小窓
明仁上皇(あきひとじょうこう)

作成日:2021/2/16

あああ

日本の第125代天皇 明仁上皇(あきひとじょうこう)

[生没] 西暦1933年(昭和8年)12月23日 -
[在位] 西暦1989年(昭和64年)1月7日 - 西暦2019年(平成31年)4月30日
[時代] 近世・現代
[先代] 昭和天皇   [次代] 徳仁
[陵所]
[御名] 明仁(あきひと)西暦1933年(昭和8年)12月29日命名。
[追号]
[称号] 繼宮(つぐのみや)  [お印] 榮(えい)
[父親] 昭和天皇   [母親] 香淳皇后
[皇后] 美智子(みちこ)(旧姓名:正田 美智子)西暦1959年(昭和34年)4月10日 結婚
[皇居] 皇居 御所

年譜

天皇の系譜(第119代から今上)
西暦1933年(昭和8年)
西暦1936年(昭和11年)
西暦1940年(昭和15年)
学習院初等科に入学。
学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、 内舎人、信国鉄蔵を師として剣道を練成した。
西暦1941年(昭和16年)
西暦1944年(昭和19年)
学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、 第二次世界大戦の戦火の拡大により、 初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、 後に奥日光、湯元の南間ホテルに疎開。
西暦1945年(昭和20年)
西暦1946年(昭和21年)
西暦1949年(昭和24年)
西暦1950年(昭和25年)
学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる。
西暦1951年(昭和26年)
西暦1952年(昭和27年)
西暦1953年(昭和28年)
西暦1957年(昭和32年)
西暦1959年(昭和34年)
西暦1960年(昭和35年)
西暦1965年(昭和40年)
西暦
西暦1969年(昭和44年)
西暦1975年(昭和50年)
沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)後3年目に開催された「沖縄国際海洋博覧会」を訪問。
これは、 立太子後初めての沖縄県訪問となる。
海洋博の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』、 海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録される。
西暦1976年(昭和51年)
西暦1987年(昭和62年)
沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇の名代として沖縄を訪問した。
(昭和天皇が、在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)
西暦1989年(昭和64年/平成元年)
西暦1990年(平成2年)
西暦1991年(平成3年)
西暦1992年(平成4年)
西暦1999年(平成11年)
西暦2000年(平成12年)
西暦2005年(平成17年)
西暦2009年(平成21年)
西暦2011年(平成23年)
西暦2015年(平成27年)
施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ。
天皇在位中は高齢となっても、 年間約1,000件の書類に目を通して署名・捺印し、 各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/西暦2011年度[14])、 20件近くの宮中祭祀や祭儀を執り行うなど精力的に活動していた。
しかし、 施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ。
西暦2016年(平成28年)
西暦2017年(平成29年)
西暦2019年(平成31年/令和元年)
西暦2020年(令和2年)

皇子女おうじじょ

続柄 称号 備考
第1子
(第1皇男子)
徳仁なるひと親王 西暦1960年
(昭和35年)
2月23日
       第126代天皇。
小和田雅子と結婚。后妃:皇后雅子
子女:1女(1人)。
第2子
(第2皇男子)
文仁ふみひと親王 西暦1965年
(昭和40年)
11月30日
秋篠宮文仁親王。秋篠宮家(あきしののみや)当主かつ皇嗣(皇位継承順位第1位)
川嶋紀子と結婚。后妃:(皇嗣妃) 文仁親王妃紀子。
子女:1男2女(3人)。
第3子
(第1皇女子)
清子さやこ内親王 西暦1969年
(昭和44年)
4月18日
黒田慶樹と結婚。
黒田家に降嫁し皇籍離脱。以後、黒田(くろだ)清子。
子女:無し。

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