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メソアメリカ文明

作成日:2022/10/9

メソアメリカ(Mesoamerica)文明  紀元前2000年紀 - 15世紀末(2500年間)

メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、 様々な高度文明が繁栄した文化領域を指す。 メソとは、 ギリシャ語の(mesos)からきた接頭語で「中央にある」という意味である。 対して、 先スペイン期アメリカ大陸で複合的な階層社会が成立した文化的先進地帯を核アメリカと呼ぶ。

メソアメリカ(Mesoamerica)と呼ばれる地域は、 メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、 共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤテオティワカンアステカなど)が繁栄した文化領域を指し、 パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。
地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、 南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタ・リカのニコヤ湾あたりまでであるが、 この境界線は歴史的に一定していたわけではない。

これらの文化はアジアヨーロッパアフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、 地理的に孤立した環境で発展した。 そのため、製鉄技術を知らず、宗教においても独自な体系を成立させるなど、 他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。
神殿文化は紀元前2000年紀の末に起こり、それから約2500年の間、 外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。 また、紀元前2000年以降では定住農村村落が成立した。

15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が侵入して来る前の文明である。

よみがな順で記載する。
ただし、用語は用語の説明(前提)となるので先頭に記載。

年表

西暦500年允恭天皇10年)
  • サポテク語の最も古い文字記録。(おおよその年代)
  • オルメカが聖都モンテ・アルバンを建設し、以降もピラミッドの建設を継続する。中期形成期 (the Middle Formative period) 末の紀元前500年ころに創建されたモンテ・アルバンは、終期形成期 (the Terminal Formative period) の紀元前100年から紀元200年ころにかけて、オアハカ高原一帯の広域に拡大した行政体の首都となっており、北方のテオティワカンなど、メソアメリカの他の地域国家との交流を行なっていた (Paddock 1983; Marcus 1983)。
西暦427年允恭天皇10年)
  • メソアメリカで、異邦(ユカタン半島中部)出身者であるキニチ・ヤシュ・クック・モが古典期マヤの文明都市コパン(コパン王国)を建国し、初代王となる
西暦784年允恭天皇10年)
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

用語

先古典期

先古典期(せんこてんき)  英語:Preclassic Period
先古典期は、メソアメリカ考古学上の時代区分で、 オルメカ文明が繁栄した時代として知られる。

その後期に当たる時期にエル・ミラドールやラマナイ、ナクベ、ヤシュナなどのから、 巨大な建造物が築かれていることが判明してきたために、 形成期という用語に代えて、 「古典期に先行する古典期」という意味合いで使われるようになった。

後古典期

後古典期(こうこてんき)  英語:Post Classic period

後古典期は、 メソアメリカの考古学の時代区分。

マヤ文明で日付けの刻まれた最後の石碑であるトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を開始の基準として、 900年に置く。 この時期までに古典期マヤの中部地域の都市は、 ほとんど放棄されていた。

後古典期の終わりは、 諸説ある。 主なものとしては、 アステカ帝国滅亡(西暦1521年)までと考える場合、 マヤではペドロ・デ・アルバラードによってグアテマラ高地のキチェー王国が滅ぼされ、 スペインのグアテマラ征服が完了したのが西暦1524年なので、 この年におく場合である。 しかし、 フランシスコ・デ・モンテーホのユカタン征服事業も同時進行で行われていたので、 それが一応完了してメリダが建設された西暦1542年におく場合も、 しばしば終了の年代に挙げられる。 インカ征服が西暦1532年であったことに合わせ、 おおむね西暦1520年 - 西暦1530年代においている。

長期暦

長期暦(ちょうきれき)  英語:Long Count

長期暦とは、 メソアメリカ文明で、 おそくとも紀元前1世紀頃から使用されはじめた暦である。 周期が非常に長いために、 実質上循環しない暦として利用できる。 碑文に長期暦が記されている場合にはその絶対年代を知ることができるために重要である。 マヤ諸都市の石碑に刻まれていたことでひろく知られるようになったためにマヤ暦とされることもあるが、 マヤ以外の土地で古くから使われており、 マヤ文明に起源するわけではない。

