[生没] 天保2年6月14日(西暦1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(西暦1867年1月30日) 37歳没
日本の第121代天皇 孝明天皇(こうめいてんのう、かうめいてんのう)
[在位] 弘化3年2月13日(西暦1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(西暦1867年1月30日)
[時代] 江戸時代
[先代] 仁孝天皇
[次代] 明治天皇
[陵所] 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)
[諱] 統仁(おさひと)。
[称号(幼名)] 煕宮(ひろのみや)。
[父親] 仁孝天皇
[母親] 左大臣鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子・鷹司 祺子。
[実母] 正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子・正親町 雅子。
[皇居] 平安宮
京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。 遺品として時計[注 3]が残るなど、西洋文明を全く否定していたわけではない。 孝明天皇が、即位の大礼や元旦の朝賀の際に着用した礼服が宮内庁に保管されている。通常、中国の皇帝や日本の皇室では天皇大帝を信仰しているため、祭服には北斗七星や織女(織女三星)がデザインされている。しかし、孝明天皇の礼服には、背中の中央上部に北斗七星が置かれているが、織女は置かれていない。又、宝鏡寺には孝明天皇遺愛の御所人形が所蔵されている。
崩御後、漢風諡号「孝明天皇」が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。勘申者は八条隆祐[8]。
1855年(嘉永7年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、翌年の再建までの間に聖護院や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。
崩御に至るまでの経緯
1867年1月16日(慶応2年12月11日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌1月17日(旧暦翌12日)に発熱する。天皇の持病である肛門脱を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した1月17日(旧暦12日)、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌18日(旧暦13日)になっても病状が好転しなかった。翌19日(旧暦14日)以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。
1月21日(旧暦慶応2年12月16日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、翌22日(旧暦17日)に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。
『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。
伊良子光順の日記における12月25日(新暦1月30日)の条には「天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された」と記されている。
中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった1月30日(旧暦25日)にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは2月3日(旧暦29日)になってからのことだった。 毒殺説 孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。その天皇が数えで36歳にして崩御してしまったことや、幼少の睦仁親王が即位し、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していった状況などから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげるなど[9]、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[10]。
第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)[注 4]である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
次いで1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[注 5]。
孝明天皇暗殺説を唱えるものの一部(鹿島昇など)はさらに睦仁親王暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。当初この論を主張した鹿島の説では大室は南朝の末裔であるとされ、いくつかの根拠が挙げられたが、陰謀論の域を出ていない。
すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに根拠の希薄なまま大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、説は迷走を続けている(この説の根拠としてはフルベッキ群像写真に明治天皇が写っているという説がある)。 毒殺説に対する反論 1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が2つの論文を発表する。
「孝明天皇の死因について」[11]、「孝明天皇は毒殺されたのか」[12]というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、 12月19日(新暦1月24日)までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わっていくこと 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること 中山慶子の12月23日(新暦1月28日)付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日(新暦1月25日)以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。 また原口は別に記した論文[13]の中で、諸史料の分析から岩倉が慶応2年12月(新暦の1867年1月から2月)の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。 原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反駁したことにより[14]、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至っていない。 非専門家による説 存命説 孝明天皇は、崩御の日とされる1867年1月30日(慶応2年12月25日)も、それ以降も存命であったとする説。 春画家の水原紫織著『もう1人の「明治天皇」箕作奎吾』(2020年発行)が主張する説で、暗殺される理由もないと主張している。 暗殺される理由がないという主張の根拠としては、孝明天皇が1858年8月7日(安政5年6月28日)に「何卒是非帝位を他人に譲り度決心候」と宸翰に書いて江戸幕府に通達していることを挙げている。 存命であった根拠としては、崩御の日とされる慶応2年12月25日の翌日、将軍徳川慶喜が孝明天皇のご機嫌伺いに参内したことが、「孝明天皇御凶事公事附録」、「非蔵人日記」、「木村喜毅日記」、「丙寅連城漫筆」、「朝彦親王日記」の慶応2年12月26日の条に記されていることを挙げている。 崩御の日が偽装されたとする根拠としては、「中山忠能日記」と「朝彦親王日記」の慶應2年12月29日の条に、二十九日辰刻に崩御したと記されていることを挙げている。 明治になっても存命であった根拠として、一つに、孝明天皇を警護してきた徳川慶喜が王政復古の大号令で幕府と将軍職を廃止されても割腹しなかったことを挙げている。もう一つに、画家でもある水原紫織は、 明治11年五姓田義松が描いた「孝明天皇御肖像画」が、実物を目の前にして描いたかのような断定的な線で描かれているという解析をしている。 崩御を偽装した理由については、英仏米蘭の公使達から兵庫開港を迫られる中、慶応元年10月5日(1865年11月22日)の朝議で「兵庫ノ開港ヲ停ム」と決議したにもかかわらず、外国奉行所の御書翰掛が兵庫開港を安政五カ国条約どおりの1868年1月1日(慶応3年12月7日)で孝明天皇が承認したと四カ国に偽りを伝えていたことが孝明天皇に知れたためとしている。そこで他人に帝位を譲る計画をスタートさせるべく、強引に崩御を偽装したという説。