| 7月16日(6月21日) | 儲君。 |
| 11月8日(9月18日) | 親王宣下により統仁親王となった。 |
| 3月31日(3月3日) | 日米和親条約が締結された。 |
| 5月2日(旧暦4月6日) |
|
| 2月27日(1月14日) | 日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、 近衛忠煕、 鷹司輔煕、 三条実万の三大臣および議奏、 武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。 |
| 3月10日(旧暦1月25日) |
大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。
しかし、
大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、
結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。
太閤鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白九条尚忠(以下、九条関白)は、
ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。
徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、
孝明天皇は容れなかった。
しかし「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。 |
| 3月2日(旧暦1月17日) |
九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。
3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、
堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、
ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。 (記載順、日付は出典元(Wikipedia)に記載された通り。) |
| 4月5日(旧暦2月22日) | 朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。 |
| 4月18日(旧暦3月5日) |
堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を提出した。 この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。 逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。 九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。 勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになった。 |
| 4月25日(旧暦3月12日) |
88人の公卿が列参という事件を起こし条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。 『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、 岩倉具視とともに行動に移したとされる。 |
| 5月3日(旧暦3月20日) | 堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。 |
| 7月29日(旧暦6月19日) | 幕府は日米修好通商条約に調印。 |
| 8月6日(旧暦6月27日) |
7月29日(旧暦6月19日)に行った条約調印に関する奉書が京都へ到着。 朝廷では評議が開かれたが、 孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。 |
| 8月7日(旧暦6月28日) | 評議で九条関白に下した宸翰は 「差し当たり祐宮(さちのみや)(睦仁(むつひと)、当時5歳、のちの明治天皇)がいるが、天下が重大事にある時、幼年の者に任せるのは無理だから、伏見、有栖川の3人の親王の誰かに譲位したい」と譲位の意思を示した。 譲位の中継ぎの天皇候補になったのは伏見宮の貞教親王(崇光天皇16世)、有栖川宮の幟仁親王(霊元天皇4世)と熾仁親王(霊元天皇5世)の三人だ。 驚愕した一同は関東より御三家、 大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。 |
| 8月14日(旧暦7月6日) | 大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。 |
| 8月15日(旧暦7月7日) | 井伊大老は多忙のため、 御三家の当主は処罰したため上京はできないので、 酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成した。 |
| 8月17日(旧暦7月9日) | 昨日作成した答書を京都へ送った。 |
| 8月19日(旧暦7月11日) | 日露修好通商条約を勅許がないまま調印した。 |
| 8月26日(旧暦7月18日) | 日英修好通商条約を勅許がないまま調印した。 |
| 8月30日(旧暦7月22日) | 近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。 |
| 9月11日(旧暦8月5日) |
近衛忠煕、
鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、
自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。
内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、
近衛らは九条関白へ交渉し、
具体的には9月13日(旧暦8月7日)の朝議のため参内を求めた。 しかし九条関白は参内をしなかったため、 近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。 九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。 この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。 |
| 9月2日(10月8日) | 幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。 |
| 9月2日(10月8日) | 辞表を受け取る。 |
| 9月4日(10月10日) | 内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。 |
| 9月17日(10月23日) | 間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。 |
| 10月19日(11月24日) | 九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。 |
| 10月25日 | 徳川家茂の将軍宣下が行われた。 |
| 10月24日(11月29日) | 間部老中が参内したが、 孝明天皇は出御しなかった。 九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、 幕府の本意ではないこと、 海岸の防備を固めて、 国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。 |
| 11月9日(12月13日) | 宸翰で、 開国は日本国の瑕瑾(かきん。きず。特に、欠点。短所。)であり承知はできないとする意思を伝えた。 間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、 皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。 |
| 2月12日(1月10日) | 幕府と九条関白からの圧力により、 近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、 鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。 孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合ってもらいたいと宸翰を出した。 |
| 3月9日(2月5日) | 酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、 青蓮院門跡尊融法親王、 一条忠香らへの処分案もあった。 |
| 3月21日(2月17日) | その後も九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。 |
| 4月30日(3月28日) | 辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられた。 |
| 5月24日(4月22日) | 酒井所司代から圧力を加えられ、落飾の勅許を出した。 |
| 9月8日(8月12日) | 幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈った。 |
| 9月11日(8月15日) |
九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。
落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞をうけるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、
その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。 三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、 その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。 「たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていてくださる」という行動論理を持つ人々が、 安政の大獄の反動として生まれた。 |
| 6月1日(4月12日) | 幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。 |
| 6月22日(5月4日) | 和宮の将軍家降嫁を奏請に対しこの日付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。 |
| 6月29日(5月11日) | 酒井所司代は独断で再度奏請した。 |
| 7月7日(5月19日) | 再び拒絶する宸翰を出した。 |
| 7月21日(6月4日) |
酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出し、
この日、上奏された。 観行院の生家・橋本家は、 元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。 孝明天皇は、 鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。 |
| 8月20日(7月4日) | 幕府は降嫁について三度目の奏請を行ったが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため、却下された。 |
| 9月14日(7月29日) | 酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、 今後七八カ年ないし十カ年の中で、 その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、 干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。 これにより孝明天皇は勅許を決断したが、 当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。 |
| 9月29日(8月15日) | 和宮はついに降嫁を受諾した。 |
| 12月26日(11月15日) | 和宮は江戸城に入った。詳細は「和宮親子内親王#降嫁」を参照 |
| 7月9日(6月2日) | 正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、 この日、長州藩主毛利慶親は御製の和歌を賜った。 |
| 12月(11月) |
薩摩藩の島津久光と島津茂久が近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し、
上京のために勅命を求めてくるが容れることは無かった。 しかし、 当年12月から翌1862年1月(旧暦12月)に御製の和歌を下した。 |