後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深入道親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。 慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。 江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。 天皇が即位すると大御所・徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ、 慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。 しかし、入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、 後陽成院の崩御などが続いたため延期された。 元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、 天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視される、 翌元和5年(1619年)9月15日に秀忠自身が上洛して、 与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏・広橋兼勝と共にこれを追及した。 そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任を問い丹波国篠山に配流、 与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後国に配流、 更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。 これに憤慨した天皇は譲位しようとするが、 幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、 与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。 元和6年(1620年)6月18日に和子が女御として入内すると、 これに満足した秀忠は、 今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。 寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで二条城への行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永4年(1627年)に紫衣事件、家光の乳母である福(春日局)が無位無冠の身でありながら朝廷に参内する(金杯事件)など天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は寛永6年(1629年)11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。この事を事前に知られていたのは腹心の中御門宣衡のみであったとされる(『時慶卿記』寛永6年11月8日条)[1]。一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために譲位して治療を受けたとも言われているが(辻善之助等に代表される通説の「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗としての譲位」に対し反論する洞富雄の説[2])、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する[3]。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった[4]。 以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍・徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる[5]。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政」の否定を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢[注釈 2]とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。 延宝8年(1680年)に85歳で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。昭和60年(1985年)7月12日までは(神話時代を除き)歴代最長寿の天皇(崩御時は法皇)でもあった。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている(その後、1989年1月7日に満87歳8か月で崩御)。また、平成の天皇も2018年3月7日に後水尾天皇の崩御時点での年齢に到達している(その後、2019年4月30日に満85歳4か月で退位し、翌5月1日より上皇となる)。 日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。
遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である[6]。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない。徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと推測している[7]。遺諡は、鎌倉時代の後嵯峨天皇から南北朝・室町時代の後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。なお、「後水尾」の読み方については、現在の宮内庁は「ごみずのお」としているが、江戸時代中期の故実学者伊勢貞丈は「ごみのお」が正しいとしている[8]。
勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じた。 学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作がある。 女性関係は派手であった。禁中法度を無視し宮中に遊女を招きいれたり、遊廓にまでお忍びで出かけた。譲位後にも中宮以外の女性に30余人の子を産ませ、56歳で出家した後も精力や欲求は衰えず、58歳で後の霊元天皇を産ませている。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。