淳和天皇(じゅんなてんのう、じゅんわてんのう)
作成日:2020/6/8
淳和天皇は、日本の第53代天皇。
諱は大伴(おおとも)。西院帝ともいう。
桓武天皇の第七皇子。
母は、藤原百川の娘・旅子。
平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。
歴代天皇の中で、唯一散骨された。
日本の第53代天皇 淳和天皇(じゅんなてんのう、じゅんわてんのう)
[在位] 弘仁14年4月16日(西暦823年5月29日)- 天長10年2月28日(西暦833年3月22日)《紀》
[生没] 延暦5年(西暦786年)- 承和7年5月8日(西暦840年6月11日)55歳没《紀》
[時代]
平安時代
[先代]
嵯峨天皇
[次代]
仁明天皇
[陵所] 大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)
[
和風諡号] 日本根子天高譲弥遠尊(やまとねこあめのたかゆずるいやとおのみこと)
[
諱] 大伴(おおとも)
[
追号] 淳和天皇。譲位後の在所だった淳和院から採られた。
[父親]
桓武天皇
[母親] 藤原旅子(ふじわら の たびこ)
[
皇后] 正子内親王(まさこないしんのう)
高志内親王(こしないしんのう)(
贈皇后)
[
皇居] 平安宮(へいあんきゅう)
[追号] 淳和天皇。譲位後の在所だった淳和院から採られた。
淳和院の別名が西院であることから西院帝(さいいんのみかど/さいのみかど)の異称がある。
年譜
- 延暦5年(西暦786年)
- 降誕
- 延暦7年?(西暦788年?)
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- 2歳にして生母を失う。
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これを哀れんだ桓武天皇は有能な女官であった文室与伎の妻・平田孫王に親王の母代わりとして育成させたという。
- 延暦17年(西暦798年)
- 4月17日(5月7日) 元服し、三品兵部卿となる。
- 大同元年(西暦806年)
- 治部卿となる。
- 大同3年(西暦808年)
- 中務卿となる。
- 弘仁元年(810年)
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- 9月13日(10月14日) 立太子
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薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子した。
- 弘仁14年(西暦823年)
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- 4月16日(5月29日) 嵯峨天皇の譲位を受け即位。
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これに伴い、大伴氏が伴氏と改姓している。
天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだといわれている。
- 4月27日(6月9日) 即位礼
- 12月22日(11月17日) 大嘗祭
- 天長10年(833年)
- 2月28日(3月22日) 仁明天皇に譲位し、太上天皇となる。
- 承和7年(西暦840年)
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- 5月8日(6月11日) 崩御。於:淳和院
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宝算55。死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。
- 5月13日(6月16日) 大喪儀
- (西暦)
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- (西暦)
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略歴
清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。
また土地対策を行い、税収の増加に努めた。
また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。
表面的には比較的平穏な時代であった。
しかし、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなかったとされている。
『日本後紀』によれば、大同元年5月1日(806年5月22日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている。
天皇は桓武天皇の皇后(乙牟漏)所生ではなかったが、
生母が皇后と同じ藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后所生の高志内親王を妃として恒世親王を儲けていた。
平城・嵯峨両天皇を除けば恒世親王が桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇の高岳親王や嵯峨天皇の正良親王(仁明天皇)よりも近い)であったが、
父親である大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かなかった。
そのため、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。
親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇の内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王が他戸親王や早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、
桓武天皇嫡系に准じた恒世親王の皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。
淳和天皇は即位後、恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子であるとして正良親王を皇太子に擁立した(高岳親王は薬子の変で廃太子)。
在位中に恒世親王が病死したため皇位は正良親王(仁明天皇)に継承されたが、
仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に擁立した。
淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、
忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託して崩御するが、
その不安は承和の変として現実のものとなった。
后妃・皇子女
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皇后:正子内親王(810年 - 879年) - 嵯峨天皇皇女
- 第二皇子:恒貞親王(825年 - 884年) - 仁明天皇皇太子
- 第三皇子:基貞親王(827年 - 869年)
- 第四皇子[1]:恒統親王(829年 - 842年)
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妃(贈皇后):高志内親王(789年 - 809年) - 桓武天皇皇女
- 第一皇子:恒世親王(805年 - 826年)
- 皇女:氏子内親王(? - 885年) - 伊勢斎宮
- 皇女:有子内親王(? - 862年)
- 皇女:貞子内親王(? - 834年)
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尚蔵:緒継女王(787年 - 847年)
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女御:永原原姫(亭子女御)
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女御:橘氏子 - 橘永名女
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更衣:藤原潔子 - 藤原長岡女
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宮人:清原春子 - 清原夏野女
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宮人:大中臣安子 - 大中臣淵魚女
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宮人:大野鷹子 - 大野真雄女
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宮人:橘船子 - 橘浄野女
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宮人:丹墀池子 - 丹墀門成女
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生母不明
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市西京区大原野南春日町にある大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
淳和上皇自身の意向により火葬され、その遺骨は近臣藤原吉野の手によって大原野の西山(京都市西京区大原野南春日町の小塩山)山頂付近で散骨されたと言われている。山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓が記されておらず、当地には長らく小石で築かれた円塚のみであったが、幕末の陵墓修復の際、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵と称する陵が築かれた。
なお、小塩山は長岡京が都であった時代に天皇陵の築造予定地とみなされていた長岡京の北郊地域の範囲に含まれるとされ、生母・藤原旅子や祖母・高野新笠の陵墓とも離れていないことが指摘されており、散骨地の選定に影響を与えた可能性がある[2]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。