在位自 | : | 西暦809年 |
在位至 | : | 西暦813年 |
生年 | : | 西暦787年4月 |
没年 | : | 西暦813年9月24日/25日 |
家名 | : | アッバース家 |
王朝 | : | アッバース朝 |
宗教 | : | イスラーム教スンナ派 |
父親 | : | ハールーン・アッ=ラシード |
母親 | : | ズバイダ |
配偶者 | : | |
子女 | : | |
西暦1136年、 セルジューク朝のマスウードにより甥ラーシドが廃位、 ムクタフィーが擁立され即位する。 この時、ムクタフィーの兄アル=ムスタルシドの宰相の一人だったアル=ザイナビーの推挙があったというが、 ムクタフィーは即位後アル=ザイナビーとの関係を悪化させ追放している。
西暦1147年、 ムスタンジドを後継者に指名し、 金曜礼拝のフトバでムスタンジドの名前が唱えられるようになる。
西暦1148年、 周辺のアミールの連合軍がバグダードを包囲したが、 ムクタフィーは武将イブン・フバイラの活躍でこの攻撃を退けた。 翌西暦1149年、 ムクタフィーはイブン・フバイラを宰相に任用する(なお、イブン・フバイラはサラディンの側近であるイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーが若いころ仕えていた人物でもある)。
西暦1152年、 セルジューク朝のシフナを追い出し、 西暦1157年にはセルジューク朝のフトバを切り、 スルタンであったムハンマド2世の対抗者スライマーンを支持し独立傾向を強めた。 ムハンマド2世はザンギー朝モスル政権等の支援のもとバグダードを包囲するが、 ムクタフィーはこれに耐えぬいた。 この試みが成功したのはイブン・フバイラの力が大きい。
西暦1160年、内臓の病により死去。
ムクタフィーはトルコ系を避け、 ギリシャ系とアルメニア系のマムルークを購入して再軍備を図った。
彼はアッバース朝の直接支配する領地を拡大し、 アイヤールの反乱も鎮圧している。 活発な軍事行動は彼の兄ムスタルシドと共通するが、 ムスタルシドが自ら軍を率いることが多かったのに対し、 ムクタフィーは宰相イブン・フバイラを始めとする武将たちに遠征を任せて親征することは少なかった。 ムスタルシドやラーシドが自ら軍を率いたために殺されたことからムクタフィー以降のカリフは学び、 親征を控えるようになる。 だが、これはカリフが再び宮殿にこもることになり再度の衰退の遠因となった。 彼らが敵対するセルジューク朝はスルタンの潜在的な候補がプールされていたが、 アッバース朝はそうはいかなかったのである。
父親は第25代カリフであるカーディルである。 人柄はよく、学識豊かでカーディルが自然死した西暦1031年に30歳で即位した。
父親と同じく、ブワイフ朝に逆らわず、よく身を守ったが、 イランの大部分を手中に収めスルタン(スルターン)の称号を称し始めたスンナ派のムスリム(イスラム教徒)である中央アジア出身の王朝セルジューク朝初代のトゥグリル・ベグは、バグダードにいるカーイムに書簡を送って忠誠を誓い、 スンナ派の擁護者としてシーア派に脅かされるカリフを救い出すため、 イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つ、 という大義名分を獲得した。
西暦1055年、 カーイムから招きを受けたトゥグリル・ベグはブワイフ朝のアミール・アルウマラーを追放してその勢力を駆逐してバグダードに入城し、 カリフから正式にスルタンの称号を授与された。 同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、 スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、 貨幣に刻まれることが命ぜられ、 スルタンという称号がイスラーム世界において公式の称号として初めて認められた。 そのためバグダード周辺は「バグダード・カリフ領」としてセルジューク朝およびホラズム・シャー朝の時期を通じてアッバース朝カリフの支配下になる。
その間も、よく身を守ったため平穏無事で西暦1075年に自然死した。 在位期間は父親を超える44年間である。
第24代カリフであるターイーと女奴隷との間に生まれた。(?????) 学識豊かで、品行方正、人格者で貧者への施しを好んだ。 父親はブワイフ朝の完全な傀儡でバッハー・ウッダウラの怒りを買って退位させられ、 西暦1000年には、 ガズナ朝のマフムードに、「栄誉の賜衣(ヒルア khil`a )」が贈り、 併せて「王朝の右手」の尊号が与えた。 (程なくして「宗門の後見人という尊号も与えている)。
アッバース朝の第16代カリフであるムウタディドと女奴隷のフィトナとの間に生まれた。
異母兄で第18代カリフのムクタディルに大将軍ムーニスに西暦929年に謀反をおすと担ぎ出され兄に代わって即位したが、
すぐに謀反は鎮圧され兄の前で泣いて命乞いをして許された。
しかし、西暦932年にムーニスよってムクタディルは殺害されたため再度、カリフとなった。
即位後は、ムクタディルの家族の財産を取り上げ虐待し敵対した重臣の多くを殺害し財産を没収した。 移り気で変わりやすい性格で流血を好み臣下たちから恐れられた。 功臣ですら昔の些細な私怨で殺害したため西暦934年、 軍人たちは蜂起して甥のラーディーを第20代カリフに即位させ、 カーヒルは捕らえられ牢獄に入れられ失明させられた。
カーヒルから没収した大臣の財産の隠し場所を聞き出そうと拷問にかけたが口を割らず、
ラーディーは方針転換して歓待して泣き落として聞き出そうとしたが失敗した。
ラーディーの在位中は、
カーヒルの存在は秘密とされ噂も禁じられていた。
次代のムッタキーの時代でも幽閉されていたが、
ある日、礼拝していた民衆の前に現れカリフへの嫌がらせも兼ねて物乞いをした。
このことで自由な外出も禁じられてしまったが、
ムッタキーが西暦944年に自分と同じく両目を潰され退位させられたと聞くと、
3人目の盲目にされるカリフが出現を預言するような詩をつくった。
西暦950年に53歳で死んだ。
第23代カリフであるムティーと女奴隷ハザールとの間に生まれた。 父親は西暦946年に即位したが、 ブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラの完全な傀儡で、 イラク政権を継承した息子のイッズ・ウッダウラの時代となった西暦974年に退位してムティーに地位を譲った。
43歳で即位したが、 イッズ・ウッダウラに対してトルコ系傭兵隊長が反乱を起こし救援のためファールス政権のアズド・ウッダウラ(英語版)に、 西暦975年にバグダードに入り反乱を鎮圧した。 アズド・ウッダウラは、野心からイッズ・ウッダウラと争い攻め滅ぼした。
ターイーは、最初にアズド・ウッダウラに会ったときは、 くみし易しと見て高飛車に接したが二か月で完全に屈服させられた。 アズド・ウッダウラは、 農業生産の高いファールスと肥沃なイラクを統一し、 ムイッズ・ウッダウラの死以来混乱していたイラクの統治を安定させてブワイフ朝の最盛期をもたらしたが統治のためにはアッバース朝のカリフの権威は必要だった。
西暦980年に、 ファーティマ朝の使節が訪れた時には、 アズド・ウッダウラにうやうやしくターイーに仕える姿を見せたが、 翌年にはアズド・ウッダウラが出征し戻ってきた時、 カリフに出迎えさせた。 西暦983年にアズド・ウッダウラが死ぬと、 息子たちがそれぞれ入れ替わりイラクの統治を統治したが、 西暦991年にブワイフ朝のバッハー・ウッダウラの怒りを買い(近臣の一人を投獄した)、 宮殿から連れ去られた。 本人不在のまま退位させられが新しい宮殿に迎えられ丁重に待遇され、 わがままを言いながらも大往生をとげた。
アブー・アル=アッバースは、 アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフと、 ハーリス家のライタ・ビント・ウバイドゥッラーの子としてヨルダン南部のフマイマ村で誕生した。 アブー・アル=アッバースの前半生は不明確である。
西暦743年にムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフは没し、 彼の跡を継いだ長子でアブー・アル=アッバースの兄にあたるイブラーヒームはウマイヤ朝打倒の運動を開始した。 ホラーサーン地方に派遣されたダーイー(宣教師)のアブー・ムスリムは現地で蜂起し、 ホラサーニーと呼ばれる軍隊を率いてイラクに向けて進軍した。 西暦748年にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、 アブー・アル=アッバースは兄のアブー・ジャアファルをはじめとする親族とともにイラクのクーファに避難する。
西暦749年9月にホラーサーンの革命軍はクーファに入城し、 誰が新しいイマーム(指導者)となるかが問題になる。 シーア派の要人アブー・サラマはシーア派の人物をカリフに選出することを望んだが、 アブー・サラマらホラーサーンの革命軍はアブー・サラマに先んじてアブー・アル=アッバースをカリフに推戴してバイア(忠誠の誓い)を行い、 アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認める。
アブー・アル=アッバースの即位の経緯については、 四代目正統カリフ・アリーが伝えた「黄色の書」にまつわる異説がある。
アブー・アル=アッバースの父ムハンマドが保管していた「黄色の書」にはアッバース革命における出来事が正確に予言され、 クーファ制圧後に「黄色の書」を確認した将軍ハサン・ブン・カフタバは、 初代カリフとなる人物が持つ「カリフの徴」をアブー・アル=アッバースの背中に見つけたため、 ただちにバイア(忠誠の誓い)が行われたといわれている。 「黄色の書」にまつわる逸話はアブー・アル=アッバースを預言者ムハンマドになぞらえるための後世の創作であり、 アッバース革命が武力による簒奪ではなく神の意思に基づいたものと仄めかす意図があったと考えられている。
西暦749年11月28日、 アブー・アル=アッバースはクーファの金曜礼拝で行ったフトバ(説教)で革命に協力した人間に褒賞を約束し、 フトバの中で自らを「サッファーフ」と称した。 長幼の序列がないイスラームの戒律では相続などの法的場面において兄弟は平等に扱われ、 兄のアブー・ジャアファルがベルベル人の女奴隷を母に持つためにアブー・アル=アッバースがカリフに選ばれたと考えられている。 また、 アブー・ムスリムらが剛毅なアブー・ジャアファルよりもアブー・アル=アッバースの方が制御しやすいと判断したために、 彼をカリフに選出されたと推測する意見もある。
サッファーフが即位した時点では、 イラクはアッバース朝の支配下に入ったが、 シリアはいまだにウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世の支配下に置かれていた。 また、イベリア半島、北アフリカ、オマーン、シンドにはアッバース朝の権威は行き届いておらず、 イラクにおけるウマイヤ朝の拠点であるワーシトは頑強に抵抗を続けていた。 サッファーフはクーファ郊外に軍事基地を設置し、 クーファに集まった各地の人々はサッファーフに忠誠を誓った。 力をつけたサッファーフはマルワーン2世の攻撃を行う人物を募り、 叔父のアブドゥッラーに追撃を命じる。 西暦750年1月にアブドゥッラーは、 チグリス川の支流である大ザーブ川のほとりでマルワーン2世を破った後にシリアに進軍し(ザーブ川の戦い)、 ダマスカスを陥落させてシリア全土を征服する。 西暦750年8月にアブドゥッラーの追撃隊はエジプトに進み、 この地に逃れていたマルワーン2世を殺害する。 同西暦750年にアブー・ジャアファルとハサン・ブン・カフタバが、 ワーシトに立て篭もったウマイヤ朝の総督ヤズィード・ビン・フバイラを破る。
サッファーフは各地に軍隊を派遣して潜伏していたウマイヤ家の一族を殺害し、 ウマイヤ家の残党狩りにおいては叔父のアブドゥッラーが中心的な役割を果たしていた。 ウマイヤ家への苛烈な攻撃は彼らへの同情を生み、 シリア、メソポタミアで反アッバース家の反乱が起きる。 反乱の参加者は髭を剃ってアッバース家への忠誠を拒む意思を示したが、 サッファーフは政治的な手段によって反乱を鎮圧し、 有利な条件を提示された反乱者はアッバース朝に帰順する。 また、カリフ・ヒシャームの孫アブド・アッラフマーン1世はアッバース朝の目をかいくぐってイベリア半島に逃れ、 コルドバを首都として後ウマイヤ朝を創始する。
かつてアリー家の人間をカリフに推戴しようとしたアブー・サラマの処遇が問題となっていたが、 サッファーフはアブー・ジャアファル、アブー・ムスリムと謀り、 アブー・ムスリムが派遣した刺客によってアブー・サラマは暗殺される。 サッファーフは一族を各地の総督に任じ、 アブー・ジャアファルをジャズィーラ(メソポタミア)、 叔父アブドゥッラー、スライマーン、サーリフをそれぞれシリア、バスラ、エジプトに、 従兄弟のイーサー・ブン・ムーサーをクーファに派遣する。 また、功労者のアブー・ムスリムには引き続きホラーサーンの支配を認めた。 周囲にはイスラーム法に知悉した人間を置き、彼らに助言を仰いだ。
シーア派の勢力が強いクーファを嫌って一時期ハーシミーヤに移り、 さらに西暦752年にユーフラテス川沿岸のアンバールの近郊に移住してこの地を将来の首都に定めた。 アッバース革命において大きな役割を果たした過激シーア派が統治の障害になると考え、 アブー・ムスリムに命じてホラーサーンの過激シーア派の弾圧を行った。 東方においては、 西暦751年7月にアブー・ムスリムが派遣した将軍ズィヤード・ブン・サーリフがタラス河畔の戦いで唐に勝利を収めた。 しかし、中央集権化を推進するサッファーフら中央の政府とアブー・ムスリムらホラーサーン勢力の関係は悪化し、 ホラーサーンではズィヤードをはじめとする親カリフ派の人間が処刑される。 西暦754年、 アブー・ムスリムは異心を抱いていないことを示すためにアンバールを訪れ、 サッファーフは彼と歓談した。 この際にアブー・ジャアファルはサッファーフにアブー・ムスリムの排除を進言したが、 サッファーフはアブー・ムスリムの暗殺をためらい、 計画は実行に移されなかった。
西暦754年6月、 アブー・ジャアファルとアブー・ムスリムがメッカ巡礼に出立している時、 アンバールにおいてサッファーフは天然痘に罹って病没する。 サッファーフの死後、 彼が生前に継承者に指名していたアブー・ジャアファルがカリフの地位を継承する。
歴代カリフでもっとも長い治世を誇り、 数世紀に渡り弱体化したカリフの権力・政治的実権と全ムスリムからの宗教的権威の双方の回復に努めた。 そのため内外の諸勢力の対立を利用して周辺諸国の同盟関係に干渉し、 これを操ってアッバース朝の優位性を確立するため奔走している。
即位すると、まずエルサレム王国打倒のため諸国からの協力を欲していたアイユーブ朝のサラーフッディーンの要請に応じてジハード宣言を下す一方で、 エジプトからシリア一帯を征服しつつあったサラーフッディーンを警戒してその動向を批判するなどして牽制している。
この時期、アタベク諸政権とその庇護化にあった王族たちによる内紛が絶えなかったセルジューク朝は弱体化が激しく、 また西暦1180年代半ばにはホラーサーンからオグズ諸勢力がイラン東部に侵攻してケルマーン・セルジューク朝を滅ぼしていた。 ナースィルはこの混乱を好機と見てホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュに誘い掛けて、 西暦1194年にはセルジューク朝最後の君主となるトゥグリル3世を攻め滅ぼさせた。 同時に、ゴール朝のギヤースッディーン・ムハンマドにも軍事支援の要請を取り付けることにも成功し、 これにテキシュの牽制も行った。
アラーウッディーン・ムハンマドとジャラールッディーン・メングベルディーのイラン、イラク地域での攻勢に苦しい立場にさらされ、 モンゴル帝国の侵攻(チンギス・カンの西征)にはほとんど対抗が出来なかったものの、 ルーム・セルジューク朝や奴隷王朝、 インドから帰還したジャラールッディーンにモンゴル軍への対抗(モンゴルのインド侵攻)を支援するなど多方面への働きかけを続けている。
アッバース朝の復興を半ば実現した一方で、 ナースィルの外交政策によって周辺諸勢力を混乱させ、 ホラズム・シャー朝の没落とモンゴル帝国の侵攻を容易にしたとして同時代の人々からの批判は功罪半ばしているが、 後世からはこの時代にあって卓越した行動力と鋭敏さで国事と外交を采配した有能な君主であった、 という評価を受けている。
在位自 | : | 西暦786年 |
在位至 | : | 西暦809年3月24日 |
生年 | : | 西暦763年3月17日 |
没年 | : | 西暦809年3月24日 |
家名 | : | アッバース家 |
王朝 | : | アッバース朝 |
宗教 | : | イスラーム教スンナ派 |
父親 | : | マフディー |
母親 | : | ハイズラーン |
配偶者 | : | ズバイダ、 |
マラージル | ||
マーリダ | ||
子女 | : | アミーン |
マアムーン | ||
ムウタスィム | ||
父は第3代カリフのマフディー。 母は南アラビアのイエメン出身の元女奴隷ハイズラーン。 同母兄に第4代カリフのハーディーがいる。 他には、ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男ジャアファルに嫁いだ妹のアッバーサがいるが、 同母かは不明。 正妃はマンスールの孫で従妹のズバイダ。 子はアミーン(母はズバイダ)・マアムーン(母はマラージル)・ムウタスィム(母はマーリダ)他多数。 西暦785年に即位した兄のハーディーは、 即位わずか1年で謎の急死を遂げており、 この死はハイズラーンが関与した暗殺だったという説がある。
ペルシャ人の官僚ヤフヤー・イブン=ハーリドの後見を受け、 父の治世から若くして東ローマ帝国との戦いなどに参加、 西暦786年に23歳でカリフに即位した。 即位後はヤフヤーが宰相(ワズィール)に就任し、 ヤフヤーの2人の息子ファドルとジャアファルを始めとするバルマク家の者がハールーンの治世を支えた。
西暦796年には宮廷をユーフラテス川中流のラッカに移転させ、 治世の残りをラッカに築いた宮殿で過ごした。 ラッカは農業の中心・交通の要所で、シリア・エジプトやペルシャ・中央アジア方面の軍の指揮に適するほか、 東ローマ帝国の国境に近い戦闘の最前線でもあった。 ハールーンは西暦797年、 西暦803年、 西暦806年と3度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、 アッバース朝の勢力は最盛期を迎えた。 この間、西暦803年には権勢を握りすぎたバルマク家の追放を決意し、 ヤフヤーとファドルを捕らえ、 ジャアファルを処刑してバルマク家の財産を没収、 カリフによる直接統治を開始した。
しかし対外的に絶頂を極めた影で、帝国の内部は地方の反乱に悩まされ、 アッバース朝は分裂に向かい始めていた。 さらに、バルマク家の追放後はカリフの側近の軍人たちが権力を握り始め、 のちのマムルークによる支配体制の端緒が見られるなど、 この時代はアッバース朝の統一とカリフの支配力が緩み始め、 衰退の兆候があらわれた時期でもあった。
文化の面では学芸を奨励し、イスラーム文化の黄金時代の土台を築いた。
在位自 | : | 西暦813年 |
在位至 | : | 西暦833年 |
生年 | : | 西暦786年9月14日 |
没年 | : | 西暦833年8月9日 |
タルスス付近 | ||
家名 | : | アッバース家 |
王朝 | : | アッバース朝 |
宗教 | : | イスラーム教スンナ派 |
宗教 | : | イスラーム教スンナ派 |
父親 | : | ハールーン・アッ=ラシード |
母親 | : | マラーズィル |
配偶者 | : | ウム・イーサ(ハーディーの娘) |
(ハーディーの娘) | ||
子女 | : | ウンム・アル=ファドル |
(ムハンマドの妻) | ||
マアムーンは第5代カリフ、 ハールーン・アッ=ラシードの長子として西暦786年9月14日に生まれた。 実名はアブドゥッラー。 母はイラン系の女奴隷マラーズィルであるが、 マアムーンの誕生後まもなく没したため、 ハールーン・アッ=ラシードの正后ズバイダのもとで育てられた。
アブドゥッラーは長子であったが、 西暦794年、 次男のムハンマド(のちのカリフ・アミーン)が第一後継者に指名された。 これはムハンマドがズバイダのなした子であったためである。 ズバイダは第2代カリフ・マンスールの孫で、 ハールーンのいとこに当たっており、 ムハンマドは両親ともアッバース家のもので、 その貴種性はまぎれのないものであった。 アブドゥッラーが第二位継承者に指名されるのは西暦799年のことである。 ハールーン・アッ=ラシードは生存中に、 二人の息子に誓書を作らせた。 太子ムハンマドには、次代のカリフには兄アブドゥッラーを指名すること、 帝国の東半分の統治は兄に一任することを誓わせた。 一方、アブドゥッラーには弟のムハンマドがカリフ職を担う際には忠誠を尽くすことを誓わせた。 この誓書は『マッカ文書』の中に入っており現存している。
西暦809年、 ムハンマドがカリフに即位、アミーンを名乗る。 アブドゥッラーは直ちに任地マルウを中心とするホラーサーンヘ引きこもった。 しかし、間もなく西暦811年、 アミーンは誓書の誓いを破り、兄のアブドゥッラーを差し置き、 息子ムーサーを後継者とする意向を示した。 アブドゥッラーはこれに対抗してイマームを名乗った。 西暦811年3月、 まずアミーンが討伐軍を差し向けた。 これに対してマアムーンは、 イラン系の名将ターヒルを司令官に任命して応戦した。 西暦812年3月、 アブドゥッラーは公式にカリフ・マアムーンを名乗る。 アミーンの方は、母がアラブ人だった事もあり、アラブ人を軍の主力とし、 マアムーンはイラン人を軍の主力とした。 西暦812年の夏には、 ターヒル率いる軍はホラーサーンからの増援も加えてバグダードを包囲した。 アミーンもよく防いだが帝国諸地方が次々にマアムーンになびき、 西暦813年9月に陥落。 アミーンは捕らえられて殺害された。
しかし、マアムーンは以降も慎重を期して、 マルウでしばらく事態を静観していた。 その後、彼は驚きの行動に出た。 反アッバース朝の運動をたびたび起こすアリー家のものを後継者に指名したのである。 西暦816年に、 ムハンマドの血統でマディーナ(メディナ)に住んでいたムハンマド(シーア派・十二イマーム派における第9代イマーム)を呼び寄せ、 817年には自分の後継者として指名。 周囲にも忠誠(バイア)を誓わせ、 アッ=リダー(神の嘉せし者)という称号を与えた。 そればかりか、アッバース家の色は黒であったが、 マアムーンはこれをアリー家の緑色に変えてしまった。 この処置は、アッバース家の人々だけでなく、 イラクの住民達をも怒らせてしまった。 バグダードではマアムーンの叔父の一人がカリフに推されただけでなく、 各地で反乱が勃発した。 イラク地方で、マアムーンに忠誠を守り続けたのは、バスラ総督のみであり、 他の者はことごとく反乱軍に荷担した。 マアムーンは、マルウに留まる事ができなくなった。 マアムーン一行は、 西暦818年の末にアル・リダーを伴い、 大挙して西に向かった。 しかし、トゥース近郊まで来た時、 アリー・アッ=リダーは急死してしまった。 シーア派ではこれをマアムーンによる毒殺とし、 当地はシーア派聖地マシュハドとなっている。 マアムーンは、アリー・アル・リダーをトゥース近郊のハールーン・アッ=ラシードの墓所の近くに埋葬すると、 そのまま前進を続け、即位6年目にして、ようやくバグダードに入った。 だが、それから後も、彼の治世中に多くのバーバクの乱など反乱が多発する。 このなかでホラーサーン方面をターヒルにゆだね(ターヒル朝の創業)、 マアムーンは晩年には、東ローマ帝国との戦いに明け暮れる事になった。 なお西暦830年の東ローマ遠征でシリアのハッラーンを通過したさい、 マアムーンが住民に啓典宗教への改宗を命じたことが、 いわゆる「ハッラーンのサービア教徒」の起源となる。
マアムーンは文化の発展に力を尽くし、アッバース朝の中で最も教養が高く、 学問を愛したカリフと言われる。 彼は開明的な君主で詩を愛好し、 天文学・数学・医学・ギリシャ哲学について造詣が深く、 特にユークリッドの幾何学に精通していたという。 マアムーンは、ギリシャの学問を尊重し、ギリシャの文献収集に力を入れ、 それらの文献をアラビア語へ翻訳する事を奨励した。 西暦827年には“アルマゲスト”の翻訳のほか、 シンジャール平原において緯度差1度に相当する子午線弧長の測量を命じている。 マアムーンは優秀なギリシャ語学者を多く集め、 西暦830年頃にはバグダードに「知恵の家」を建て、 このように彼らを優遇し、存分に才能を発揮させた。 マアムーンはここを、ギリシャ文献翻訳の本拠地とした。 この場所には、フナイン・イブン・イスハークを初めとする、 卓越した学者達が多く集ってきた。 この知恵の家には、立派な天文台や図書館があり、 経緯度の測定、天体の運行表の作成やその他の活動も行なわれた。 大地の大きさの計算などは、ほとんど現代のそれと変わりがなかったという。 また、マアムーンはエジプトに行った折に、ピラミッドに穴を開けさせ、 内部の調査もさせている。
西暦833年にマアムーンは、 タルスス付近の宿営地で死去した。 マアムーンの死後、帝国はイスラーム原理主義の台頭による反科学的な復古主義や、 地方政策をめぐる混乱により次第に衰退していく。
マフディーは西暦744年ないし西暦745年、 クーファで生まれた。 西暦760年、 アリー家一門の長老だったアブドゥッラー・アル=マフドとその息子ムハンマド・アン=ナフス・アッ=ザキーヤが叛乱を起こした時、 アブドゥッラー・アル=マフドは息子のアン=ナフス・アッ=ザキーヤを救世主・マフディーと呼んで決起したが、 カリフ・マンスールはこれに対抗して自らの息子ムハンマドに「マフディー」というあだ名をつけ、 これが即位名となった。
西暦775年、 父マンスールが亡くなり、 遺言によって後継者に指名されていたようで、 臣従の誓い「バイア」を受けて即位した。 即位後ただちに廷臣たちに息子のムーサー(のちのハーディー)とハールーン(のちのハールーン・アッラシード)の兄弟を自らの後継者と認めるように誓わせたと伝えられている。
西暦777年に、 ホラーサーンのメルヴにおいて、 ハーシム・アル=ムカンナアが叛乱を起こした。 このアル=ムカンナアは片目の人物だったと伝えられており、 輪廻の教義を説いてホラーサーン一帯で支持を集めた。
西暦781年2月7日、 マフディーは東ローマ帝国領へ派兵した。 遠征軍司令には後にカリフとなる息子のハールーンを送っている。
マフディーは後代の歴史家たちの評によると、 大変に敬虔な人物だったと伝えられており、 一日五回の礼拝のおりには、 その度ごとに人々とともに列席して礼拝を行ったという。 彼がメッカへの巡礼(ハッジ)を行った歳にはイエメンやエジプトから支出し、 ハッジの諸々の儀礼にともなう費用として銀貨8万ディルハムを扶助したともいう。 また、病人や身体障害者のために多くの病院を各地に建設した。
父のマンスール時代に引き続き、 マニ教徒などのいわゆる「ザンダカ主義者(ズィンディーク)」と呼ばれたアッバース朝に反抗したキリスト教、 ユダヤ教以外の様々な宗教勢力やメルヴから出現しホラーサーン一帯に割拠したアル=ムカンナアなどの反アッバース朝闘争の鎮圧に忙殺された。 ビザンツ帝国への遠征も行っている。
マフディーは西暦785年に死去した。 次代はマフディーの遺言通り、 長男のムーサー(ムーサー・アル=ハーディー)が継いだ。
マフディーは治世中に、 ネストリウス派総主教ティモテオス1世に依頼して、 アリストテレスの『トピカ』など論理学関係のギリシャ古典哲学の作品を、 ギリシャ語原典やシリア語訳からアラビア語へ翻訳させている。
マフディーはアッバース朝政権の政治的、 特に宗教的優位性を確立するために腐心し、 いわゆる「ザンダカ主義者(ズィンディーク)」勢力を理論的にも圧倒する事を意図して、 これらの勢力の研究やギリシャ哲学思想の研究を行わせ、 「異端者」の摘発等を進めた。
このように、反抗勢力との闘争と、アッバース朝政権の磐石化を進める中で、 シリアなど領内のキリスト教側からの協力も受けてアリストテレス哲学を受容し、 マフディーの時代にイスラーム(思弁)神学の土台が築かれていった。
マフディーには、イエメン人の奴隷出身だったハイズラーンという妃がおり、 即位の翌年西暦775年-西暦776年に彼女との間に、 後にカリフとなるムーサー・アル=ハーディー、ハールーン・アッラシード、 娘のバヌーカを儲けた。 また、ハイズラーンを娶った同じ年にアル=ファドル・ブン・サーリフの娘、 ウンム・アブドゥッラーとも結婚している。
アブー・ジャアファルは、 アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。 ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、 一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する。
父のムハンマド、 兄のイブラーヒームはアリー家のアブー・ハーシムの遺言に従ってウマイヤ家の打倒を目指し、 有力者の支持を取り付けるため各地にダーイー(宣教員)を派遣した。 アブー・ジャアファルの前半生には不明な点が多いが、 西暦744年に第4代正統カリフ・アリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤが起こした反乱に参加したと伝えられている。
西暦748年にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、 危機を察したアブー・ジャアファルは弟のアブー・アル=アッバースら親族とともにイラクのクーファに避難する。 クーファのシーア派の中心人物であるアブー・サラマはアッバース家の人間を密かに保護し、 アブー・ジャアファルたちの元にはシーア派の人間が集まり、 一大勢力を形成した。
仲間内での抗争を防ぐため、 アッバース革命の中で誰がウマイヤ家のカリフに代わる新たなイスラームの指導者になるか明確にされていなかった。 西暦749年9月にホラーサーン地方で挙兵したダーイーのアブー・ムスリムがクーファに入城し、 新たな指導者の選出が始められる。 アブー・サラマは正統カリフ・アリーの一族からカリフを選ぶ事を望んでいたが、 アブー・ムスリムらホラーサーンの革命軍はアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに選出してバイア(忠誠の誓い)を行い、 アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認めた。 西暦749年11月にクーファでアブー・アル=アッバースがカリフへの即位を宣言し、 翌西暦750年にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世が殺害されたことが確認されると正式に新王朝が樹立された。
西暦750年、 アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともに、 ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィード・イブン・フバイラが立て籠もるワーシトを包囲する。 11か月に及ぶ包囲の末、 ヤズィードと彼の家族、家臣の安全と全財産を保障する条件でワーシトに入城した。 ヤズィード一族の勢力を警戒するアブー・ムスリムとサッファーフはヤズィードたちの処刑を命じ、 アブー・ジャアファルは命令の遂行を拒否し続けたものの押し切られ、 ヤズィードと彼の長男、家臣を処刑する。
アブー・アル=アッバース(サッファーフ)の即位後、 アブー・ジャアファルにアリー家出身者のカリフ選出を主張したアブー・サラマへの対処が求められる。 アブー・ムスリムが派遣した刺客によってアッバース家の人間が泥を被ることなくアブー・サラマを粛清することができたが、 アブー・ジャアファルはアブー・ムスリムの能力と軍事力に恐れを抱くようになる。 クーファに帰還したアブー・ジャアファルはサッファーフからジャズィーラ地方(イラク共和国北部、シリア・アラブ共和国、トルコ共和国にまたがるメソポタミアの地域)の統治を任され、 モースルに赴任したくようになる。
西暦754年にアブー・ムスリムは二心がないことを示すためにアッバース朝の首都アンバールを訪れ、 サッファーフと談笑した。 そしてアブー・ムスリムは歴代のカリフが直々に行うメッカ大祭に向かう巡礼団の総指揮を申し出たが、 総指揮はすでにアブー・ジャアファルに委任されていた。 この時にアブー・ジャアファルはサッファーフにアブー・ムスリムの排除を進言したが、 サッファーフは功績のあるアブー・ムスリムの粛清を躊躇い、 アブー・ジャアファルの意見は容れられなかった。 巡礼団にはアブー・ムスリムが補佐として同行し、 両者は一定の距離を置きながらも衝突を起こすことなく巡礼を終えたと考えられているが、 巡礼の途上でアブー・ジャアファルとアブー・ムスリムの間に諍いが起きたとも言われている。 巡礼の帰路で一行がアンバールに達した時、 一行の元にサッファーフの訃報が届き、 アブー・ジャアファルはカリフ位の継承を宣言した。 ベルベル人の女奴隷の子供がカリフに即位した前例は無く、 マンスールの即位はアラブ純血主義を打破するきっかけとなった。
アブー・ジャアファルの叔父アブドゥッラー・イブン・アリーはシリア北部で東ローマ帝国との戦争の準備を進めていたが、 女奴隷の子であるマンスールの即位に反対し、カリフを自称した。 アブドゥッラーはシリア、メソポタミア方面の軍隊を掌握しており、 マンスールはホラーサーン軍を率いるアブー・ムスリムの力を頼らなければならなかった。 アブー・ムスリムは数か月の間メソポタミア各地で反乱軍と戦い、 西暦754年11月にモースル北方のヌサイビーン(ニシビス)(英語版)の戦いで勝利を収め、 アブドゥッラーをバスラに追いやった。 アブドゥッラーは7年間を獄中で過ごした後、 マンスールが塩の土台に建てた家の中に入れられ、 崩れた家屋に潰されて圧死したと伝えられている。 『カリーラとディムナ』の翻訳に携わったイブン・アル=ムカッファはマンスールによって処刑されるが、 処刑の一因にはムカッファがアブドゥッラーに仕えていた過去があったためだと考えられている。
アブドゥッラーが失脚した後、 マンスールはホラーサーンを治めるアブー・ムスリムを最大の脅威と認識していた。 戦利品の5分の1をカリフに送り、 残りを先頭に参加した兵士に平等に分配することがイスラーム世界の慣例となっていたが、 マンスールは本来戦利品の分配を行うべきアブー・ムスリムに戦利品を明け渡すように命令し、 アブー・ムスリムはマンスールの指示に不満を抱いた。 反乱を鎮圧したアブー・ムスリムは領地のホラーサーンに帰ろうとするが、 マンスールは使者を遣わしてアブー・ムスリムを留め置いた。 一説によれば、交渉の中でマンスールはアブー・ムスリムにホラーサーンと引き換えにシリア・エジプト総督の地位を与えようとしたが、 アブー・ムスリムは提案に応じず領地に帰還しようとしたと言われている。 根負けしたアブー・ムスリムはやむなくマンスールの元を訪れ、 マンスールは天幕に入ったアブー・ムスリムに労いの言葉をかけ、 休息を取って翌日再び自分の元を訪れるように命じた。 翌日、面会の前にマンスールはアブー・ムスリムのもとに出迎えの使者を送り、 天幕に武器を持った兵士を潜ませて暗殺の準備を進める。 天幕の中でマンスールはアブー・ムスリムの剣を取り上げ、 彼がこれまで犯した罪を弾劾し、 アブー・ムスリムの釈明を聞くとより怒りを募らせた。 アブー・ムスリムは敵対者との戦いのために自分を生かしておくよう嘆願したが、 マンスールはアブー・ムスリムこそが最大の敵だと答え、 陰に忍ばせていた従者によってアブー・ムスリムを殺害させた。
アブー・ムスリムの訃報が届けられたホラーサーンには大きな衝撃が走り、 復讐のための蜂起が起きた。 ペルシャ人のスンバーズ(スンバード)を指導者とする反乱軍はイラクに西進したが、 ハマダーンとレイの間でマンスールが派遣した討伐隊に撃破される。 しかし、討伐隊の司令官ジャフワル・ブン・マッラールはホラーサーンに蓄えられていた富を見て変心し、 マンスールに対して反乱を起こした。 ジャフワルを撃ち、ようやく東方に安定がもたらされた。 ジャフワルの反乱と同時期、 ジャズィーラ地方で反乱を起こしたハワーリジュ派のムラッビド・ブン・ハルマラがマンスールの派遣した軍に勝利を収めており、 西暦756年に将軍ハーズィム・ブン・フザイマの活躍によって反乱の鎮圧に成功する。
ホラーサーン、ジャズィーラでの動乱の前後にアナトリア方面では東ローマ帝国の侵入の撃退に成功し、 7年の和約を結んだ。 しばしば東ローマからの侵攻に晒される国境地帯には、 防衛のために多くの要塞が建設される。 西暦756年/西暦757年、 マンスールは将軍ハサン・ブン・カフタバと甥のアブド・アル=ワッハーブに東ローマ軍の攻撃によって破壊されたマラトヤ(マラティヤ)の再建を命じる。 アブド・アル=ワッハーブは私費を投じて工事に参加する労働者に食事を振舞うハサンを不快に思い、 マンスールに彼の行動を訴え出た。 マンスールはアブド・アル=ワッハーブの心の狭さを咎め、 ハサンには労働者の供応を続けるよう励ました書状を送った。 再建されたマラトヤには駐屯部隊と彼らに割り当てられた農地が置かれ、 後にマラトヤの攻撃を試みた東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はマラトヤの兵力の多さを知って撤退する。
西暦758年4月にマンスールはメッカ巡礼に発ち、 エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、 ハーシミーヤに帰国した。 しかし、マンスールが帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家を支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスールの宮殿の周りを歩き回り、 ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件が起きていた。 ラーワンド派はインドの輪廻思想の影響を受け、 自分たちに食料と水を与えるマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。 彼らの行動を不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、 残ったラーワンド派の人間は激高し、 牢内の仲間を救いだした後、宮殿に殺到した。 マンスールは護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、 戦闘の中で突然現れた覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。 戦闘を終えたマンスールは覆面の男に正体を訪ね、 男は自分はアッバース朝の探索から逃れていたウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かした。 マンスールはザーイダの功績を評価して彼をヤマン(イエメン)の総督に任じ、 ザーイダは任地の統治で大きな功績を挙げた。 また、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、 マンスールはラバに乗って戦わなければならなかった。 この事件以後マンスールは宮殿の入り口に常時馬を繋ぎとめるようになり、 救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家の支配者にも受け継がれた。
西暦759年に西方のタバリスターン、 ギーラーンがアッバース朝の支配下に組み込まれ、 カスピ海沿岸部のダイラムからの侵入を撃退する。 西暦762年にグルジアに侵入したハザールを破り、 マー・ワラー・アンナフル、インドへの進出を試みたが、 領土拡大の成果は上げられなかった。 マンスールが派遣した軍隊によってカンダハールの仏像は破壊され、 アッバース軍はカシミールに到達した。
北アフリカ、ウマイヤ家の残党が拠るイベリア半島にはマンスールの権威は及んでいなかった。 マグリブでは平等主義を標榜するイバード派を信奉するベルベル人が、 アッバース朝の支配に頑強な抵抗を示していた。 西暦758年にバスラのアブル=ハッターブがタラーブルス(トリポリ)南のナフーサ山地のベルベル人を率いて反乱を起こし、 カイラワーン(ケルアン)を占領する。 西暦762年にホラーサーン軍によってアブル=ハッターブの反乱は鎮圧されるが、 反乱の参加者であるイブン・ルスタムはアルジェリア西部のティアレットに逃れてルスタム朝を建国した。 また、西暦771年にはアブル=ハッターブの後継者であるアブー・ハーティムがイバード派とハワーリジュ派を率いてアッバース朝の支配に対する蜂起を指導した。
マンスールは弟のサッファーフと同様にシーア派の過激な一団が統治の障害になると考えて彼らの弾圧に乗り出し、 西暦758年に起きたシーア派の反乱を鎮圧する。 マンスールはアリーの長子ハサンの曾孫ムハンマドとイブラーヒーム兄弟の逮捕を命じたが、 すでに二人は逃走していた。 残りのアリー家の人間はクーファのフバイラ城に投獄され、 ムハンマドの義父で第3代正統カリフ・ウスマーンの子孫にあたるムハンマド・アル=ウスマーニーは処刑された。 逃走した二人を見つけ出すために潜伏先と思われる集落は徹底的な探索を受け、 宿を提供した疑いのある人物は全て逮捕された。
西暦762年末、 メディナで法学者マリク・イブン・アナス、メディナの名族の多くの支持を受けたムハンマドがカリフを称して反乱を起こし、 マンスールが派遣した総督、役人は投獄される。 報告は反乱の発生から9日後にマンスールの元に届けられ、 マンスールの従兄弟イーサー・ビン・ムーサーが率いるホラーサーン軍がメディナに派遣された。 マンスールはムハンマドに助命、 居住地の自由、親族の保護と引き換えの降伏を提案したが、 ムハンマドは正統のカリフは自分であると答え、 ヤズィード、アブー・ムスリムらの末路を挙げて降伏勧告を一蹴した。
さらに西暦762年11月22日にバスラでムハンマドの兄弟イブラーヒームが挙兵する。 当時クーファにいたマンスールの元にはわずかな兵力しか残されておらず、 最大の危機に直面したマンスールは自分の周りに女性を近づけない態度で戦争に臨んだ。 イブラーヒームはアッバース朝の軍に数度勝利を収め、 マンスールはクーファからの退却さえ覚悟したと言われている。 一方メディナに向かったホラーサーン軍は町の周りに張り巡らされた塹壕を突破して町を攻撃し、 12月6日にムハンマドは敗死した。 ムハンマドの死を知ったイブラーヒームはカリフへの即位を宣言しクーファに進軍したが、 西暦763年2月にクーファ南のバハムラの戦いでイブラーヒームは戦死し、 マンスールが勝利を収めた。 イブラーヒームの首がマンスールの元に届けられたとき、 挺身たちがイブラーヒームの首に罵声を浴びせかける中でマンスールは彼の死を悼み、 首に唾を吐きかけて罵倒した部下を厳罰に処したといわれる。
戦後、メディナ、バスラのアリー家の支持者、 フバイラ城内のアリー家の人間は処刑、迫害された。 また、ムハンマドの首は見せしめのために領内の各地で掲げられ、 ムハンマドの最期を見せつけられたエジプトのシーア派は反乱の計画を取りやめたと言われる。 シーア派の抵抗を抑えた後は国内の反乱は沈静化し、 マンスールは国政の確立に着手する。
サッファーフはマンスールの次のカリフに従兄弟のイーサーを指名していたが、 息子のアル=マフディーを溺愛するマンスールは、 マフディーへのカリフ位の継承を望むようになった。 継承権を放棄したイーサーはマフディーに忠誠を誓ったが、 マンスールはイーサーに継承権を放棄させるために種々の圧力を加え、 毒殺さえ企てたと伝えられている。 バードギースの豪族ウスターズ・スィースはイーサーに継承権の放棄を迫ったマンスールに反発し、 西暦767年に反乱を起こした。
西暦775年、 マンスールはメッカ巡礼を計画するが、 準備中に流れ星を見る凶兆に遭う。 同年の晩夏、巡礼の途上でマンスールは下痢に罹り、 暑熱によって彼の体力はより奪われた。 死の前日、マンスールは宿舎の壁に自らの死を予期させる詩句を見つけて激怒するが、 壁に書かれた文言は他の人間には見えず、 運命を悟ったマンスールは侍従に命じてコーランの一節を唱えさせた。 西暦775年10月7日にマンスールはメッカに辿り着くことなく没する。 マンスールの死は巡礼に同行していた大臣のアッ=ラビーウによって秘匿され、 遺体は生者と同様に2枚のイフラームで包まれてメッカに運ばれた。 そして、メッカでラビーウの口を通してマフディーへのカリフ位の継承が知らされたと伝えられる。 マンスールが埋葬された場所は明確になっておらず、 メッカ近辺の砂漠に100に達する墓穴が掘られ、 その中の1つに埋められたという。
互いに敵意を抱く多種の民族を擁する国家を統治するために、 マンスールは神聖的・不可侵の絶対的君主制度の必要性を痛感していた。 マンスールは宗教面での権力を主張する事は避けてイマームの称号を使用せず、 コーランとスンナに則ったイスラーム的政治を打ち出した。 サーサーン朝、東ローマ帝国の専制王権の概念がイスラームの政治思想に導入され、 一般の信徒はカリフから隔絶された上でハージブ(侍従)の取次が必要とされた。 そして、強力な軍隊と官僚制度によって、 中央集権制度をより堅固なものにした。
マンスールはアラブ人同士の派閥にこだわらずアッバース家の一族や腹心を要職に配置し、 腹心の多くはペルシャ人などの複数の民族から構成される奴隷の出身者で構成されていた。 政府にワズィール職(宰相)が設置され、 ワズィールの下に各種の官庁(ディーワーン)が置かれた。 従前は地方総督によって任命されていた各地のカーディー(裁判官)は、 中央の政府が直接任命した人物が配属されるようになる。 軍事力の中心にはアッバース革命に貢献したホラーサーン軍が据えられ、 彼らに支払う俸禄が引き上げられた。 アッバース革命の際に兵士を集めた人間は重用され、 警察・親衛隊の長官は彼らの中から選出された。 マンスールには重職に付けた一族にも峻厳な態度で接し、 法に背いた人間には厳罰を加えた。
マンスールの治世に整備された駅伝(バリード)制は、 情報の伝達に大きな役割を果たしたと考えられている。 マンスールはカリフの目が帝国の隅々にまで行き渡らなかったウマイヤ朝の政治体制の問題点を踏まえて中央集権制度を志向し、 その一環としてカリフの命令と地方の実情をいち早く伝達するバリードを構築した。 ウマイヤ朝以前から導入されていたバリードはマンスールによって全国規模に拡大され、 首都にバリードを管轄する駅伝庁が設置される。 歴史家のタバリーは、バリードを通して穀物、 食糧の価格、カーディーと総督の業務、 税収といった地方の情報が毎日マンスールの元に届けられていたことを記している。 さらに遠隔地に赴任した地方官、 高官の動向は密偵によって監視され、 マンスールはバグダードの中にいても帝国の内情を把握することができた。 マンスールが国内の事情を細部まで把握しているため、 民間ではマンスールは魔法の鏡で千里離れた場所まで見通していると噂された。 後世に伝わる笑話として、 マンスールが廷臣に帝国を支える4つの柱として公正なカーディー、 警察長官、徴税官を挙げた後、 最後の1つに彼らの動向を伝える信頼できるバリードの長官だと口ごもりながら答えた逸話がある。
アッバース朝が建国された時点でイスラームの西方への拡大は停滞し、 他方でペルシャなどの東方地域への拡大が進展していた。 イスラーム国家の中心は東方に移りつつあり、 マンスールはウマイヤ朝の首都ダマスカスに代わる新都の必要性を感じていた。 即位の翌年からマンスールは新都の建設に着手し、 側近に候補地の調査を行わせる傍らで自らも視察を行った。 マンスールは即位の翌年にクーファ近辺にハーシミーヤの町を建設し、 この地に宮殿を置いた。 しかし、マンスールはバスラやクーファの住民に不信感を抱いており、 これらの町に首都を置くことを躊躇していた。
最終的にサーサーン朝以来の農産物の集積地で、 定期的に市が建つチグリス川西岸のバグダードを新王朝にふさわしい場所に選んだ。 軍隊の駐屯地に適しているだけではなく、 周辺諸国や遠く離れた中国との交通に便利な位置であり、 チグリス川とユーフラテス川を介した物資の輸送を活用できる点を考慮し、 マンスールはバグダードを選択したと考えられている。 また、バグダードには蚊が少なく、 マラリアに罹る心配が薄い点もマンスールにとって魅力的に映っていた。
100,000人に達する建築家、職人、作業者が動員され、 4,000,000ディルハムの費用が投入され、 新都の建設が開始される。 バグダードの建設にあたって、 マンスールは廷臣からクテシフォンのサーサーン朝の宮殿に使われている資材の流用を進言された。 宰相のハーリド・イブン=バルマクはイスラームの象徴である宮殿の破壊を危ぶみ、莫大な費用がかかることを理由に反対したが、 マンスールは宮殿の取り壊しを強行する。 だが、ハーリドの意見通り多大な工事費を要することが判明したため、 宮殿の一部を崩した時点で工事は中断された。 ハーリドは他の人間が建てたものをマンスールは取り壊せなかったことが世間の笑いものになると警告し、 工事の続行を勧めたがマンスールは取り合わなかった。 また、 西暦762年に、 バスラで反乱を起こしたアリー家のイブラーヒームが、 建設中のバグダードに彼が進軍する噂が流れたとき、 町が奪われることを恐れた工事の責任者によって建材が焼き捨てられた。 やがて反乱は鎮圧されて工事も再開され、 西暦766年にバグダードが完成する。 城郭が完成した後、 マンスールは占星術に従い、 自身と家族の邸宅やホラーサーン兵の宿舎を建設していく。 息子のマフディーが任地のホラーサーンから帰還した後、 西暦768年から西暦773年にかけてチグリス東岸のルサーファ区にマフディーと彼の配下のための施設が建設された。
マンスールの孫のハールーン・アッ=ラシードの時代にバグダードの開発はより進み、 世界的な大都市に発展する。
マンスールは背丈が高く細身の浅黒い肌の持ち主と伝えられ、 精力的かつ冷徹な人物だと見なされている。 髪と髭は細くまばらであり、 髪と髭を気にかけてサフランで染めていたという。 直感と読みの深さを併せ持つ、 大局的な視点の持ち主だと評されているが、同時に信義に欠け、 人命を軽視する一面も指摘されている。 しかし、政敵の粛清、巨費を投じた新都の建設、 異民族の登用とアラブ諸民族が持つ既得権益の撤廃といった政策は、 恐怖を前面に押し出すマンスールの性格に拠るところも大きかった。
マンスールは午前中に政務を処理し、午後に家族と過ごし、 夜の祈祷の後に使者からの報告を確認して大臣との協議を行う一日を送っていた。 マンスールが床に就くのは夜が3分の1ほど更けてからのころで、 深い眠りに落ちる間も無く起床して朝の祈祷に赴いた。 私生活では他人の悪ふざけにも寛容な面を見せたが公の場では表情が一変し、 マンスールは自分が正装を纏って政務に赴くときには決して近づかないよう、 自分の子供たちに言い聞かせていた。 しかし、マンスールには恐妻家の一面もあり、 即位前に結婚したヒムヤル族のウンム・ムーサーには頭が上がらなかった。 マンスールはウンム・ムーサーに迫られて他に妻や女奴隷を持たない約束を交わしていたが、 ある時ウンム・ムーサーとの誓約は法的に有効であるか法学者に質問した。 ウンム・ムーサーは法学者に多額の賄賂を贈り、 マンスールは彼女が存命の間は約束は有効であるとの回答を得たが、 ウンム・ムーサーが没した後に100人の乙女がマンスールの宮殿に送られた。
マンスールは酒色、音楽を遠ざける質素な生活を送り、 カリフとなった後にも粗末な衣服を纏っていたことが伝えられている。 服を作るときには市場で値切って買った布を使わせ、 さらに一週間同じ服を着続けたと伝えられている。 貯蓄を好んだために吝嗇家と言われることもあるが、 真に必要な場合には財を投じる事を惜しまなかった。 宰相のハーリド・イブン=バルマク、末弟のアル=アッバースといった重臣・一族の不正にも厳しく当たって容赦なく財産を没収し、 逆に搾取から解放された民衆は充足した生活を送っていた。 マンスールは違反者に課した罰金、 没収した財産には取り立てた人物の名前を記して国庫に保管し、 死期が迫ったときにマフディーに没収した金品を元の持ち主に返すように命じ、 財産を返却された人々がマフディーに好意を寄せるように取り計らった。 死後に多額の財産が遺され、 マンスールの後に多くの浪費家のカリフが登位したにもかかわらず、 100年の間国家財政は支障をきたさなかった。
マンスールは読書、文学を愛好し、学者との交流を楽しんだ。 また、説教師としても名高く、 モスクの壇上で彼の口から美しいアラビア語が発せられたと言われている。 ギリシャ、インドの文化に敬意を表し、 アッバース朝で行われるギリシャ語古典の翻訳事業が始められる。
マンスールの時代に行われたシーア派への弾圧はアッバース朝の歴史の中で最も激しく、 マムルーク朝時代の歴史家スユーティーは「アッバース家とアリー家の不和の原因はマンスールから生じ、 それまで両家は友好的な関係を保っていた」と述べた。 マンスールのアリー家への憎しみを示すものに、以下の伝説がある。 マンスールの宮殿には常に鍵がかけられた部屋があり、 鍵はマンスール自身が所有していた。 マンスールの死後にマフディーが扉を開けると、 部屋の中には塩漬けにされた多くのアリー家の人間の死体が置かれ、 名前と血統を書いた札が貼られていたという。
最初の妻であるウンム・ムーサーとの間には、 マフディーとジャアファルの二子が生まれた。 ほか、ウンム・ムーサー没後に結婚した妻や女奴隷との間に多くの子をもうけた。
アッバース朝の最盛期を築き上げた第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの八男。 母は女奴隷のマーリダ。 カリフに即位する前は、 アナトリアの軍総司令官やエジプト総督などを歴任した。
第7代カリフであった兄のマアムーンの死後、 その子を抑えてカリフに即位した。 即位後は軍事面に力を注いだ。 まず、マー・ワラー・アンナフルから4,000人(7,000人とも)のトルコ人マムルークを購入して親衛隊を構築した。 この頃になるとアッバース朝の衰退が始まり、 イラクなど各地で反乱が相次いでいたが、 ムウタスィムはこれを徹底的に鎮圧した。 西暦837年、 アゼルバイジャンで起こったバーバクの反乱も配下のソグド系将軍であったアル・アフシーン・ハイザールの尽力のもと、鎮圧させている。 そして翌西暦838年には親征し、 東ローマ皇帝テオフィロス率いる東ローマ軍を破ってアンカラ(アンキラ)とアンムーリヤを奪取した。 この功績から、詩人のアブー・タンマームからは「偉大なるガーズィー」と絶賛され、 詩を作られている。 しかし晩年の西暦841年、 「覆面の男」と呼ばれたアブー・ハルブらによる反乱がパレスチナやダマスカスなど各地で発生するなど、 カリフの統制力の減退は明らかであり、 アッバース朝の衰退はさらに促進していった。
内政面においては、 西暦836年に都をバグダードから北のサーマッラーに遷した。 これは、子飼いのマムルークをバグダード市民との迫害から守ろうとしたためとも、 マムルークの横暴を抑えられなかったためとも言われている。 また、1人の老人が「暁の矢(悪人や暗君などに対して降り注ぐ神罰の矢)でカリフと戦う」と叫んで恐怖したために遷都したという逸話もある。 しかしこれを契機として、 ムウタスィム以後の歴代カリフが次第にマムルークを頼るようになり、 その経緯からカリフの威を借りてマムルークが横暴を振るうことが多くなってしまったことも、 ムウタスィムの代からアッバース朝は財政難にも苦しめられたこともあって、 カリフの権威低下と王朝衰退を招く一因となってしまった。
西暦842年に49歳で死去。 ムウタスィムの死後は子のワースィクが後を継ぐが、 王朝はさらに衰退してゆくこととなった。
ムウタスィムは「8」の数字と縁の深い人物である。
カリフになったのが満38、誕生日が8月、没年齢が満48、王子が8人、 王女が8人、出陣した回数が8回、 死去したときに国庫にあった金が800万ディルハムというものである。
ムウタディドは叔父のムウタミドの治世下で執政として実権を握り、 事実上のアッバース朝の支配者となったムワッファク(英語版)の息子である。 アッバース朝の王子としてムウタディドは父親の下でさまざまな軍事活動に従事し、 特にザンジュの乱の鎮圧において重要な役割を果たした。 西暦891年6月にムワッファクが死去すると、 ムウタディドはムウタミドの息子で後継者と目されていたムファッワド(英語版)を排除し、 西暦892年10月のムウタミドの死去後にカリフの地位を継承した。
ムウタディドは悪化していた財政の再建に取り組むとともに一連の軍事行動によってジャズィーラ、スグール(英語版)、 およびジバール(英語版)の支配を回復することに成功し、 東方のサッファール朝と西方のトゥールーン朝に対しては条約を結ぶことで和解を実現した。 さらに首都をサーマッラーからバグダードへ帰還させ、 バグダードではいくつかの宮殿の建設に当たった。 一方でムウタディドは犯罪者を処罰する際の過酷さで有名であり、 後の時代の年代記作家はムウタディドの数多くの独創的な拷問方法を記録している。 また、スンナ派の伝承主義学派(英語版)[注 1]の確固たる支持者であったにもかかわらず、 ザイド派などのシーア派勢力との良好な関係の維持に努め、 自然科学にも興味を示してカリフによる学者への支援を再開させた。
しかし、ムウタディドが主導したアッバース朝の再生は、 その治世が短いものに終わったために王朝の長期的な好転には結びつかなかった。 優秀とは言えない後継者の息子であるムクタフィーの短い治世は、 トゥールーン朝の領土の再併合を含むいくつかの重要な成果を挙げたが、 後継者たちはムウタディド程の行動力を持ち合わせず、 ムウタディドの治世の後半に明白となった官僚機構内部の派閥抗争の激化を食い止めることができなかった。 この派閥抗争は続く数十年にわたってアッバース朝政府を弱体化させ、 最終的には一連の軍の有力者たちの下での王朝の従属化につながり、 この趨勢は西暦946年のブワイフ朝によるバグダードの征服によって最高潮に達することになった。
ムウタディドはアッバース朝のカリフのムタワッキル(在位:847年 - 861年)の息子であるタルハ(ムワッファク(英語版))とディラールという名のギリシャ人奴隷の間に生まれた。 ムウタディドの正確な生年月日は不明である。 ムウタディドはさまざまな人物によって即位時に38歳または31歳であったと記録されているため、 西暦854年頃か西暦861年頃の生まれであると考えられている。 西暦861年にムタワッキルは長男のムンタスィル(在位:861年 - 862年)と共謀したトルコ人警備兵によって暗殺された。 この事件は当時のアッバース朝の首都の場所からサーマッラーの政治混乱(英語版)として知られる内部混乱の時代の始まりを告げ、 混乱は西暦870年のムウタディドの叔父にあたるムウタミド(在位:870年 - 892年)の即位によって終わりを迎えた。 しかしながら、実権は支配層であるトルコ人の奴隷軍人(ギルマーン、単数形ではグラーム)と、 アッバース朝の主要な軍司令官として政府とトルコ人の間の最も重要な仲介役となったムウタディドの父親のタルハに握られるようになった。 カリフと同様の様式でムワッファクの尊称を名乗ったタルハはすぐにアッバース朝の実質的な支配者となった。 西暦882年にはムウタミドがエジプトへの逃亡を図ったものの失敗に終わり、 ムウタミドは軟禁下に置かれ、 ムワッファクはその地位を固めた。
地方におけるアッバース朝の支配力はサーマッラーの政治混乱の期間に崩壊し、 その結果、西暦870年代までに中央政府はイラクの大都市圏以外のほとんどの領域に対する実効的な支配を失った。 西方ではトルコ人の奴隷軍人であり、 ムワッファクとシリアの支配をめぐって争ったアフマド・ブン・トゥールーンがエジプトを支配下に置き、 一方でホラーサーンと東方のイスラーム世界の大部分の支配がアッバース朝に忠実な勢力であったターヒル朝からペルシャ系のサッファール朝に取って代わった。 アラビア半島のほとんどの地域も同様に地元の有力者の手によって失われ、 タバリスターンでは急進的なザイド派によるシーア派王朝が政権を打ち立てた。 本拠地のイラクにおいてでさえ、 イラク南部の大農園における労働力として連れて来られたアフリカ人奴隷であるザンジュによる反乱がバグダードに脅威を与え、 さらに南方のカルマト派が危険な存在となりつつあった。 その結果として、ムワッファクによる執政は、 体制が揺らぐアッバース朝を崩壊から救うための継続的な闘争の性格を有するようになった。 領土を拡大し、世襲統治者としての承認を得ることにアフマド・ブン・トゥールーンが成功したことで、 エジプトとシリアの支配を取り戻すムワッファクの試みは失敗に終わった。 しかし、ムワッファクはバグダードの占領を目指したサッファール朝の侵略を撃退し、 長い闘争の末にザンジュの乱を鎮圧したことで、 イラクのアッバース朝の中核地帯を維持することには成功した。
将来のムウタディド(即位前の時点では通常アブル=アッバースのクンヤで呼ばれている)はザンジュとの戦いの中で最初の軍事経験を積み、 治世を特徴づける軍との緊密な関係を確立したと考えられている。 ムワッファクはアブル=アッバースが幼い頃から息子に軍事教育を与え、 若い王子は優秀な騎手になるとともに指揮官として強く期待されるようになり、 部下たちとその馬の状態に個人的な気遣いを見せていた。
西暦869年の反乱の勃発から10年以内にザンジュの反乱勢力はバスラとワースィトを含むイラク南部のほとんどの地域を占領し、 フーゼスターンにまで勢力を拡大した。 しかし、西暦879年にサッファール朝の創始者であるヤアクーブ・アッ=サッファールが死去したことで、 アッバース朝政府はザンジュの乱に対して十分に集中できるようになった。 そして西暦879年12月に10,000人の部隊の軍司令官としてアブル=アッバースが任命された出来事は戦争に転機を告げることになった。 その後のメソポタミア湿原での水陸両面の作戦を伴う長く困難な戦いの中で、 アブル=アッバースと自身のギルマーン(中でも長期にわたって仕えたズィラク・アッ=トゥルキーが最も著名であった)は重要な役割を果たした。 アッバース朝の軍隊は最終的に増援部隊と志願兵、 さらには反乱からの離脱者で膨れ上がったものの、軍の中核を形成し、 その指導的な立場を占め、 しばしばアブル=アッバース自らの指揮下で戦いの矢面に立っていたのは少数の精鋭のギルマーンであった。 反乱勢力周辺の包囲網を何年にもわたって徐々に狭めていった後、 西暦883年8月にアッバース朝軍が反乱軍の本拠地であるムフターラに激しい攻撃を加えて反乱を終結させた。 以前の反乱参加者とアッバース朝軍の関係者から収集した情報を年代記に残したタバリー(西暦923年没)は、 多くの問題を抱えたイスラーム国家を防衛し、 反乱を鎮圧した英雄としてのムワッファクとアブル=アッバースの役割を強調している。 この成功裏に終わった軍事活動は、 後のアブル=アッバースによるカリフの地位の事実上の簒奪を正当化する役割を果たした。
西暦884年5月にアフマド・ブン・トゥールーンが死去した後、 この状況を利用しようとしたアッバース朝の将軍のイスハーク・ブン・クンダージュ(英語版)とムハンマド・ブン・アビー・アッ=サージュ(英語版)がシリアのトゥールーン朝の領土を攻撃した。 西暦885年の春にはアブル=アッバースが軍事侵攻の指揮を執るために派遣され、 すぐにトゥールーン朝軍を打ち破ってパレスチナへ撤退させることに成功した。 しかし、イスハークとムハンマドの両者と口論になり、 両者は軍事作戦を放棄して自身の部隊を撤退させた。 その後、4月6日に起こったタワーヒーンの戦いでアブル=アッバースはアフマド・ブン・トゥールーンの息子で後継者のフマーラワイフ(英語版)と対決した。 当初はアブル=アッバースが勝利を収め、フマーラワイフを逃亡させたが、 続く戦いでは逆に敗北して自軍の多くの者が捕虜となり、 自身は戦場から逃れた。 トゥールーン朝はこの勝利の後にジャズィーラ(メソポタミア北部)とビザンツ帝国との国境地帯(スグール(英語版))へ支配を拡大させた。 西暦886年に和平協定が結ばれ、 その中でムワッファクは毎年の貢納と引き換えにフマーラワイフを30年間エジプトとシリアの世襲統治者として認めることを余儀なくされた。 アブル=アッバースは続く数年にわたってファールスをサッファール朝の支配から取り戻す父親の試みに関与したものの、 この試みは最終的に失敗に終わった。
理由は定かではないものの、 この時期の数年間にアブル=アッバースと父親の関係が悪化した。 すでに西暦884年には恐らく俸給の未払いをめぐってムワッファクのワズィール(宰相)のサイード・ブン・マフラド(英語版)に対しアブル=アッバースのギルマーンがバグダードで暴動を起こしていた。 最終的にアブル=アッバースは西暦889年に拘束され、 父親の命令で投獄された。 その後、自身に忠実なギルマーンによる抗議が発生したにもかかわらず、 アブル=アッバースは獄中に留まり続けた。 そしてムワッファクがジバール(英語版)で2年間過ごした後にバグダードへ戻った891年5月まで拘束されたままだったとみられている。
痛風に苦しんでいたムワッファクは、 明らかに死に近づいていた。 ワズィールのイスマーイール・ブン・ブルブル(英語版)とバグダードの長官のアブル=サクルが後継者と見込まれていたムファッワド(英語版)を含むムウタミドとその息子たちをバグダードの市内に呼び寄せ、 自分たちの目的のためにこの状況を利用しようとした。 しかし、アブル=アッバースを遠ざけようとしたこの試みは、 アブル=アッバースが兵士や民衆から高い評判を得ていたために失敗に終わった。 アブル=アッバースは死の床にあった父親を訪ねるために釈放され、 6月2日にムワッファクが死去した際に即座に権力を掌握することに成功した。 バグダードの暴徒がアブル=アッバースの敵対者たちの家を荒らしまわり、 イスマーイールは解任されるとともに投獄され、 数か月後に虐待によって死亡した。 アブル=アッバースの諜報員よって捕らえられたイスマーイールの支持者たちの多くも同様の運命を辿った。
今や全権力を掌握したアブル=アッバースは、 アル=ムウタディド・ビッラーフの称号を名乗り、 ムウタミドとムファッワドに次ぐ後継者の地位とともに父親のすべての官職を継承した。 そして数か月後の西暦892年4月30日には従兄弟のムファッワドを後継者の地位から完全に排除した。 ムウタミドは西暦892年10月14日に死去し、 ムウタディドがカリフとして権力を握った。
東洋学者のハロルド・ボーウェンは、
即位時のムウタディドについて次のように説明している。
父親と同様にムウタディドの権力は軍との密接な関係に依存していた。
歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)が指摘しているように、
ムウタディドは
ムウタディドはその治世の開始時からアッバース朝の分裂状態の解決に着手した。 そして実力行使と外交を交えてこの目標に取り組んだが、ケネディによれば、 能動的であり熱心な活動家である一方で「打倒するには非常に強力な勢力と常に妥協する準備ができていた熟練した外交官」でもあった。
この方針は、新しいカリフが自身の最も強力な臣下であるトゥールーン朝政権に対して示した融和的な態度によってすぐに明らかとなった。 西暦893年の春にムウタディドは年間300,000ディナールと未納となっていた200,000ディナールの貢納に加え、 ジャズィーラの州のうちディヤール・ラビーア(英語版)とディヤール・ムダル(英語版)をアッバース朝の統治下に戻すことと引き換えにフマーラワイフをエジプトとシリアの自立したアミールとして承認し、 その立場を再確認した。 条約を締結するためにフマーラワイフは娘のカトル・アン=ナダー(英語版)(「露の滴」を意味する)をカリフの息子の一人に花嫁として差し出したが、 ムウタディドは自ら結婚することを選んだ。 トゥールーン朝の公女は持参金として1,000,000ディナールを持ち込んだ。 歴史家のティエリ・ビアンキによれば、 これは「中世のアラブの歴史の中で最も贅沢であると考えられた結婚祝い」であった。 バグダードへのカトル・アン=ナダーの到着は、 貧窮化していたカリフの宮廷とは全く対照的な公女の従者の豪華さと贅沢さが特徴をなしていた。 ある言い伝えによれば、徹底的な調査の結果、ムウタディドの宦官の長官は宮殿を飾るための細かい装飾が施された銀と金の燭台を5つしか見つけることができなかったが、 一方で公女にはそれぞれ同様の燭台を持つ150人の召使いが随行していた。 するとムウタディドは、 「さあ、我々が困窮しているところを見られないように立ち去って身を隠そう」と語ったといわれている。
しかしながら、カトル・アン=ナダーは結婚式から間もなく死去し、 フマーラワイフも西暦896年に殺害されたため、 トゥールーン朝はフマーラワイフの不安定な未成年の息子たちの手に委ねられた。 ムウタディドはこの状況を素早く利用し、 西暦897年にビザンツ帝国との国境地帯に位置するスグールの各アミール政権に対する支配権を拡大させた。 マイケル・ボナーによれば、 そこでムウタディドは「長らく中断されていた毎年恒例の夏季の遠征を指揮し、ビザンツ帝国に対する防衛体制を整えるという古いカリフの大権を担った」。 さらに、新しいトゥールーン朝の統治者であるハールーン・ブン・フマーラワイフ(在位:896年 - 904年)は自分の地位に対するカリフの承認を確保するためにさらなる譲歩を余儀なくされ、 ホムスより北方のシリア全域をアッバース朝へ返還しただけでなく、 年間の貢納額も450,000ディナールに引き上げられた。 残りのトゥールーン朝の領内ではその後の数年にわたり混乱が拡大し、 カルマト派の襲撃も激化したことから、 トゥールーン朝に追従していた多くの人々が勢力を挽回したアッバース朝へ逃れるようになった。
