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弘文天皇(こうぶんてんのう)

作成日:2020/6/4

弘文天皇は、日本の第39代天皇。
諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。
西暦1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、 歴代天皇に列せられたが、 実際に大王に即位したかどうか定かではなく、 大友皇子と表記されることも多い。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第39代天皇 弘文天皇(こうぶんてんのう)

[在位] 天智天皇10年12月5日(西暦672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(西暦672年8月21日)《紀》
[生没] 大化4年(西暦648年) - 天武天皇元年7月23日(西暦672年8月21日) 25歳没《紀》
[時代] 飛鳥時代
[先代] 天智天皇   [次代] 天武天皇
[陵所] 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)
[父親] 天智天皇   [母親] 伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)
[] 大友、伊賀
[別称] 伊賀皇子
[夫人] 十市皇女
[子女] 葛野王
[皇居] 近江大津宮

概要

天皇の系譜(第38代から第50代)

天智天皇の第一皇子。
母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。
天智後継者として統治したが、 壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、 首を吊って自害する。

正妃:十市皇女(天武天皇皇女)
葛野王 - 淡海真人・朝臣の祖
妃:藤原耳面刀自(藤原鎌足女)
壱志姫王
異母兄弟姉妹
兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため、実際の生誕順ではないことがある。
兄弟:
建皇子
川島皇子
志貴皇子
姉妹:
大田皇女
鸕野讃良皇女(持統天皇)
新田部皇女
大江皇女
(以上:夫天武天皇)
明日香皇女(夫:忍壁皇子)
御名部皇女(夫:高市皇子
阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子
山辺皇女(夫:大津皇子)
泉皇女・水主皇女

即位説

詳細は「大友皇子即位説」を参照
『日本書紀』には、 天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、 天智天皇は我が子可愛さの余り、 弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。
しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、 これを支持する学説もある。
また、 皇位には天智天皇の皇后・倭姫王を立て、 自らは皇太子として称制していたとする説もある。

父・天智天皇(天智7年・668年即位)のもとで天智10年(西暦671年)に太政大臣となり、 その政務を補佐した。

『日本書紀』天智10年(西暦671年)11月の条に、 「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。
大友皇子が香炉を手にして立ち、 「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った」とある。

丙辰 大友皇子在內裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉 大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當絶 家門必亡 云云
ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、 天智天皇の死後に大友皇子に皇位を継承させることを指示していたものと考えられている。

天智天皇10年12月3日(西暦672年1月7日)の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、 即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。
そのため歴代天皇とみなされてはいなかったが、 明治3年(西暦1870年)になって弘文天皇と追号された。

伝説

壬申の乱敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている。
千葉県
君津市やいすみ市、 夷隅郡大多喜町には、 大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており、 17世紀前半に書かれたと考えられている地誌『久留里記』(編者未詳)や、 宝暦11年(西暦1761年)に儒学者の中村国香が編纂した『房総志料[1]』に記載がみえる。
このうち、君津市だけでも
白山神社(君津市俵田)
祭神は、大友皇子と菊理媛命。この地に落ち延びた皇子が暮らした「小川御所」の跡とされる。
白山神社古墳(同市俵田)
白山神社の背後に位置する前方後円墳。地元では大友皇子を埋葬したと伝えられ、戦前までは「丸山」「山陵」「小櫃山陵」等と呼ばれてきた。考古学的には、4世紀頃に築造された在地首長のものと考えられている[3][4]。千葉県指定史跡[5]。
御腹川(同市長谷川)
大友皇子が天武天皇の追手に見つかり割腹した場所とされる。
死田(同市賀恵淵にあったと伝えられる)
大友皇子が臣下の蘇我大炊を従えて狩りに出かけた折、田植の祭りをしている光景に出合った。それを眺めていると、空が一気に掻き曇って風雨雷電が降り注ぎ、苗を植えていた早乙女たちは全員死んでしまったという。
等の伝説関連史跡が存在する。
なお白山神社古墳については、森勝蔵(嘉永3年(1848年)-大正5年(1916年))をはじめとする旧久留里藩関係者が、明治10年代から同30年代にかけて天皇陵治定運動を展開している[7]。
愛知県
岡崎市の西部に、大友皇子を祀った、もしくは創建に関わったとされる寺社がみられる。
神明社(岡崎市東大友町)
この地に落ち延びた皇子が天照大御神を祀るために創建したといわれる[8]。かつては、近隣に大友皇子を祭神とする「大友神社」もあった[注釈 1]。
大友天神社(同市西大友町)
大友皇子の従者である長谷部信次という人物が、皇子の霊を祀るために創建したと伝えられる[9]。
玉泉寺(同市西大友町)
大友皇子を開基とする。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。

これとは別に、弘文天皇の御陵とされる墳墓が複数伝わっている。

また皇居では、皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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