天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の内宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に、天皇と皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。
『古事記』では天照大御神が天孫降臨の際に、 瓊瓊杵尊(邇邇芸命)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記されている。
『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。
古代の日本において、
鏡・剣・玉の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、
「支配者」一般の象徴であったと考えられ、
仲哀天皇の熊襲征伐の途次、
岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、
それぞれ白銅鏡、
八尺瓊、
十握劒を献上して恭順を表している。
また、
景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、
八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。
また糸島市の平原遺跡、
福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
儒学伝来以後、 「鏡」は「知」、 「勾玉」は「仁」、 「剣」は「勇」というように、 三種の神器は三徳を表す解釈も出た。
八咫鏡(やたのかがみ)は、天叢雲剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉とあわせて三種の神器と呼ばれているものの一つ。
『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている。
神宮にある御神体と、
その御神体を象って作ったという皇居にある形代の2つがある。
一般公開はされていない。
八咫鏡は、
記紀神話で、
天照大御神が天岩戸に隠れた岩戸隠れの際、
イシコリドメ(石凝姥命)が作ったという鏡。
天照大御神が岩戸を細く開けた時、
この鏡で天照大御神自身を映し、
興味を持たせて外に引き出し、
再び世は明るくなった。
のちに鏡は天照大御神が瓊瓊杵尊(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けたといわれる。
八咫鏡は、 一般に「銅鏡」と解釈されているが、 材質が公開されているわけではなく、 古事記では、 「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されているので、 実際は「鉄鏡」(=黒い鏡)である可能性がある。
『古事記』では、 高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、 川上の堅石(かたしは)を金敷にして、 金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
『日本書紀』には、
別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。
単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、
八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、 「単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない」とされているが、 咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46センチメートル (cm) 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
とあり、戦国~後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなる。
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、 円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、 弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、 現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、 その特大の大きさから、 後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に奉安されている。
神道五部書や類聚神祗本源等によれば、
この「八咫鏡」の見分記録には「八頭花崎八葉形也」、「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」とある。
この「八咫鏡」は、
明治初年に明治天皇が天覧した後、
あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。
この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、
考古学者原田大六によれば、
福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、
それを著書に記している。
これは『延喜式(伊勢大神宮式)』、
『皇太神宮儀式帳』において、
鏡を入れる桶代の内径が「一尺六寸三分」(約49cm)としており、
46.5cmの大型内行花文鏡を納めるにはちょうど良い大きさであることから。
原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、
約三回ほど内宮の火災があり、
このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、
その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、
直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。
また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という[3]。
内侍所の神鏡は天徳4年(西暦960年)、天元3年(西暦980年)]、寛弘2年(西暦1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。
天元の際に半ばが焼失し、
鏡の形をとどめないものとなった。
寛弘の際には、
ほとんど灰になってしまい、
やむなく灰の状態のまま保管した。
このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、
諸道に勘文を提出させた。
翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、
左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、
公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平安時代末期、 平家の都落ちとともに西遷し、 寿永4年3月24日(西暦1185年4月25日)、 壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、 それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
室町時代の嘉吉3年9月23日(西暦1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、 後南朝勢力が宮中を襲撃した際、 三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、 神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
筑前国風土記は現存しないが、
逸文に明確に記述される。
古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、
神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、八咫鏡、八尺瓊勾玉とあわせて三種の神器と呼ばれているものの一つ。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」、草那藝之大刀(くさなぎのたち)とも称される。
『古事記』では「草那藝之大刀」と記される。
記紀神話では素戔嗚尊が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現・島根県安来地方の中国山地側、仁多郡奥出雲町域)で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきた剣。
のちにヤマトタケル(日本武尊)が譲り受け、
移動中、
周りを火で囲まれた時、
自らの周りの草を薙ぎ、
火打石で草を焼いたときに帯刀していたとされる。
駿河国(現・静岡県中部・北東部)の地名「焼津」はこのとき草を焼いたことに由来するという。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)とあわせて三種の神器と呼ばれているものの一つ。
八坂瓊曲玉とも書く。
大きな玉(ぎょく)で作った勾玉であり、
一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。
岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛だが[1]、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことである[要出典]。8尺は(当時の尺は今より短いため)約180センチメートル (cm)、8咫は約140cmである。
この長さは、玉の周とも、尾を含めた長さであるとも、結わえてある緒の長さであるとも言う。また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある。
「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙(メノウ)のことであるともされる(現代の瑪瑙細工では深紅の赤瑪瑙が細工物や勾玉などによく使用され、ありふれた色だが、これは江戸時代に原石を加熱して赤く発色させる技法が発明されてよりの事である)。
日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、
八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。
後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。
古事記には、
八尺瓊勾玉(緒に通した勾玉)の後ろに、
さらに『五百津之美須麻流之珠』(やさかにのまがたまのいほつのみすまるのたま)という、
数の多さを形容した語が付く。