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三国時代(さんごくじだい)  [朝鮮]

作成日:2023/7/1

三国時代(さんごくじだい) 4世紀 - 7世紀  カタカナ:サムグクシデ ローマ字:Samguk-sidae

朝鮮の歴史における三国時代は、 朝鮮半島および満州に高句麗百済新羅の三国が鼎立した時代をいう。

日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。

韓国では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。 後者の時代区分は高麗時代の史書に依拠する。

歴史

三国以前に、また三国と並行して小国や部族国家があった。扶余、沃沮、伽耶、于山国、耽羅国などである。

それぞれの建国神話によれば、韓国では伝統的にこの時代は紀元前57年に、斯盧(後の新羅)が朝鮮半島の南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとする。高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立した。紀元前18年に高句麗の二王子が王位の継承争いから逃れ、東明王の子温祚が半島の南西部(今日のソウル特別市周辺)に百済を建国したとする。伽耶は42年に首露王によって建国されたが、6世紀の新羅によって滅亡されたという。これは中国史料と異なるため、日本の史学界ではこの数字を取らず、高句麗を除く二国の建国年代を多く4世紀におく。百済の都ははじめ熊津(今日の公州或は清州)であったが、のちに泗?(今日の扶余)へ遷都した。

220年の後漢の滅亡が、 三国の発展を許した。 1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。 後に儒教は仏教に入れ替わった。 三国のうちで最大であった高句麗は、 鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。 建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、 ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、 最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。 中国文化の影響は、372年に仏教が国教とされるまで残った。 4世紀には百済が栄え、 半島の南半分を支配した。 斯盧国は503年新羅と国号を改めた。 4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。 新羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。

5世紀初めに建てられた高句麗の広開土王の碑には、 「新羅百済はかつて高句麗の属国であり朝貢していたが、 辛卯の年(391年)よりこの方、日本が海を渡り来て、 百済、〇〇、新羅を破って日本の臣民にしてしまった」と記されている。 また「399年、百済は先年の誓いを破って、 倭と和通したため、 広開土王は百済を討つために、平壌に向う。 その際、新羅の使者が「多くの倭人が新羅に侵入し、 王を倭の臣下としたので高句麗の救援をお願いしたいと願いだたので、 広開土王は救援することにした」 「400年、5万の大軍で新羅を救援し新羅の王都を占領していた倭軍を追い払うことに成功した。 わらに倭軍を追撃し、 任那・加羅に迫ったが、 逆を突かれて新羅の王都を占領された」「倭が帯方地方に侵入したため、これを迎撃して大敗させた」という内容も書かれてある[1]。

宋書には、倭王済が宋の文帝から、 451年に「使持節都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」を加号されたという記録がある。 また、478年には、倭王武を、「使持節都督、倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に加号したという記録がある[2]。

仏教は528年新羅の国教となった。新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまった。滅ぼされた百済の王族は日本にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。

この時代を記述した歴史書に高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。 隋書には、新羅百済はみな倭をもって大国で珍物が多いとし、 ならびにこれを敬仰し、つねに通使・往来する、と書かれてある[2]。

中華人民共和国国営出版社の人民出版社が発行している中国の大学歴史教材『世界通史』は、 「三国時代」から高句麗を除外し、 「三国時代」を「新羅百済、伽耶」と規定、 「武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、その領土に郡県制を施行した。 辰国が衰弱して分裂後、 新羅百済、 伽耶の三国が形成された」と記述、 高句麗を「漢の玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、漢、魏晋南北朝、隋、唐にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」と記述、 唐・新羅戦争を「中国の地方政権である高句麗が分裂傾向をみせると、 中央政府である唐が単独で懲罰し、直轄領とした」と記述している[3]。