小窓
菟道稚郎子皇子()

作成日:2023/4/23

菟道稚郎子皇子
うじのわきいらつこのみこ
 
続柄  第15代応神天皇皇子
身位  皇太子
生年  不詳
没年  壬申年
      西暦312年
埋葬  宇治墓(宇治市)
配偶者 (記載なし)
子女  (記載なし)
父親  応神天皇
母親  宮主宅媛
 
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)は、 『記紀』等に伝わる古代日本の皇族。 没年の壬申年は、応神天皇41年(崩御時)の2年後(西暦312年)で、 仁徳天皇元年の前年にあたる(いずれも『日本書紀』による)。

第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、 第16代仁徳天皇の異母弟。

菟道稚郎子皇子は、 名前の「菟道(うじ)」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、 宇治地域と関連が深い人物である。 郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、 郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子(いらつこ)については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。 中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、 異母兄の大鷦鷯尊に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。

ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、 『古事記』では単に夭折と記されている。
古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、 『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。

これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている。

名称
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子皇子を指した表記と指摘される。
「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。
「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている。
『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。 なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。

地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子皇子の宮が営まれたことが地名の由来としている。
しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ、むしろ菟道稚郎子皇子の側が地名を冠したものと見られている。

現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている。 実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子皇子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている。 なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある。
「イラツコ」について
「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。 史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名)、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子の他に、応神天皇孫の大郎子(意富富杼王)、仁徳天皇皇子の波多毘能大郎子(大日下王・大草香皇子)、継体天皇皇子の大郎子(大郎皇子)の4名のみで、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される。
「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある。 「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子皇子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている。
なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる。


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関連項目
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宇治墓(うじのはは)

京都府宇治市莵道(とどう)丸山の宇治川下流東岸。
前方後円墳。