高柳健次郎は、
西暦1926年12月25日に世界で初めてブラウン管を用いて電子映像表示に成功した。
高柳は、機械式では精細な画像表示ができないと判断して、
映像を電子的に撮像・表示する電子式テレビジョン技術の開拓に挑戦し、
浜松高等工業学校で研究を進めた。
西暦1924年12月に電子表示のために独自に開拓した熱陰極ブラウン管の試作を芝浦電気(株)(現東芝)に依頼した。
撮像は
ニポーの円盤で画像を走査し、
高速電子回路を開拓して電子映像を作った。
西暦1926年12月25日、
雲母板上に書いた「イ」の字を、
世界で初めてブラウン管上に電子的に表示することに成功した。
時あたかも大正天皇が崩御され、
その号外新聞発刊の鈴の音を聞きながらであった。
こうして、世界初の電子式テレビジョン受像器を実現、
それはまた、世界初の電子映像表示装置(ディスプレイ)の達成であった。
高柳健次郎は
西暦1927年には真空管式の撮像管の特許出願を行うなど、
その後は電子式テレビジョン放送の実現・発展に貢献した。
NHK東京放送局による日本初のテレビ本放送
西暦1953年2月1日午後2時。
NHK東京放送局による日本初のテレビ本放送が開始された。
最初に放送されたのは開局特番。第1声は志村正順アナウンサーの「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」。
番組の内容は、
記念式典の後に舞台劇『道行初音旅』を中継するという1時間番組。
ただ、当時のテレビは「家電の王様」と呼ばれた超高級品。
本放送が始まる1年前に発売された松下電器製の第1号機は、17型で29万円。
当時の初任給の約54倍である。
放送開始当時の契約数はわずか866件で、1日に3時間の放送であった。
民間放送テレビ第1号となる日本テレビ放送網が開局
8月28日には、民間放送テレビ第1号となる日本テレビ放送網が開局する。
同局は開局に先立ち関東地方各地に街頭テレビを設置。
主にスポーツ中継(巨人戦、大相撲本場所、プロレス中継など)が人気を博した。
読売新聞社主の正力松太郎氏は、民間のテレビ放送を設立する計画を発表。
テレビ局(日本テレビ放送網)の免許を申請し、民放として初のテレビ放送を1953年8月に開始した。
プロ野球・巨人対阪神の試合中継が最初の番組だった。
また、日本テレビの開局と共にテレビコマーシャルの放送も始まった。
その第1号は精工舎(現在のセイコーホールディングス)の時報(正午、夜7時の2回)であった。