小窓
後光明天皇(ごこうみょうてんのう、ごくゎうみゃうてんのう)

作成日:2020/6/23

後光明天皇は、日本の第110代天皇。
儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第110代天皇 後光明天皇(ごこうみょうてんのう、ごくゎうみゃうてんのう)

[在位] 寛永20年10月3日(西暦1643年11月14日) - 承応3年9月20日(西暦1654年10月30日)
[生没] 寛永10年3月12日(西暦1633年4月20日)- 承応3年9月20日(西暦1654年10月30日)22歳没
[時代] 江戸時代
[先代] 明正天皇   [次代] 後西天皇
[陵所] 月輪陵(つきのわのみささぎ)
[追号] 後光明院(後光明天皇)西暦1654年11月23日(承応3年10月15日)追号勅定
[] 紹仁(つぐひと)。西暦1643年2月3日(寛永19年12月15日)命名
[称号(幼名)] 素鵞宮(すがのみや)。
[父親] 後水尾天皇
[母親] 園光子(その みつこ)。院号:壬生院(みぶいん)。
[皇居] 土御門東洞院殿、下御所(仮皇居)

年譜

天皇の系譜(第106代から第118代)
寛永10年(西暦1633年)
3月12日(4月20日) 降誕
寛永20年(西暦1643年)
9月27日(11月8日) 元服
(西暦)
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寛永20年(西暦1643年)
10月21日(12月2日) 即位礼
(西暦)
() 大嘗祭
寛永10年3月12日(西暦1633年4月20日)- 承応3年9月20日(西暦1654年10月30日)
承応3年(西暦1654年)
9月20日寅刻(10月30日) 崩御。於:下御所(仮皇居)
(西暦)
() 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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経歴

寛永10年(1633年)3月12日に誕生。寛永19年(1642年)9月2日儲君となり、12月15日に親王宣下。翌年(1643年)9月27日に11歳で元服、10月3日明正天皇の譲位を受けて践祚、同月21日に即位礼を挙行した。在位期間の12年は、将軍徳川家光から家綱の時代に相当している。東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。承応3年(1654年)9月20日、痘瘡により崩御。宝算22。翌月15日に後光明院と追号された。 天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学や漢学を尊重して、これを奨励した。初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。慶安4年(1651年)9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。また、漢詩文の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような経学への傾倒に対し、和歌や『伊勢物語』・『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕いており、正保3年(1646年)に神宮例幣の儀を再興した。釈奠や大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。 崩御前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子に迎えている[注釈 1]。突然の崩御のため、後年には幕府による毒殺説も生じた[注釈 2]。

逸話

天皇は剣術を好んだが、京都所司代の板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めた。すると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに対して、重宗は大いに閉口し、幕府も畏服したという[1]。 天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌と源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという[2]。なお漢詩は生涯に、歴代天皇のうち第二位となる98首遺した。[3]しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある[4]。 父の後水尾院が病に罹ったので天皇は見舞いを思い立ったが、所司代の重宗から「朝覲行幸には幕府への伺いが必要である」と横槍が入った。天皇は行幸を中止し、禁中の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという[5]。 平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で徳大寺公信より酒の飲み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという[6]。 仏教を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いであった。開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利が有るのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた[7]。

后妃・皇子女

後水尾天皇の第四皇子。母は贈左大臣園基任の娘光子(壬生院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。明正天皇は異母姉。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 承応3年(1654年)9月25日、入棺。翌月15日、泉涌寺にて奉葬された。陵は石造九重塔である。この大葬の時、禁中に出入していた魚屋奥八兵衛の進言によって、従来の火葬(荼毘)を改めて土葬の制を採用した。その後、昭和天皇に至るまで、歴代天皇は土葬された[8]。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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