パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下だったが、
この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者は共存関係を維持してきた。
しかし
19世紀末、
ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、
ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植は規制されなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナ入植のユダヤ人の数は徐々に増え始めた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。まず、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でフサイン=マクマホン協定が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。次いで1916年5月には秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間でサイクス・ピコ協定が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。さらに1917年11月にはイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがバルフォア宣言を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。この3つの協定はサイクス・ピコ協定とフサイン=マクマホン協定の間でわずかな矛盾が生じるほかは、どれも相互に矛盾しているわけではない。しかしこれらの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。
→詳細は「三枚舌外交」を参照
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。バルフォア宣言でユダヤ人の居住地の建設に賛意を示していたこともあり、イギリスは初め入植を規制しなかった。
しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、
エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた[1]。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。