西暦との対応については、 スピンデン対照法という換算法とGMT対照法(GMT Correlation)という2つの換算法がある。

スピンデン対照法

スピンデン対照法  絵おご:Spinden Correlation

スピンデン対照法は、 メソアメリカで用いられた長期暦(いわゆるマヤ暦)と、 西暦とを対照する方法の一つ。 長期暦12.9.0.0.0を西暦1539年と換算する。 西暦1910年に発表されたシルヴェイナス・モーリーの説を発展させてハーバード・ジョゼフ・スピンデンが提唱した。

スピンデン対照法は、 後古典期や植民地時代にマヤの人々の間で使われた短期暦の日付を手がかりに導き出された。 短期暦もカレンダー・ラウンドによる表示なので、 これをさかのぼることによって長期暦に対応させることが可能なのである。 同様の手法で求められた長期暦と西暦の換算方法にはGMT対照法があり、 スピンデン対照法とは13カトゥン(約256年)の差がある。

スピンデン対照法とGMT対照法のいずれが正確であるかについては長らく議論があったが、 炭素年代測定で導き出された遺物の年代などと照らし合わせた結果として、 GMT対照法のほうがより正確という結論に至っている。

GMT対照法

GMT対照法  英語:GMT Correlation

GMT対照法は、 メソアメリカで用いられた長期暦(いわゆるマヤ暦)と、 西暦とを対照する方法の一つ。 長期暦11.16.0.0.0を西暦1539年と換算する。 ジョゼフ T.グッドマン、フアン・マルティネス・エルナンデス、エリック・トンプソンの研究によって組み立てられたもので、 「GMT」は彼ら3人の名からとられている。

GMT対照法は、 後古典期や植民地時代にマヤの人々の間で使われた短期暦の日付を手がかりに導き出された。 短期暦もカレンダー・ラウンドによる表示なので、 これをさかのぼることによって長期暦に対応させることが可能なのである。 同様の手法で求められた長期暦と西暦の換算方法にはスピンデン対照法があり、 GMT対照法とは13カトゥン(約256年)の差がある。

スピンデン対照法とGMT対照法のいずれが正確であるかについては長らく議論があったが、 炭素年代測定で導き出された遺物の年代などと照らし合わせた結果として、 GMT対照法のほうがより正確という結論に至っている。

GMT相関定数

GMT相関定数

GMT相関定数とは、 長期暦の現ラウンド始点日からの日数(マヤ日)をユリウス日に変換する際に加算する定数のことである。 GMT(584,285)の場合、 マヤ日0はユリウス日584,285となる。 ユリウス日を求めれば、 西暦(グレゴリオ暦)の日付も計算することが可能である。

現在有力とされている相関定数にGMT(584,285)とGMT(584,283)がある。 GMT(584,283)はエリック・トンプソンにより、 GMT(584,285)に2日の修正が加えられたものである。 現在の長期暦周期(ラウンド)はGMT(584,283)では紀元前3114年8月11日に始まり、 GMT(584,285)は紀元前3114年8月13日に始まる。

GMT対照法の根拠

GMT対照法の根拠

GMT(584,283)は次の根拠によって決定される。 まず、ユカタンのシウ家による年代記である『オシュクツカブ年代記』に、 西暦1539-西暦1540年のカレンダー・ラウンド13アハウ7シュルの日にトゥンが終わるという記事があり、 ほかの文献からこの日が短期暦のカトゥン13アハウの終わりでもあることがわかる。 13アハウ7シュルの日にカトゥンが終わるのは約18,700年に1度であり、 そこからこの日が長期暦の11.16.0.0.0(元期から数えて第1,699,200日)と計算される。

次に、ディエゴ・デ・ランダの記述から、 ユリウス暦1553年7月16日(ユリウス通日2,288,488)は12カン1ポプの日で、 この日に新たなハアブが始まったことがわかる。 この日は13アハウ7シュルの5004日後にあたるので、 長期暦で書くと11.16.13.16.4(元期から第1,704,204日)になる。 したがって、長期暦の元期は 2,288,488 - 1,704,204 = 584,284 になる。

いっぽう、 アステカでクアウテモックがスペインに降伏した日はユリウス暦1521年8月13日で「1の蛇」の日、 ツォルキンでいうと1チクチャンになる。 しかし、上記の584,284の値を使うと2キミになり、1日ずれる。 一般にアステカ暦に関する記録の方がランダより信頼性が高いので、 1日修正して584,283が得られる。

これに対してGMT(584,285)説は天文現象との対応を根拠にしており、 フロイド・ラウンズベリーらが支持しているが、 アンソニー・アヴェニは肉眼で行っていた古代の天文観測の精度では2日の修正の根拠にはならないとして批判している。

アステカ帝国

アステカは、 西暦1428年頃から西暦1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。 メシカ、アコルワ、テパネカの3集団の同盟によって支配され、 時とともにメシカがその中心となった。 言語は古典ナワトル語

「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家)が名付けた造語で、 自称ではない。 民族の伝説上の故地であるアストランに由来する名称だが、 メシカの人々はアストランを去った後に新しい民族としてのアイデンティティを得たのであって、 故地によって名前をつけるのは適切ではないという批判がある。 それ以外にも、言語・地理・政治・民族・土器の種類などのどれを基準としてアステカと言っているのかわからない、 範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、 メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、 ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、 アステカ三国同盟を指す場合もあれば、 マヤとオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある、 という問題がある。
とはいえ、アステカという言葉は長く使われているために、にわかに変えられないが、 より明確にするためには以下のような語を用いることができる。

オルメカ文明

オルメカ(Olmeca)は、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、 先古典期のメソアメリカ(メキシコ湾岸)で栄えた文化・文明である。
アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、 その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、 「母なる文明」と呼ばれる。
「オルメカ」とは、ナワトル語で「ゴムの人」を意味し、 スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。
巨石や宝石を加工する技術を持ち、 ジャガー信仰などの宗教性も有していた。 その美術様式や宗教体系は、 マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。

オルメカの影響は中央アメリカの中部から南部に広がっていたが、 支配下にあったのは中心地であるメキシコ湾岸地域に限られた。 その領域はベラクルス州南部からタバスコ州北部にかけての低地で、 雨の多い熱帯気候のため、度々洪水が起こった。 しかし、河川によって肥沃な土地が形成され、神殿を中心とした都市が築かれた。

オルメカの文化は、出土する様々な石像に現れている。 人間とジャガーを融合させた神像は、 彼らにジャガーを信仰する風習があったことを物語っている。 祭祀場では儀式としての球技が行われ、 その際には人間が生贄として捧げられた。 また、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。

サポテカ文明

サポテカ(またはサポテック、サポテカ文化、サポテカ文明)は、 メキシコ南部、オアハカ州のモンテ・アルバンを中心として栄えていたとされる文明。
その開始時期については、 先古典期前期末のサン・ホセ・モゴテのティエラ・ラルガス相(紀元前1400年 - 紀元前1150年)の時期と考えられる。

この時期にサン・ホセ・モゴテは、7.8haほどの集落となり、 その規模は、オアハカ盆地の他の集落の5~8倍であった。 この頃、メソアメリカでは最古の部類に属する5.5m×4.5mほどの長方形を呈する6号建造物をはじめとした公共建造物が築かれるようになった。
ロサリオ相(紀元前700年 - 紀元前500年)になると人口は1300~1400人ほどになり、 サン=ホセ=モゴテの首長は、翡翠の装飾品を身につけるようになり、 頭蓋変形や黒曜石の短剣を用いた放血儀礼などが行われていたこともわかっている。 首長は、生前は、中庭のある日干し煉瓦の家に住み、 死後には、その遺体は豪華な墓に埋葬された。
ロサリオ相の終末期には、神殿と思われる公共建造物の入り口の敷居部分から発見された石碑3号にみられるように、 象形文字を刻んだ石碑が建てられるようになる。 石碑3号に刻まれた犠牲にささげられた捕虜の名前の「一の地震」は、 現在のところ確認可能なメソアメリカ最古の文字の使用例であるとともに、 最古の260日暦の使用例であることで知られる。 サン・ホセ・モゴテは、紀元前500年頃放棄されたと考えられる。...

