小窓
舎人親王(とねりしんのう)

作成日:2023/3/27

舎人親王
とねりしんのう
時代  飛鳥時代-奈良時代
生年  西暦676年天武天皇5年)
没年  西暦735年12月2日
      天平7年11月14日)
別名  舎人皇子
諡号  崇道尽敬皇帝
      尽敬天皇
官位  一品知太政官事、贈太政大臣
父親  天武天皇
母親  新田部皇女
妻   当麻山背、他
子   三原王、淳仁天皇、他
 

舎人親王は、 飛鳥時代から奈良時代にかけての皇親・政治家。
天武天皇の第六皇子で、 淳仁天皇(淡路廃帝)の父。
天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、 奈良時代前期に長屋王とともに皇親勢力の中心的存在として重用された。

『日本書紀』編修事業の総裁を務めたことでも知られる。

名は舎人皇子(とねりのみこ)とも記され、 薨後に淳仁の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を贈られた。

子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏とともに、 天武系の後裔氏族として長く血脈が続いた。

経歴

西暦676年天武天皇5年)
天武天皇の皇子として誕生。母は新田部皇女。
西暦695年持統天皇9年)
浄広弐に叙せられ、 西暦701年大宝元年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて、 二品となる。
西暦718年養老2年)
一品に昇叙される。
西暦719年養老3年)
元正天皇より異母弟の二品・新田部親王とともに皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられ、 また皇室の年長者として褒賞されそれぞれ内舎人・大舎人・衛士・封戸を与えられた。
西暦720年養老4年)
(5月)。自らが編集を総裁した『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上する。
(8月)。当時の朝廷最大の実力者であった右大臣・藤原不比等が薨去
  • 薨去に伴って、 舎人親王は知太政官事に就任して太政官の首班に立ち、 知五衛及授刀舎人事・新田部親王および右大臣(のち左大臣)・長屋王とともに皇親政権を樹立する。
西暦724年神亀元年)
聖武天皇の即位に際し、封500戸を加えられる。
  • 聖武朝に入ると、舎人親王は次第に藤原氏寄りに傾斜した活動を行い、結果的に藤原四子政権の成立に協力する形となった。
西暦729年神亀6年)
(2月)。「長屋王の変」では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害させる。
(8月)。藤原不比等の娘・光明子の立后の勅を宣べる。
西暦731年天平3年)
(8月)。公卿らが死亡や病気によって政務を処理できなくなっているとして、政務に耐えうる人材を推薦するよう勅を宣べる。
  • この結果、藤原宇合・麻呂兄弟ら6名が新たに参議に任官して、藤原四兄弟全員が議政官に加えられた。
  • 藤原氏の勢力拡大を認める一方で、 「長屋王の変」の2か月後「舎人親王が朝庁に参入する時、諸司は之(親王)の為に座を下りることなかれ」という太政官処分を受けた。
    この処遇については「「長屋王の変」の連座」「藤原氏による長屋王に続く皇親勢力の抑制策」など「長屋王の変」の影響が考えられる。
西暦735年天平7年)
(9月)。ともに皇親政治を支えた新田部親王が薨じるが、舎人親王はその邸宅に遣わされて天皇の弔意を伝える。
(11月14日)そのわずか1か月半後に天然痘が蔓延する平城京で、後を追うように薨去。享年60歳。
  • 最終官位は知太政官事一品。葬儀は太政大臣に準じた形式で行われ、皇族全員が参列したという。即日太政大臣の官職を贈られた。
没後20年以上たった西暦758年天平宝字2年)に、 第7王子の大炊王が即位(淳仁天皇)するに及び、 翌西暦759年天平宝字3年)、 天皇の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)の諡号を追贈されている。

墓所

『延喜諸陵式』の陵墓歴名には墓所の記載がない。 奈良県奈良市田中町にある黄金塚陵墓参考地(帯解黄金塚古墳、方墳)は近辺に残る「トネリ坂」などの地名から舎人親王墓の有力候補地と目されてきたが、 西暦2009年平成21年)2月の発掘調査により、 7世紀半ば頃の飛鳥時代の築造と推定され、 親王の薨去した年代とは整合しないことが判明した。

他の伝承墓として、 親王開基と伝える松尾寺(大和郡山市)の十三重塔(鎌倉時代)や、 現在の伏見稲荷大社(京都市伏見区)の地にあった藤尾社(天皇塚跡、社は藤森神社に遷座)などが知られる。
また、南都奉行所の『和州拾五郡郷士衆徒国民姓氏実録』によれば、 奈良市春日山の二つの峯のうち、 昔から南側の少し高い峯を高峯と呼び、 その高峯に親王の廟所があるという。