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中東戦争

作成日:2024/12/8

中東戦争は、 ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争。

西暦1948年から西暦1973年までに大規模な戦争が4度起こり、 それぞれ第一次中東戦争~第四次中東戦争と呼ばれている。

イスラエルエジプトの和平などにより国家間紛争が沈静化した以降もパレスチナ解放機構(PLO)などの非政府組織との軍事衝突が頻発している。

アメリカイギリスフランスイスラエルに、 ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、 代理戦争の側面も含む。 ただしイデオロギーより中東地域の利権や武器売買などの経済的な動機が重さを占めていた。

そのため初期にイスラエルに支援や武器供給したイギリスフランスは第3次中東戦争以降石油政策などからアラブ側に回り、 さらに中国やイラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、 大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。

また双方の宗教の聖地であるエルサレム、 ヘブロンなどの帰属問題の絡んだ宗教戦争の側面もある。

背景

アラブとユダヤの対立

パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下だったが、 この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者は共存関係を維持してきた。 しかし19世紀末、 ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植は規制されなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナ入植のユダヤ人の数は徐々に増え始めた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。まず、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でフサイン=マクマホン協定が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。次いで1916年5月には秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間でサイクス・ピコ協定が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。さらに1917年11月にはイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがバルフォア宣言を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。この3つの協定はサイクス・ピコ協定とフサイン=マクマホン協定の間でわずかな矛盾が生じるほかは、どれも相互に矛盾しているわけではない。しかしこれらの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。 →詳細は「三枚舌外交」を参照

オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。バルフォア宣言でユダヤ人の居住地の建設に賛意を示していたこともあり、イギリスは初め入植を規制しなかった。

しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた[1]。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。

あああああああ

第一次中東戦争

第一次中東戦争   宣戦:西暦1948年5月14日   休戦合意:西暦1949年6月1日

西暦1948年5月14日、 イスラエルが独立を宣言すると、 パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。 翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプトサウジアラビアイラク、 トランスヨルダン、 シリアレバノン)がパレスチナへ進軍し、 パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。 アラブ側の兵力は約15万以上、 イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。 数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、 各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。 緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。 しかし、二度の休戦期間の間に、 イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。 アラブ諸国の足並みの乱れもあり、 ヨルダン方面を除き、 戦況は次第にイスラエル優位になった。

そして、 イスラエル優位のまま1949年6月、 双方が国連の停戦勧告を受け入れた。 イスラエルでは、 この戦争を独立戦争と呼ぶ。

この戦争によって、 イスラエルは独立を確保し、 領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された。 ただし, 聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず、 首都機能は海岸部のテルアビブに暫定的に置かれることとなった。

パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、 エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、 地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、 それぞれ分割された

第二次中東戦争

第二次中東戦争   西暦1956年10月29日 - 西暦1957年3月7日

第二次中東戦争西暦1956年10月29日から同年11月6日にかけての戦争であり、 イスラエルイギリスフランスエジプトとの間で勃発した。 またその経緯から「スエズ戦争」や「スエズ動乱」などとも呼ばれる。

当時のガマール・アブドゥル=ナーセル(ナセル)率いるエジプトは、 西暦1956年6月の駐留イギリス軍完全撤退に続きスエズ運河の国有化を宣言した。 それに対してイギリスフランスはかねてエジプトと対立していたイスラエルとセーブル協定と呼ばれる密約を結び、 エジプト攻撃への共同参戦を計画した。 そして同年10月29日、 イスラエル国防軍がエジプトに侵攻。 シナイ半島を占領した。 次いで10月31日に「国際運河の安全保護」を口実とした英仏軍も侵攻を開始し、 スエズ運河地帯を占領して同国への空爆も開始した。 だが、エジプト軍民の強烈な抵抗と国際世論の激しい非難に直面し占領は失敗。 国際連合も即時停戦を決議し、 英仏軍は同年12月までに、 イスラエル軍は翌年3月までに撤退する事となった。

第三次中東戦争

第三次中東戦争   西暦1967年6月5日 - 西暦1967年6月10日
6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。

ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった西暦1967年6月5日、 イスラエルエジプトシリアイラクヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。 第三次中東戦争の始まりである。 緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。 制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、 イスラエルヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、 6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。 開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、 シリアとも6月10日に停戦。 ...
この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、 周辺各国全てを相手取って完勝した。 イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、 さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、 戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。 しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、 国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。 日本の地図において現在はイスラエルの支配下にあるゴラン高原がシリアの領土として表示されているのはこのためである。 また、ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、 エルサレムはすべてイスラエル領となった。 ただしこの併合も国際社会からは認められず、 後の論争の火種となった。 そしてこの劇的な勝利により、 イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。 この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。
アラブ側においては全くの完敗であり、 第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、 パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。 ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、 もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。 第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、 運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、 運河は通航不能となった。 このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、 世界経済に多大な影響を与えた。 スエズ運河は、 第四次中東戦争が終結しエジプト・イスラエル間の関係がやや落ち着いた西暦1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。

ただし、イスラエルの存在を認めず、 敵対を続けるという一点においてはアラブ側は一致しており、 戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、 アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。 また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、 シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、 第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、 「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、 西暦1968年9月から西暦1970年8月まで続いた。 この「消耗戦争」を、 それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。 この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。 消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、 イスラエル側は 先制攻撃を基本とし効率的な防御態勢を持っていなかったため[要検証 ? ノート]、 優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。

第四次中東戦争

第四次中東戦争   西暦1973年10月6日 - 西暦1973年10月23日

ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたので「ヨム・キプール戦争」とも呼ばれる。 西暦1973年10月6日、 エジプトが前戦争での失地回復のため、 シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、 第四次中東戦争が開始された。 ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、 イスラエルの休日であった。 イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。

一方エジプトシリア連合軍は周到に準備をしており、 第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、 地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。 この「ミサイルの傘作戦」は成功し、 イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。 緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。 そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、 その東岸を確保することに成功した。

初戦において後れを取ったイスラエルであるが、 反撃にかかるのは迅速だった。 ヨム・キプールは安息日であり、 予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、 素早い召集が可能だったのである。 10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、 まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。 大量の増援を受けたイスラエル軍は、 シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、 ゴラン高原を再占領することに成功した。 シナイ半島方面においても、 10月15日より反撃が開始され、 翌16日にはスエズ運河を逆渡河、 西岸の一部を確保した。 ここにいたり、 国際社会による調停が実り、 10月23日に停戦となった。 ...
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。 イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、 初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、 イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。 エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、 初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、 エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。 さらに緒戦においてではあるが、 エジプトが勝利し、 イスラエルが敗北したことにより、 両国首脳の認識に変化が生じ、 エジプトイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。 後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、 イスラエルがスエズ運河を逆渡河しイスラエルが優勢になりはじめた10月16日、 石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、 翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定し、 さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。 石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、 原油価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。 第一次オイルショックである。 これによって、 もともと西暦1970年代に入り、 原油価格への影響力を強めていた産油国は、 オイルメジャーから価格決定権を完全に奪取し、 それまでのオイルメジャーに代わり、 価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。 また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、 産油国の経済開発が進展することとなった。