのカイラワーンに、
アミールを名乗り名目上はアッバース朝の宗主権を認めてはいたものの、
実際には独立政権であったアグラブ朝が成立し、
マグリブがアッバース朝統治下から離れた。
衰退への道
ハールーン・アッ=ラシードは二人の息子に帝国を分割して統治し、
弟が帝国中枢を、兄が帝国東部を治めるよう言い残して
西暦809年に死去したが、
2年後の
西暦811年、
兄が東部のホラーサーンで反乱を起こし、
西暦813年に
バグダードを攻略して即位していた弟のアミーンを処刑、
マアムーンと名乗って
カリフに就任した。
しかしマアムーンは根拠地であるホラーサーンを離れず、
そのために
バグダードは安定を失った。
西暦819年には帝国統治のためマアムーンが
バグダードに戻るが、
ホラーサーンを任せた武将のターヒルは自立し、
ターヒル朝を開いてイラン東部を支配下におさめた。
第7代
カリフのマアムーンはギリシャ哲学に深い関心を持った
カリフとして知られる。
彼は
バグダードに「知恵の館」という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、
ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシャ語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行った。
翻訳されたギリシャ諸学問のうち、
アリストテレスの哲学は
イスラーム世界の哲学、
神学に影響を与えた。
その後、
バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、
学問研究と教育の場として機能した。
バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たした。
マアムーンが死ぬと、
西暦836年に弟のムウタスィムが即位した。
彼はマムルーク(軍事奴隷)を導入し、
アッバース朝の軍事力を回復させることに努めたが、
この軍は
バグダード市民と対立したため、
西暦836年、
バグダード北方に新首都
サーマッラーを造営して遷都を行った。
しかしこのころから各地で反乱が頻発するようになり、
アッバース朝の権威は低下していく。
第10代
カリフのムタワッキル没後は無力な
カリフが頻繁に交代するようになり、
衰退はさらに進んだ。
西暦868年には帝国のもっとも豊かな地方であったエジプトがトゥールーン朝の下で事実上独立した。
西暦869年に
カリフのお膝元にあたるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、
独立政権を10年以上存続させる反乱となり、
カリフの権威を損ねることとなった。
政治的混乱
9世紀後半になると、
多くの地方政権が自立し、
カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
西暦892年には
サーマッラーからふたたび
バグダードへと遷都を行ったが、
勢力は衰退を続けた。
10世紀になると、
北アフリカに
シーア派のファーティマ朝が、
イベリア半島に後ウマイヤ朝が共に
カリフを称し、
イスラーム世界には3人の
カリフが同時に存在することになった。
さらに
西暦945年、
西北イランに成立した
シーア派のブワイフ朝が
バグダードを占領し、
アッバース朝
カリフの権威を利用し、
「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
これにより、アッバース朝の支配は形式的なものにすぎなくなったが、
政治的・宗教的権威は変わらず保ち続けていた。
そうしたなかで、
イスラーム世界の政治的統合は崩れ、
地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。
長期の都市居住で軍事力を弱めた
アラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、
中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
西暦1055年に入ると、
スンニ派の遊牧トルコ人の開いた
スンニ派のセルジューク朝のトゥグリル・ベグが
バグダードを占領してブワイフ朝を倒し、
カリフからスルタンの称号を許されて、
イラク・イランの支配権を握ることとなった。
アッバース朝のイラク支配回復
詳細は「ムスタルシド」、「ムクタフィー (12世紀)」、および「ナースィル」を参照
11世紀末からセルジューク朝は衰退をはじめ、
西暦1118年にはイラク地方を支配するマフムード2世はイラク・セルジューク朝を建て、
アッバース朝もその庇護下に入る。
しかしイラク・セルジューク朝は内紛続きで非常に弱体であり、
これを好機と見た第29代
カリフ、ムスタルシド、
第31代
カリフ、
ムクタフィーらは軍事行動を活発化させ、
イラク支配の回復を目指した。
第34代
カリフのナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュを誘ってイラク・セルジューク朝を攻撃させ、
西暦1194年にイラク・セルジューク朝は滅ぼされる。
これによりアッバース朝は半ば自立を達成するものの、
ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドと対立した。
モンゴル襲来とバグダード・アッバース朝の滅亡
詳細は「チンギス・カンの西征」および「フレグの西征」を参照
西暦1220年にチンギス・カンの西征によってホラズムがほぼ滅亡するといっときアッバース朝は小康を得るが、
モンゴルの西方進出は勢いを増してゆき、
モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万超の軍勢を率いさせたうえで
バグダードを攻略させた(
バグダードの戦い、
西暦1258年1月29日 - 2月10日)。
西暦1258年、
当時の
カリフであったムスタアスィムは2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、
長男、次男と共に処刑された。
その後、7日間の略奪により、
バグダードは破壊された。
バグダードの攻略で80万人ないし200万人の命が奪われたと言われている。
ここで、国家としてのアッバース朝は完全に滅亡した。
サーマッラー
イラク中央部、サラーフウッディーン県の県都。
バグダード北北西約 110km、チグリス川沿岸に位置する。
紀元前5千年紀の遺跡が存在するが、町は3~7世紀の間につくられたもの。
西暦836年にアッバース朝8代のカリフ・ムータシムが
バグダードからこの地に遷都、広大な宮殿を建築した。
10代のカリフ、ムタワッキルもイスラム最大といわれるモスク (9世紀) を建てている 。
現在は廃虚となっているが、その北端のマルウイーヤのミナレットは、
螺旋状をなしていて有名。
紀元前892年にカリフのムータミドのときに再び
バグダードに遷都され、
急速に衰退、西暦1300年頃には廃虚となった。
市内には 10~11世紀の預言者の墓を含むシーア派の廟などが残っている。
シーア派
イスラム教徒の巡礼の中心でもある。
洪水調節用の堰があり、水路でサルサール湖に導いている。
西暦2007年考古都市サーマッラーとして世界遺産の
文化遺産文化遺産に登録。
人口 21万 4100 (2004推計) 。