その契機となったのは、 先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地での抗争の激化であり、 盆地北部のエトラ谷のサン・ホセ・モゴテと、 盆地東部のトラコローラ谷地域の勢力と盆地南部のバジェ・グランデ又はサアチラ谷地域の勢力がオアハカ盆地の覇権を争い、 モンテ・アルバンが建設される直前の時期には、 丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設された。
この争いの終結は、紀元前500年頃とされるモンテ・アルバンの建設により終息したが、 その起源については、トラコローラ、バジェ・グランデの連合体が、 サン・ホセ・モゴテに対抗して、モンテ・アルバンを築いたという説と、 サン・ホセ・モゴテが前二者に対抗してモンテ・アルバンを築いたという二つの説があり、 後者の説がいまのところ有力とされている。

モンテ・アルバンI(紀元前500年~紀元前100年)で知られているのは、 中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」で、 神殿の周囲におかれた石彫には、 あたかも踊っているように見える人物像や未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑が建立された。 「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、 モンテ・アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、 殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。 このような石彫を刻むことによってモンテ・アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、 正当化する意味があったと考えられている。 人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示していると考えられる。 モンテ・アルバンII期(紀元前100年 - 紀元前200年)にかけて、 都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、 ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。 モンテ・アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、 オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。 その後、テオティワカンとの交流を受けつつ、モンテ・アルバンIII期(200年~750年)には、 最終的にモンテ・アルバンに集中した人口は、2万5000人を数えるまでになり、 規模も6.5km2に拡大した。 盆地全体の人口は、一時期11万人を超えたと考えられている。 モンテ・アルバンの中央広場が完全に建物で囲まれたのがこの時期である。 III期の後半、すなわちIIIb期は、広場の出入り口が3ヶ所に限られ、 防御性が増したことから、貧富の差が拡大し、 庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられる。

モンテ・アルバンIV期(750年~1000年)には、モンテ・アルバンは、 人口4,000人ほどのセンターに衰退した。 盆地全体の人口は、7万人に減少し、 盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大の集落となった。 しかしモンテ=アルバンに見られるような大建造物に囲まれた中央広場は築かれず、 小センター同士が争う分裂抗争の時代となった。 また、特筆すべきなのは、このころから、 美しい階段文様や雷文の建物で知られるミトラが盆地南部のトラコローラ河谷に興り、 本格的に活動し始め、また、サアチラも発展し、 墓地の壁画やレリーフには見るべきものが多い。 これらのセンターは一部を除いて後古典期まで続くこととなる。

タラスカ王国

タラスカ王国またはタラスコ王国、プレペチャ王国とは、 今日のメキシコのミチョアカン州全域およびハリスコ州とグアナフアト州の一部にあたる地域を領有した、 先コロンブス期の国家であり、 スペイン人による侵略の時点でメソアメリカにおいて2番目の大国だった。

14世紀初めに建国され、西暦1530年にスペインに征服された。 西暦1543年には公式にミチョアカンの知事の支配下となった。 なおミチョアカンというのはナワトル語でのタラスカ王国の名前で、 「魚の多い場所」を意味する。 タラスカ王国で話されていた言語であるプレペチャ語ではIrechecua Tzintzuntzaniと呼ばれ、 「ツィンツンツァン王国」という意味になる。...

タラスカ王国の民の多くはプレペチャ族に属していたが、 その他にナワ族、オトミ族、マトラツィンカ族、チチメカ族がいた。 これらの民族集団は次第に多数民族であるプレペチャ族に同化されていった。

タラスカ王国は貢納システムによって構成され、 カソンシとよばれる支配者のもと次第に中央集権化していった。 タラスカ王国の首都はミチョアカン州のパツクアロ湖の畔にあるツィンツンツァンであり、 口承によるとそれを創立したのは初代のカソンシであるタリアクリで、 ワクセチャ(Uacusecha、プレペチャ語で「鷹」)という彼の家系によって治められたという。

