元和9年11月19日(1624年1月9日)、後水尾天皇と女御徳川和子の間の最初の子として生まれる。 寛永6年(1629年)10月29日、7歳で内親王宣下を受けて興子内親王の名を与えられ、11月8日に父の譲位を受けて践祚した。後水尾天皇の突然の譲位は、数年前よりの紫衣事件や、将軍徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件等によって、江戸幕府への憤りを積もらせた結果と一般的に解釈されている[1]。皇女の即位は皇子の不在(夭逝)によるものであったが、これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布したが、その二条目には、女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の暁には譲位すべきとある(「女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」[2])。 明正天皇の在位中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなかったとされる。女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。幕府は、寛永14年(1637年)には、摂政・二条康道の関白への転任を認めない姿勢を示し、女帝の親政を否定した。 寛永19年(1642年)9月2日、東福門院の意向で藤原光子(後の壬生院)所生の素鵞宮(後光明天皇)を儲君に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌寛永20年、21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り、太上天皇となった[3]。譲位直前の9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付した。そこでは、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への行幸は可、新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可とし、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている[4]。 のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)11月10日、崩御。宝算74。
明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。