持明院統の後深草上皇の働きかけにより、建治元年(1275年)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで後宇多天皇の皇太子になる。弘安10年(1287年)、後宇多天皇の譲位により即位。これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。後深草上皇は2年余りで院政を停止したため、以後天皇親政が続く。正応2年(1289年)、自分の皇子である胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる。 正応3年(1290年)、宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きた。この事件は初め北条氏による霜月騒動に連座し、所領を没収されたことによる浅原の反抗かと思われたが、大覚寺統系の前参議三条実盛の関与が疑われ、それを受けて伏見天皇と関東申次西園寺公衡は亀山法皇が背後にいると主張した。しかし後深草法皇はその主張を退けた。また亀山法皇も幕府に事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。 治世中門閥貴族による政治の打破などに力を入れるが、幕府の干渉が強まると永仁6年(1298年)、後伏見天皇に譲位して院政を執り行った。しかし、幕府による両統迭立の考えのもと、後宇多上皇の皇子・邦治親王(後二条天皇)が立太子し、3年後の正安3年(1301年)には、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位した。両統迭立の方針に従い、皇太子には伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。延慶元年(1308年)、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷いた。正和2年(1313年)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだ。文保元年(1317年)、崩御。享年53。 伏見天皇の親政・院政時代は、持明院統と大覚寺統が解決策を見つけられず綱引きをしていた時代である。伏見天皇の政治は皮肉にも政敵である亀山上皇の政策を踏襲したものであり、朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に積極的に取り組んだ。また、皇位継承に介入する鎌倉幕府に対して強い不信感を持ち、在世中は倒幕画策の噂が立てられるほどであった。このため、伏見天皇の和歌の師で一番の側近であった京極為兼が二度も流刑となっているのは、伏見天皇が反幕府的な動きを取ったことに対する見せしめではないかという説も唱えられている。
日本史上最高の能書帝とされ、大覚寺統の後醍醐天皇と共に宸翰様(しんかんよう、禅僧の禅林墨跡を交えた書風)を代表するだけではなく、上代様など様々な書風を使いこなした。多くの宸翰(しんかん、天皇の直筆文)が重要文化財に指定されている。 歴史物語『増鏡』「裏千鳥」では、「御手もいとめでたく、昔の行成大納言にもまさり給へる、など時の人申しけり。やさしうも強うも書かせおはしましけるとかや」と、「三蹟」の藤原行成以上の書の腕前を持っていたと評され、さらに様々な書風をこなしていたことがわかる[1]。「やさしうも強うも」云々は、草書と楷書も使い分けたという解釈や、上代様も宸翰様も使い分けた、などの解釈がある[1]。伏見天皇の書を称える話は『正徹物語』下巻冒頭などにもある[2]。 書道史研究者の小松茂美は、天皇という範囲に限定せず、「現代の書道史においても歴朝随一と言うにはばからぬ」と評している[3]。美術史・古文書研究者の羽田聡は、「魔法使いのような変幻自在ぶり」「書聖」と評している[4]。 代表的作品は、上代様によって書かれた『紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)』(重要文化財、京都国立博物館蔵)[5]。室町時代の公卿三条西実隆は「希代之鴻宝」と評し、羽田は、深い学識を豊かで流麗に表現した「名品中の名品」と評している[5]。その他の代表作には、正和5年の願文や[5]、「筑後切」などがある[6]。 皇子の尊円法親王が創始した御家流は、近世には標準的書風の一つとして広まった。
退位後長く住んだ洛南の離宮・伏見殿にちなみ、伏見院と追号。また、伏見天皇崩御の場でもある持明院殿とも称された。なお、持明院殿は持明院統代々の仙洞御所であり、「持明院統」の呼称もそれに由来するとされているが、実際には室町院(後堀河天皇の皇女)の遺産として伏見上皇が継承して以来の御所である[7]。
中宮の西園寺鏱子(永福門院)は京極派を代表する大歌人で、 典侍の北畠親子も勅撰集に53首が入集した有力歌人である。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。