タラスカ王国はアステカ帝国と同時期に存在し、敵国として多くの戦争を行った。 タラスカ王国は、 メソアメリカ最初の真の領域国家として拡大したアステカとの国境の防備を固め、 その北西への拡大を妨げた。

メソアメリカの中では比較的孤立していたため、 タラスカ王国にはメソアメリカの他の文化グループにはないはっきりと異なった文化的特徴を多く有する。 特に、金属を道具や装飾品だけでなく武器にまで使用していた事はメソアメリカ文明の中でも珍しい。

タラスカ王国の最終的な領土の広がりはレルマ川とバルサス川という二つの大河の間、 メキシコ中央台地の西の延長に位置する火山地帯の一部を構成する。 温帯、亜熱帯、熱帯の気候地域を含み、 標高2000mを超える新生代の火山と、 湖が主となっているが、 南西部の沿岸の低地も含まれている。 中央高地で最も一般的な土壌のタイプは若い火山性の黒ボク土、ルビソル、 痩せたアクリソルである。 植生は主にマツ、マツ‐オーク混成、モミから構成されている。 人間の居住は資源の豊富な湖の流域に集中している。 北のレルマ川付近には黒曜石が豊富で温泉が湧いている。 タラスカ王国はパツクアロ湖の流域周辺を中心としていた。

タラスカ地域の居住は少なくとも先古典期初期に遡る。 初期の石器による痕跡では紀元前2500年以前、 有溝尖頭石器などの石製の器具が大型動物を仕留めるのに使われた。 放射性炭素によるとこの遺跡が滅びたのは紀元前1200年頃である。 ミチョアカン州においてもっとも知られている先古典期の文化がチュピクアロ文化である。 この文化の遺跡はほとんどは湖の島において見つかっており、 この事は後のタラスカの文化パターンと似ている。 古典期初期のミチョアカン地域では球技場その他の遺物がテオティワカンの影響を示すようになった。

西暦1540年ごろにフランシスコ会の僧侶ヘロニモ・デ・アカラによって書かれたRelacion de Michoacanは民族史的に有用な史料となっており、 これにはタラスカの貴人より語られた物語が翻訳・筆記されている。 これには口承により伝えられてきた「タラスカ公式の歴史」の一部が含まれており、 第一部にはタラスカ王国の宗教、第二部にはタラスカ社会、 最終部にはタラスカの歴史とスペインによる侵略に焦点を当てている。 しかしながらこれの第一部は一部しか現存していない。 それ以外の史料としては小さな絵文書がいくつかある。

テオティワカン文明

世界遺産の一つであるテオティワカンとは、 メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロのメキシコ中央高原にあり、 紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、 テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡。 当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、 メソアメリカの中心的都市として機能していた。

テオティワカン人の宇宙観、 宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、 月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。 この都市で祀られた神々は、 農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、 チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。

社会についてはあまり知られていないが、 規模から考えると神権的な権威が存在し、 高度に階層が分化し、 発達した統治組織があったものと推測されている。 市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、 農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。
テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、 これは12世紀頃にこの地にやってきて、 すでに廃墟となっていた都市を発見したメシカ人(アステカ人)が命名した。 アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。

古代都市テオティワカンとして、西暦1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。...

この地は形成期後期にすでに集落があったが、 紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコがシトレ火山の噴火によって埋まり、 またポポカテペトル山も噴火した。 このために人々がテオティワカンの地に移住し、 テオティワカンは都市として急速に発展した。
テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、 その時期は4期に分けられる。 テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、 1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。 西暦378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックがエル・ペルーとティカルに侵入し、 ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた。 西暦426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい。 テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。

都市の面積は約20平方キロメートルで最盛期には、 10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。 しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、 やがて滅びを迎えた。 衰退の主要な原因としては、火事の発生、 漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、 旱魃による農業の衰退、 およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる。