ムウタディドはジャズィーラでさまざまな対立勢力と戦った。 これらの勢力の中には、 ほぼ30年に及んでいたハワーリジュ派の反乱勢力(英語版)に加えて多くの自立していた現地の有力者がいた。 その中でも代表的な存在は、 アーミドとディヤール・バクル(英語版)を支配していたシャイバーン族(英語版)のアフマド・ブン・イーサー(英語版)とタグリブ族(英語版)の族長のハムダーン・ブン・ハムドゥーン(英語版)であった。 西暦893年にムウタディドはハワーリジュ派が内部抗争で注意を逸らしている間にシャイバーン族からモースルを奪った。 西暦895年にはハムダーン・ブン・ハムドゥーンが自身の本拠地からの退去を強いられ、 追い詰められた末に拘束された。 一方でハワーリジュ派は指導者のハールーン・ブン・アブドゥッラーが西暦896年に、 ハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子のフサイン・ブン・ハムダーン(英語版)に敗れて捕らえられ、 バグダードへ送られた後に磔刑に処された。 フサイン・ブン・ハムダーンのこの功績は、 アッバース朝軍におけるフサインの華々しい経歴と、 後にジャズィーラの支配権の獲得に至ったハムダーン朝の段階的な隆盛の始まりを告げた。 アフマド・ブン・イーサーは西暦898年に死去するまでアーミドの支配を維持し、 死後は息子のムハンマド・ブン・アフマド(英語版)に支配が引き継がれた。 翌西暦899年にムウタディドはジャズィーラに戻り、 ムハンマドをアーミドから追放すると長男で後継者のムクタフィー(英語版)を総督の地位に据え、 中央政府による統治下でジャズィーラ全域を再統一した。
その一方で、現地の諸勢力が事実上独立して支配を維持していたジャズィーラの北に位置する南コーカサスのアルメニアとアーザルバーイジャーンに対する実効支配をアッバース朝の下に取り戻すことはできなかった。 当時アーザルバーイジャーンのアッバース朝の総督であったムハンマド・ブン・アビー・アッ=サージュは898年頃に独立を宣言したものの、 キリスト教徒のアルメニア人諸侯との対立の中ですぐにカリフの宗主権を再承認した。 ムハンマドが西暦901年に死去すると息子のディーウダード・ブン・ムハンマド(英語版)が後継者となり、 半独立的な勢力となったサージュ朝(英語版)によるこの地域の統合に至った。
スグールでビザンツ帝国に対する前線基地の役割を担っていたタルスースに対しトゥールーン朝との連携や自立を警戒していたムウタディドは、 ムハンマド・ブン・アビー・アッ=サージュと都市の有力者が協力してディヤール・ムダルの占領を企てたとする嫌疑への報復として西暦900年にタルスースの有力者たちの拘束と都市の艦隊の焼却を命じた。 この決定はタルスースの自立運動を抑えて都市のアッバース朝政府への従属度を高めることにつながったものの、 一方では何世紀にもわたるビザンツ帝国に対する戦争において自ら不利な状況を招くことになった。 それ以前の数十年間にタルスースの住民とその艦隊はビザンツ帝国の国境地帯に対する襲撃で重要な役割を担っていた。 その一方で、西暦900年頃にギリシャ人改宗者であるダムヤーナ・アッ=タルスースィー(英語版)の率いるシリアの艦隊がデメトリアス(英語版)の港を略奪し、 アラブ艦隊は続く20年にわたってエーゲ海に大規模な混乱をもたらした。 これに対してビザンツ帝国はメリアス(英語版)などのアルメニア人亡命者の流入によって陸側で勢力を強めた。 そして国境地帯を越えて支配を拡大し始め、 アラブ側に勝利を収めるとともに双方の帝国間のかつての無人地帯に新たな軍管区(テマ)を設置した。
イスラーム世界の東方では、 ムウタディドはサッファール朝と暫定協定を結び、 その支配の存在を受け入れざるを得なかった。 ケネディによれば、 恐らくカリフはターヒル朝が過去数十年間に享受していたものと類似した協力関係によってサッファール朝を利用したいと考えていた。 この協定の結果、 サッファール朝の支配者であるアムル・ブン・アッ=ライスはファールスだけでなくホラーサーンとペルシャ東部の領有を認められ、 一方でアッバース朝はペルシャ西部、 具体的にはジバール、レイ、およびエスファハーンを直接統治することになった。 この政策によって、カリフはエスファハーンとニハーヴァンドを中心としたもう一つの半独立の地方政権であるドゥラフ朝(英語版)の支配地の奪回に向けて自由に行動を起こせるようになった。 ドゥラフ朝のアフマド・ブン・アブドゥルアズィーズ・ブン・アビー・ドゥラフが西暦893年に死去すると、 ムウタディドは自分の息子のムクタフィーをレイ、 カズウィーン、クム、およびハマダーンの総督に据えるべく迅速に行動を起こした。 そしてキャラジとエスファハーン周辺の中核地域に勢力範囲を狭められたドゥラフ朝は896年に完全に追放された。 しかし、この成果にもかかわらず、 特にタバリスターンのザイド派政権に近接していたためにこれらの地域に対するアッバース朝の支配は不安定なままであり、 西暦897年にはレイの支配権がサッファール朝の手に渡った。
ペルシャにおけるアッバース朝とサッファール朝の協力関係は、 レイに拠点を置き、 この地域に対する双方の政権の利益を脅かしていた軍事指導者のラーフィー・ブン・ハルサマ(英語版)に対する共同での攻撃によって最も明確な成果を見せた。 ムウタディドはアフマド・ブン・アブドゥルアズィーズを派遣してラーフィーからレイを奪った。 これに対してラーフィーはサッファール朝からホラーサーンを奪うために逃亡し、 タバリスターンのザイド派政権と連携した。 しかし、アムル・ブン・アッ=ライスがラーフィーに対する大衆の反アリー派感情を扇動したことで期待されたザイド派からの支援は実現せず、 ラーフィーは896年にホラズムで敗北して殺害された。 この頃のアムルは自身の勢力の絶頂期にあり、 アムルは敗北した反抗者たちの首をバグダードへ送った。 その後カリフは西暦897年にレイの支配権をアムルに譲った。
このようなアッバース朝とサッファール朝の協力関係は、 ムウタディドが西暦898年にアムルをマー・ワラー・アンナフルの総督に任命した後に崩壊した。 マー・ワラー・アンナフルは実際にはアムルの対抗勢力であるサーマーン朝によって支配されており、< b>ムウタディドはアムルがサーマーン朝と対立するように仕向けていた。 最終的にアムルは西暦900年にサーマーン朝に対して壊滅的な敗北を喫し、 捕虜となるだけに終わった。 サーマーン朝の統治者であるイスマーイール・ブン・アフマドはアムルを鎖につないでバグダードへ送り、 アムルはそこでムウタディドの死後の西暦902年に処刑された。 ムウタディドは見返りとしてイスマーイールにアムルが所持していた各種の称号と総督の地位を与えた。 そしてムウタディドも同様にファールスとケルマーンを取り戻すために行動を起こしたが、 アムルの孫のターヒル・ブン・ムハンマド(英語版)に率いられたサッファール朝の残存勢力は十分な回復力を見せ、 アッバース朝がこれらの地域を占領する試みを数年にわたって阻止した。 最終的にアッバース朝が切望していたファールスの奪回に成功したのは西暦910年のことであった。
9世紀の間にシーア派の教義に基づいたさまざまな新しい運動が出現し、 既存の政権に対する主な敵対活動の中心がハワーリジュ派からこれらの運動に取って代わった。 新しい運動を担った人々はアッバース朝帝国の外縁地域で最初の成功を収めた。 タバリスターンでのザイド派による支配権の獲得は後にイエメンでも繰り返された。 そしてムウタディドの治世下で新たな危機の芽となっていたカルマト派がアッバース朝統治下の大都市圏の近辺に現れた。 西暦874年頃にクーファで成立したイスマーイール派の過激な分派であるカルマト派は、 もともとサワード(英語版)(イラク南部)における散発的で小規模な妨害勢力であったが、 西暦897年以降、 その勢力は驚くべき規模で急速に拡大した。 アブー・サイード・アル=ジャンナービー(英語版)の指導の下で、 カルマト派は西暦899年にバフライン(英語版)(東アラビア)を占領し、 翌年にはアル=アッバース・ブン・アムル・アル=ガナウィー(英語版)の率いるカルマト派の軍隊がアッバース朝軍を打ち破った。 ケネディの言葉を借りるならば、 ムウタディドの死後の数年間にカルマト派は「ザンジュの乱以降にアッバース朝が直面した最も危険な敵であることを証明することになった」。 同じ頃にクーファのイスマーイール派の教宣員であるアブー・アブドゥッラー・アッ=シーイーがメッカへの巡礼中にベルベル人のクターマ族と接触を持った。 アブー・アブドゥッラーの改宗運動はクターマ族の間で急速に進展し、 西暦902年にはアッバース朝の宗主権下にあったイフリーキヤのアグラブ朝への攻撃を開始した。 アグラブ朝に対する征服活動は西暦909年に完了し、 ファーティマ朝が成立するとともにその政権の基盤が確立された。
以前のカリフであるムウタスィムによる改革を経たアッバース朝の軍隊は過去のカリフの軍隊よりも小規模であり、
より専門的な戦闘集団であった。
この新しい軍団は軍事面での効果の高さを証明したものの、
一方でアッバース朝政権の安定に潜在的な危険をもたらしていた。
アッバース朝が統治する領域の外縁地帯やさらに遠方の地域からトルコ人やその他の民族の人々が軍に徴用されたが、
これらの者たちは国家の中心地の社会からは疎外されていた。
ケネディによれば、その結果、
兵士たちは「収入だけではなく、自らの生存そのものを国家に完全に依存していた」。
結果として中央政府による報酬の供給に問題が生じた場合、
軍事蜂起や政治危機が発生した。
これはサーマッラーの政治混乱の間に繰り返し実証されていた出来事であった。
このため、軍隊への報酬の定期的な支払いを確保することが国家の最も重要な任務となった。
ケネディはムウタディドの即位以降の財務文書に基づいて以下のように指摘している。
このような状況に加え、 税を納めていた非常に多くの地域が中央政府の統制から失われて以降、 国家の財政基盤が劇的に縮小していた。 今やアッバース朝政府は内戦の混乱と灌漑ネットワークの放置によって農業生産性の急速な低下を経験していたサワードとイラク南部の他の地域からの歳入にますます依存するようになった。 ハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の治世にサワードは年間102,500,000ディルハムの歳入をもたらしていた。 これはエジプトの歳入の2倍を超え、 シリアの歳入の3倍に達する規模であった。 しかし、10世紀初頭までにこの数字は3分の1未満に減少した。 アッバース朝の下に留まっていた地方では、 半ば自立していた総督、高官、そして支配者層が(しばしば支払いを怠った)一定額の納税と引き換えに徴税を請負うムカータア(muq??a'a)と呼ばれる制度の恩恵を受けて事実上の大土地所有の形成を可能にしたためにさらに状況が悪化した。 アッバース朝は残っている領土からの歳入を最大化するために中央官僚機構の規模を拡大させるとともに組織を複雑化させ、 地方をより小さな税区に分割して財務関連の諸官庁の数を増やした。 これらの諸官庁の存在は、 徴税と役人自身の活動の双方に対する細部に及ぶ監視を可能にした。
イスラーム研究家のフェドワ・マルティ=ダグラス(英語版)によれば、 カリフはこの財政危機と闘うためにしばしば自ら税務当局の監督に専念し、 「ほとんど強欲と紙一重な倹約の精神」によるものだという世評を得ていた。 また、ハロルド・ボーウェンによれば、 「庶民が考慮することを軽蔑するであろう取るに足らない報告を調査する」と言われていた。 ムウタディドの統治下で結果的に歳入となる各種の罰金と没収が増加し、 同時にカリフの所領からの収入や地方の税収の一部までもが内帑(bayt al-m?l al-kh???a、カリフ個人の資金庫)へと流れていった。 この内帑金は今や財務関連の諸官庁の間で中心的な役割を果たすようになり、 しばしば国庫(bayt al-m?l al-??mma)よりも多くの資金を保持していた。 即位時には存在しなかった内帑金はムウタディドの治世の終わりまでに10,000,000ディナールに達した。 その一方で農民の税負担を軽減するための措置として、 ムウタディドは西暦895年に課税年度の開始を3月のペルシャの新年から6月11日に変更した。 これは「ムウタディドの新年」として知られるようになった。 これによって地租は収穫期の前ではなく後から徴収されるようになった。
ムウタディドの政策によってワズィール(宰相)は文民官僚における立場を強めた。 そして軍においてでさえカリフの代弁者として敬意を払われるようになり、 この時期にワズィールの影響力は頂点に達した。 また、ムウタディドの治世における人事面の特徴は国家の高位の指導者間で共通していた地位の継続性にあった。 ワズィールのウバイドゥッラー・ブン・スライマーン・ブン・ワフブ(英語版)は治世の開始から西暦901年に死去するまでその地位を保持し続けていた。 その後は同様に治世の初期からウバイドゥッラーが首都を不在にしている間に代理を務めていた息子のアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー(英語版)に地位が引き継がれた。 ムワッファクに仕え、 娘がカリフの息子(ムクタディル)と結婚した古参の解放奴隷であるバドル・アル=ムウタディディー(英語版)も軍の最高司令官の地位に留まり続けた。 財務関連の諸官庁は(特にサワードにおいて)当初はフラート家(英語版)の兄弟のアフマド・ブン・アル=フラート(英語版)とアリー・ブン・アル=フラート(英語版)が統括し、 西暦899年以降はジャッラーフ家のムハンマド・ブン・ダーウードとその甥のアリー・ブン・イーサー(英語版)が統括した。 11世紀の歴史家のヒラール・アッ=サービー(英語版)は、 治世開始当初の統治集団であり非常に効果的で協調が取れていた「ムウタディド、ウバイドゥッラー、バドル、そしてアフマド・ブン・アル=フラートのような、カリフ、ワズィール、最高軍司令官、ディーワーンの長官の四人組は(後の世代には)決して存在しなかった」と指摘している。
一方でマイケル・ボナーが指摘するように、 ムウタディドの治世の後半は「軍隊や都市の一般市民の生活の中においても目に付く程の官僚機構内部における派閥争いの増加をみた」。 官僚機構内部の二つの支配者層であるフラート家とジャッラーフ家の間の広範な庇護民のネットワークを伴う激しい対立関係はこの時期に始まった。 有能であったカリフとワズィールはこの対立を抑え込むことができたものの、 その後の数十年間にわたってアッバース朝政府をこの対立関係が支配し、 官僚機構内部の派閥は相互に入れ替わり、 財貨を収奪するためにムサーダラ(mu??dara)として知られる確立されていた慣行に従ってしばしば前任者に罰金や拷問が課された。 さらに、父親からワズィールの地位を継いだアル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラーは父親とは全く異なる性格をしていた。 ワズィールに任命された直後にはムウタディドを暗殺する陰謀を企て、 バドルを自分の計画に巻き込もうとした。 バドルは憤慨してその提案を拒否したが、 アル=カースィムはカリフの急死によって事の露見と処刑を免れた。 その後は新しいカリフのムクタフィーを自分の統制下に置こうと試み、 バドルを非難して処刑へ追い込むために迅速に行動を起こし、 さらにフラート家に対する多くの陰謀に関与した。
ムウタディドはサーマッラーからバグダードへの首都の帰還を完了させた。 バグダードはすでに父親の重要な活動拠点として機能していたものの、 都市の中心部はティグリス川の東岸に移転し、 その場所は1世紀前に第2代カリフのマンスールによって築かれた当初の中心部である円城のさらに下流に位置していた。 10世紀の歴史家のマスウーディーが記しているように、 カリフの二つの主な情熱は「女性と建築」であり、 それに従うように首都における重要な建築活動に従事した。 ムウタディドは使われなくなっていたマンスールの大モスク(英語版)を修復して拡張した。 さらにハサニー宮(英語版)を増築し、 新しくスライヤー宮(英語版)(プレアデスの宮殿)とフィルドゥース宮(楽園の宮殿)を建設するとともに、 ムクタフィーの下で完成したタージュ宮(英語版)(王冠の宮殿)の建設を開始した。 また、都市を流れる灌漑用水路の修繕にも注意を向け、 水路から利益を得る立場にあった地主の資金から経費を賄い、 ドゥジャイル運河(英語版)に堆積していたシルトを除去した。
イスラームの教義に関してムウタディドはその治世の開始当初からスンナ派の伝承主義学派を固く支持し、 神学的な研究を禁じるとともにハンバル学派の法的な見解において違法と見なされた国家に帰属する資産についてこれを管轄していた財務部門を廃止した。 その一方でアリー家(英語版)[注 3]を支持する勢力との良好な関係を維持しようと努め、 ウマイヤ朝の創設者であり、 アリー・ブン・アビー・ターリブの主要な敵対者であったムアーウィヤに対する公的な非難を命じることを真剣に検討するまでになった。 しかし、ムウタディドはそのような行為がもたらす可能性がある予期せぬ結果を恐れた助言者によって最後の段階になって実行を思い留まった。 さらにアッバース朝から分離したタバリスターンのザイド派のイマームと良好な関係を維持したが、 ムウタディドの親アリー派の姿勢は西暦901年のイエメンにおける第二のザイド派政権樹立の阻止には役立たなかった。
また、 ムウタディドは9世紀前半のカリフであるマアムーン、 ムウタスィム、 およびワースィクの下で繁栄していた学問と科学の伝統を積極的に奨励した。 かつての系統的な各種の努力に対する宮廷の支援は、 正統的なスンナ派への回帰と科学的な探求への嫌悪感を示したムタワッキルの下で減少していた。 さらにムタワッキルの後継者たちには知的探求に関与するだけの余裕がなかった。 ケネディによれば、ムウタディドは自ら「自然科学に熱心な興味を抱いて」いた。 そしてギリシャ語を話すことができたムウタディドは、 同時代のギリシャ語文献の翻訳者であり数学者の一人であったサービト・ブン・クッラ、 さらには文献学者のイブン・ドゥライド(英語版)やアブー・イスハーク・アル=ザッジャージュ(英語版)の経歴を引き上げ、 このうちザッジャージュについてはカリフの子供たちの家庭教師となった。 当時の著名な知識人の中には哲学者キンディーの弟子でムウタディド自身の家庭教師でもあったアフマド・ブン・アッ=タイイブ・アッ=サラフシー(英語版)がいた。 サラフシーはカリフと親しい仲になり、 バグダードの市場を監督する実入りの良い役職に任命されたものの、 後にカリフの怒りを買い、西暦896年に処刑された。 ある説明によれば、アル=カースィム・ブン・ウバイドゥッラー(ムウタディドの宮廷の逸話において頻繁に悪役として登場する)が処刑すべき反逆者のリストにサラフシーの名前を付け加えた。 カリフはリストに署名し、自分の古い師が処刑されてしまった後に初めて己の過ちを知った。
ムウタディドの下での司法体制の特徴について、 マルティ=ダグラスは「サディズムに近い過酷さ」であったと表現している。 過ちに対して寛容であり感傷や愛情の表現を理解していた一方で、 怒りを呼び起こされた場合には非常に独創的な方法による拷問に訴え、 さらには自身の宮殿の下に特別な拷問部屋を設置していた。 マスウーディーやマムルーク朝の歴史家であるサファディー(英語版)などの年代記作家たちは、 カリフが囚人たちに加えた拷問やバグダードにおいて囚人たちを公衆に晒すことで見せしめにするという慣行をかなり詳細に説明している。 例としてカリフが囚人の体を膨らませるために鞴(ふいご)を用いたり、 あるいは落とし穴へ体を逆さまにして埋め込んでいたと記録している。 また、同時に両者は国家の利益に適うものとしてムウタディドの厳しさを正当化している。 サファディーはアッバース朝の創設者であるサッファーフ(在位:750年 - 754年)と比較してムウタディドを「サッファーフ2世」と呼んだが、 これについてマルティ=ダグラスは、 王朝の運勢の回復を強調しているだけでなく、 サッファーフの通り名である「血を流す者」という意味を率直に仄めかしていると指摘している。
ムウタディドは西暦902年4月5日にハサニー宮において40歳もしくは47歳で死去した。 ムウタディドは毒殺されたのではないかという噂が存在したが、 その軍事活動の厳しさは放縦な生活態度と相まって恐らくムウタディドの健康を著しく害していた。 最後の病気を患っている間にムウタディドは医師たちの助言に従うことを拒否し、 医師のうちの一人を蹴り殺しさえした。 子供に関してムウタディドは4人の息子と数人の娘を残した。 息子たちのうち、 ムクタフィー(在位:902年 - 908年)、 ムクタディル(在位:908年 - 932年)、 およびカーヒル(在位:932年 - 934年)の3人が順番にカリフとなって統治し、 最後のハールーンのみがカリフにはならなかった。 また、ムウタディドはバグダードの市内に埋葬された最初のアッバース朝のカリフであった。 後の息子たちと同様に、ムウタディドはこれらのカリフによって第二の住居として使用されたバグダードの西部に位置するかつてのターヒル朝の宮殿(英語版)に埋葬された。
東洋学者のカール・ヴィルヘルム・セッターシュテーン(英語版)によれば、 ムウタディドは「父親の統治者としての才能を受け継ぎ、経済面と軍事面の能力も父親同様に際立っていた」。 そして「その厳格さと残忍性にもかかわらず、アッバース朝における最も偉大な人物の一人」となった。 一方でケネディは、高い手腕を示したムウタディドの統治はアッバース朝の衰退をしばらくの期間食い止めたことで高く評価されているものの、 その成功は精力的な統治者の指導力に極めて大きく依存していたと指摘している。 そしてムウタディドの治世について、 「長期に及んだ傾向を覆し、アッバース朝の支配力を長期的に回復させるにはあまりにも短いものに終わった」と述べている。
ムウタディドは息子であり後継者であるムクタフィーをレイとジャズィーラの総督に任命することで本人が迎える役割に備えようと注意を払っていた。 しかしながら、ムクタフィーは父親の方針に従おうとはしたものの、行動力に欠けていた。 ムワッファクとムウタディドによって高度に軍事化された支配体制は、 カリフが積極的に軍事行動に関与し、個人的に模範を示し、 カリフの引き立てによって強化される忠誠心に基づく連携を支配者と兵士の間で築き上げることが求められていた。 一方で、マイケル・ボナーによれば、ムクタフィーは「その性格や態度において… いつも座ってばかりの人物であり、兵士に忠誠心を植え付けたり、ましてや兵士を鼓舞するようなこともなかった」。 それでもアッバース朝は西暦905年にトゥールーン朝の領土を再併合し、 カルマト派に対して勝利を収めるなど、 その後の数年間で大きな成功を手にすることができたものの、 西暦908年のムクタフィーの死によって、 いわゆる「アッバース朝の再生」の時代はその最盛期を終えることになった。 そして新たな危機の時代が始まった。
