明和5年2月19日(1768年4月6日)に立太子。皇太子が天皇の子(皇子)でないのは熙成親王(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2020年現在最後の例[1]。天皇の甥が皇太子(皇太甥)になった例は益仁親王(光明天皇の甥でのちの崇光天皇)以来430年ぶり[2]。明和7年11月(西暦1771年1月)、伯母後桜町天皇の譲位を受けて即位。 在位中の安永2年(1773年)には、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われた(安永の御所騒動)。 病気がちであり、安永8年(1779年)に在位のまま22歳で崩御。
子が欣子内親王のみであったので、急遽、傍系にあたる閑院宮家より養子を迎え光格天皇(師仁親王、即位後は兼仁に改名)として即位させた。欣子内親王はのちに光格天皇の中宮となり、6年後の寛政12年1月22日(1800年2月15日)、第三皇子温仁親王を出産するも、夭折。その後、文化13年1月28日(1816年2月25日)に再び第七皇子悦仁親王を出産するが、こちらも文政4年2月11日(1821年3月14日)に6歳で夭折。これにより中御門天皇からの皇統は完全に途絶えてしまい、現在の皇室には連なっていない。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。