主な遺構及び建造物

トルテカ文明

トルテカ文明(7世紀頃 - 12世紀頃)は、テオティワカン崩壊後、 チチメカ侵入前までの時期に、 メキシコ中央高原に盛んに建設された都市「トゥーラ」群がもっていたと考えられる文明。
テスカトリポカとトピルツィン・ケツァルコアトルの神官たちによる争いなどの伝承で知られるトルテカ帝国が、 メキシコ中央高原を支配したと長い間考えられてきたが、 伝承が伝わっているのみで具体的な証拠がなく、 その伝承さえ征服後に作られたものらしいという見解もある。

トルテカ文明の担い手であるトルテカ人については、 欧米の「主流派」研究者は、 トルテカ・チチメカと呼ばれるメキシコ西部のウト・アステカ語族に属するナワトル語を話す半文明化した人々が主であり、 ノノアルカと呼ばれる少数であるがプエブラ州およびメキシコ湾岸に住んでいた彫刻や建築をよくする職人的な人々からなるとされてきた。 そして彼らの文化には冶金術とマサパ系土器が伴うとされてきた。...

しかし、大井邦明は、 この考え方をヒメネス・モレーノが資料操作をおこなったために混乱しているとし、 トルテカ人は、もともとテオティワカンにすんでいたケツァルコアトル神をあがめる集団であり、 具体的にはオトミ族やマトラツィンカ族であって、 コヨトラテルコ式土器を伴い、 トゥーラ・シココティトラン、ショチカルコなどの「トゥーラ」(城塞都市)群を中央高原に築いた人々であるとした。
その根拠として、伝承に一種の国譲り的な記述が見られたり、 ケツァルコアトル神に創造された人々がトルテカ人であるという記述がみられること、 チチメカの移動はどう考えても文献記録からでは11世紀以前にはならないこと 、 テオティワカン衰退の契機となった破壊行為は都市全域に及ばずあくまでも中枢部分にとどまること、 テオティワカンの全盛期にケツァルコアトル神の神殿が築かれ、 やがて破壊されたという出来事があり、 ショチカルコは、 かって機能したケツァルコアトル神殿の思想的延長上にあること、 古典期後期のマヤにもケツァルコアトル神を思わせるレリーフなどが増加すること、 トゥーラ・シココティトランが焼き払われ、 破壊された後の上から、 「全盛期に使われた土器」であるはずのマサパ系土器が出土することなどを挙げている。
また、侵略者のチチメカ人は、 攻撃対象となった都市を「葦が密集するように人の多い場所」という意味のトゥーラと呼び、 そこの住民を「トルテカ」と呼ぶ一方で、 自分たちを「トルテカ」と自称したため、 チチメカ人自身が「トルテカ」であるかのように誤解されるようになった、とする。

マヤ文明

マヤ文明は、 メキシコの南東部、 グアテマラ、 ベリーズなどいわゆるマヤ地域(メキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラなど)を中心として栄えた文明である。 高度に発達したマヤ文字をもつ文明であった。 セノーテという淡水の泉に育まれたため、 他の古代文明とは違い、 大河の流域でない地域に発達したという特徴がある。

マヤ文明の時代区分
古期 紀元前8000年 - 紀元前2000年
先古典期 先古典期・前期 紀元前2000年 - 紀元前1000年
先古典期・中期 前期 紀元前1000年 - 紀元前  600年
後期 紀元前  600年 - 紀元前  350年
先古典期・後期 前期 紀元前  350年 - 紀元前   1年
後期 紀元前   1年 - 西暦  159年
終末期 西暦  159年   - 西暦  250年
古典期 古典期・前期 西暦  250年   - 西暦  550年
古典期・後期 西暦  550年   - 西暦  830年
古典期・終末期 西暦  830年   - 西暦  950年
後古典期 後典期・前期 西暦  950年   - 西暦1200年
後古典期・後期 西暦1200年   - 西暦1539年
植民地期 西暦1511年   - 西暦1697年

マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部マヤ低地南部マヤ高地の三地域に分かれている。

マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、 乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、 生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。 マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、 ウシュマルやチチェン・イッツァ、マヤパンなどの都市が繁栄した。 なかでももっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、 この地域の主要交易品となっていた。

現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、 ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、 紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。 気候としては熱帯雨林気候に属し、 いくつかの大河川が存在したものの、 都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。 交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。 この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、 8世紀には絶頂を迎えたものの、 9世紀に入ると急速に衰退し、 繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。

現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、 エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、 起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、 多くの都市が建設された。 マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石は, マヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。 低地と異なり、 建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。 カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、 古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、 この地域の歴史には今も不明な点が多い。
先古典期・前期(紀元前2000年 - 紀元前1000年)
この時期、マヤ高地においては土器が使用されていたものの、 マヤ低地においてはいまだ土器が使用されない程度の文化水準となっていた。
先古典期・中期(紀元前1000年 - 紀元前350年)
紀元前1000年以降になると、 いわゆる「中部地域」で土器が使用されるようになり、 間もなく文明が急速に成長し始めた。 ナクベやティカルなどの都市に居住が始まったのもこのころである。
先古典期・後期(紀元前350年 - A.D.250年)
紀元前400年以降、先古典期後期に入ると都市の大規模化が起こり、 現ベリーズのラマナイ、グアテマラのペテン低地に、 ティカル、ワシャクトゥン、エル・ミラドール、ナクベ、カラクムルなどの都市が大きく成長した。
先古典期マヤ文明の衰退
100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、 エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、 ほかにも多くの都市が衰退していった。 こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、 次の古典期における大国として勢力を拡大していった。
古典期・前期(A.D.250年 - 550年)
開花期の古典期(A.D.250年 - 550年)にはティカル、 カラクムルなどの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。 「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、 群小都市国家の王の即位を後見したり、 後継争いに介入することで勢力を維持した。 各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、 王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。 西暦378年ごろにはメキシコ中央高原のテオティワカンの影響がティカルやコパンなどマヤ低地南部のいくつかの都市に見られ、 この時期にテオティワカンから一部勢力がマヤに影響力を行使したことがうかがえる。 ただしこうした影響は短期間にとどまり、 やがて地元の文化と融合していった。
古典期・後期(A.D.550年 - 830年)
大都市のカラクムルやティカルのほかにも多くの小都市国家が発展した。 このころの大勢力としては、マヤ低地北西部のウシュマル、 北東部のコバー、マヤ低地南部では西からパレンケ、ヤシュチラン、 カラクムル、ティカル、ペカン、 そして南東部に離れたところにあるコパンなどが挙げられる。 また、マヤ低地にはエズナやカラコル、 アグアテカといった中小都市も多く存在し、興亡を繰り返していた。
8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。 マヤ文明の人口は最大10,000,000人の住民と推定されている。 この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、 土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。 また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、 樹皮を材料とした絵文書がつくられた。 碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。 通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、 いくつかの商業都市も生まれた。
9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。 原因は、
  • 遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)
  • 北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)
  • 農民反乱説
  • 内紛説
  • 疫病説
  • 気候変動説
  • 農業生産性低下説
など有力な説だけでも多数ある。
しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。 また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。 焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、 地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、 さらにそれによる支配階層の権威の失墜と、 少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル、チチェン・イッツァなどにプウク式の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、 文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。
後古典期(A.D.950年 - 1524年)
北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。 チチェン・イッツァの衰退後、 12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、 15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。 マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、 スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。 またこの時期は交易が盛んになり、 コスメル島などの港湾都市や交易都市が、 カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
スペインによる植民地化
西暦1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ地域に到達したときは、 いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。 ヨーロッパ人がはじめてマヤに姿を現すのは、 西暦1517年のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバの遠征によってである。 この時の遠征は失敗に終わったが、翌西暦1518年にはフアン・デ・グリハルバがトゥルムに到達し、 文明の高さに驚嘆している。 その後スペイン人による本格的な侵略がはじまり、 西暦1524年にはペドロ・デ・アルバラードによってマヤ高地のキチェ人が征服され、 この地方はグアテマラとしてスペインの支配下に入った。 ユカタン半島北部もまた、 フランシスコ・デ・モンテーホによって西暦1527年に侵略が開始されたが、 各都市の強い抵抗にあって2度撤退し、 西暦1540年にユカタン西岸にカンペチェ、 西暦1542年に半島北部にメリダの街を建設して足がかりとし、 西暦1546年にこの地方を制圧した。
これらコンキスタドールの活動によってマヤ文明の北部と南部はスペインの支配下に入ったが、 密林の広がるマヤ低地南部をはじめとする内陸部の征服は遅れ、 この地域にはいまだマヤ文明の諸国が残存していた。 これら諸国はその後も150年以上独立を保っていたが、 西暦1697年に最も遅くまで自立を保っていたペテン盆地のタヤサルが陥落、 マヤ圏全域がスペイン領に併合された。

