高柳健次郎
作成日:2023/11/30
高柳健次郎
たかやなぎ けんじろう
別名 | : | 日本のテレビの父 |
生年 | : | 西暦1899年1月20日 |
| | 静岡県浜名郡和田村 |
没年 | : | 西暦1990年7月23日 |
| | (91歳没) |
父親 | : | 高柳太作 |
母親 | : | 高柳みつ |
配偶者 | : | |
子女 | : | 次男:高柳暁 |
| | 娘 :吉村たづ子 |
| | 孫 :吉村仁 |
勤務先 | : | 日本ビクター |
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高柳 健次郎は、
日本の工学者、
日本ビクター元副社長・技術最高顧問。
静岡大学名誉教授。
日本のテレビの父と呼ばれる。
文化勲章受章。
年表
- 西暦1899年(明治32年)
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- 1月20日 - 静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市東区安新町)に生まれる
- 西暦1921年(大正10年)
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- 東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所卒業
- 神奈川県立工業学校教諭
- 西暦1923年(大正12年)
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- 横浜の洋書店でフランスの科学雑誌に描かれたテレビジョンの未来図的なボンチ絵(ポンチ絵???)を見て、テレビジョン研究を決意する
- 西暦1924年(大正13年)
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- 郷里に新設された浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)にテレビジョン研究の場を求め助教授として赴任。テレビジョンの本格的研究に着手
- 西暦1926年(昭和元年)
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- 西暦1928年(昭和3年)
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- 送像に二ポー円板、受像にブラウン管を使用し、人間の顔の電送に成功(走査線40本)正式に電気学会に発表し、東京電機大学にて公開実験を行う
- 西暦1930年(昭和5年)
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- 西暦1931年(昭和6年)
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- NHK委託研究の形で協力 ~西暦1937年(昭和12年)
- 西暦1934年(昭和9年)
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- 西暦1935年(昭和10年)
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- 試作に成功したアイコノスコープカメラを使用し、全電子式テレビジョンを完成(走査線240本)
- 西暦1937年(昭和12年)
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- NHK技術研究所テレビジョン担当部長として出向
- 東京オリンピックを目指してテレビジョンの放送実現に取組む浜松電子工学奨励会を設立し、理事長に就任
- 西暦1939年(昭和14年)
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- 西暦1940年(昭和15年)
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- 西暦1941年(昭和16年)
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- 西暦1943年(昭和18年)
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海軍技師を兼務
戦時中は電波兵器及び暗視装置の研究に従事
- 西暦1946年(昭和21年)
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- 西暦1948年(昭和23年)
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- 日本映画技術協会(現日本映画テレビ技術協会)理事長
- 西暦1949年(昭和24年)
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- 浜松工業専門学校(前浜松高等工業学校)教授辞職
- 無線機械工業会(現JEITA・電子情報技術産業協会)ラジオ・テレビ技術合同委員会委員長 ~西暦1959年(昭和34年)
- 西暦1950年(昭和25年)
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- 西暦1951年(昭和26年)
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- 西暦1953年(昭和28年)
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- 西暦1955年(昭和30年)
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- 西暦1960年(昭和35年)
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- 西暦1970年(昭和45年)
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- 西暦1973年(昭和48年)
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- 西暦1974年(昭和49年)
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- 2月 - 科学放送振興協会理事長就任
- 11月 - 勲二等瑞宝章受章
- 西暦1979年(昭和54年)
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- 日本ビクター株式会社退職 副社長、技術最高顧問を歴任
- 西暦1980年(昭和55年)
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- 西暦1981年(昭和56年)
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- 西暦1984年(昭和59年)
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- 10月 - 高柳記念電子科学技術振興財団を設立し、理事長に就任
- 西暦1987年(昭和62年)
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- 7月 - 米国アラバマ州立大学名誉教授
- 静岡県浜松市名誉市民の称号を受贈
- 西暦1988年(昭和63年)
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- 10月 - 米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に推挙
- 11月 - 静岡大学名誉博士
- 西暦1989年(平成元年)
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- 西暦1990年(平成2年)
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- 7月23日 - 肺炎により死去(91歳)
- 同月 - 従三位に叙せられる
- 西暦2009年(平成21年)
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- 11月 - 電子式テレビジョンの開発を米国電気電子学会がIEEEマイルストーンに認定
- 西暦2011年(平成23年)
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- 1月20日 - 高柳健次郎の誕生日を記念してGoogle日本版のホームページのロゴが特別バージョンとなった(⇒ 画像)
戦前
静岡県浜名郡和田村(今の静岡県浜松市東区安新町)に生まれた。
静岡師範学校を経て
西暦1921年、
東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。
同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、
西暦1924年(大正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。
大正天皇が崩御し
昭和天皇が即位した
西暦1926年12月25日、
高柳はブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。
送像側にニプコー円板を、
受像側にブラウン管を用いて、
片仮名の「イ」の文字を送受像した。
走査線の数は40本だった。
「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。
西暦1927年(昭和2年)、
文部省の自然科学研究奨励費の対象となり研究を進め、
同年6月に特許権を取得。
同年11月28日、電気学会主催の発表会が開かれ、
無線による映像の送受信を実演した。この時点の解像度は1600画素。
西暦1937年(昭和12年)、
浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。
出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、
世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。
研究室では
東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが翌
西暦1938年に日中戦争が激化するなどで
東京オリンピックは中止。
テレビの研究も中断させられレーダーや
奮龍の誘導装置などの研究をすることになる。
戦後
終戦後、
NHKに戻ってテレビの研究を再開するが、
GHQの指令によりテレビの研究を禁止させられ、公職追放となる。
その後、
西暦1946年に、
日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。
自身が中心となりNHK、シャープ、
東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。
西暦1946年産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会(
西暦1950年テレビジョン学会に改称)の委員長に就任。
同学会はその後文部省認可の社団法人テレビジョン学会(
西暦1996年に社団法人映像情報メディア学会と改称)に改組された。
同学会は初代会長・丹羽保次郎とともに健次郎の功績を記念して、
優れた研究・業績に対する丹羽高柳賞を設定している。
このほか、
公益財団法人 高柳健次郎財団があり高柳健次郎賞、
高柳健次郎業績賞、
研究奨励賞、
科学放送高柳賞を制定している。
高柳暁(たかやなぎさとる) 西暦1931年5月9日 - 西暦1998年4月11日
高柳暁は、日本の経営学者。筑波大学名誉教授。
静岡県浜松市生まれ。高柳健次郎の次男。
妹に吉村たづ子(小児心理学者)。
西暦1963年東京大学大学院社会科学研究科博士課程満期退学、
中央大学経済学部専任講師、
西暦1965年助教授、
西暦1971年教授、
西暦1979年筑波大学社会工学系教授。
西暦1995年定年退官、
名誉教授、
中央大学総合政策学部教授
吉村仁(よしむら じん) 西暦1954年12月20日 -
吉村仁は、
日本の生物学者(理論生態学・進化生物学)。
学位はPh.D.(ニューヨーク州立大学・1989年)。
静岡大学大学院創造科学技術研究部教授・工学部教授・大学院工学研究科教授、
ニューヨーク州立大学環境科学林学校兼任教授、
千葉大学海洋バイオシステム研究センター客員教授。
ブリティッシュコロンビア大学数学科博士研究員、
ニューヨーク州立大学ビンガムトン校生物学科博士研究員、
デューク大学動物学教室研究科学者、
インペリアル・カレッジ・ロンドンシルウッド校個体群生物学センター研究員、
静岡大学工学部助教授、
静岡大学大学院創造科学技術研究部環境サイエンス部門部門長、
静岡大学大学院自然科学系教育部環境・エネルギーシステム専攻専攻長などを歴任した。
進化論に環境不確定性の概念を導入したことで、
世界的に知られた生物学者である。
また、
北アメリカで周期的に大量発生する「周期ゼミ」について、
その周期発生の原因を素数を用いて説明する学説を提唱した。
この学説をわかりやすく説明した著書『素数ゼミの謎』は、
日本においてロングセラーとなっている。
奮龍(ふんりゅう)
奮龍は、
西暦1944年(昭和19年)から西暦1945年(昭和20年)にかけて、
大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイルである。