承久の乱の前年の誕生であり、土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。 仁治3年(1242年)に四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら有力な公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。また、当時の公家の日記である『平戸記』・『民経記』[2]が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残すなど、当時の公家社会にも衝撃を与えた。 即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる。正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」(『吾妻鏡』宝治元年6月26日条)とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。 文永5年(1268年)10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。同9年(1272年)2月、崩御。享年53。 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
嵯峨に亀山殿を営み、同所において出家、崩御している。遺諡によって後嵯峨院の追号を定めたという。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町の天龍寺内にある嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は方形堂。 亀山天皇と兆域を同じくし、 同形式の檜皮葺、宝形造の法華堂が並ぶ。 後嵯峨天皇は文永9年(1272年)2月19日、 薬草院で火葬され、翌日、遺骨を銀の壺に納めて浄金剛院に安置し、 文永11年(1274年)、法華堂の落慶のとき同堂に移し納めた。 中世、山陵の所在が不明に帰した。 『元禄諸陵周垣成就記』は陵の所在は「金原法華堂」として火葬冢を「嵯峨二尊院裏山」という。 松崎祐之『歴史徴』は天龍寺内方丈西北の古墳という。 蒲生君平『山陵志』は亀山天皇と合葬で故浄金剛院の法華堂とする。 『山陵私記』はのちの火葬所を陵に擬する。 『陵墓一隅抄』は初めて、天龍寺方丈北雲居庵の四辺と、 のちの陵の位置を指摘する。 谷森善臣『山陵考』は同地を擬して、 幕末の修陵のとき同地に治定され、 元治元年(1864年)11月起工、 慶応元年(1865年)5月6日の竣工に際して山陵修補竣工巡検使野々宮中納言が遣され、 奉幣があった。 亀山天皇陵とともに「浄金剛院法華堂」といい、 のち亀山天皇の「亀山殿法華堂」に対して「嵯峨殿法華堂」と称され、 明治39年(1906年)3月「嵯峨陵」と号され、 明治45年(1912年)3月「嵯峨南陵」と改称された。 後伏見天皇および亀山天皇とともに、 火葬所は天龍寺裏山にある。 また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。