菟道稚郎子皇子
うじのわきいらつこのみこ
| | |
続柄 | : | 第15代応神天皇皇子 |
身位 | : | 皇太子 |
生年 | : | 不詳 |
没年 | : | 壬申年 |
| | 西暦312年 |
埋葬 | : | 宇治墓(宇治市) |
配偶者 | : | (記載なし) |
子女 | : | (記載なし) |
父親 | : | 応神天皇 |
母親 | : | 宮主宅媛 |
| | |
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)は、
『
記紀』等に伝わる古代日本の皇族。
没年の壬申年は、
応神天皇41年(崩御時)の2年後(
西暦312年)で、
仁徳天皇元年の前年にあたる(いずれも『
日本書紀』による)。
第15代
応神天皇皇子(『
日本書紀』では皇太子)で、
第16代
仁徳天皇の異母弟。
菟道稚郎子皇子は、
名前の「菟道(うじ)」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、
宇治地域と関連が深い人物である。
郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、
郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子(いらつこ)については『
古事記』『
日本書紀』等の多くの史書に記載がある。
中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、
異母兄の
大鷦鷯尊に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。
ただし、これは『
日本書紀』にのみ記載された説話で、
『
古事記』では単に夭折と記されている。
『
古事記』『
日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、
『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。
これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている。