はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第二代を継承して花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と号した。即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎ[注釈 1]として、1654年(承応3年)11月28日に即位。1663年(寛文3年)1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位。 もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。 また茶道、華道、香道にも精通していた。 治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[注釈 2]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説[注釈 3]・江戸幕府説[注釈 4]が挙げられ、更に有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[注釈 5]。 近年これに対して、譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[1][注釈 6]。 なお、「後西院」の号は、淳和天皇に境遇が似ていることから、彼の別称である「西院帝」に「後」を付けたものであると言われている。 貞享2年(1685年)、崩御。享年49。
天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位し、その子孫を皇統に残すことができなかった。 そのため、同じような立場だった平安時代初期の第53代淳和天皇の異称「西院帝」(譲位後に居住した後院「淳和院」の別称「西院」にちなむ)に倣い、 「後西院」と追号された。 平安中期の第62代村上天皇をもって崩後に天皇号を追号することが途絶え、 次の冷泉天皇からは原則的に「冷泉院」のごとく院号を追号するのが江戸時代後期の第119代光格天皇に至るまでの慣行であり、 後西院もそれに則ったものである。 本来は「後西院院」とせねば「後西院帝」を意味する追号にならないが、 院の字の重複は避けられた。 幕府政治を廃絶し天皇を君主とする国家体制を築いた明治時代には、院号で呼ばれていた歴代帝王にも権威を高めるため天皇号をおくることとなった。後西院は「後西院天皇」と呼ばれたが、大正14年(1925年)には「~天皇」「~院天皇」と一定していなかった追号から一律に院の字を廃することとなり「後西天皇」となった[3]。しかし、後西院の元となった西院から院字を除けば単に「西」となって意味を失うため、その後も、他の院号と同一視して院を除くのでなく「後西院天皇」と称するべきとする歴史学者もいる[4]。なお、『洛中洛外図』の中でも確認できるように、「西院」は中世においては「さい」と読まれ、現在の西院駅(京福電気鉄道)にもこの読み方が残っている。このため、「後西院天皇」と表記する場合でも、「ごさいてんのう」と読むことが出来る。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。