ミシュテカ文明

ミシュテカはメソアメリカの先住民で、 メキシコのオアハカ州、ゲレーロ州、プエブラ州を合わせてラ・ミステカとして知られる地方に住む。 ミシュテカ諸語はオト・マンゲ語族の中の大きな分派である。
ミシュテカという単語はナワトル語のミシュテカパン、 すなわち「雲の人々の地」に由来する。 ミシュテカ語が話されていた地域は「ミシュテカ」として知られる。 先コロンブス期、ミシュテカはメソアメリカの主要な文明の1つだった。 ミシュテカの重要な古代の中心地にはティラントンゴの古都に加え、 アチウトラ、クイラパン、ワフアパン、ミトラ、トラシアコ、トゥトゥテペック、フストラワカおよびユクニュダウィの遺跡が含まれる。 ミシュテカは古代都市モンテ・アルバン (ミシュテカが支配下に置く前のサポテカの都市を起源とする)を大幅に再建した。 ミシュテカ工人が石材、木材、および金属で作った製品は当時のメソアメリカ全域を通じて珍重された。

ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、 アステカ皇帝アウィソトルによって30年ほど征服されていた。 彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、 スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。...

ミシュテカ地域は、歴史的にも現在でも、 おおよそオアハカ州の西半分に相当するが、 いくつかのミシュテカの集落は隣接するプエブラ州北西部やゲレーロ州まで分布していた。 ミシュテカの人々と彼らの母国はしばしば3つの地理的・文化的地域に分けられる: 山岳地帯、その周辺、およびオアハカ渓谷の西に住む「ミシュテカ・アルタ」すなわち高地ミシュテカ;これら高地の北方と西方に住む「ミシュテカ・バハ」すなわち低地ミシュテカ、そして南の平野と太平洋沿岸に住む「ミシュテカ・デ・ラ・コスタ」である。ミシュテカの歴史にとってミシュテカ・アルタは中央高地に位置するミシュテカ国家の首都とともに支配的な政治勢力だった。オアハカ渓谷それ自体はしばしば紛争境界地域となり、ときにはミシュテカに、ときには東の隣人サポテカに支配されていた。

コイシュトラワカ盆地にあるen:Ndaxagua洞窟(スペイン語でエル・プエンテ・コロサルとして知られる自然の洞穴を利用した洞窟遺跡)は、 ミシュテカの重要な聖地である。

ミシュテカ語とその近接諸語は、 20世紀末の段階でおよそ30万人に達する人々によって話されていると推定されているが、 ミシュテカ語話者の大多数は、実務的にスペイン語も話すこともできる。 ミシュテカ諸語のいくつかはミシュテカ語以外の名前、 とくにクィカテコ語やトリキ語と呼ばれる。
ミシュテカ語はその写本、 もしくはその歴史と系図を鹿皮に「(屏風のように)折りたたまれた本」の形式で描いた絵文書によって人類学上よく知られている。 ミシュテカの絵文書には、数字は○、文字は判じ絵のような絵文字を使い、 絵全体で物語を表現している。

絵文書に記載されたもっとも有名な物語は八の鹿王のものである。 この名前は彼の生まれた日にちなみ、 彼の個人名はジャガーの爪である。 ボドリ絵文書とヌッタル(ナットール)絵文書を含むいくつかの絵文書に「八の鹿・ジャガーの爪」の叙事的な歴史に関連する記述があり、 彼がミシュテカのほとんどの地域を征服し、 統一することに成功したことと最後には52歳のとき戦いに敗れ生け贄になったことを記している。