元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年12月28日(890年1月22日)親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日立太子。この際に、父宇多天皇から剣を下賜されたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれている。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。
しかし昌泰4年(901年)、 時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、 聖代の瑕と評されることになった。 近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。 また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、 後に中宮に立っていることからも、 この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。 時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、 国史『日本三代実録』の完成や、 律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手している。 醍醐天皇宸筆 白居易詩巻(部分)
天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいる。33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっている。
天皇ははじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れていたが、延喜9年(909年)に時平が死に、2年後には親王も21歳で早世する。そのため仁善子の子慶頼王を皇太孫としたが、2年後やはり5歳で夭折した。一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。
しかし延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きるとこれ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位。その7日後の29日に出家すると同日崩御した。宝算46。翌月10日、山城国宇治郡山科陵(醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下)に土葬された。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区醍醐古道町にある後山科陵(のちのやましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
長く醍醐寺の管理下にあったため、所在が確定できる数少ない平安時代の陵の1つである。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
醍醐天皇の逸話として最も有名なのは大鏡にある「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」というものである。 民の上を偲ばれた醍醐天皇は疾病や天候の不順な時には、 大赦したり税を免じられたり、 収穫のよくない年には民の負担を減らすために重陽の節(ちょうようのせち、9月9日)を何度も中止されたとある。 また、旱魃の時 には、 一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、 さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。 鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、 その年貢や労役を免除されたとある。 上記の天皇個人の逸話に加えて、 前述の律令制の基本法である延喜格式、 国史『日本三代実録』や『古今和歌集』の完成など、 天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めた醍醐天皇の治世は後世に理想の時代とされた。 一方で菅原道真追放については「聖代の瑕」とされ、天神信仰説話である『日蔵夢記』では死後、菅原道真を陥れた罪、父である宇多天皇に背いた罪などとして、地獄へ落とされ臣下共々罰をうけているとされる。