今や権力は意志が弱く他人に左右されがちであったムクタディルをカリフに据えた高級官僚によって行使されるようになった。 続く数十年にわたって宮廷と軍隊の双方の支出が増大するのと同時に行政上の不正も増加し、 さらには軍と官僚の派閥間の争いが激化した。 ムクタディルが殺害された西暦932年までにアッバース朝は実質的に財政破綻し、 権力は程なくしてカリフに対する統制力とアミール・アル=ウマラー(英語版)(大アミール)の称号を争う一連の軍の有力者たちの下へ移った。 この趨勢は形式上においてさえカリフの独立性に終止符を打ったブワイフ朝による西暦946年のバグダードの占領によって最高潮に達した。 その後カリフは象徴的な名目上の指導者として生き残ったものの、 あらゆる軍事的、政治的な権限、あるいは独立した財源を奪われることになった。
アッバース朝の第10代カリフであるムタワッキルの息子で、 先代のムフタディーがトルコ系武人たちに暗殺されたため西暦870年に即位したが、 前年からカリフの御膝元のメソポタミア南部(南イラク)で勃発したザンジュの乱は、 年々拡大し、討伐軍を送っても撃退された。
東でもサッファール朝のヤアクーブは西暦873年にターヒル朝を滅ぼしカリフとの対立する。 ムウタミドはヤアクーブの権限を承認せずヤアクーブはファールスを突破してバグダードに進軍する。 しかし、西暦876年のダイル・アル=アークールの戦いでヤアクーブはアッバース朝の軍に敗北した。 敗れたヤアクーブはイラクから撤退した。
この混乱に乗じてエジプトのトゥールーン朝は、 西暦877年にシリアに進軍、 シリアからキリキア(アナトリア半島南部)、 ジャズィーラ(現イラク北部)に至る広大な領域を併合した。
その間にザンジュの反乱軍では、 独立政権を築くまでとなり西暦879年にはバグダード南90キロまで迫ったが西暦880年、 弟のムワッファクが討伐軍の総司令官に任命され逆襲に転じ西暦883年8月に制圧した。 しかし、14年にわたって中心部が奴隷の反乱軍に占拠されたことはアッバース朝の権威にとって致命的な打撃となった。 加えてこの反乱の影響でペルシャ湾交易が一時途絶し、 イラク南部の諸都市や田園は荒廃し元の戻らなかった所も多かった。 そして反乱鎮圧のためにサーマッラーがほとんど空になったことを機に、 再びバグダードを首都にした。
ムワッファクとは、対立していたが敗れ晩年には甥のアブル・アッバース(のちの第16代カリフ、ムウタディドを執政に任命。 西暦892年にバグダードで病死した。
彼はカリフ・アル・カーイムの息子ムハンマド・ダキラトとウルジュマンという名のアルメニア人奴隷少女の間に生まれた。 彼のフルネームはアブド・アッラー・イブン・ムハンマド・イブン・アル・カーイム、 クニヤ名はアブール・カシムでした。 彼は西暦1056年に生まれました。
西暦1075年にアル・カイムが死の床に就いたとき、 ファフル・アド・ダウラが彼の身の回りの世話を担当した。 アル・カイムは瀉血を望まなかったが、 ファクル・アド・ダウラはとにかくそれを行わせた。 アル・カーイムは生前、孫で後継者のアル・ムクタディに対し、 バヌー・ジャヒルをその地位に留めておくようアドバイスし、 「私はイブン・ジャヒルとその息子ほどダウラに適した人物を見たことがない。 彼らから目を背けてはならない。 アル・ムクタディは西暦1075年4月2日に王位に就いた。
西暦1077年、 アブー・ナスル・イブン・アル・ウスタド・アビ・アル・カシム・アル・クシャイリが市のニザミーヤの講師になるために町に到着したとき、 バグダッドでハンバリ派とアシュアリー派の間で致命的な暴動が勃発した。 暴動中、ニザム・アル・マルクの息子ムアヤド・アル・マルクの命は危険にさらされた。 ニザーム・アル=ムルクは事件全体の責任をファフル・アド・ダウラに負わせ、 西暦1078年に彼の代理人ゴハル・アインをカリフに送り、 ファフル・アド・ダウラの解任とバヌー・ジャヒルの信者の逮捕を要求した。 ゴハール・アインは7月23日に到着し、 8月14日火曜日に謁見が認められ、 その際にファフル・アド・ダウラの解任を求める書簡を手渡した。 アル・ムクタディは当初この要求に躊躇したが、 8月27日までにゴハル・アインは応じなければ宮殿を攻撃すると脅迫した。 その時点で、アル=ムクタディには選択の余地がなかった。 アッバース朝には独自の軍隊が無く、 セルジューク朝の干渉に抵抗する力が無かったのだ。 ファフル・アド・ダウラは明らかに(解雇ではなく)辞任し、 アル・ムクタディは彼を自宅軟禁に置いた。
一方、アミッド・アド・ダウラはニザム・アル・ムルクの計画を聞くとすぐにイスファハーンに向けて出発した。 彼は途中でゴハル・アインに遭遇することを避けるために山の中を迂回するルートを取り、 7月23日にイスファハーンに到着した。 これはゴハル・アインがバグダッドに到着したのと同じ日である。 アミッド・アド・ダウラはニザーム・アル・ムルクと面会し、 最終的に両者は和解し、 ニザーム・アル・ムルクの孫娘とアミッド・アド・ダウラとの結婚契約を締結した。 アル・ムクタディは当初バヌー・ジャヒルを再雇用せず、 彼らを自宅軟禁下に置いたが、 後にニザム・アル・ムルクが介入して彼らを再雇用させた。
また、西暦1078年のラマダン期間中(3月から4月)、 ファフル・アド・ダウラは自らの費用でアル・ムクタディの称号を冠したミンバール(説教壇)を作らせた。 その後、最終的には解体されて焼失した。
西暦1081年、 カリフはマリク・シャーの娘との結婚交渉のため、 贈り物と2万ディナール以上を積んでファフル・アド・ダウラをイスファハーンに送った。 マリク・シャーは息子ダウドの死を悲しんでいたため、参加しなかった。 交渉。 むしろ、ファフル・アド・ダウラはニザーム・アル・ムルクのもとへ行った。 今回二人は協力して仕事をした。 彼らは王女の養母であるトゥルカン・ハトゥンのところに行き、願いを伝えた。 ガズナ朝の支配者が10万ディナールというより良い条件を提示したため、 彼女は最初は興味がなかった。 アル・カイムと結婚していたハディージャ・アルスラン・ハトゥンは、 カリフとの結婚はより名誉あるものとなるだろうし、 カリフにこれ以上の金銭を要求すべきではないと彼女に告げた。
最終的に、トゥルカン・ハトゥンは結婚に同意したが、 ムクタディには重い条件が課せられた。 セルジューク朝の王女と結婚する代わりに、 ムクタディは5万ディナールとマフル(婚礼の祝儀)としてさらに10万ディナールを支払い、 現在の結婚生活を放棄するというものだった。 妻および側室であり、他の女性と性的関係を持たないことに同意する。 アッバース朝はすべての後継者がウンム・ワラドの子であり、 したがってどのライバル王朝とも無関係であったため、 アッバース朝の「生殖政治」を厳しく管理していたため、 これはアッバース朝のカリフにとって特に重く重大な負担となった。 トゥルカン・ハトゥンの条件に同意することで、 ファフル・アド=ダウラはアル=ムクタディを著しく不利な立場に置くと同時に、 セルジューク朝に多大な利益をもたらした。 西暦1083年、 アル=ムクタディは布告によりバヌー・ジャヒルを解任した。 彼らが解任された状況はやや不明瞭であり、 歴史家はさまざまな説明を行っている。 シブト・ブン・アル=ジャウジーのバージョンでは、 アル=ムクタディはバヌー・ジャヒルに疑いを抱き、 正式な許可を求めずに彼らをホラーサーンに向けて出発するよう促した。 これはアル=ムクタディの疑惑をさらに呼び起こし、 彼は彼らが去った後に遡って彼らを解雇した。 その後彼はセルジューク朝に書簡を送り、 政権にバヌー・ジャヒルを雇用しないよう伝えた。 イブン・アル・アスィルのバージョンでは、 セルジューク朝がある時点でアル・ムクタディに接近し、 バヌー・ジャヒルを自ら雇用するよう求め、 アル・ムクタディも同意したという。 アル・ブンダリは銃殺そのものについては詳細を明らかにしていないが、 代わりにセルジューク朝が(ホラーサーンではなく)バグダッドでバヌー・ジャヒルと会うために代表を送ったと書いている。
イブン・アル・アスィルの記述によると、 バヌー・ジャヒルは西暦1083年7月22日土曜日にバグダッドを出航した。 彼らの宰相としては、 以前は「宮殿の建物を管理していた」ラーイス・アル・ルアーサの息子、 アブール・ファス・アル・ムザッファルが引き継いだ。
アル・ムクタディはセルジューク朝のスルタン、 マリク・シャー1世から栄誉を受け、 その治世中、セルジューク朝の征服範囲の全域にわたってカリフ制が認められた。 アラビアは、ファーティマ朝から回復した聖都市とともに、 アッバース朝の精神的管轄権を再び認めた。
マリク・シャー1世は娘とアル・ムクタディとの結婚を取り決め、 おそらくカリフとスルタンの両方を務めることができる息子の誕生を計画していた。 夫婦には息子がいたが、 母親は赤ん坊を連れてイスファハーンの宮廷へ出て行った。 結婚の失敗後、スルタンはカリフの国政干渉に批判的になり、 バスラへの引退命令を出した。 しかし、直後にマリク・シャー1世が死去したため、 司令部は機能しなくなった。
西暦1092年、 ニザーム・アル=ムルクの直後にマリク・シャー1世が暗殺されると、 タージ・アル=ムルクはマフムードをスルタンに指名し、 イスファハーンに向けて出発した。 マフムードはまだ子供で、 母親のテルケン・ハトゥンは彼の代わりに権力を掌握したいと考えていた。 これを達成するために、彼女はカリフのアル=ムクタディと交渉を開始し、 自らの統治を確保した。 カリフは子供と女性の両方を統治者とすることに反対し、 主権者のしるしであるクトバを女性の名で宣言することを説得することはできなかった。 しかし最終的にカリフは、フトバが息子の名で唱えられ、 彼女が彼女に任命した宰相の援助を受ける場合には彼女に統治を任せることに同意し、 彼女自身がその条件を受け入れざるを得なくなったと考えた。
アル・ムクタディの最初の妻はシフリ・カトゥンでした。 彼女はスルタン・アルプ・アルスラーンの娘であった。 西暦1071年から西暦1072年にかけて、 彼の父アル・カイムはワズィルのイブン・アル・ジャヒルに結婚を申し込むよう送り、 スルタンはその要求に同意した。 彼の2番目の妻はスルタン・マリク・シャー1世の娘マー・イ・ムルク・カトゥンであった。 西暦1082年3月、 アル・ムクタディはアブー・ナスル・イブン・ジャヒルをイスファハーンのマリク・シャーに送り、 結婚を申し入れた。 彼女の父親は同意し、結婚契約が締結されました。 彼女は西暦1087年3月にバグダッドに到着しました。 結婚は西暦1087年5 月に完了しました。 彼女は西暦1088年 1月31日にジャアファル王子を出産しました。 しかしその後、アル=ムクタディは彼女を避けるようになり、 彼女は帰国の許可を求めました。 彼女は西暦1089年5月29日に息子を伴い、 バグダッドをクラサーンに向けて出発しました。 その後、彼女の死の知らせがバグダッドに届いた。 アル・ムクタディにはタイフ・アル・アフワという側室が1人いた。 彼女はエジプト人で、彼の息子、 将来のカリフ、アルムスタジルの母親であった。
アル・ムクタディは西暦1094年に37~38歳で亡くなりました。 彼の後を継いだのは16歳の息子アフマド・アル・ムスタジルであった。
アッバース朝の第16代カリフであるムウタディドとギリシャ系の女奴隷サイイダとの間に生まれ、 先代が若くして亡くなったため13歳で即位した。 即位できたのは重臣たちが幼少の彼ならば自由に操れると判断したからだが、 これに不満を持つ一部の重臣たちは第13代カリフ(ムウタッズか?)の息子を担ぎ出して即位後、 間もなくクーデターを起こした。 反乱軍は宮殿に殺到し多数の家臣を殺害したが中庭で蹴鞠をしていたムクタディルは殿中へ逃げのびすぐに反乱は鎮圧された。
ムクタディル自身は、 遊び好きの浪費家だったが、 鋭い洞察力を持つ母・サイイダに頭が上がらず、 母・サイイダは息子・ムクタディルの背後に控えて目を光らせていたため重臣たちも期待していたような好き勝手はできなかった。 実際に権力を握っていたのは母のサイイダで万事に口を出し政治を取り仕切った。 即位後10年目には講和に訪れた迎えるにあたってビザンツ帝国に豪華絢爛な歓待を行い威容を見せつけた。
西暦920年頃から狂乱物価となり人民は飢饉に苦しんでいたが、 ムクタディルは容赦なく増税をしたため各地で暴動が起きた。 西暦929年には、 トルコ系武人たちを従える宦官ムーニスが謀反をおこしカリフであるムクタディルと、 その母・サイイダを幽閉しれたが間もなく軍隊に救出されている。 しかし、ムーニスは強力だったために罰することができなかった。 西暦930年にはカリフの強力な私兵だった黒人奴隷兵たちが、 バグダードでムーニスの私兵たちに奇襲され皆殺しにされた。 西暦932年、 ついにムーニスとバグダード郊外で戦うが、 槍に当たり首をはねられ戦死した。
アリ・イブン・アフマドは、877/8年、後のカリフ・アル=ムアタディッド(在位 892年~902年)となるアフマド・イブン・タルハ(ムウタディド)の息子として、 チチェク(アラビア語で「花」、ジジャック)という名のトルコ人奴隷少女によって生まれた。 彼はカリフ・アリーにちなんで名づけられた最初のカリフである。
アッバース朝カリフが誕生した当時、 アッバース朝カリフはまだ、 不満を持った兵士たちによるカリフ・アル=ムタワキル(ムタワッキル。在位 847~861)の暗殺から始まった「サマラの無政府状態」として知られる10年にわたる内戦に動揺していた。 そしてアル=ムアタミド(ムウタミド。在位 870 - 892)の即位で終わった。 しかし、実権はアル・ムアタミド(ムウタミド)氏の弟、 アリ氏の父方の祖父であるアル・ムワッファク氏にあった。 アル・ムワッファクは軍部の忠誠心を享受し、 877年までに事実上の国家統治者としての地位を確立した。 地方におけるカリフの権威は「サマラの無政府状態」の間に崩壊し、 その結果、870年代までに中央政府はイラク首都圏以外のカリフ制の大部分に対する実効支配を失った。 西部では、エジプトがアフマド・イブン・トゥールンの支配下に置かれ、 彼もシリアの支配権をアル・ムワッファクと争っていたが、 ホラーサーンとイスラーム東部の大部分は、 アッバース朝の忠実な顧客であるサファリ朝に代わってサファリ朝に占領された。 タヒリド朝。 アラビア半島の大部分も同様に地元の有力者に奪われ、 一方タバリスタンでは急進的なシーア派ザイディ派が政権を握った。 イラクではザンジ奴隷の反乱がバグダッドそのものを脅かし、 893年に最終的に鎮圧されるまでアル・ムワッファクとアル・ムアタディは何年にもわたる激しい運動を要した。
王位に就いた後、アル=ムアタディード(ムウタディド)は父の政策を引き継ぎ、 ジャジーラ、シリア北部、イラン西部の一部でカリフの権威を回復した。 彼は効果的な政権を確立しましたが、 絶え間ない遠征と兵士の満足を維持する必要があるため、 軍の維持に必要な資金を提供することにほぼ完全に重点が置かれていました。 それにもかかわらず、アル・ムアタディッドは10年間の治世でかなりの黒字を蓄積することができた。 官僚機構の権力が増大すると同時に、バヌル・フラトとバヌル・ジャラという2つの対立する「氏族」が台頭し、 派閥主義も増大した。 この 2 つのグループは、 主に公職と権力をめぐる闘争において異なる派閥を代表していましたが、 「イデオロギー」の違いの兆候もあります。 バヌル・ジャラ家の多くは改宗ネストリウス派の家族の出身で、 官僚組織にキリスト教徒を雇用していました。 一方、バヌール・フラト派は軍に対する厳格な文民統制を課そうとし、 (あまり公然とではないが)シーア派を支持した。
アル=ムアタディッドは、長男で後継者と目されるアリを州知事に任命し、 後継者に向けて準備を整えた。 最初にライ、ガズヴィーン、クム、ハマダーンの各州が半自治国家から奪取されたときだった。 紀元前のドゥラフィド王朝。 894/5年、そして899年にジャジーラと辺境地域に関して、 アル・ムアタディードは最後の地方自治知事であるムハンマド・イブン・アフマド・アル・シャイバーニを解任した。 将来のアル・ムクタフィはラッカに居を構えた。 アル・ムアタディッドの信頼を享受していた宗教学者イブン・アビ・アルドゥニヤがアリーの家庭教師に任命された。
902年4月5日に父・アル・ムアタディド(ムウタディド)が亡くなると、 アル・ムクタフィは反対されずに彼の後継者となった。 父の宰相アル=カシム・イブン・ウバイド・アッラーは、 彼の名において忠誠の誓いを立てるよう命じ、 アル=ムクタフィ(ムクタフィー)がラッカからバグダッドに到着する(4月20日)までアッバース朝の王子全員を監禁するという予防措置を講じた。
新しいカリフは25歳でした。 彼の治世中に生きた歴史家アル・タバリは、 彼を「中くらいの大きさで、ハンサムで、繊細な肌をしていて、美しい髪と豪華なひげを生やしていた」と描写している。
アル・ムクタフィは父親の建物に対する愛情を受け継いだ。 彼はアル・ムタディッドの 3 番目の宮殿プロジェクトであるバグダッドのタージ (「王冠」) 宮殿を完成させ、 そのためにクテシフォンにあるサーサーン朝の支配者の宮殿からのレンガを再利用しました。 数多くの建物の中に、「ロバのキューポラ」 (Hubbat al-Himar) として知られる半円形の塔がありました。 カリフはロバに乗って頂上まで登り、 そこから周囲の田園地帯を眺めた。 父親の宮殿刑務所の跡地に、 現在はジャミ・アル・フラファとして知られる金曜モスク、ジャミ・アル・カスル(「宮殿モスク」)も増築した。 彼はまた、貪欲さと倹約において父親に倣い、そのおかげで、 ほぼ継続的な戦争による短い統治にもかかわらず、 かなりの余剰を残して去ることができた。 彼は古都サマッラに議席を移すつもりで赴いたが、 都市の再建に伴う高額な費用を見てすぐに思いとどまった。 一方、彼の気楽な性格は、 極度の厳しさと残酷で想像力豊かな刑罰で有名だった父親とは正反対であり、 アル・ムクタフィは即位後すぐにその制度を破壊したことで人気を博した。 父親の地下刑務所を閉鎖し、その敷地を人々に与え、囚人を釈放し、 政府によって没収された土地を返還した。 彼はディーワン・アル・マーリムの集会に個人的に出席し、 庶民の苦情や嘆願を聞いたことでも有名である。
アル・ムクタフィは父親ほど堅実ではなく、 法廷の役人たちに簡単に振り回された。 彼のカリフ制の初期は、 宰相アル・カシム・イブン・ウバイド・アッラーが統治していた。 彼は非常に有能な人物であり、野心家でもありました。 彼はアル・ムアタディッドの死の直前に暗殺を計画しており、 現在は新カリフへの影響力を狙うライバルを容赦なく排除している。
こうしてアル・カシムは、 バグダッド到着直後にアル・ムクタフィが彼の安否を尋ね、 彼をよく扱いたいとの意向を示したとき、 投獄されているサファリ朝の統治者アムル・イブン・アル・ライスの処刑を命じた。 その直後、宰相はアル・ムタディッドの忠実な最高司令官バドル・アル・ムタディディの信用を傷つけることに成功した。 バドルはバグダッドからの逃亡を余儀なくされたが、 宰相の代理人から恩赦を約束されて降伏し、 8月14日に処刑された[26]。 数日後、アル=カシムはカリフの叔父でアル=ムワッファクの息子アブドゥ・アル=ワヒドの逮捕を命じたが、 その後消息不明となった。 そして903年9月にアル=フサイン・イブン・アムル・アルが逮捕された。 -当初アル・ムクタフィが支持し、 アル・カシムに反対していたキリスト教書記官ナスラニは非難されて追放され、 その役職はアル・カシムの息子であるアル・フサインとムハンマドに与えられた。 アル・カシムは、904年3月に自分の幼い娘をアル・ムクタフィの幼い息子アブー・アハマド・ムハンマドと婚約させることにさえ成功し、 国家における彼の著名な地位は、 イスラーム世界で初めての勲章によって強調された。 特別な敬称、ワリ・アル・ダウラ。
当時の官僚闘争において、 アル・カシム・イブン・ウバイド・アッラーはバヌル・ジャラを支持し、 バヌル・フラトの親シーア派傾向に抵抗した。 バヌール・フラトの主要な代表であるアブール・ハサン・アリ・ブン・アル・フラトは、 904年に宰相が自ら死んだためだけ一命を取り留めた。 彼の死の前に、アル・カーシムはアル・アッバス・イブンのいずれかを後継者に指名していた。 アル・ハサン・アル・ジャルジャラーイーかアリー・ブン・イーサー・アル・ジャッラーのどちらかが就任したが、 後者はそのポストを拒否し、 アリー・ブン・アル・フラートはすぐにアル・アッバス・アル・ジャルジャラーイーとカリフの支持を得た。
アル・ムクタフィの短期間の治世は戦争に支配されていたが、 彼は卓越した「ガジー・カリフ」である父親とは異なっていた。 アル・ムタディッドはキャンペーンに積極的に参加し、 個人的な模範を示し、 統治者と兵士の間に後援によって強化された忠誠の絆の形成を可能にした。 一方、歴史家のマイケル・ボナーによれば、 アル・ムクタフィは「その性格と態度において、 [...]座りがちな人物であるため、 兵士たちにインスピレーションどころか忠誠心をあまり植え付けなかった」。
アル=ムアタディッドは、 ペルシャの大部分を支配していたサファ朝朝と不安定な関係にあった。 イスラーム世界の東部に対する彼らの支配はバグダッドによって認められていたが、 カリフとサファ朝朝はペルシャ西部、 特に地方の支配権を争っていた。 ファールスとキルマンの。 901年、サファリ朝はファルスを占領し、 それを取り戻そうとするバドル・アル・ムタディディの試みを撃退した。 アル・ムクタフィが即位したとき、 サファリ朝はレイを捕らえた。 バドル・アル・ムタディディ周辺の事件によって軍の対応が遅れ、 この地域に軍隊が派遣されたのは11月5日だった。 しかし遠征の結果は不明であり、 同年にサーマーン朝がレイを占領したことが知られている。 先代の父親と同様に、 アル・ムクタフィはサファリ朝との生存法に達することを好み、 翌年にはサファリ朝がファルスを支配することを確認した。
バグダッドとアダルバイジャンの準独立統治者ユスフ・イブン・アビール・サージとの関係は決して解決しておらず、 アル・ムクタフィ政権下で緊張が高まっていた。 908年、ハカム・アル=ムフリヒ指揮下の軍隊がイブン・アビール・サージに対して派遣されたが、 アル・ムクタフィの死後すぐに和解が成立した。 イブン・アビール=サージはカリファルの宗主権を認め、 アルメニア総督に任命された。 アダルバイジャン。
初期のカリフ制は常に、過激派ハリジ派の脅威にさらされていた。 ハリジ派は特に「砂漠と大地の境界地帯に住む」疎外された人々の間で蔓延し、 中央当局に敵対していた。 しかし、 9世紀の間に、シーア派の教義に基づいたさまざまな新しい運動が現れ、 既成体制に反対するための主要な慣用句としてハリジズムに取って代わられた。 ザイディ派のイマームたちは、 アッバース朝帝国の周縁部であるタバリスタン(864年)とイエメン(897年)にすでに独立王朝を樹立していたが、 アル・ムクタフィが即位するまでに、 カリフ制の中核地域自体がイスラーム教の脅威にさらされていた。 カルマティア人、イスラーム教シーア派急進派。 カルマティア人は、メッカ巡礼やカーバ神殿崇拝、 都市での居住やベドウィンの疎外など、 宗教の真の教えから逸脱しているとみなした慣行を理由に主流派イスラーム教スンニ派を非難した。 その結果、カルマティア人は後者の中に多くの支持者を獲得し(カルマティア人の指導者は圧倒的に都市入植者から来ていたが)、 近隣のイスラム教徒コミュニティを攻撃し始めた。 彼らの宣教活動はすぐに広がり、 899年にカルマティア人がバーレーンを占領し、 パルミラ周辺地域に別の基地が設立されました。 そこからカルマティア人はシリアのアッバース朝とトゥルーン朝の州に対する襲撃を開始した。 902年、カルマティア人はますます弱体化したトゥルーン朝を破り、 ダマスカスを包囲した。 都市は包囲に耐えたものの、 カルマティア人は他のシリアの町の破壊を進めた。 同時に、クーファン・イスマーイリ宣教師アブ・アブダラ・アル・シーイがクタマ・ベルベル人と接触した。 彼の改宗活動は彼らの間で急速に進み、 902年に彼はアグラブ朝のイフリーキヤ首長国への攻撃を開始した。 その征服は909年に完了し、ファーティマ朝カリフ制の基礎が築かれた。
903年7月、アル・ムクタフィは個人的にカルマティア人に対して遠征することを決意し、 軍の先頭に立ってバグダッドを出発しラッカに向かった。 アル・ムクタフィがラッカに残っている間、 実際の指揮は陸軍省(ディーワン・アル・ジュンド)長官のムハンマド・イブン・スレイマン・アル・カティブに与えられた。 バドル・アル・ハンマミとアル・フサイン・イブン・ハムダン率いる他のアッバース朝軍もカルマティア人に対して作戦を展開し、 7月にダマスカス近郊でカルマティア人を破ったが、 翌月にはアレッポ近郊でも敗北を喫した。 最後に、903年11月29日、 ハマ近郊でムハンマド・イブン・スライマンがカルマティア軍の主力軍と遭遇し、 これを敗走させ、主力指導者を捕らえるか殺害し、 軍隊を解散させた。 アル・ムクタフィ大佐は刑務所に投獄された上級捕虜らとともにバグダッドに戻った。 ムハンマド・イブン・スライマンはラッカに留まり、 田園地帯を捜索し、残った反乱軍を掃討した。 その後彼もバグダッドに戻り、904年2月2日に凱旋した。 11日後の2月13日、 ムハンマドと首都のサーヒブ・アル・シュルタ(治安長官)であるアフマド・イブン・ムハンマド・アル・ワティキが大統領を務めた。 クーファとバグダッドから集められたカルマティア指導者とカルマティア支持者の公開処刑 同年、 アッバース朝のバーレーン総督は地元のカルマティア人を破り、 カティーフの町を奪回した。
ハマー近郊でのアッバース朝の勝利はまだ、 その地域からカルマティア人を完全に撲滅していなかった。 906年、エジプトの反乱を鎮圧しに行った地方総督アフマド・イブン・カイガラグの不在を利用して、 バヌ・カルブ・ベドウィンの一部がナスルと呼ばれるカルマティア人のアブ・ガニムに率いられて反乱を起こした。 彼らはホーラン川とティベリア川を襲撃し、ダマスカスへの攻撃を開始した。 彼らは副総督アフマド・イブン・ナスル率いるその守備隊を破ったものの、 都市自体を占領することはできず、ティベリアに移動して略奪した。 アル・フサイン・イブン・ハムダンが彼らを追跡するために派遣されたが、 彼らは砂漠に撤退し、背後の水場に毒を入れて逃走した。 906年6月16日、彼らはユーフラテス川のヒットを攻撃した。 将軍ムハンマド・イブン・イスハーク・イブン・クンダージクとムニス・アル・カディムはバグダッドから彼らに向かって行進し、 一方アル・フサイン・イブン・ハムダンは西から彼らに向かって移動し、 彼らを包囲しようとした。 ベドウィンは窮地を逃れるためにナスルを殺害し、 カリファル当局から恩赦を受けた。 残りのカルマティア人は、主任宣教師ジクラウェイ・ブン・ミフラウェイの命令により、 南のクーファに移動した。 10月2日、彼らは都市への攻撃を開始したが、撃退されたものの、 クーファを支援するためにバグダッドから派遣された救援軍を破った。 その後、ジクラウェイはメッカへの巡礼から戻るキャラバンを攻撃するために行進した。 11月には3つのキャラバンが制圧された。 カルマティア人は無差別に虐殺を行い(第2キャラバンだけで約2万人が殺害されたと伝えられている[46])、女性と子供を奴隷として莫大な戦利品とともに連れ去った。 最後に、907年1月初旬、ワシフ・イブン・サワルタキン指揮下のカリフ軍がアル・カーディシーヤ近郊でカルマティア人を捕らえ、滅ぼした。 これらの敗北により、カルマティア運動はシリア砂漠では事実上存在しなくなったが、 バーレーンにおけるカルマティア運動の活動は今後数十年間活発な脅威であり続けた[48][49]。
これらの戦役中のアル・フサイン・イブン・ハムダーンの顕著な功績は、 彼をアッバース朝の主要な指揮官の一人として確立しただけでなく、 彼の家族であるハムダーン朝の権力と名声の台頭にも貢献した。 905年、彼の弟アブールは、 ハイジャ・アブダラはモスルの総督に任命され、 その後数十年間モスル家の主な権力基盤となった。
ハマーでのカルマティア人の敗北はまた、 アッバース朝がトゥルーン朝が保持していた南部シリアとエジプトの諸州を取り戻す道を開いた。 トゥルーン朝政権は内紛や軍内のさまざまな民族グループの対立によってすでに弱体化しており、 それが司令官バドル・アル・ハンマミや他の高官らのアッバース朝への亡命につながった。 政権はカルマティア人の破壊的な襲撃とそれに対処する能力の無さによってさらに弱体化した。 904年5月24日、 ムハンマド・イブン・スライマンはアル・タバリによれば1万人を擁する軍隊を率いてバグダッドを出発し、 シリア南部とエジプトそのものをトゥルーン朝から取り戻す任務を負った。 彼の遠征は、タルススのダミアン指揮下のキリキア辺境地区からの艦隊によって海から支援されることになった。 ダミアンは艦隊を率いてナイル川を遡上し、海岸を襲撃し、 トゥルーン朝軍への物資の輸送を阻止した。
アッバース朝の進軍はほとんど反対されず、 12月にはトゥルーン朝の首長ハルン・イブン・クマラワが叔父のアリとシャイバンによって殺害された。 シャイバンが国家の実権を引き継いだが、 この殺害によりダマスカス総督トゥギ・イブン・ジュフを含むアッバース朝へのさらなる離反が生じた。 1月、アッバース朝軍はエジプトの古都フスタト前に到着した。 シェイバンは夜の間に軍隊を放棄し、都市は降伏した。 勝利したアッバース朝は、イブン・トゥールンの大モスクを除き、 近くにあるトゥルーン朝が建国した首都アル・カターイーを破壊した。 トゥルーニ朝家族とその主要な支持者は逮捕されてバグダッドに連行され、 財産は没収された。 イサ・アル・ヌシャリがエジプト総督に任命された。 彼の在職期間は当初から問題があった。 イブラヒム・アル・カランジー氏の下での分離主義者の反乱のため、 数カ月も経たないうちにフスタトを放棄してアレクサンドリアへの逃亡を余儀なくされた。 彼はおそらく、ほぼ同時期に親トゥルーン朝の反乱を指導したと記録されている特定のムハンマド・イブン・アリ・アル=ハリジと同一人物である可能性がある。 アフマド・イブン・カイガラグ指揮下のバグダッドから増援が到着した。 アル・カーランジーは905年12月のアル・アリシュでのイブン・カイガラグとの最初の遭遇で勝利を収めたが、 最終的に敗北して906年5月に捕らえられ、 バグダッドに捕虜として連行された。
906年、アル・ムクタフィはトゥルーン朝第2代統治者クマラワィの娘と結婚した。 彼女はおそらく有名なカトル・アル・ナダの異母妹であり、 クマラワのもう一人の娘であり、 彼と結婚するはずだったが、 結局893年に彼の父親と結婚した。
アル・ムクタフィはまた、ビザンツ帝国との永続的な紛争を継続し、 さまざまな成功を収めた。 902年5月、アル=カシム・イブン・シーマ・アル=ファルガーニがジャジーラ辺境地区の指揮官に任命された。 902年か903年、海軍による襲撃がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに危険なほど近いリムノス島に到達した。 島は略奪され、住民は奴隷として連れ去られた。 それにもかかわらず、903 年 5 月、 新たにタルスス総督に任命されたアブール・アシャイル・アハマド・イブン・ナスルは、 ビザンツ帝国の統治者である賢者レオ 6 世 (在位 886?912) への贈り物を携えて辺境地区に派遣された。 そしてそのお返しとして、 ビザンチンの使節が捕虜交換の交渉のためにバグダッドに到着した。 この交換は最終的に905年9月から10月にかけてキリキアのラムス川で行われたが、 ビザンチン側が合意条件を破ったために中断された。 さらなる交渉の後、908年8月に交換が完了した。
904年の夏、アッバース朝に仕えたビザンティンの反逆者、 トリポリのレオは、シリアとエジプトの艦隊から54隻の船からなる大規模な遠征隊を率い、 最初の目標はコンスタンティノープルそのものであったと伝えられている。 ドルンガリオ・ユースタティオス・アルギロス率いるビザンチン海軍がアラブ艦隊との対決に消極的だったため、 アラブ艦隊はダーダネルス海峡を突破してアビドスを略奪した。 レオ皇帝はアルギュロスをより精力的なヒメリオスに置き換えたが、 トリポリのレオはビザンツ軍の先回りして西に向きを変え、 帝国の第二の都市テッサロニケに向かい、 904年7月31日に3日間の包囲の末にテッサロニキを略奪した。 イスラーム艦隊に莫大な戦利品と奴隷として売られるために連れて行かれた多くの捕虜をもたらした。 その中には都市の包囲と陥落の主な記録を書いた目撃者のジョン・カミニエイツも含まれていた。
しかし、陸上ではビザンツ軍が優勢だった。 アル・タバリの報告によると、904年の春から初夏にかけて、 ビザンチン軍の大軍勢が「10人の十字軍と10万人」が国境地帯に侵入し、 ハダスに至るまで略奪したという。 11月、おそらくテサロニケ略奪に対する報復として、 ビザンツ帝国の将軍アンドロニコス・ドゥカスがアラブ領土に侵攻し、 マラシュ(ゲルマニキア)でタルススとアル・マシサ(モプスエスティア)の軍に対して大勝利を収めた。 双方にとってさらなる成功が続いた。 ビザンツ帝国は906年7月にクルス(キュロス)を占領し、 都市を破壊し住民を連れ去った。 906年10月、アフマド・イブン・カイガラグとルスタム・イブン・バラドゥは襲撃を開始し、 ハリス川まで到達し、戦利品と捕虜を積んで引き返した。 海上では、ヒメリオスは906年10月6日のセント・トーマスの日にアラブ艦隊に勝利を収めた。 しかし、907年春、アンドロニコス・ドゥカスとその息子コンスタンティヌスはアッバース朝に亡命し、 レオ6世の強力な宦官侍従サモナスの陰謀の犠牲となった。
アル・ムクタフィの外交関係における注目すべきユニークな事例の一つは、 ロタリンギア王の娘でありトスカーナ辺境伯アダルベルト2世の妻であるベルタとの文通である。 906年、ベルタはラテン語で書かれた手紙と豊富な贈り物をアル・ムクタフィに送り、 友情と結婚同盟を求めた。 ベルタは明らかにフラクシネトゥムのアラブ植民地によってもたらされた脅威によって動機付けられ、 カリフが依然としてイフリーキヤのアグラブ朝の支配者に対して実権を行使しているという――誤った――信念のもとアル・ムクタフィに頼った。 アル・ムクタフィは今度は自分の手紙で返信したが、 この遠距離通信では何も起こらなかった。
アル・ムクタフィは統治者として成功しただけでなく、 「感性が豊かで、美食家であり、 イブン・アル・ルーミーのような詩人の詩を鑑賞する人」でもあった。 歴史家のハロルド・ボーエンが書いているように、 カルマティアの挑戦を克服し、エジプトとシリアを取り戻し、 「当時のカリフ制はほぼかつての栄光を取り戻したかに見えた」。 彼の財政政策は、父親の政策を基礎としており、 継続的な戦争による消耗と荒廃にも関わらず、 繁栄と豊かな国庫を確保した。
しかし、アル・ムクタフィは子供の頃から病弱な性格であり、 実際、治世の大半は病気であった可能性がある。 908年の春の終わりにカリフは重病に陥り、 約3か月間、カリフは無力な状態で横たわっており、 彼の状況は好転と悪化を繰り返していた。 しかし、すぐに彼が病気を克服できないことが明らかになった。 アル・ムクタフィには9人の息子がいたが全員未成年で、 病気のため後継者を決めることができなかった。 宰相アル・アッバス・アル・ジャルジャライはこの問題について官僚の指導的役人に打診したが、 これは文民官僚が権力を独占していることを示す前例のない行為だった。 ムハンマド・イブン・ダーウド・アル・ジャッラーは、 経験豊富で有能なアッバース朝の王子アブダラ・イブン・アル・ムタズを支持したが、 宰相は最終的に、アル・ムクタフィの13歳の弟ジャーファルを提案したアリ・ブン・アル・フラトの助言に従った。 その理由は、彼は弱くて柔軟で、 高官たちに簡単に操られてしまうだろうという理由であった。 カリフ・アル=ムクタディール(在位 908年~932年)となったジャアファルの選択は、 歴史家ヒュー・ケネディの言葉を借りれば「邪悪な展開」であり、 「アッバース朝全土で最も悲惨な統治」の1つを開始した。 [...]四半世紀の間、 [アル・ムクタディルの]前任者の仕事はすべて無効になることになる。
アル・ムクタフィは、908年8月13日に亡くなるまで、 兄の指名を認めるのに十分な回復をしたようである。 父親と同様に、バグダッドのタヒリド宮殿に埋葬された。 アル・ムクタフィの死は、 父と祖父が率先して進めてきた「アッバース朝復興の頂点」を示した。 その後40年間にわたり、カリフ制は相次ぐ権力闘争に直面し、 野心的な地元王朝によって辺境の州を失うことになる。 936年にイブン・ラーイクがアミール・アル・ウマラの地位に就くと、 カリフは単なる傀儡支配者となり、 946年には最終的にバグダッド自体もイランのシーア派ブイード朝によって占領されることになる。
これらの混乱のさなか、 944年から946年にかけてアル・ムクタフィの死後の息子アブダラが軍閥トゥズンによってカリフに任命され、 王名はアル・ムスタフィとなった。 アッラーの娘アル・カーシム・イブン・ウバイドと結婚したアブ・アフマド・ムハンマドは、 930年に自身もアル・ムクタディルに対する陰謀に関与し、 アル・ムクタディル失脚後の932年には一時的にカリフの王位候補となった。 933年に死去した。
さまざまな情報源が剰余金の異なる金額を記録している。 アル・タバリは1500万ディナール金を渡しているが、 これは明らかに本文への後付けである。 マスウディやイブン・アル=ズバイルなどの後の著者は、800万ディナール、 または2500万銀ディルハムという、 より小さな額を提示している。 より多額の金額は、おそらく正確な説明よりも、 金を浪費したアル・ムクタディールに対する批判の点として含まれている可能性が高いため、 疑わしいと考えられている。 死亡時の年齢は31歳(イスラーム教)、 32歳から1か月を引いた年齢、 あるいは33歳などさまざまな説がある。
第17代カリフであるムクタフィーとギリシャ系の女奴隷アムラフン・ナーシとの間に生まれ、 チグリス川の西岸のダール・イブン・ターヒルに住みすぐ隣にいた従兄弟のファドル(のちの第23代カリフのムティー)と仲が悪くよく争った。
大アミールのトルコ系武人であるトゥーズーンに探し出され西暦944年にバグダートで第22代カリフに即位させられた。 トゥーズーンは捕らえて目をつぶした先代のムッタキーも連れてきて忠誠を誓わさせた。
即位すると従兄弟のファドルを捕らえようとしたが事前に危険を察して逃げ出してしまっていたため、 住宅を壊させ財産を没収した。
西暦945年には、 イランの大豪族であるブワイフ兄弟の末弟アフマドがバグダートが入り、 大アミールの称号を得た。 しかし、密かにブワイフ家を討伐する陰謀をめぐらし、 アフマドの心証を悪くする出来事があったため西暦946年に突如、宮殿で捕らえられた。 それを合図にブワイフ家の一党が宮殿に乱入し略奪暴行をした。 ムスタクフィーは、退位させられ両目を潰され余生を獄中で過ごした。
父はカリフのムクタディーである。 母は、エジプト人のムクタディーの側室のひとりタイフ・アル・アフワである。
西暦1094年2月3日に父親が亡くなり、ムスタズィールが跡を継いだ。 即位当時、ムスタズィールは16歳であった。
アド・ドーラは、西暦1099年または西暦1100年までアッバース朝の宰相であり続けたが、 その後セルジューク朝のスルタン、ベルクヤルクによって解任され投獄された。 アド・ダウラの失脚については諸説あるが、その一つでは、 父ニザム・アル・ムルクの後を継いでセルジューク朝の宰相となったムアヤド・アル・ムルクがアッバース朝の宰相をアル・アアズにオファーし、 両者が協力したというものである。 Barkyaruq からの意見なしに彼を解任すること。 別の記事では、バルカルク自身がアミド・アド・ダウラを解雇し、投獄する前に政府資金を流用したとして「巨額」の罰金を科した。 いずれにせよ、アミッド・アド=ダウラはその直後、 西暦1100年に刑務所で亡くなった。
アド=ダウラの失脚後、 弟のアル=カフィは西暦1102年3月から西暦1106年7月までアッバース朝のカリフ、ムスタズィールの宰相を務め、 その後再び西暦1108年9月から1113年4月まで務めた。
ムスタズィールの24年間の在任中、 国内での内戦やシリアでの第一次十字軍の出現にもかかわらず、 彼は政治的に無関係であった。 十字軍のトゥールーズのレーモン4世もバグダッドを攻撃しようとしたが、 西暦1101年の十字軍の最中にメルシヴァン近くで敗北した。 世界のイスラム教徒人口は西暦1100年までにキリスト教徒人口の11パーセントに対し、 約5パーセントまで増加していた。
紀元492年 (西暦1099年)、 エルサレムは十字軍によって占領され、住民は虐殺されました。 説教者たちはカリフ全土を旅してこの悲劇を宣言し、 預言者が天国へ逃亡した現場であるアル・アクサで異教徒の手から立ち直るよう人々を鼓舞した。 しかし、他の地域で成功したとしても、 東部諸州ではその使命は失敗に終わりました。 東部諸州は自らの問題に忙殺され、 さらに当時のようにファーティマ朝の信仰によって支配されていた聖地にはほとんど関心がありませんでした。 バグダッドに避難する亡命者の群衆は、 そこで民衆とともにフランク人(イスラム教徒が十字軍を指す呼称)に対する戦争を叫び続けた。 西暦1111年の2回の金曜日、 反乱軍はアレッポのカーディ、イブン・アル=カシュシャブに扇動されて大モスクを襲撃し、 説教壇とカリフの玉座を粉々に破壊し、 礼拝を大声で非難したが、スルタンもカリフも黙らなかった。 西へ軍隊を派遣することに興味がある。
ムスタズィールの妻の一人はイスマ・ハトゥンだった。 彼女はセルジューク朝スルタン マリク シャー 1 世の娘でした。 ムスタズィールは西暦1108年から西暦1109年にイスファハーンで彼女と結婚しました。 彼女は後にバグダッドに来て、カリファル宮殿に居住した。 西暦1112年2月3日、 彼女はアブー・イシャク・イブラヒム王子を出産したが、 西暦1114年10月に天然痘で亡くなり、 ルサファ墓地のアル・ムクタディル霊廟に、 カリフ・アル・ムクタディの息子である叔父のジャアファルの傍らに埋葬された。 アル・ムスタジルの死後、イスマはイスファハーンに戻り、 そこで亡くなり、 バラックス・マーケット・ストリートに彼女が設立した法科大学内に埋葬された。 もう一人の妻はカトゥーンでした。 彼女はムスタズィールのお気に入りの一人だった。 彼女は西暦1141年から西暦1142年にかけて亡くなった。 ムスタズィールの側室の一人はルバナでした。 彼女はバグダッド出身で、将来のカリフ・アル=マスターシッドの母親であった。 もう一人の側室はアシンでした。 彼女はシリア出身で、将来のカリフ、 アル=ムクタフィーの母親であった。
アル・ムスタジルは 西暦1118年に40歳で亡くなり、 息子のアル・ムスタシッド(ムスタルシド)がアッバース朝第29代カリフとして継承しました。
西暦1092年、 ムスタズヒルの息子として生まれる。 西暦1118年即位。 西暦1095年頃から金曜礼拝の際のフトバで彼の名前が唱えられており、 先代ムスタズヒルの明確な後継者であった。
西暦1123年、 ドゥバイスがイラクを攻撃した際は自ら出陣し、これを破っている。 なお、この時カリフ軍に従った武将アクソンコル・アル=ブルスキの配下に、 イマードゥッディーン・ザンギーがいる。
西暦1127年、 セルジューク朝の代替わりにより若年のスルタン、マフムードが即位した。 セルジューク朝の武将でバグダードを任されていたヤルンカシュ・アル=ザカウィがムスタルシドの勢力伸長をマフムードに警告し、 マフムードはバグダードへ侵攻しカリフ軍との戦闘となった。 事態を収拾できなくなったマフムードは、 この時バスラの司令官となっていたザンギーを呼び寄せ、 カリフ軍と戦わせた。 ムスタルシドはザンギーに敗れ、武器を置いた。
西暦1131年-西暦1132年、 先述のマフムードが没し、 セルジューク朝の後継者争いが始まった。 これを好機と見たムスタルシドは、 諸勢力の調停に立ち権威回復を図る。 先のカリフ軍との戦闘の功を認められアレッポとモースルを領有していたザンギーは、 この状況に危機感を覚え、 庇護下に置いていたドゥバイスとともにバグダードへ進軍した。 ムスタルシド自ら率いるカリフ軍とザンギー軍の戦闘は、 ドゥバイスが逃げ出しザンギー軍の敗北に終わった。
西暦1133年、 ムスタルシドはザンギーの息の根を止めるべくモースルへと進軍したが、 三ヶ月に渡る頑強な抵抗の前にモスル奪取は失敗し、 この失敗によってムスタルシドは部下の武将たちから見放され西暦1135年6月、 セルジューク朝のスルタンに敗れて捕らえられたところを、 乱入してきたニザール派の刺客に殺された。
紅毛碧眼で顔には赤茶けたしみがあったという。
イブン=アル=アシールは著書『完史』の中で、 ムスタルシドについて以下のように述べている。
「彼は強くまた勇敢であり非常に大胆で、遠大な夢を持っていた。彼はアラビア語にきわめて達者であり雄弁であった。私は彼が嘆願書に対して書いた返信も見たことがあるが、それは素晴らしい筆跡と文章技能で書かれていた」
イブン=アル=アシールも述べているムスタルシドの雄弁さについて、 ニザーミー・アルーズィー『四つの講話』には以下のようにある。
「カリフは説教の間にあまりの悲しみと絶望からセルジューク朝について不平を述べた。アラブの雄弁家、ペルシャの能弁家たちはいずれもそれをこう評している。すなわち、預言者の弟子にして、コーランの注釈者たちたる教友たち以来、かかる流麗かつ雄弁な話をした者はいない」[9]
なお、ムスタルシドの宰相ジャラールッディーン・アブー=アリー・アル=ハサン・イブン=スィドカは有能で、 一度セルジューク朝の圧力によって解任した後も、 ムスタルシドは彼を再度任用している。 ジャラールッディーンはアル=ハリーリーに『マカーマート』の執筆を促した人物としても知られる。
父は第8代カリフのムウタスィム。母はペルシャ人の奴隷。兄に第9代カリフのワースィクがいる。
847年に兄のワースィクがトルコ人近衛兵団と対立して廃されたために跡を継いだ。兄の廃位をみて王権回復に全力を上げ、カリフ位を神格化して極端に保守的な神学派と手を結び自らを「現世における神の影」とまで称した。だがそのために伯父の第7代カリフであるマアムーンが公認していた分離派(ムータジラ派)を異端として弾圧し教義上の論議を禁止するまでに至った。またキリスト教徒やユダヤ教徒に対しての差別を強化し、トルコ系軍閥を抑圧したので、アルメニアやアゼルバイジャン、シリア、エジプトなど各地でムタワッキルに対する反乱が起こった。しかもこの状況を見た東ローマ帝国のミカエル3世“メテュソス”のダミエッタ侵攻を受けるなどアッバース朝は危機的状況に陥った。
これらの反乱と外敵の侵入は、トルコ系軍人のブガ・アッシャラービによって平定された。だがこのためトルコ人の権力がさらに強まり、ムタワッキルはそれを避けるためにダマスカスに遷都した。のちにサーマッラーへ帰還するも、今度は次男のムウタッズを偏愛して長男のムンタスィルを冷遇した。このため弟に譲位されることを恐れたムンタスィルは861年にトルコ系軍人と密約を結んでムタワッキルは40歳で暗殺された。
以後、カリフは名目上の存在と化していくことになる。[独自研究?]
第18代カリフであるムクタディルと女奴隷のズフラとの間に生まれた。 幼児から不運で事故が次々と起こり周囲の人間が死ぬことが多かった。 成長すると真面目一方で酒を飲まず女に溺れず34歳で第21代カリフとして即位したが政治の実権を重臣に握られ有名無実の君主に過ぎなかった。
西暦942年にバグダートはひどい飢饉に襲われ食糧の価格は暴騰し市民は苦しんだ。 その時、南部の豪族が反乱を起こしムッタキーと大アミールであるイブン・ライークの討伐軍を撃退しバグダートに侵入し宮殿を荒らした。ムッタキーとイブン・ライークは、北方に逃げタクリートの町でイブン・ライークは豪族ハムダーン家のハサンとアリー兄弟に暗殺された。そのためムッタキーは、ハサンを大アミールに任命し兄弟に守られバグダートに帰還した。
西暦943年にはトルコ系武人のトゥーズーンが南方からバグダートに迫ってハムダーン家を追い払い大アミールの称号をもらった。 しかし、まもなくb>ムッタキーはトゥーズーンと不仲となりハムダーン家を頼って北方に逃げたが西暦944年に捕えられ目を潰された。 バグダートに連行され退位させられ次のカリフに忠誠を誓わされた。
その後、小さな島の牢獄で25年間もつらい生活をおくった。
アブル=カースィム・アル=ファドル・ブン・アル=ムクタディル(西暦913年/4年 - 西暦974年10月12日)、 またはラカブ(尊称)でアル=ムティー・リッ=ラーフ(「神に従順な者」の意)は、 第23代のアッバース朝のカリフである(在位:946年1月29日 - 974年8月5日)。
西暦946年に即位したムティーの治世はアッバース朝の支配力が最も衰えた時代だった。 ムティーが即位する以前の数十年間にカリフの世俗的な権力が及ぶ範囲はイラクに限定されるまで縮小し、 そのイラクにおいてでさえ強力な軍閥によって権力を押さえ込まれていたが、 西暦946年にバグダードを征服したブワイフ朝によってカリフはその権力を完全に喪失することになった。 ムティーはブワイフ朝の手でカリフに即位したが、 イラクにおける司法関連の人事に僅かに介入した事例を除けば、 ブワイフ朝政権の実質的な傀儡としてほぼ無条件に公文書へ署名するだけの存在となった。 しかし、その従属的な役割を受け入れたことで、 短命で暴力的に廃位された前任者たちとは対照的に比較的長期にわたってカリフの地位を保持し、 息子のターイーにその地位を引き継がせることができた。
また、イスラーム世界の名目上の指導者としてのカリフの権威もその治世中に大きく低下した。 ブワイフ朝の対抗勢力である東方のサーマーン朝は西暦955年までムティーをカリフとして承認しようとせず、 西暦960年代以降のビザンツ帝国の攻勢に対しても効果的な指導力を発揮できなかったことでムティーの評判は下落した。 さらにアッバース朝にとって重要な問題となったのは、 中東地域におけるシーア派政権の台頭によって政治面だけでなく宗教面においてもアッバース朝とスンナ派の優位に直接的な脅威が及ぶようになったことである。 ブワイフ朝は政権の正当性を確保するためにアッバース朝のカリフを形式的に温存していたが、 宗教的にはシーア派を信奉していた。 西方ではシーア派の一派であるイスマーイール派を信奉するファーティマ朝が台頭し、 ムティーの治世中の969年にエジプトを征服するとともにシリアへの進出を開始した。
後にムティーのラカブを名乗ってカリフとなるアル=ファドルは、 アッバース朝のカリフのムクタディル(在位:908年 - 932年)とスラヴ人の内妻であるマシュアラの息子として西暦913年か西暦914年にバグダードで生まれた。 また、カリフのラーディー(在位:934年 - 940年)とムッタキー(在位:940年 - 944年)はアル=ファドルの兄にあたる。 アル=ファドルは危機の時代に成長した。 ムクタディルの治世は派閥争い、カルマト派の襲撃、さらには経済の衰退と歳入の不足が重なったことで軍による混乱を招き、 この混乱は西暦932年のムクタディルの殺害によって頂点に達した。 続くラーディーとムッタキーの治世では地方において軍の有力者が台頭し、 アッバース朝の中央政府はこれらの有力者の手によって地方の支配権を奪われた。 アッバース朝の本拠地であるイラクの大都市圏においてでさえ軍の有力者たちがカリフから実権を奪い、 大アミール(アミール・アル=ウマラー(英語版))の称号とその地位に伴うバグダードのアッバース朝政府の支配権をめぐって互いに争った。 ムッタキーは大アミールのバジュカム(英語版)の手によってカリフとなったが、 即位してからはモースルのハムダーン朝を始めとする地方の軍閥を互いに争わせることで政権の独立と権力の回復を目指した。 しかし、これらの試みは失敗に終わり、 西暦944年9月に大アミールのトゥーズーン(英語版)によって盲目にされた上で退位させられた。
残っているムクタディルの息子たちの中の年長者として、 また二人の以前のカリフたちの弟として、 アル=ファドルは明白なカリフの候補者の一人であった。 しかし、トゥーズーンはアル=ファドルではなくムクタフィー(英語版)(在位:902年 - 908年)の息子のムスタクフィー(在位:944年 - 946年)をカリフに選んだ。 中世のいくつかの史料によれば、 ムスタクフィーとアル=ファドルは互いのことを嫌っており、 若い王子としてターヒル朝の宮殿(英語版)で過ごしていた頃から喧嘩をしていた。 また、二人はカリフ位の継承において対立する二つの家系に属していただけでなく、 性格までも正反対であった。 アル=ファドルは父親と同様に敬虔なことでよく知られていたが、 ムスタクフィーはアイヤールと呼ばれる都市の貧困層から集められた無頼集団(しばしば厄介者として非難され、スーフィーのような当時としては異端で党派的な集団との関係を疑われていた)と関わり、 「低俗な」遊びに興じることで宗教的な評判を害していた。 ムスタクフィーは即位するや否やアル=ファドルを捕らえるために工作員を送り込んだが、 アル=ファドルはすでに身を隠しており、 アル=ファドルの家を破壊することで満足せざるを得なかった。 この無駄な行為はアル=ファドルがムスタクフィーの重大な競争相手であることを周囲に知らしめるのに役立っただけであった。 この話を聞いたかつての宰相(ワズィール)のアリー・ブン・イーサー(英語版)は、 「今日、彼(アル=ファドル)はカリフの後継者として認められた」と語ったと伝えられている。
西暦946年1月にブワイフ朝の支配者のムイッズ・アッ=ダウラ(英語版)に率いられたダイラム人の軍隊がバグダードを占領した。ムイッズ・アッ=ダウラはアッバース朝のカリフの実質的な「庇護者」となったが、大アミールの称号は恐らく長兄のイマード・アッ=ダウラ(英語版)の手に渡ったとみられ、イマード・アッ=ダウラがブワイフ朝のアミールの長とみなされるようになった[16][注 2]。そして946年1月29日(別の記録では3月9日)にムスタクフィーは退位させられ[1][18]、ムイッズ・アッ=ダウラは同日にアル=ムティー・リッ=ラーフ(「神に従順な者」の意)の名とともにアル=ファドルをカリフに即位させた[2][19][注 3]。アル=ファドル(以降はムティーと表記する)の突然の再登場とカリフへの登位は当時の人々にとって驚きであったらしく、ムスクタフィーが即位した時からすでにブワイフ朝と陰謀を企てていたという噂が流れた[21]。
ブワイフ朝とその支持者はシーア派の信奉者であり、 中世の歴史家はこのカリフの交代の経緯を宗教的な動機を交えて説明する傾向にあった。 後世の年代記作家であるムハンマド・ブン・アブドゥルマリク・アル=ハマザーニー(西暦1127年没)とイブン・アル=アスィール(西暦1233年没)によれば、 ムイッズ・アッ=ダウラはアッバース朝を完全に追放し、 バグダードのカリフにアリー家(英語版)[注 4]の者を据えるという漠然とした構想を抱いていた。 しかし、ムイッズ・アッ=ダウラとシーア派のカリフが衝突した場合、 ダイラム人の兵士は後者に付く可能性が高いことを自分の書記官のアブー・ジャアファル・アル=サイマリーから指摘されたことで初めてこの構想を思い止まった。
歴史家のジョン・ドノヒューは、この説明について、 明らかな時代認識の誤りを含む後世に挿入された話であり[注 5]、 ムスタクフィーの廃位にはいかなる宗教的な動機もなかったと指摘している。 他の年代記作家はムティーが隠れ家から姿を現してブワイフ朝の支配者にムスタクフィーに対する行動を煽った、 あるいはムスタクフィーのある女執事がダイラム人の将軍たちを招いて宴会を催し、 ムイッズ・アッ=ダウラから離反させようと試みたといったいくつかの原因を挙げているが、 ドノヒューは、最大の理由はムイッズ・アッ=ダウラが外部から干渉を受けることなく完全に自分の支配下に置くことができるカリフを望んでいたという単純なものだっただろうと述べている。 一方でイスラーム史研究家の橋爪烈は、 ダイラム人将軍の宴会の件を含むいくつかの不審な出来事の結果、 ムイッズ・アッ=ダウラが配下のダイラム人有力者の忠誠やムスタクフィーに対し疑念を抱いたことで廃位を実行に移した可能性があると指摘している。
廃位されたムスタクフィーは恐らくムティーが主導した報復行為によって目を潰され、 余生をカリフの宮殿で囚人として過ごし、 そこで西暦949年9月に死去した。
ムティーはあらゆる点においてブワイフ朝のイラクの統治者 「最初はムイッズ・アッ=ダウラ、次いでその息子のイッズ・アッ=ダウラ(英語版)」の傀儡であり、 無力な存在であった。 実権を欠いていた結果としてその治世の年代記にムティーはほとんど登場せず、 中世の歴史家は大抵においてムティーの治世をアッバース朝が最も衰えた時代とみなしており、 これについては現代の学者も同様の見解を示している。 11世紀の学者であるアル=ビールーニーは、 王権を伴った国家としてのアッバース朝は姿を消し、 スンナ派の信仰を象徴するカリフ制のみが残ったとして次のように述べている。
形式上はイラクにおけるブワイフ朝とそのすべての役人はアッバース朝のカリフの名の下で行動し続け、 すべての任命と法律行為はムティーの名において行われ続けた。 しかし、実際にはムティーはあらゆる有意な権限を剥奪されていた。 そして広大なカリフの宮殿において快適で安全な生活を送ることが許される代わりに、 イスラーム世界の目から見れば新興勢力に過ぎないブワイフ朝政権に正当性を与える役割を果たしていた。 カリフ制の廃止やアリー家の人物をカリフの地位に据えるという選択肢は、 たとえ真剣に検討されたとしてもすぐに却下された。 そのような行為は広範囲に及ぶ反発を招き、 他の場所で容易に別のスンナ派のカリフが擁立される可能性もあった。 また、ブワイフ朝の統制下に置かれた従順なカリフは新しい政権に対する大多数のスンナ派の恭順を確保し、 他のイスラム教徒の君主たちとの関係においてブワイフ朝がその象徴的な影響力を行使するのに役立っていた。 さらに、ブワイフ朝の支配地域におけるシーア派の支持者の中心を占める十二イマーム派では最後のイマームが70年前に幽隠(ガイバ)に入ったとされており、 一方でザイド派の教義ではイマームが正当性を得るためには自ら権力を握らなければならないとされていたため、 擁立できる適切なアリー家の候補者がいなかった。
ブワイフ朝はすぐに伝統的なアッバース朝の体制と一体化し、 尊称の授与や総督職の任命状、 あるいは条約への署名といった形でカリフから与えられる正当性を熱心に追求するようになった。 その一方でムティーは俸給を受け取る国家の役人に事実上格下げされ、 その責任範囲は司法、宗教機関、 そして広範囲に及ぶアッバース家の一族の案件を管理する程度にまで縮小された。 カリフの首席書記官はもはや「宰相」(ワズィール)ではなく、 単に「書記官」(カーティブ)と呼ばれ、 カリフの役割はカリフの資産を管理する部門であるディーワーン・アル=ヒラーファの監督、 カリフの名における称号、役職、および任命状の正式な授与、 そして裁判官(カーディー)と陪審員の任命に限定された。 実際には裁判官の任命もブワイフ朝のアミールの権限下に置かれていたが、 少なくともバグダードの首席のカーディーのような高位の役職については、 カリフの承認、恩寵の衣(ヒルア(英語版))、 そして必要な任命状を提供することが期待された。 例外はあったものの、ムティーは概ねブワイフ朝のアミールの指名に従った。
ブワイフ朝は特にハムダーン朝と断続的に対立していた間は、 かつてのムッタキーのようにカリフがハムダーン朝へ逃亡してしまわないようにムティーを注意深く見張っていた。 西暦946年の夏に何度かの交戦でハムダーン朝がバグダード東部を短期間占領した際に、 ムティーはバグダード西部の教会に軟禁され、 ブワイフ朝に忠実に振る舞うことを誓うまで解放されなかった。 また、ムイッズ・アッ=ダウラがバグダードの南方で反抗勢力と戦うときには常に同行させられ、 北方のハムダーン朝へ逃亡できないようにされていた。 反対にブワイフ朝の大アミールが北方でハムダーン朝と戦う際にはバグダードに留め置かれた。 西暦948年か西暦949年にはムイッズ・アッ=ダウラの義理の兄弟であるイスファフドゥースト(英語版)がムティーと共謀してムイッズ・アッ=ダウラを襲撃する陰謀を企てたとして逮捕され、 ラームホルモズ(英語版)の砦に投獄された。
ムイッズ・アッ=ダウラは政権を掌握すると軍隊の維持のために以前のカリフの領地を軍に分配し、 ムティーは2,000ディルハムの日当で満足せざるを得なくなった。 しかし、その直後にバスラがバリーディー家から奪回されると、 ムティーはそこに広大な領地を与えられ、 収入は年間200,000ディナールまで増加した。 その後、イラクの全面的な衰退によって収入は当初の4分の3に減少したものの、 カリフはこの収入のおかげで困窮しているアッバース家の人々を財政的に支援し、 カアバに多額の寄進を行うことができた。 また、カリフの宮殿の敷地内に孔雀宮(Dar al-Tawawis)、 八角宮(Dar al-Muthammana)、 および方形宮(Dar al-Murabba'a)といった一連の別棟を建設することも可能になった。
カリフとブワイフ朝の間の緊張した関係は次第により規則的で平穏なものになっていった。 ブワイフ朝は少なくとも形式上はカリフに残された責務を尊重し、 ムティーは従属的な役割を受け入れ、いくらかの行動の自由を取り戻し、 ムイッズ・アッ=ダウラとの友好関係を維持したとみられている。 実際に西暦955年か西暦956年にはムイッズ・アッ=ダウラが当時13歳の息子のバフティヤール(後のイッズ・アッ=ダウラ)をカリフの侍従に任命するほどだった。 このようなカリフとムイッズ・アッ=ダウラの良好な関係の中で最も顕著な例外となった出来事は、 ムイッズ・アッ=ダウラが西暦961年から西暦963年にかけてアブドゥッラー・ブン・アビー・アッ=シャワーリブ(英語版)に対し年間200,000ディルハムを支払うことと引き換えにバグダードの首席のカーディーの地位を与えようとしたことである。 これはスンナ派とシーア派の双方の学者から違法であるとして反対され、 ムティーはこの時期にムイッズ・アッ=ダウラによる任命に署名することを拒否した。 また、ムティーの宗教または司法関連の活動に関する史料上の言及はこの出来事がほぼ唯一のものであり、 同様の分野におけるムティーの活動の記録は他に見られない。
ムティーのこのような従属的関係に対する肯定的な帰結は自身の地位の安定にあった。 ムティーは病弱だったものの、 ヒジュラ暦で29年と4か月間カリフの地位を維持し、 短命な在位に終わった前任者たちとは全く対照的に、 カリフの地位を主張する対抗者と争わなければならない状況は極めてまれだった。 西暦960年にムクタフィーの孫にあたる人物がアルメニアで反乱を起こし、 アル=ムスタジル・ビッラーフと名乗ってカリフの地位を主張したが、 現地のサッラール朝(英語版)の支配者によって打倒された。 西暦968年にはエジプトのイフシード朝の宮廷に逃れていたムスタクフィーの息子のアブル=ハサン・ムハンマドが正体を隠してマフディー(イスラームにおける救世主)を名乗り、 イラクで大きな支持を集めた。 ブワイフ朝のトルコ人軍司令官のスブクテギーン・アル=アジャミーがアブル=ハサンを保護し、 アブル=ハサンの名の下でクーデターを起こす準備を進めたが、 結局は正体が暴かれ、カリフに身柄を引き渡された。 ムティーは鼻を切り落とすように命じて後継者の資格を失わせたことを除き、 アブル=ハサンを厳しく罰することはなかった。 アブル=ハサンは最終的に逃亡に成功したものの、 カリフの地位を獲得する望みは叶わず、 以後のカリフの地位はムクタディルの子孫の手に堅く留まることになった。
これらの出来事の一方でアッバース朝のカリフの権威はブワイフ朝の支配領域の外部では全般的に低下した。 ブワイフ朝のジバール政権は東方のホラーサーンを支配するサーマーン朝との対立の中で勢力の拡大や交渉を有利に進めるために数度にわたってカリフの権威を利用したが、 一方のサーマーン朝は955年にブワイフ朝との和平が成立するまでムティーをカリフとして承認することを拒否していた。 西方ではアッバース朝の対抗勢力でありシーア派の一派のイスマーイール派を信奉するファーティマ朝がますます強力となって勢力を拡大し、 969年にはエジプトを征服してシリアへの進出を開始した。 バグダードにおいてでさえ、 ブワイフ朝の親シーア派の姿勢によって少数派ではあるもののシーア派の影響力が拡大を見せていた。 例としてガディール・フンムの祝祭やアーシューラーの日におけるフサイン・ブン・アリーの殉教儀礼[注 6]、 あるいはかつてのウマイヤ朝のカリフであるムアーウィヤを非難する儀式といったシーア派の慣習が都市に導入されるようになった。 また、アリー家の人々は毎年行われる巡礼(ハッジ)のキャラバンの引率を担っていた。 さらにこの時期にはスンナ派とシーア派の人々の間で街頭における宗派抗争がたびたび発生し、 バグダード市内が荒廃する一因となっていた。
ファーティマ朝がエジプトを占領したことでアッバース朝に対する脅威が増していた頃に、 ムティーはアル=ハサン・アル=アアサム(英語版)が率いるカルマト派とモースルのハムダーン朝の支配者であるアブー・タグリブ(英語版)がブワイフ朝の後ろ盾を得て反ファーティマ朝の連合を結成した際に仲介役として主導的な役割を担った。 この連合は西暦973年もしくは西暦974年までファーティマ朝のシリアへの進出を阻止することに成功した。 また、その過程でカルマト派はムティーの宗主権をフトバ(英語版)(金曜礼拝の説教)と自らが発行する硬貨の中で認め[注 7]、 ファーティマ朝を詐称者であるとして非難した。 一方でカルマト派が西暦930年に持ち去った黒石を西暦951年にメッカのカアバへ返還した際にはムティーが黒石の身代金として30,000ディナールの金貨を支払ったという噂が流れた。
もう一つの危機の源となったのはメソポタミア北部(ジャズィーラ)とシリア北部におけるハムダーン朝に対するビザンツ帝国の攻勢であった。 ビザンツ帝国は西暦960年代にタウロス山脈で数世紀にわたって維持されていた国境を破り、 キリキアとアンティオキアを占領するとともにハムダーン朝のアレッポ政権をビザンツ帝国へ貢納金を支払う従属国の立場に転落させた。 西暦972年にはビザンツ帝国の襲撃はニシビス(英語版)、アミダ(英語版)、 およびエデッサに達した。 これらの都市からイスラム教徒の避難民がバグダードに殺到し、 保護を求める抗議の声が上がった。避難民を支援できず、 そもそも抗議に応じる気もなかったイッズ・アッ=ダウラは、 ジハードが公的には依然としてカリフの責務とされていたことから、 これらの人々の注意をムティーに向けさせた。 しかし、あらゆる軍事的、財政的な資源を失っていたムティーは避難民を助けることができず、 その結果としてムティーの威信は失墜した。 シーア派の居住区であるカルフ(英語版)は暴動に見舞われ、 地区は焼け落ちた。 イッズ・アッ=ダウラはこの機会にムティーに圧力をかけ、 表向きにはビザンツ帝国と戦うための兵士の雇用に充てるとしてムティーに自身の貴重品を売り払わせ、 400,000ディルハムを提供させた。 ムティーは書簡の中で抗議したが(右記参照)、従うほかなかった。 この資金は浪費癖のあったイッズ・アッ=ダウラによってすぐに消費された。 この行為はイッズ・アッ=ダウラにとって大きな政治的失態となり、 バグダードのスンナ派の支持者を遠ざけ、 バグダードにおけるイッズ・アッ=ダウラの支配力は弱体化していった。
イッズ・アッ=ダウラは時が経つにつれて自身のトルコ人軍団を率いるサブクタキーン(英語版)を次第に遠ざけるようになり、 ついにはサブクタキーンの暗殺未遂を起こすに至った。 しかし、西暦972年の暴動を鎮圧していたこれらのトルコ人兵士はバグダードのスンナ派の住民の支持を得ており、 その結果、サブクタキーンは西暦974年8月1日にイッズ・アッ=ダウラからバグダードの支配権を奪った。
このクーデターが起きた時にムティーはブワイフ家の一門とともにバグダードを離れたが、 サブクタキーンはムティーを強制的に連れ戻し、宮殿に閉じ込めた。 そしてすでに高齢で970年に脳卒中によって右半身不随になっていたムティーは、 健康問題を口実に退位を迫られ、 8月5日に息子のアブドゥルカリームがターイー(在位:974年 - 991年)のラカブを名乗って後継のカリフとなった。 これは西暦902年に即位したムクタフィー以来の父から子へのカリフ位の継承であった。
サブクタキーンは新しいカリフから大アミールに任命され、 ムティーとターイーの両者を伴ってブワイフ朝に対する遠征のためにバグダードを発った。 そしてムティーはその途上のダイル・アル=アークールで西暦974年10月12日に死去した。 ムティーの遺体は兄のラーディーも葬られていたバグダードのルサーファ(英語版)地区にある父方の祖母にあたるシャガブ(英語版)の霊廟に埋葬された。
西暦1135年、 父ムスタルシドがニザール派の刺客によって殺されたことにより即位。 父をとらえたセルジューク朝のマスウードと戦うべく軍を集めたが、 マスウードがバグダードに入ったことを知り、モースルへ引いた。 西暦1138年、刺客に殺害された。
第19代カリフであるムクタディルとギリシャ系の女奴隷のザルームとの間に生まれた。 叔父の第19代カリフであるカーヒルは、 ムクタディルの家族の財産を没収し虐待したが、 その暴政に反発した軍隊がクーデターをおこして幽閉しラーディーが第20代カリフとして西暦934年に擁立された。
彼自身は、詩と歌を愛好し寛容な性格だったが彼の時代のアッバース朝は権威がガタ落ちし、 地方の知事たちは実質的に独立して、 カリフが本当に統治しているのは、 首都バグダートとサワード地方(イラク南部)だけだった。 しかもサワード地方の大部分はワシート及びその付近の知事イブン・ライークのもとにほとんど独立していた。
アミール(地方の豪族)たちはバグダードに入って弱体のカリフを戴き天下に号令しようと考え始めたため、 有力な者に、ワジール(宰相)とハージブ(侍従)を統括してカリフに代わって権力を掌握し、 従順ではない地方豪族を押さえたり、 討ち取る責任を負う大アミールの称号を与えることにした。 西暦936年に最初に近い位置にいる、 イブン・ライークに与えたが助長したため部下の武将のバジュカムをそそのかして主人に叛かせバグダードから追い払い代わりに大アミールに任命した。バジュカムは期待どうり重責を果たした。
西暦940年に32歳で病死した。大食いだったため胃弱の可能性が強い。
資料によると、アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は教養があり、
知的好奇心が旺盛であったが、
詩人であり酒飲みでもあり、
学者だけでなく詩人や音楽家との交遊を楽しんでいたとされている。
彼の短い治世は父アル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)の政策を継続するものであり、
権力は引き続きアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)が任命した同じ役人の手に委ねられていた。
この治世の主な出来事は反乱の鎮圧であった。
西暦842年にシリアでベドウィンの反乱が、
西暦845年にヒジャズ、
西暦846年にヤマーマの反乱が起きた。
アルメニアは数年かけて平定する必要があり、そして何よりも、
失敗に終わった反乱が西暦1996年に起こった。
バグダッドそのものは西暦846年、
アフマド・イブン・ナスル・アル・クーザイ政権下にあった。
後者は、アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)がムタジリズムの教義を継続的に支持し、
反対派を根絶するためにミフナを再活性化したことに関連していた。
外交問題では、ビザンチン帝国との絶え間ない紛争が続き、
アッバース朝はマウロポタモスで大きな勝利を収めることさえあったが、
西暦845年の捕虜交換の後、
戦争は数年間停止した。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の性格は、 アッバース朝の他の初期カリフと比べると比較的あいまいである。 彼は宮廷での贅沢に専念し、座ってばかりの統治者であり、 有能な詩人であり、詩人や音楽家の後援者であったようであり、 また学術活動にも関心を示していたようだ。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の予期せぬ死により、 後継者は不安定になった。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の息子アル・ムフタディは若さのため引き継がれ、 異母兄弟のアル・ムタワキル(ムタワッキル)が有力官僚らによって次期カリフに選ばれた。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は、 西暦812年4月17日(西暦811年から西暦813年にかけてわずかに前後する日付が示されている)、 メッカへ向かう途中で生まれた。 彼の父親はアッバース朝の王子、 後にカリフとなったアル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)(在位 833年 - 842年)であり、 母親はカラティスのビザンツ帝国ギリシャ人奴隷(ウンム・ワラド)であった。 彼は祖父のカリフ・ハルン・アル=ラシード(ハールーン・アッ=ラシード)(在位 786年 - 809年)にちなんでハルンと名付けられ、 技術名はアブ・ジャファルであった。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の幼少期は不明瞭であり、
彼の父親が当初後継者の見込みのない下級王子であったため、
彼の名声の上昇、
そして最終的にはカリフの地位への立身出世は、
エリート私兵の指揮によるものであったため、なおさらである。
トルコ系奴隷部隊(ギルマン)のこと。
ハルーン・イブン・ジヤドは彼の最初の教師として言及されており、
叔父のカリフ・アル=マアムン(マアムーン)から書道、
朗読、文学を学んだ。
後の情報筋は、彼の博学さと道徳的性格を理由に、
彼に「リトル・マムン(リトル・マアムーン)」というニックネームを付けた。
アル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)がカリフになったとき、 彼は息子であり後継者と思われるアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)が統治の経験を積むよう世話をした。 こうしてアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は西暦835年に首都バグダッドの管理を任され、 アル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)は北に移動してサマラに新しい首都を築いた。 その後、アル・タバリの記述の中で、 彼は西暦838年、 (現在のイラン)のババク・ホラムディンの反乱の鎮圧から勝利を収めて帰還したアル・アフシン将軍を儀式的に歓迎するために派遣されたと言及されている。 同年のアモリオン戦役中に父親の副官として残された。
その後、アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は西暦841年に、 現在恥をかかされ投獄されているアル・アフシンに果物一杯を持ってきたと記録されている。 果物に毒が入っているのではないかと心配したアル=アフシンは、 それを受け取ることを拒否し、 カリフにメッセージを伝えるよう他の人に頼んだ。 サマラでは、アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の邸宅は父親の宮殿のすぐ隣にあり、 彼は法廷に常に存在していた。 歴史家のジョン・ターナーが述べているように、 これらの報告書はアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)が「父親の信頼できる代理人としての役割を果たしており、それによって彼が権力の手綱を引き継ぐのに有利な立場にあった」ことを示している。 一方、アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)はこれまでのアッバース朝の慣例から逸脱して、 軍事指揮を与えられることはなく、アモリオン作戦にも参加しなかった。
アル・タバリは、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は中背で、 ハンサムで体格が良かったと記録している。 彼は色白で血色が良く、一般に高貴な家系と関連付けられていました。 彼の左目には白い斑点があり麻痺しており、 それが彼の視線を厳しいものに変えていたと伝えられている。 西暦842年1月5日にアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)が亡くなると、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は反対することなく彼の後継者となった。 新しいカリフは全額の国庫を引き継ぎ、 特にバグダッドとイスラーム教の聖地メッカとメディナの庶民に寛大な寄付を行った。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は、 西暦842年に巡礼の先頭に母親のカラティスを弟のジャアファル(後のカリフ、アル・ムタワキル(ムタワッキル))を伴って派遣した。
カラティスは西暦842年8月16日に途中のアル・ヒラで亡くなり、 埋葬された。 クーファ。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の治世は短く、 政府は引き続きアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)によって権力の座に引き上げられた人々、 すなわちトルコ軍司令官によって指導され続けたため、 一般に本質的にアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)の治世の継続であったと考えられている。 イタク、ワシフ、アシナス、宰相ムハンマド・イブン・アル・ザイヤート、 およびカーディ首席(裁判官)アフマド・イブン・アビ・ドゥワド。 これらの人々は個人的にアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)に忠誠を誓っていたが、 同様にアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)に束縛されていたわけではなかった。 ターナーによれば、実際にはこの狭いサークルが「権力のてこを制御し、 それによってカリフの独立を制御した」。
おそらくカリフとその最も強力な司令官との間の同盟を強化することを目的としたジェスチャーで、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は西暦843年6月または7月にアシナスに王冠を授け、 その際に彼に西部諸州に対する広範な権限を与えた。 サマラからマグレブへ - 15世紀のエジプトの学者アル・スユティは、 王権 (スルタン) がカリフから臣民に委任された最初の機会であるとみなした行為である。 アシナスは西暦844年に亡くなり、 イタクは彼の後を継いで最高司令官としての地位と西部諸州の統治権を引き継いだ。 新しいカリフはまた、 サマッラで多くの建設に従事し、 カリフの住居を必要に応じた市場と港を備えた適切な都市にすることに大きく貢献した。 これにより、サマッラは住民にとってより快適になっただけでなく、 そこの不動産への投資が経済的にも魅力的なものとなった。 これはアッバース朝のエリート層と、 アル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)によって新首都への移転を強制されていた軍人にとって、 両方とも大きな考慮事項となった。
しかし、 西暦843年から西暦1444年にかけて、 カリフは宰相イブン・アル・ザイヤートの扇動によるものとされ、 あるいはアル・タバリが報じた話によれば、 ハールーン・アル・ラシード政権下でのバルマキ朝の崩壊に触発されたものとして逮捕され、 拷問を受けた。 トルコ軍への支払い資金を集めるために中央政府の書記数名に高額の罰金を課した。 この措置は同時に、 文民エリートと軍エリートの間にくさびを打ち込むことを目的とした可能性があり、 あるいは逮捕され支払いを強制された秘書のほとんどがイタクやアシナスなどの主要なトルコ軍司令官の力を弱めることを目的とした可能性がある。 彼らの奉仕において。
すでにアル・ムタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)の生涯の最後の数ヶ月の間に、 あるアル・ムバルカの下で大規模な反乱がパレスチナで勃発していた。 アル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)は反乱軍と対峙するためにラジャ・イブン・アイユーブ・アル・ヒダリ将軍を派遣した。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)が権力を掌握すると、 ダマスカス周辺でカイシ族の反乱を主導したイブン・バイハスに対してアル・ヒダリを派遣した。 この蜂起とアル・ムバルカの反乱との正確な関係は不明である。 部族間の対立に乗じて、アル・ヒダリはすぐにイブン・バイハスを破り、 その後南に転じてラムラ付近でアル・ムバルカ軍と対峙した。 この戦いは政府軍の決定的な勝利となり、 アル・ムバルカは捕虜となってサマラに連行されたが、 そこで投獄され消息を絶った。
王位に就くと、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は、 ハリド・イブン・ヤズィド・アル・シャイバーニを反抗的なアルメニア州の知事に任命した。 ハリドは大軍の先頭に立って、 カワケルトの戦いで地元のイスラム教徒とキリスト教徒の王子たちの反対を破った。 ハリドはその後すぐに亡くなったが、 息子のムハンマド・アル・シャイバーニが後継者となり、 父親の任務を引き継いだ。
西暦845年の春、 別の部族の反乱が勃発した。 地元の部族であるバヌ・スライム族は、 メディナ周辺のバヌ・キナナ族とバヒラ族との紛争に巻き込まれ、 西暦845年2月から3月にかけて血なまぐさい衝突が起きた。 地元の総督サリフ・イブン・アリーは、 正規兵からなる軍隊を彼らに対して派遣した。 メディナの住民だけでなく軍隊も攻撃したが、スライム派は勝利し、 2つの聖都の周辺で略奪を開始した。 その結果、5月にアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)はトルコ系将軍の一人であるブガ・アル・カビールにこの事件の処理を命じた。 シャキーリヤ、テュルク、マハリバの警備連隊からの専門部隊を伴い、 ブガはスライムを破り、彼らを降伏させた。 秋の初めにはバヌー・ヒラル族にも服従を強要した。 ブガの軍隊は多くの捕虜を捕らえ、合計約1,300人がメディナに拘留された。 彼らは逃げようとしたが、メディナ人によって阻止され、 その過程でほとんどが殺された。 その間、ブガはこの地域の他のベドウィン部族を威嚇する機会を利用し、 バヌ・ファザラ族とバヌ・ムラ族と対峙するために行進した。 部族は彼の進軍の前に逃亡し、多くは服従し、 その他はアル・バルカへ逃亡した。 その後ブガはバヌー・キラブ族を制圧し、 西暦846年5月に約1,300人を捕虜としてメディナに連れ帰った。
西暦845年/西暦846年に小規模なハリジットの反乱がムハンマド・イブン・アブダラ・アル・タラビ(またはムハンマド・イブン・アムル)率いるディヤル・ラビアで発生したが、 モスル総督によって簡単に鎮圧された。 同年、ワシフ将軍はイスファハーン、ジバル、ファルスで反抗的なクルド人部族を弾圧した。
西暦846年9月、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)はヤマーマにおけるバヌ・ヌマイル族の略奪を止めるためにブガ・アル・カビールを派遣した。 西暦847年2月4日、 ブガはバトン・アル・シルの水飲み場で約3,000人のヌマイリと大規模な交戦を行った。 最初は彼は激しく圧迫され、 彼の軍隊はほとんど崩壊した。 それから彼がヌマイリス族の馬を襲撃するために派遣していた部隊の一部が戻ってきて、 ブガを攻撃していた部隊に襲い掛かり、彼らを完全に敗走させた。 ある報告によると、最大1,500人のヌメイル人が殺害されたという。 ブガは地域の平定に数か月を費やし、 服従した者たちに安全通過令状を発行し、 残りの者たちを追跡した後、 西暦847年6月か7月にバスラに戻った。 さまざまな部族から 2,200 人以上のベドウィンが捕虜として連れて行かれた。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は父親と同様、 熱心なムタジライトであったが――情報筋は彼がカーディの指導者イブン・アビ・ドゥワドから強い影響を受けたことに同意している。 しかしまた、父親同様、アリッドと良好な関係を維持していた。 カリフ在位3年目、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は異端審問(ミフナ)を復活させ、 コーランの創造という物議を醸すテーマについて法学者の見解を問うために役人を派遣した。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は、 コーランは創造されたものであり、 永遠のものではなく、 したがって、 変化する状況に応じて解釈する神に導かれたイマーム(すなわちカリフ)の権限の範囲内にあるというムタジリの見解を支持した。
西暦845年にビザンチン帝国と行われた捕虜交換の際にも、 身代金を支払われたイスラム教徒捕虜はこのテーマに関する意見を尋問され、 満足のいかない回答をした捕虜は捕虜のまま放置されたと伝えられている。 こうして、ムタズィリ教義に反対したハンバリ法学派の創始者アフマド・イブン・ハンバルは、 その教えを中止せざるを得なくなり、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の死後になって初めて教えを再開した。
西暦846年、 アッバース朝革命の最初の宣教師の一人の子孫である尊敬される著名なアフマド・イブン・ナスル・イブン・マリク・アル・クーザイは、 バグダッドでアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)と彼のテュルク系指揮官、 そしてトルコ軍を打倒する陰謀を開始した。 ムタジライトの教義。 彼の支持者たちは人々にお金を配り、 蜂起の日は西暦846年4月5日の夜に予定されていた。 しかし、アル・タバリによると、 蜂起の合図として太鼓を鳴らすことになっていた人々が酔っ払ってしまい、 1日早く連絡したが返答はなかった。 一方、ハティブ・アル・バグダディは、 ある密告者がその陰謀を当局に漏らしたとだけ報告している。 市副知事のムハンマド・イブン・イブラヒム(知事の弟イシャクは欠席)がこの事件について質問し、 陰謀が明らかになった。 アル・フザイとその支持者たちは逮捕され、 サマラのアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)の前に連行された。
カリフはアル・クーザイを公開尋問したが、 実際の反乱よりもむしろコーランの創造という厄介な神学的問題についての尋問が多かった。 アフマドの答えはアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)を激怒させたので、 カリフはイスラーム以前の有名な剣であるアル・サムサマを手に取り、 トルコ人のブガ・アル・シャラビとシマ・アル・ディマシュキとともにアフマドの処刑に自ら加わった。 アフマドの死体はバグダッドでババクの絞首台の隣に公に展示され、 彼の支持者20名が刑務所に投獄された。
同年、サマラの公的財務省(バイト・アル・マル)に侵入事件があった。 泥棒たちは銀貨 42,000 ディルハムと少量の金ディナールを盗んで逃走した。 サーヒブ・アル・シュルタ(治安長官)、 イタクの副官ヤズィド・アル・フワニが彼らを追跡し捕らえた。 ターナーは、このエピソードは、 後の数十年で勃発する危機の予兆を与える可能性があると指摘している。 本宮殿でさえ警備が緩く、盗賊の略奪品から判断すると、 当時国庫はほとんど空っぽだったようだ。
西暦838年、 アル=ムアタシムはアッバース朝カリフの宿敵であるビザンチン帝国に対して、 有名なアモリオン略奪により大勝利を収めた。 この成功は追撃されず、戦争は通常の国境沿いの襲撃と反襲撃に戻った。 ビザンチンの情報源によると、 西暦842年にアル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)が死去した時点で、 アル・ムアタシム(al-Mu'tasim.ムウタスィム)はさらに大規模な侵攻を準備していたが、 コンスタンティノープルを攻撃するために準備していた大艦隊は、 数か月後にケリドニア岬沖の嵐で消滅した。 この出来事はイスラム教徒の情報源では報道されていない。
アル=ムアタシム(父か?al-Mu'tasimムウタスィム????????)の死後、 ビザンツ帝国の摂政テオクティストスはアッバース朝の家臣であるクレタ首長国を再征服しようとしたが、 遠征は惨事に終わった。 西暦844年、 カリカラとタルススの国境首長国から、 アブー・サイードとおそらくマラティヤ・ウマル・アル=アクタ首長が率いる軍隊が、 ビザンツ帝国の小アジアの奥深くまで襲撃し、 ボスポラス海峡の海岸まで到達した。 その後、イスラム教徒はビザンチン高官の亡命の支援を受けて、 マウロポタモスの戦いでテオクティストスを破った。 ほぼ同じ頃、ビザンチウムで異端として迫害されていた一派であるパウロ派が、 指導者カルベアス率いるアラブ人に亡命した。 彼らはアッバース朝とビザンチンの国境にテフリケ要塞を中心とする小さな公国を設立し、 それ以降ビザンチン領土への攻撃でアラブ人に加わった。
西暦845年、 ビザンチン大使館が捕虜交換について交渉するためにカリファル法廷に到着した。 同年9月にヤザマン・アル・カディムの後援のもと開催され、 3,500人から4,600人のイスラム教徒が身代金を支払われた。 しかし同年3月、アモリオンで捕虜となった士官42名がイスラーム教への改宗を拒否したためサマラで処刑された。 交換のために取り決められた休戦協定が満了した後、 アッバース朝のタルスス総督アフマド・イブン・サイード・イブン・サルムは7,000人の兵を率いて冬の襲撃を指揮した。 それは悲惨な失敗に終わり、500名が寒さまたは溺死し、 200名が捕虜となった。 この後、アラブ・ビザンツ国境は6年間沈黙を保った。 西部のみにおいて、アッバース朝のアグラブ朝のクライアントはビザンツ帝国シチリア島の段階的な征服を続け、 メッシーナ(西暦842年/西暦843年)、 モディカ(西暦845年)、 レオンティーニ(西暦846年)を占領した。 西暦845年/西暦846年にアグラブ朝はイタリア本土のナポリ近くのミセノを占領し、 翌年には彼らの船がテヴェレ川に現れ、 乗組員がローマ近郊を襲撃した。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は、 西暦847年8月10日に、 おそらく肝臓損傷か糖尿病による浮腫の結果、 治療のためにオーブンに座っていた際に死亡した。 彼の年齢は当時のイスラーム暦で32歳、34歳、または36歳と諸説ある。 彼はサマラのハルニ宮殿に埋葬された。
彼の死は予期せぬものであり、 後継者は残されたままとなったが、 近現代の歴史家アル・ヤクビは少なくとも後継者が指名され、 忠誠の誓いが与えられたと主張している。 その結果、宰相イブン・アル・ザイヤート、 カーディー首席アフマド・イブン・アビ・ドゥワド、 トルコの将軍イタクとワシフ、 その他数名の主要官僚が彼の後継者を決めるために集結した。 イブン・アル・ザイヤートは当初、 アル・ワティークの息子ムハンマド(将来のカリフ・アル・ムフタディ)を推薦したが、 若さのため見送られ、 代わりに評議会はアル・ワティークの26歳の異母兄弟ジャーファルを選んだ。 カリフのアル・ムタワキル(ムタワッキル)となった[60][61]。
この選出は事実上、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)政権下と同じ役人の陰謀団が政務を執り行う一方で、 弱くて柔軟な統治者を王位に就かせるという事実上の陰謀であったと歴史家は一般に考えている。 アル・ムタワキル(ムタワッキル)はすぐにイブン・アル・ザイヤットとイタクを排除し、 自身の権威を強化することに動いたため、 それらはすぐに間違いであることが証明されるだろう。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)は聖地メッカやメディナの貧しい人々に寛大で、 海上通商の税金を減額したと報告されているが、 大きな人気はなかったようだ。 彼の性格について語られるところによると、 彼は温和な人物で、 酩酊して居眠りに至るまで怠惰と宮廷生活の楽しみに明け暮れていた。 彼は熟達した詩人であり、 アッバース朝の他のカリフより多くの詩が残されているが、 熟練した作曲家でもあり、 ウードを上手に演奏することができた。 彼は詩人、歌手、音楽家の後援者でもあり、彼らを宮殿に招待した。 彼は音楽家のイシャク・アル・マウシリ、歌手のムハリク、 そしてアル・ハーリー(直訳 「放蕩者」)として知られる詩人のアル・ダハク・アル・バヒリに特に好意を示した。
この絵とは対照的に、 10世紀の歴史家アル・マスウディはアル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)を「科学的学習に興味があり、医師間の論争を促進している」と描いている。 グレコ・アラビア語翻訳運動は彼の治世下でも隆盛を続けた。 情報源はまた、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)自身の「知的好奇心」を示すいくつかのエピソード、 特に彼の宗教的資格を磨く可能性のある問題に関連したものについても言及している。 「ドゥル・カルナインの障壁」が突破され、 おそらく当時中央アジアのチュルク系遊牧民に大規模な人口移動を引き起こしたキルギス・トルコ人の移動に関するニュースの影響であったと思われ、 首相官吏サラーム・アル・タルジュマンを派遣した。 地域に行って調査すること。 同様に、イブン・コルダドベによれば、 カリフはエフェソスの七人の眠り人の伝説を調査するために天文学者アル・フワーリズミーをビザンチンに送った。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)はアッバース朝のカリフの中で最も無名な人物の一人である。 歴史家ヒュー・ケネディによれば、 「当時の歴史の痕跡をこれほどほとんど残していない当時のカリフは他になく、彼の性格について明確な印象を与えることは不可能である」一方、 イスラーム百科事典は次のように書いている。 「彼には偉大な統治者の才能はなく、彼の短い治世には目立った出来事はなかった。」 彼の無名さゆえに、 ウィリアム・ベックフォードは、 18世紀の古典ゴシックファンタジー小説『ヴァテーク』の中で、 かなりフィクション化されたバージョンのアル・ワシークを表現することができた。 ケネディは、この作品を「残酷さ、散逸、そして古代の王たちの失われた宝物を探す素晴らしい物語」と表現している。 イブリース/サタン自身によって守られています。
アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)には数人の側室がいました。 その中で最も有名なのは、ウム・ムハンマドとしても知られるクルブでした。 西暦833年、 彼女はアル・ワティーク家の長男、 将来のカリフ・アル・ムフタディとなるムハンマドを出産した。 もう一人のよく知られた有名な側室はファリダで、彼も音楽家であり、 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)のお気に入りでした。 アル・ワティク(al-Wāthiq.ワースィク)が亡くなったとき、 歌手アムル・イブン・バナは彼女をカリフ・アル・ムタワキル(ムタワッキル)に贈った。 彼は彼女と結婚し、彼女は彼のお気に入りの一人となった。